「1000g=1.000㎏」の話
今回の「1000g=1.000㎏」を見て、何を思いますか?
昨日、上記の式を三人の教員に見てもらったら、三者三様の感想を頂けた。
今年新規採用、20代前半の四年生担任、女性教諭A、
今年から高学年の算数担当(昨年までは低学年、その前は高学年クラス担任)の30代~40代の経験豊富な女性教諭B、
低学年算数担当のベテラン(60代だろう)男性講師C、
そもそも…何故に私が、「1000g=1.000㎏」の表記を思いついたのか?
それは、今週の水曜日に四年生の少人数算数のCクラスの補助に入ったから~
そこで、整数の「g」表記を、小数の「㎏」表記に変換する方法の説明・教えるのに苦戦したから~
私の説明では、Cクラスの児童達には、なかなか納得・分かって貰えなかったから…
そして…その後に突然に「「1000g=1.000㎏」表記が思い浮かんだ…
普通は、「1000g=1㎏」表記であるが…
「1000=1」という表記より、「1000=1.000」表記の方が~
「1」「0」「0」「0」=「1」.「0」「0」「0」小数点はあるが、同じ数字化三つで、対応させやすい。
この~
「1000g」⇔「1.000㎏」から
「1001g」⇔「1.001㎏」となり、
「0001g」⇔「0.001㎏」となる。
言うなれば、「グラム⇔キログラム」表記の為の変換公式とも言えよう。
数字を代入すれば、ほぼ自動的に変換可能。
「1」「0」「0」「0」(g)=「1」.「0」「0」「0」(㎏)
左右の「」の中に、同じ数字を代入すれば、小数点「.」が、自動的に変換してくれる。
ただ…数学・算数の計算・表記では、左側一番端の整数の前の「0」は書かない!
また、小数点の位の最後の整数の右の「0」は斜線で消す・省略!…が原則。
「0001」は、必ず「1」表記で、「1.000」も、必ず「1」表記である。
それでも…この原則を確りと自覚・忘れないでの~
「1000g=1.000㎏」の表記・変換は、非常に役立つという確信があった…
そこで、昨日まず初めに「経験豊かな・教諭B」に話してみたら~
開口一番「1.000」とは書きません…この表記だと「これだと…子供が混乱するかも…」
その後、私が上記のようなメリットを説いたら~
「う~分かるかも…」とか「どのような説明・解説でも最終的に分かればいい・同じ…」とか~
そんな感想・反応…でした。
そう~「あまり乗り気・使う気は、なかった」ようだ…
次に「若く経験が浅い・教諭A」に伝えたら、、パっと明るい表情で「今度、授業で使ってみます!」。
私が入った水曜日の授業の補助が彼女の担当したCクラスで、そこでの彼女の苦戦姿を観て知っていた…
最後に、算数教科専任のベテラン講師Cに見せたら~ 「この、小数点の後ろの『.000』は(斜線で)消します」~
それでも…私が上記のようなメリットを説いたら…なんとなく分かってくれた、ようです。
この式・表記は、言うなれば、過去の私の体験・経験から、思いついた式・表記であり…
これは自前のモノ、と言えよう…
確かに私的には、有用・簡単・楽…であろうが…その理由は「私が自力で創出したモノ」だから
果たして…児童達は、どのように、感じ取るだろうか…
本当は、自分で実際に、児童達に教えてみたい!のだが…
それは、上記の「教員」三人の感想・言葉から…想像するなら…
全く、児童達が、初めての「g・㎏」を用いた「小数変換」の学習なら~
「若手教諭A」的なこの式は有効・分かり易い…「使える」
でも、過去に既に「学習した結果」、その児童なりの変換方法を体得している児童には、
「経験豊から教諭B」の分かり難い・「混乱するかも…」
そして、算数・数学的な思考に優れている児童なら~
「ベテラン講師C」のような「納得しても使う必要なし…」
教師も人間である。
教員として、初心レベルで、算数・数学が不得手な教師の気持ち・感想。
経験豊富で、その指導法・教え方に自信ある教師なら、そのレベル気持ち・感想。
数学専任・ベテラン教師なら、その有効性・有用性・メリット・デメリットが分かる。
ここでの問題は?or今後の課題は?
上記のような、認識・観念的な考察でなく、
現実に実際の授業・学習の中で~
この「1000g=1.000㎏」表記が役立つか?否か?
試してみて~初めて分かる唯物的効果・有効性!
ここまでは、観念的・私の観念内でも「有効性・有用性」にしか過ぎない…
仮に、以下の~
>「ここでの問題は?or今後の課題は?
上記のような、認識・観念的な考察でなく、
現実に実際の授業・学習の中で~
この「1000g=1.000㎏」表記が役立つか?否か?」<
という上記の私的な思考・言説…が、思いつかない私なら~
~それは観念的であり、観念論的でもある~
自己の認識・観念内中で、自己の否定認識・非観念を想起不能なら、それは観念論的世界観なのだろう。
自己の否定認識・非認識とは、他人の認識・他人の事実でもって…自己否定をする事なのだろう。
言うなれば、自己の観念論的世界観を常に自覚して、それを唯物論的世界観での唯物的に否定する事。
究極の「観念論的世界観」とは、自分は正しい!自分の思考・言動・行動は、絶対的に正しい。
その否定は、自分が信じられない他人の「観念論」で、徹底的に自己否定し続ける事。
真の正しいとは、自分を含めた全てである。
自分の「絶対的に正しい!が、絶対的に正しくない!」という事実を発見・自覚しつつ…
それでも…自分が正しい…へ変化・運動できる、ような認識・思考活動なのだろう…
今の「絶対的に正しい!」は、この先の今では「絶対的に正しくない!」へ
過去の今「絶対に正しくない!」が、今は「絶対的に正しい!」だったり…
そのなのです!
「今・絶対的に正しいと思える事は」、今すぐ実践して確認すべき!なのだろう。
空手の勝負で、相手の「隙発見!」即「攻撃」…正しければ「アタリ」。
相手に、逃げられ・避けられれば「ハズレ?」…
隙は分かっても、攻撃が間に合わない!
