雨の朝です。
しっかり降ってます
2月の雨の中、咲いてくれたひめちゃんちの椿です
確か「黄河」だったと思います。
地植えにしてしまいましたけど、寒さが苦手かも知れません。
こちらはお名前知れずです。
でも凜とした雰囲気がありますね。
ひめちゃんと獅子丸は、ビンボーカッパで堀之内を北に出ます。
ヤブツバキもきれいに咲いてきました
昨日の朝、ひめちゃんと獅子丸は、諏訪神社の前から、南の丘に登りました。
ここは、戦国時代に、僧・常広(じょうこう)が庵を結んでいたという場所です。
この丘の前に寺が建つ時、彼は人々に慕われていた人徳のあった僧侶ということで、寺名は常広寺と決まったそうです
振り返って、諏訪神社とその森、赤城山が見えます。
見晴らし、いいね
気持ちいいね
ロウバイの花も、まだまだきれいです
南に降りると、常広寺の内陣の墓地が見えます。
古い時代に常広寺と係わりの深かった家々は、こちらの墓地のようです。
間には深い空堀があります
まあ、あちらは山上城の一角ですから
あぜ道歩いて、帰ります
戦国の山城の雰囲気です。
あれ、何故かマンホールの蓋
草の実いっぱいの獅子くん、案外ハンサムかも?
山上城西の道に出ました。
今日は寄らずに帰るよ。
また今度寄ろうね
参考までに、久々に、常廣寺縁起です
常廣寺縁起
本橋院殿寶輪廣與大居士、天正年間に、赤城山天正院常廣寺を開基す。山上城付近にて落命せしあまたの人々の冥福を祈らんが為なり。本橋院殿、俗名は山上郷右衛門顕将(やまかみごうえもんあきまさ)、小田原の利け者の異名を持ちたる戦国武将なり。東上州活動の途次、ここ山上を父祖の地と勘違し、山上に並々ならぬ執着を抱く。戦乱の世静まりて後、父祖の地山上に常廣寺を建立す。寺号は、かつて寺の裏の高台に草庵を結びし僧・常廣にちなむ。常廣は戦乱で失われし人々を弔い、村人にも深く慕われたりといふ。常廣については、委細つまびらかならず。ただ、俗名を牛蒡帯刀(ごぼうたてわき)といふとのみ伝ふ。
本橋院殿、自家の菩提寺として、長安寺を建立す。以来末裔は帰農し、本橋院殿にちなみ改姓す。
常廣寺、順調に世代を重ね、八世覚通呑應大和尚に至る。時に元禄元年九月三日、失火により堂宇を焼失す。開基家をおとない、再びの堂宇建立を願うも、あえなく拒絶さる。八世怒りに燃え、開山・明巌監察大和尚を開基になし、子孫を探さんことを思いいたる。これ、開基常廣院殿明巌監察大居士の誕生なり。
ある夜、八世の夢枕に本橋院殿立つ。
「御房よ、吾は本橋院殿なり。ゆめゆめ吾を忘るることなかれ。将来、京より竜骨を持ちたる商人至る。必ず買うべし。さすれば、堂宇の再建もかなうべし。」
「買いたきはやまやまなれど、先立つものなし。」
「焼けし堂宇の後ろに墳丘あり。そこに幾ばくかの埋蔵金有り。使うべし。」
「ありがたきご教示なり。」
時は過ぎ、九世白彭本明大和尚の正徳四年、本橋院殿の予言通り田中藤左衛門なる近江商人、竜骨を持ちて至る。
竜骨を発見せしは、藤左衛門の先祖・木食屡睡(もくじきろうすい)なり。発見の経緯を記したる木食屡睡の文書、および藤左衛門が京にて皇族・貴族に見せ褒美をもらいし事を記したる證書を添ふ。
当時、竜骨は万病に効く薬とさる。
人々常廣寺に殺到し、五年後、めでたく堂宇の再建かなふ。
田中藤左衛門は中仙道深谷宿にて、銘酒「七ツ梅」の醸造を始むといふ。
常広寺には、二人の常広院殿がいるのです
一人は寺名の由来になった、僧・常広、戒名は常広院殿蒡山帯牛居士です
もう一人は、常広寺三世、常広院殿明鑑監察大和尚です
中仙道深谷宿「七ツ梅跡」、どうなったかな?
もう少し世の中が落ち着いたら行ってみましょう