新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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続・「群盲象を撫でる」について…

2021-10-24 14:51:14 | 弁証法
続・「群盲象を撫でる」について…

これは、象の全体像が見えない盲人が、
体が巨大すぎて一度に全部を撫でられない為に、
生じた「部分=全体」という誤解である。


今ここで、「象」を弁証法に置き換えるなら…どうなるだろうか?
弁証法の始まりはギリシャ時代の「弁論術・弁証の方法」が始まりだと言われている。
これが「象」なら、言うなれば、赤ちゃん象、となろうか…
赤ちゃん象なら、盲人一人でも一度に全部を撫でられるだろう。
ならば、その「赤ちゃん象」の全体像は分り得る。

そんな「弁証の方法」も、
赤ちゃん象が大人へ向かうのと同様に成長していったのだろう。

仮に「象」というモノを知らない見た事もないモノ者が、
初めて「赤ちゃん象」を「象」と教えられたとする。
その人が別の所で、突然に巨大で、立派な牙も生えた大人象を見た時、それを「象」だと思えるだろうか?

例えば、「赤の他人の赤ちゃん時代」の写真を見たとして、
成人の「赤の他人」と出会って「あの写真の赤ちゃんだ」と認識可能だろうか?
確かに可能な人間もいるだろう…しかし、多くの人間には認識不能であろう。


弁証法は見えない。
弁証法性も見えない。
見えているのは、万物中の(個別)事実の変化・運動である。

弁証法性とは、
外界である現実界での事物・事象・生々・生成・発展・衰退…の
一連の変化・運動の過程の構造・構造の過程の様態である。


その現実の変化・運動の構造の過程・過程の構造を人間が
その頭脳・観念内に、それらに一筋の道・道筋・筋道を
立てられたなら、それが弁証法であろう。


弁証法の三法則と言われている
「対立物の統一」も、「量質転化」も、「否定の否定」も…
それらは、弁証法の一部分なのだろう。


盲人が象の全体像を一度に撫でられない、ように、
目明きの人でも弁証法の一部分は観られても…
弁証法の全体像を観るのは至難であろう。

弁証法の全体像とは、はるか昔の過去から現在までの物質の弁証法性…
人類誕生以前の過去から現在までの国家の弁証法性…
人間の精神の誕生以前から現在までの弁証性…

そんな弁証性の道を辿り、その道筋を見つけ、それに筋道に仕立て、
それが一本の太く広く長い道程になり得たなら、それが弁証法であろう。


もっとも…以上は言葉・記述に過ぎないモノである。
これら記述の有効性を求めるなら、
この記述を参考に現実の生活の中で、
眼前の現実・事実に対して、

そもそも…
何が原因で、
それがどのよな影響を与え、
どのような新たな問題が生成され、
それが、どのように発展して、
ついに、どのように今の現実なっていたのか?…

そんな現実・事実への問い掛けが求められる、のだろう。





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