「時と場合・タイミング」and「勝負は時の運」
今回の「1000g=1.000㎏」を見て、何を思いますか?
昨日、上記の式を三人の教員に見てもらったら、三者三様の感想を頂けた。
今年新規採用、20代前半の四年生担任、女性教諭A、
今年から高学年の算数担当(昨年までは低学年、その前は高学年クラス担任)の30代~40代の経験豊富な女性教諭B、
低学年算数担当のベテラン(60代だろう)男性講師C、
そもそも…何故に私が、「1000g=1.000㎏」の表記を思いついたのか?
それは、今週の水曜日に四年生の少人数算数のCクラスの補助に入ったから~
そこで、整数の「g」表記を、小数の「㎏」表記に変換する方法の説明・教えるのに苦戦したから~
私の説明では、Cクラスの児童達には、なかなか納得・分かって貰えなかったから…
そして…その後に突然に「「1000g=1.000㎏」表記が思い浮かんだ…
普通は、「1000g=1㎏」表記であるが…
「1000=1」という表記より、「1000=1.000」表記の方が~
「1」「0」「0」「0」=「1」.「0」「0」「0」小数点はあるが、同じ数字化三つで、対応させやすい。
この~
「1000g」⇔「1.000㎏」から
「1001g」⇔「1.001㎏」となり、
「0001g」⇔「0.001㎏」となる。
言うなれば、「グラム⇔キログラム」表記の為の変換公式とも言えよう。
数字を代入すれば、ほぼ自動的に変換可能。
「1」「0」「0」「0」(g)=「1」.「0」「0」「0」(㎏)
左右の「」の中に、同じ数字を代入すれば、小数点「.」が、自動的に変換してくれる。
ただ…数学・算数の計算・表記では、左側一番端の整数の前の「0」は書かない!
また、小数点の位の最後の整数の右の「0」は斜線で消す・省略!…が原則。
「0001」は、必ず「1」表記で、「1.000」も、必ず「1」表記である。
それでも…この原則を確りと自覚・忘れないでの~
「1000g=1.000㎏」の表記・変換は、非常に役立つという確信があった…
そこで、昨日まず初めに「経験豊かな・教諭B」に話してみたら~
開口一番「1.000」とは書きません…この表記だと「これだと…子供が混乱するかも…」
その後、私が上記のようなメリットを説いたら~
「う~分かるかも…」とか「どのような説明・解説でも最終的に分かればいい・同じ…」とか~
そんな感想・反応…でした。
そう~「あまり乗り気・使う気は、なかった」ようだ…
次に「若く経験が浅い・教諭A」に伝えたら、、パっと明るい表情で「今度、授業で使ってみます!」。
私が入った水曜日の授業の補助が彼女の担当したCクラスで、そこでの彼女の苦戦姿を観て知っていた…
最後に、算数教科専任のベテラン講師Cに見せたら~ 「この、小数点の後ろの『.000』は(斜線で)消します」~
それでも…私が上記のようなメリットを説いたら…なんとなく分かってくれた、ようです。
この式・表記は、言うなれば、過去の私の体験・経験から、思いついた式・表記であり…
これは自前のモノ、と言えよう…
確かに私的には、有用・簡単・楽…であろうが…その理由は「私が自力で創出したモノ」だから
果たして…児童達は、どのように、感じ取るだろうか…
本当は、自分で実際に、児童達に教えてみたい!のだが…
それは、上記の「教員」三人の感想・言葉から…想像するなら…
全く、児童達が、初めての「g・㎏」を用いた「小数変換」の学習なら~
「若手教諭A」的なこの式は有効・分かり易い…「使える」
でも、過去に既に「学習した結果」、その児童なりの変換方法を体得している児童には、
「経験豊から教諭B」の分かり難い・「混乱するかも…」
そして、算数・数学的な思考に優れている児童なら~
「ベテラン講師C」のような「納得しても使う必要なし…」
教師も人間である。
教員として、初心レベルで、算数・数学が不得手な教師の気持ち・感想。
経験豊富で、その指導法・教え方に自信ある教師なら、そのレベル気持ち・感想。
数学専任・ベテラン教師なら、その有効性・有用性・メリット・デメリットが分かる。
ここでの問題は?or今後の課題は?
上記のような、認識・観念的な考察でなく、
現実に実際の授業・学習の中で~
この「1000g=1.000㎏」表記が役立つか?否か?
試してみて~初めて分かる唯物的効果・有効性!
ここまでは、観念的・私の観念内でも「有効性・有用性」にしか過ぎない…
仮に、以下の~
>「ここでの問題は?or今後の課題は?
上記のような、認識・観念的な考察でなく、
現実に実際の授業・学習の中で~
この「1000g=1.000㎏」表記が役立つか?否か?」<
という上記の私的な思考・言説…が、思いつかない私なら~
~それは観念的であり、観念論的でもある~
自己の認識・観念内中で、自己の否定認識・非観念を想起不能なら、それは観念論的世界観なのだろう。
自己の否定認識・非認識とは、他人の認識・他人の事実でもって…自己否定をする事なのだろう。
言うなれば、自己の観念論的世界観を常に自覚して、それを唯物論的世界観での唯物的に否定する事。
究極の「観念論的世界観」とは、自分は正しい!自分の思考・言動・行動は、絶対的に正しい。
その否定は、自分が信じられない他人の「観念論」で、徹底的に自己否定し続ける事。
真の正しいとは、自分を含めた全てである。
自分の「絶対的に正しい!が、絶対的に正しくない!」という事実を発見・自覚しつつ…
それでも…自分が正しい…へ変化・運動できる、ような認識・思考活動なのだろう…
今の「絶対的に正しい!」は、この先の今では「絶対的に正しくない!」へ
過去の今「絶対に正しくない!」が、今は「絶対的に正しい!」だったり…
そのなのです!
「今・絶対的に正しいと思える事は」、今すぐ実践して確認すべき!なのだろう。
空手の勝負で、相手の「隙発見!」即「攻撃」…正しければ「アタリ」。
相手に、逃げられ・避けられれば「ハズレ?」…
隙は分かっても、攻撃が間に合わない!
「時と場合・タイミング」and「勝負は時の運」
ギルガメシュ
・コメント
>自由びと氏に自由びと氏の個人的な考えがあることは私も先刻承知していますから、それを否定する気は毛頭ありませんね。
↑
私のも同感!は、同感です!
確かに、自由びとやギルガメッシュの個人的な思考は、それはそれ個人的な自由ですから、それら「思考する自由」への否定はありません。ただ…この「思考の結果」その言説・見解…の相違は、嘘偽。忖度なく率直に書かせて頂いてます。
その理由は、簡単・明白です。
それは、ここが自由びと的な私の個人ブログだから…です。
さて…今までの私の否定は、
ギルガメシュ殿が「自由びとは○○〇と考えてる」的な記述・認識で、
その(ギルガメシュ的な自由びと思考)「考え方」を否定している事への否定です。
事実~私は、ギルガメッシュ殿の書かれているようには「考えては、いません」!
というか…「1000g=1.000㎏」という等式は、
「1000g=1㎏」の「1㎏」の表記変形⇔「1㎏=1.000㎏」を直観的使用で誕生させたモノです。
これは、言うなれば、私の観念・直観的認識による産物なのです。
その過程は、私は全く不明瞭なのです。
ただ…算数・数学・数字的な「1000g=1㎏」表記は真理です。
また「1=1.000」も間違いない表記です(ただ、1.000は小数点以下の0を省略する)ルール無視です。
それでも…「1000g=1㎏=1.000㎏」は、間違いなく(若干のルール無視を含めた)真理です。
そこから、「1000g=1.000㎏」を上下に分離して~
⇒「1000g」 <「1」 「0」「0」「0」g
↓ ↓ ↓ ↓
=「1.000㎏」 <「1」.「0」「0」「0」㎏>
上の~「1g」表記は、「0」 「0」「0」「1」g
下の表記は、 「0」 .「0」「0」「1」㎏ ⇒1g=0.001㎏
同様に、10g=0.010㎏、100g=0.100g、1000g=1.000㎏
上記のような「gと㎏の数量関係・意味は不明でも機械的な手作業で「正答」が出せます。
さて…上記のような事(使用法と結果)…は、当初明白かつ記述は可能でしたが…
問題は、では~何故に「正答」へと変化可能であめか…の論理的・数理的な証明・言語表現なのです。
先ず以下から始めます~
1000g=1㎏ 「g」表記の千の位は、「㎏」表記の一の位に相当。
100g=0.1㎏ 「g」表記の百の位は、「㎏」表記の1/10の位に相当。
10g=0.01㎏ 「g」表記の十位は、「㎏」表記の1/100の位に相当
1g=0.001㎏ 「g」表記の1位は、「㎏」表記の1/1000の位に相当。
上記のような、「g」と「㎏」表記の数字の事実関係を~
⇒「1000g」 <「1」 「0」 「0」 「0」 g >
(千の位) 百の位) (十の位) (一の位)
↓ ↓ ↓ ↓
(一の位)(1/10の位)(1/100の位)(1/100位)
=「1.000㎏」 <「1」. 「0」 「0」 「0」㎏ >
上記のように、対応させた「g」表記⇔「㎏」表記の変換公式なのです。
。
>「私(ギルガメシュ)の二重化の失敗」とは、自由びと氏が独自に想起する自動思考であり認知なのでしょうね。
↑
以下のお宅言説を確認して下さい!
~転写開始~
自由びと氏は色々と言い訳していますけど、おそらくこの着想は「弁証法への志向」から来たのでしょうね。「区別と連関」だとか「運動、変化」という形而上学的というか第一哲学的な所からの俯瞰として。
それで「1000g=1kg」の等号を介して左辺と右辺とで連関させられているものを、右辺だけで「1000から1への移行、変化」を表現しようと無意識のうちにも思い付いたのが「1.000」という表記だったんでしょう。
しかし、この考えを推し進めていくと数学の体系が成立しなくなります。敢えて南郷先生に寄せて書くならば『武道講義』にある「弁証法的な考え方と形而上学的な考え方の棲み分け」みたいな「両方とも必要だ」という大局的な考えの否定となって「形式論理学的な静止・無変化を前提とした考えは不要」だという所まで行くでしょう。
~転写終了~
「自由びと氏は色々と言い訳していますけど、おそらくこの着想は「弁証法への志向」から来たのでしょうね。「区別と連関」だとか「運動、変化」という形而上学的というか第一哲学的な所からの俯瞰として」
↑~…「おそらく(自由びとの氏の)この着想は……」と書かれています。
この点、私には、全くそのような着想はございません。
なのに…この「自由びとの着想」という原点から…さらにお宅勝手な展開なのです。
その「自由びとの着想」とい認識が、私の書いている「お宅の自由びと(認識へ)の二重化の失敗」の事です。
それを、お宅が、「これは、二重化ではなく、私の自由びとの認識の想像・推測…」と言ったとしても…
その他人の認識の推測・想像…が、「その他人への二重化なのです」。
それが、お宅自身のの想像・推測なら、「自由びとの着想」という言葉は、「嘘になります」。
そもそも…自分が、他人の認識を想像・推測…の行為そのものが「他人への二重化」なのです。
>ですが、私はその認知は正しくないと思っています。
↑
ここは、「正しい・正しくない」ではなく…
お宅なら「私は、そうは考えません」が正解です。
何故ならお宅は、このコメントの初め~
>「自由びと氏の個人的な考え…それを否定する気は毛頭ありませんね。」
で始まっています。
それを「正しくない…」とは、「自由びと認知の否定」ですよね…
お宅は、お宅自身が「個人的な考えを否定」している事になります。
もっとも…本当は、お宅の自由びと認知が「お宅的で」「自由びと的はない」のが原因ですが…
↑
>余り詳細に説くのは親切すぎて宜しくないのですが、思考のフレーム自体が私は自由びと氏のように「この問題は弁証法ではなく認識論」だというのとは違っていて「自由びと氏が言っているのは「認識論の話しではなく心理学の話しだろう」と感じていますね。
「フレーム」ですか…
知っています~「認識・「認識論」の南郷学派的な意味・定義を~
「認識とは、対象の頭脳内での反映像」「認識とは頭脳活動」…
敢えて分けるなら、「論理的反映・感情的な反映」
哲学の中の認識論から心理学が分離した事実を知ってました。
もっとも…それは南郷学派の見解なので…それを信じていない人達は、反論するでしようね…
>南郷先生の著作にある「弁証法、認識論、論理学」を全てを包括する最上位のカテゴリーとし、具体的な問題はそのカテゴリーのどれに入るか?という思考では夢想も出来ないかも知れませんけど、私は自由びと氏の言っている話しは認識論ではなく心理学のお話しだと考えていますね。
>そこから翻ってみると、三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で説いた「観念的二重化」とは認識(recognition)が発展していくためには自己の他者との二重化が必須だというお話しで、ガリレオにしろニュートン、アインシュタインにしろ自分だけの世界で知性が発展できたわけではないということが注目されるわけです。
それに対して自由びとお宅の全くおバカな考えでは、社会の底辺に住む戯けと心情的に一致することが「二重化」なのだとし、認識(recognition)ではなく心理(psycho)の話しに無分別に移行しているわけです。
そうそう…南郷学派の認識には、「アタマ的な反映とココロ的反映」に分けられます。
本来は、「アタマ・ココロは、頭脳・活動的な一体的な反映ですが…
敢えて書くなら、
認識論の弁証法性、心理学の弁証法性…その弁証法性の法則化が「認識の弁証法・心理学の弁証法」
更に書くなら…「対象への二重化は、人類の全てが生誕直後から~
自覚・意識的or無自覚・無意識的に実践している「認識活動・運動なのですよ」
お宅には、真の事実的な人類種の二重化の意味・概念不足ですね…
「私(ギルガメシュ)の二重化の失敗」とは、自由びと氏が独自に想起する自動思考であり認知なのでしょうね。
ですが、私はその認知は正しくないと思っています。
余り詳細に説くのは親切すぎて宜しくないのですが、思考のフレーム自体が私は自由びと氏のように「この問題は弁証法ではなく認識論」だというのとは違っていて「自由びと氏が言っているのは「認識論の話しではなく心理学の話しだろう」と感じていますね。
南郷先生の著作にある「弁証法、認識論、論理学」を全てを包括する最上位のカテゴリーとし、具体的な問題はそのカテゴリーのどれに入るか?という思考では夢想も出来ないかも知れませんけど、私は自由びと氏の言っている話しは認識論ではなく心理学のお話しだと考えていますね。
そこから翻ってみると、三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で説いた「観念的二重化」とは認識(recognition)が発展していくためには自己の他者との二重化が必須だというお話しで、ガリレオにしろニュートン、アインシュタインにしろ自分だけの世界で知性が発展できたわけではないということが注目されるわけです。
それに対して自由びとお宅の全くおバカな考えでは、社会の底辺に住む戯けと心情的に一致することが「二重化」なのだとし、認識(recognition)ではなく心理(psycho)の話しに無分別に移行しているわけです。
>自由びと氏の「1000g=1.000kg」の着想は面白いのでもう少し説いておきます。
>自由びと氏は色々と言い訳していますけど、おそらくこの着想は「弁証法への志向」から来たのでしょうね。「区別と連関」だとか「運動、変化」という形而上学的というか第一哲学的な所からの俯瞰として。
↑
何?自由びとが「言い訳している」…
何をそんなお宅の寝言・妄想レベルの戯言を~
何故に、私が一々言い訳を書く必要があろうか?
そんなモノは書く必要は全くない!!!
ここは自由びとの個人ブログであり、
仮に私が虚偽を書こうが、それが他人の迷惑を及ぼすモノでないなら…
私が言い訳する必要は皆無!
仮に、読者が私の言説を信じて、やった事・結果or信じられずにしなかった事・結果…
その全ては、信じたor信じなかった読者の責任であろう~
そもそも「1000g=1.000㎏」は、
算数が超苦手で算数大嫌い!レベルの「Cクラス」の児童達に~
テストで少しでも点が取れて『やった!できた!』という満足感が得られれば…という思いから、
「1000g」⇔「1.000㎏」という、数字さえ代入すれば正解が得られる公式を考えだした、だけです。
例えば~
999gは何㎏と言う問題なら、
999gを「0999g」として、「0999g」⇒「0.999㎏」と簡単・明瞭に解答が得られる。
このような事は、いい訳ではなく、事実である。
この式の代入計算では、小数点・単位・g・㎏…の概念把握は不能でも、正解は求められる。
そんな成功・正解…体験ができて、少しでも「算数嫌い・やりたくない」感情が薄れる事を期待して…
>それで「1000g=1kg」の等号を介して左辺と右辺とで連関させられているものを、右辺だけで「1000から1への移行、変化」を表現しようと無意識のうちにも思い付いたのが「1.000」という表記だったんでしょう。
↑
それは、お宅のお宅レベルのお宅勝手な推測・推論ですね。
1000()=1()~に対して納得でき難い児童達に、
「1000=1.000」…小数点の意味不明瞭な児童なら「同じように思える」だろう…
>しかし、この考えを推し進めていくと数学の体系が成立しなくなります。敢えて南郷先生に寄せて書くならば『武道講義』にある「弁証法的な考え方と形而上学的な考え方の棲み分け」みたいな「両方とも必要だ」という大局的な考えの否定となって「形式論理学的な静止・無変化を前提とした考えは不要」だという所まで行くでしょう。
↑
「この考え」とは、お宅の想像・妄想して自由びとのモノであり、
現実・事実は、自由びとの「考え」ではありません。
また…残念な事に、こう公式の更なる展開・発展…はありえません。
この式・公式は、これで完結・完了なのです。
この式への代入の結果、テストの点数が取れても…その実力の向上は殆どありません。
それでも…「算数嫌い・やりたくない」感情が薄れた児童の今後の勉学に期待しての公式なのです。
>私も弁証法を学び始めた高校生の頃はこうした着想をしていた記憶がありますから、自由びと氏の発想も理解できなくはありません。
↑
弁証法に興味を抱ける高校生に~
現実の小学三年生の「算数嫌い!やりたくない!」のよう感情の理解は不能ですね。
何が「理解できなくはない」ですか!
全て全くの誤解の連続でしょうが…
全ては、お宅の着想であり、発想の連続ですよ!
これは弁証法ではなく、認識論の問題ですよ!
お宅は、認識論の勉強不足ですよ!
「自己の二重化は、当初は自己の自己化から始まる」ですよ!
お宅は、お宅の二重化が「お宅のお宅化」という現実なのに…
それをお宅は、「自由びとへ二重化した!」と妄想的な確信をしているだけですよ!
>ですが、やはりこれは初心者の「森羅万象」的な無分別さから来る踏み外しでしょうね。
↑
この公式を森羅万象に結びつけるには難があります。
ただ、この公式の構造・用途・使用させる対象…を考慮しての
「公式の創像・完成への思考過程・思考法には森羅万象は関係しますが…
思考が森羅万象的でも…その結果の創造物が森羅万象的とは限りません。
外界の森羅万象から、姿形あるモノを創造した時点で、
そのモノの中に森羅万象は存在しません。
全体から部分を独立させたら、それは非全体的ですよ。
まあ~そんなお宅がお宅コメントで満足感を抱けたから…
それは、それで、上記の記述もお宅にとって有益なモノだったのでしょうがね…
自由びと氏は色々と言い訳していますけど、おそらくこの着想は「弁証法への志向」から来たのでしょうね。「区別と連関」だとか「運動、変化」という形而上学的というか第一哲学的な所からの俯瞰として。
それで「1000g=1kg」の等号を介して左辺と右辺とで連関させられているものを、右辺だけで「1000から1への移行、変化」を表現しようと無意識のうちにも思い付いたのが「1.000」という表記だったんでしょう。
しかし、この考えを推し進めていくと数学の体系が成立しなくなります。敢えて南郷先生に寄せて書くならば『武道講義』にある「弁証法的な考え方と形而上学的な考え方の棲み分け」みたいな「両方とも必要だ」という大局的な考えの否定となって「形式論理学的な静止・無変化を前提とした考えは不要」だという所まで行くでしょう。
私も弁証法を学び始めた高校生の頃はこうした着想をしていた記憶がありますから、自由びと氏の発想も理解できなくはありません。
ですが、やはりこれは初心者の「森羅万象」的な無分別さから来る踏み外しでしょうね。
>ギルガメシュ
>・コメント
>まー、私の真意は自由びと氏を責め立てることではありませんから非難めいて受け取られたとしたならばご容赦を(笑)。
↑
へ~そうなの?!
自由びとって、お宅から「責め立て」られて、「非難めいて受け取」って、いたの!?
>これまで自由びと氏のブログに調子に乗って書き綴ったことで南郷学派にあらためて三浦つとむの研究に向かわせてしまった嫌いもあると『学城』の最新号を眺めながら感じてましてね。
「知らぬが花」ということもありますから、自由びと氏の述べた通りに南郷学派は三浦やレーニンの「対立物の統一」からは卒業して新たな「運動の弁証法」を創出したのだという方向のままでいてくれたらと私自身は願ってましたから(笑)
↑
「知らぬが花」ですか?
「誤解しての知ったかブリ」と「知らない事の自覚」…
誤解しいるのに、その事を知らないお宅の「知らぬが花」ですかね…
知らない・分からない自覚から、知りたい・分かりたい欲求の芽生えへ、
お宅の上記の言説からは、「俺は知っている!」・「自由びとは知らない」という感じですかね…
私は、「知っている事は知っている」・「知らない事は知らない」という事は分かる…
例えば、知っているつもりで、現実・事実・事件と関わっても、
失敗したなら「それは完璧には知っていない!」
例え、それが成功しても、次回で失敗したなら「完璧には知っていない!」
そんな事は知っているよ!
自信タップリで自由びとに悪態・悪言が吐けるお宅には…
他人・自由びとレベルが、創像できていない…のでは?
もっとも…逆から説くなら、私がお宅の言説にレベルが合わせられていない…かも?
まあ~どっちにしても、
この私の記事は、書き出しっぺの自由びとレベルから始められているので…
先ずは、読み手が、書き手の記述レベルに合わせてのコメント・言説が、普通でしょうね…
>やはり私も実名なり正式なペンネームなりで自分の考えを世に問うような存在となるべきでしょうから、あまりこの場で自説を垂れ流すのは宜しくありませんね。
↑
それって…自由びとにも言えるかも…
ただ…「世に問うからには、「責任と義務」が生じてしまい…」
「自由びと」的な私としては、とても不自由になり得てしまう…から躊躇しますよね…
>それで今まで私が学んだ何人もの師の考えを再検討しておりますが、南郷先生の著作も見ています。私見では南郷先生の著作で最も弁証法が光っているのは『武道の理論』だと感じていますけど、それも何処かで開陳出来る機会があればと思いますね。
↑
まあ~「いいんじゃない♪♪♪」~
お宅も~「義務と責任」を背負って頑張れば!
いい事あるかも…ね♪♪♪
・コメント
>自由びと氏のパチプロだかの親が言ったという「頭の回転が速い」ということの内実を想像するに、抽象的な規定を横滑りしていく思考癖だろうと思われますね。
↑
私の父は「パチプロ」なんかではなく…根っからの商人ですよ。
何しろ…祖父(父の父親)が、出稼ぎに行って、家に仕送りがこなくなり…
父は小学校へも行かず、裁縫・仕立て?の見習い小僧へ出て、
技術を修得して自分でハンカチ・手ぬぐい…を縫い道端で売って、
母親・次男、長女…の家族四人の生計を支えた、そうですから…
今、考え思うと…そんな父の私への「頭の回転が速い」とは、
「数字の計算が速い」・「損得・勘定が速い」的なモノだったのでしょうね…
そもそも…小学生の頃の私に「抽象的な規定を横滑りしていく思考癖…」なんてありえませんね…
>この「1000g=1kg」の話しで自由びと氏は、おそらくは「単位の違い」というものを捨象して「1000:1」という数量の比率だけに意識がいったのだと思われます。
↑
そもそも「1000g=1.000㎏」と単位の明記があります。
それをがどうして>「1000:1」という数量の比率…<になり得るの?
無意味ですが…敢えて書くなら「1000g:1.000㎏=1:1」ですかね…
あくまで、「1000g=1㎏」であり、「1.000㎏=1㎏」ですよ!
>そこから何故だか「割り算」という所に意識が飛んで「1=1000÷1000」で割り算の結果省略されて見えなくなっている小数点以下の「000」がある、とでも考えたんでしょうね、無意識のうちにでも。
↑
え!ビックリですよ!
「1.000」って、「1000÷1000」の事なんですか?
違います!
「1.000」⇒小数点以下の「000」は、斜線で消して省略して⇒「1」になります、でしょう!
>さもなければ「どうして右辺の1kgに小数点以下の3桁を表記するのに、左辺の1000gは1000.000gと小数点以下の3桁を表記しないのか?」という疑問が子供たちから出されて不思議はありませんからね。
小学生のレベルがゴチャゴチャですよ!
これは、少人数算数の最低Cレベルの児童向けであり、
お宅のような疑問を持てる児童は、クラスCには存在しません。
持てるような児童なら、きっとAクラス入りでよ!
だから…この式は、A、Bクラスでは、混乱を招きかねません。
その理由は、小数点表記の「1.000=1」とコンマ表記の「1、000=1000(千)」の混乱ですかね…
そもそも…算数指導では、「1.000=1」が常識なのです。
しかし、クラスCの児童には、この「小数点の常識も不明瞭なのです。
>この「1000:1」の問題はお金の「10000円=1万円」のお話しと同様で福沢諭吉の一万円札だったら一枚で済む金額が、アルミニウムの一円硬化だと10000個必要だといった類いの話しで、割り算は関係ないことです。
↑
これもピント外れのレベルハズレ!
>割り算が出てくるのは例えば5人で飲み食いして勘定が1万円だったなら割り勘で割り切れないな、とかの場合でしょうね。
↑
そもそも「割り算は、どこにも出てきません。
お宅が、自分勝手に「割り算」を出しただけです。
>自由びと氏が関わると子供が数学や物理が苦手な子供になりますから、座敷牢に入れて子供と関わらせないようにする必要があります。座敷牢の中で一人岩窟王を楽しめばおバカな自動思考は伝染しませんからね。
↑
残念!大外れ…
現在の私は、児童達のへ直接的な「算数学習指導は皆無」なのです。
私は、算数の指導教員の学習指導の補助で、教師の教え方・内容の補助なのです。
なので、児童の算数能力の不足は、全く私には無関係なのですよ!
また、今年・新学期が開始して、今回が、初めての「四年の算数授業の補助」ですよ。
よくも~まあ~私の現状・事実の知らずに、ここまで妄想レベルの悪態を書けますね♪♪♪
それって、お宅の悪しき妄想技術の成果・結晶化!ですかね…
>ギルガメシュ
・コメント
>自由びと氏のパチプロだかの親が言ったという「頭の回転が速い」ということの内実を想像するに、抽象的な規定を横滑りしていく思考癖だろうと思われますね。
↑
私の父は「パチプロ」なんかではなく…根っからの商人ですよ。
何しろ…祖父(父の父親)が、出稼ぎに行って、家に仕送りがこなくなり…
父は小学校へも行かず、裁縫・仕立て?の見習い小僧へ出て、
技術を修得して自分でハンカチ・手ぬぐい…を縫い道端で売って、
母親・次男、長女…の家族四人の生計を支えた、そうですから…
今、考え思うと…そんな父の私への「頭の回転が速い」とは、
「数字の計算が速い」・「損得・勘定が速い」的なモノだったのでしょうね…
そもそも…小学生の頃の私に「抽象的な規定を横滑りしていく思考癖…」なんてありえませんね…
>この「1000g=1kg」の話しで自由びと氏は、おそらくは「単位の違い」というものを捨象して「1000:1」という数量の比率だけに意識がいったのだと思われます。
↑
そもそも「1000g=1.000㎏」と単位の明記があります。
それをがどうして>「1000:1」という数量の比率…<になり得るの?
無意味ですが…敢えて書くなら「1000g:1.000㎏=1:1」ですかね…
あくまで、「1000g=1㎏」であり、「1.000㎏=1㎏」ですよ!
>そこから何故だか「割り算」という所に意識が飛んで「1=1000÷1000」で割り算の結果省略されて見えなくなっている小数点以下の「000」がある、とでも考えたんでしょうね、無意識のうちにでも。
↑
え!ビックリですよ!
「1.000」って、「1000÷1000」の事なんですか?
違います!
「1.000」⇒小数点以下の「000」は、斜線で消して省略して⇒「1」になります、でしょう!
>さもなければ「どうして右辺の1kgに小数点以下の3桁を表記するのに、左辺の1000gは1000.000gと小数点以下の3桁を表記しないのか?」という疑問が子供たちから出されて不思議はありませんからね。
小学生のレベルがゴチャゴチャですよ!
これは、少人数算数の最低Cレベルの児童向けであり、
お宅のような疑問を持てる児童は、クラスCには存在しません。
持てるような児童なら、きっとAクラス入りでよ!
だから…この式は、A、Bクラスでは、混乱を招きかねません。
その理由は、小数点表記の「1.000=1」とコンマ表記の「1、000=1000(千)」の混乱ですかね…
そもそも…算数指導では、「1.000=1」が常識なのです。
しかし、クラスCの児童には、この「小数点の常識も不明瞭なのです。
>この「1000:1」の問題はお金の「10000円=1万円」のお話しと同様で福沢諭吉の一万円札だったら一枚で済む金額が、アルミニウムの一円硬化だと10000個必要だといった類いの話しで、割り算は関係ないことです。
↑
これもピント外れのレベルハズレ!
>割り算が出てくるのは例えば5人で飲み食いして勘定が1万円だったなら割り勘で割り切れないな、とかの場合でしょうね。
↑
そもそも「割り算は、どこにも出てきません。
お宅が、自分勝手に「割り算」を出しただけです。
>自由びと氏が関わると子供が数学や物理が苦手な子供になりますから、座敷牢に入れて子供と関わらせないようにする必要があります。座敷牢の中で一人岩窟王を楽しめばおバカな自動思考は伝染しませんからね。
↑
残念!大外れ…
現在の私は、児童達のへ直接的な「算数学習指導は皆無」なのです。
私は、算数の指導教員の学習指導の補助で、教師の教え方・内容の補助なのです。
なので、児童の算数能力の不足は、全く私には無関係なのですよ!
また、今年・新学期が開始して、今回が、初めての「四年の算数授業の補助」ですよ。
よくも~まあ~私の現状・事実の知らずに、ここまで妄想レベルの悪態を書けますね♪♪♪
それって、お宅の悪しき妄想技術の成果・結晶化!ですかね…
これまで自由びと氏のブログに調子に乗って書き綴ったことで南郷学派にあらためて三浦つとむの研究に向かわせてしまった嫌いもあると『学城』の最新号を眺めながら感じてましてね。
「知らぬが花」ということもありますから、自由びと氏の述べた通りに南郷学派は三浦やレーニンの「対立物の統一」からは卒業して新たな「運動の弁証法」を創出したのだという方向のままでいてくれたらと私自身は願ってましたから(笑)
やはり私も実名なり正式なペンネームなりで自分の考えを世に問うような存在となるべきでしょうから、あまりこの場で自説を垂れ流すのは宜しくありませんね。
それで今まで私が学んだ何人もの師の考えを再検討しておりますが、南郷先生の著作も見ています。私見では南郷先生の著作で最も弁証法が光っているのは『武道の理論』だと感じていますけど、それも何処かで開陳出来る機会があればと思いますね。
コメントを感謝です。
一晩寝た今日は、昨日より明快な返答ができそうです。
>コメント
>勝負論的とか上達論的とか何を言っているのか解りませんね(笑)
↑
「勝負論的」とは、勝負に勝てればOK的意味あい。
それは、授業なら暗記、公式の使い方・問題の解き方が不明でも機械的に代入して解ければいい・正解が書ければいい、納得は、どうでもいい…そんな意味合いです。
数学なら、解の公式の意味・理解は不能でも、公式の暗記・代入手順の暗記で正解して点数さえ取れればいい!的思考。
「上達論的」とは、使い方・解き方の公式の暗記・使用ではなく、その公式の意味・成立の仕方・過程…を確り理解・納得する事。
数学から、公式の意味を確り理解して、見ないで、自力で公式を導き出せる能力の養成。
例えば、数学なら、因数分解不能な二次方程式でも「解の公式」を使わずに、自力で公式を求める計算方法で解いていく事。
>1kgが1000gだというのは全く割り算などではなく人類が歴史的に定めた物理学上の単位の定義ですよ。
↑
そうそう~
数字の「1」も「1000」も~
単位の「g」も「㎏」も~人類の文化遺産なのですね。
「g」の千倍が「㎏」
「1g×1000=1000g=1㎏」なのです。
「㎏」の「K」とは、1000×「g」で「g」の1000倍という意味でしたね…(今朝この式の話を息子して、指摘されて思い出しました)。
一般的な「1000g=1㎏」表記をよくみて下さい!
ここには、<「1000」と「1」>いう数字の大きさ相違(概念)と <「g」・「㎏」>という単位の概念の相違があります。
この二つの数字と単位の同時変化=二つの変化・運動の同時発生「1000≠1」と「g≠㎏」の結果が「1000g=1㎏」
この過程を書くなら~
1000g=1×(1000×g)=1×(㎏)=1㎏ とう計算式なのてしょうね。
小学生、特に算数苦手な児童には、
数字の表記の相違による大きさ・量の概念の相違の理解が至難。
数字の「1と1000」の大きさ相違は分ったも…
単位「gと㎏」の大きさの相違は分からない…
そんな児童に「1000(g)=1(㎏)」を見て、
何で「1000」=「1」~なんで、1000と1が同じなの?という混乱です。
これは、初心者に、初めから
「追い突き」⇒「空手的な足の移動法」と「空手的の手の突き方」をやらせて、混乱させるようなモノですね。
これは、「2m+1㎝=3m」や「2㎝+1m=3㎝」と平然として書けてしまっている児童の存在から分かります。
そんな児童達でも、人間一人と犬二匹を「人間が三人とも…犬三匹とも言いません」
彼らは、日常的に使われる「単位」の概念の相違はあっても…算数的な概念はなく、その相違の理解が難しいのでしょうね…
>>1000g=1.000kg
>と記載してみたときに左辺の単位はgで右辺の単位はkgで単位が違うわけですけど重さの数量としては等しいです。
「1.000」と小数点がついていると何だか1000.から小数点が移動してきて1.000になったかの錯覚をしかねませんけど右辺の単位はkgですから1000.kgだと1tになってしまい1tが1000で割られて1kgになったわけじゃありませんから阿呆丸出しになってしまいますよ。
↑
こんなお宅のような錯覚は、児童にはないでしょうね…
だって…少数の足し算の学習初めに「小数点の移動」なんて無理、それは小数の掛け算」ですね。
私からすれば…上記のお宅の思考法・記述が、「バカ丸出し」ですよ。
だって「1.000=1」は、数学の常識ですよ。
普通なら、「0.001g+0.999g=1000g=1㎏」です。
でも、数字「1と1000の相違」は分かっても、
単位「gと㎏」さらに小数点「.」のある・ないの概念…が不明確な児童には、
「1000g=1㎏」は、なんで「1000( )=1( )」なの?
単位の相違が…なかなか理解・納得不能なのです。
「mmと㎝」の相違も不明瞭な児童達には、「gと㎏」の理解・納得も至難でする。
>1000g=1kgの理解を促すには1000g=1.000kg
とzeroの数を揃えるのではなく
>1000g=1kg
>1000m=1km
>1000Hz=1kHz
>といったように「k(キロ)」という単位表記は等しく1000倍(10の3乗倍)だと「数値計算の結果導かれた」ものではなく「人為的に取り決められたもの」だという根本原理を教えることだと私には思えますね。
↑
これは、小学生にはレベルが高いですね。
>自由びと氏が親から言われた「頭の回転が速い」というのは単に「口達者」というような意味合いで、その実態は「おバカそのもの」だと理解されますよ。
↑
このコメントで、お宅が自由びとを「おバカそのもの」という理由が明確になりました。
いいですか!
今の私の算数の常識は、
「1.000=1」、「1000g=1㎏」また「1,000=1000」
「小数点の1.000」と「コンマの1,000」は別物~
この記事の「1000g=1.000kg」表記は、
数字の「1と1000の相違」は理解・納得できても…
単位の「gと㎏」の相違も、また小数点「.」の意味概念も不明瞭な児童に~
「1000g=1.000kg」このように書けば、パット見で左「=」右が同じように見える。
そんな視覚的「同じ」から、導入だせれば、楽なのでは?
初めから「1000( )=1( )」だと…
単位の概念がない(不明確な)児童には何で「=」なの???と初めから脱落!
お宅には、私の思考レベルが理解不能なのです。
私の小学生児童二重化して記述の理解が不能なのです。
それは、自分や他人の乳幼児に、そのレベルで話している母親を見て、
「バカ丸出し」と言っている「バカ丸出し」大人ですかね。
この記事「1000g=1.000kg」公式は、
算数Cクラスの児童達が、取り敢えずプリント問題・プリントの答えを書ければいい!レベルですよ!
そうそう「概念の弁証法」
長さ・単位表記と「その長さの概念の変化」
「mm」⇒「㎝」⇒「m」⇒「㎞」⇒?……
この「1000g=1kg」の話しで自由びと氏は、おそらくは「単位の違い」というものを捨象して「1000:1」という数量の比率だけに意識がいったのだと思われます。
そこから何故だか「割り算」という所に意識が飛んで「1=1000÷1000」で割り算の結果省略されて見えなくなっている小数点以下の「000」がある、とでも考えたんでしょうね、無意識のうちにでも。
さもなければ「どうして右辺の1kgに小数点以下の3桁を表記するのに、左辺の1000gは1000.000gと小数点以下の3桁を表記しないのか?」という疑問が子供たちから出されて不思議はありませんからね。
この「1000:1」の問題はお金の「10000円=1万円」のお話しと同様で福沢諭吉の一万円札だったら一枚で済む金額が、アルミニウムの一円硬化だと10000個必要だといった類いの話しで、割り算は関係ないことです。
割り算が出てくるのは例えば5人で飲み食いして勘定が1万円だったなら割り勘で割り切れないな、とかの場合でしょうね。
自由びと氏が関わると子供が数学や物理が苦手な子供になりますから、座敷牢に入れて子供と関わらせないようにする必要があります。座敷牢の中で一人岩窟王を楽しめばおバカな自動思考は伝染しませんからね。
と記載してみたときに左辺の単位はgで右辺の単位はkgで単位が違うわけですけど重さの数量としては等しいです。
「1.000」と小数点がついていると何だか1000.から小数点が移動してきて1.000になったかの錯覚をしかねませんけど右辺の単位はkgですから1000.kgだと1tになってしまい1tが1000で割られて1kgになったわけじゃありませんから阿呆丸出しになってしまいますよ。<
↑
意味不明ですよ!
「1000g=1.000kg」=「1000g=1kg」ですが・・・
何か変なことを書いていませんか?
勝負論的とは、もう既に理解している児童にとっての「1000g=1.000kg」であり、
上達論的とは、まだ理解していない児童にとっての「1000g=1.000kg」の意味。
1kgが1000gだというのは全く割り算などではなく人類が歴史的に定めた物理学上の単位の定義ですよ。
1000g=1.000kg
と記載してみたときに左辺の単位はgで右辺の単位はkgで単位が違うわけですけど重さの数量としては等しいです。
「1.000」と小数点がついていると何だか1000.から小数点が移動してきて1.000になったかの錯覚をしかねませんけど右辺の単位はkgですから1000.kgだと1tになってしまい1tが1000で割られて1kgになったわけじゃありませんから阿呆丸出しになってしまいますよ。
1000g=1kgの理解を促すには1000g=1.000kg
とzeroの数を揃えるのではなく
1000g=1kg
1000m=1km
1000Hz=1kHz
といったように「k(キロ)」という単位表記は等しく1000倍(10の3乗倍)だと「数値計算の結果導かれた」ものではなく「人為的に取り決められたもの」だという根本原理を教えることだと私には思えますね。
自由びと氏が親から言われた「頭の回転が速い」というのは単に「口達者」というような意味合いで、その実態は「おバカそのもの」だと理解されますよ。
何と短コメント!
私も短く「無用の用」ですよ!
勝負論的には無用・不要…
でも~
上達論的には有用・有効!
以前~三年算数授業での割り算計算問題を
実際に、以下のようにやらせていた教師がいました。
36÷4=
4×2=8
4×3=12
4×4=16
4×5=20
4×6=24
4×7=28
4×8=32
4×9=36⇒「9」
「36÷4=9」
こんなやり方を「C」クラスの児童にやらせていました。
普通なら、書かずに暗算でやるのが当然なのに…
その理由は、Cクラスの児童達は、算数・九九の暗記が苦手…覚えようとしない!
また、「九九表を見てやってもいい~」と言ったなら…
その4の段の「36」になる答えだけで終了。
だから、一つずつ強制的に書かせて、何とか覚えさせようとしている…
この「1000g=1.000㎏」表記も然り~
普通なら、頭脳内で、整数g表記に、小数点を付けて㎏表記に変換可能なのに…
それが、なかなかでき難い児童達だから、敢えて「1.000㎏」表記にしてみた…
もっとも…内心…実際にCクラス児童達で試してみない事には???ですね…