新・悟りを求めて~

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具体的な「教育過程での距離」

2021-03-21 13:33:28 | 教育

具体的な「教育過程での距離」


教育には「教育目的」と「教育目標」が考えられている。

教育とは「教え・育てる」事。
ここでの教育とは「人間教育」。
人間とは「創り創られる存在」・「認識的実在」。
子供は「育てたように育ち、育てられたように育つ」

両親・教師は、将来的に一
一人前の社会人になれるよう子供・学生を教育する。

ここで以下の具体例で考える事にする。

親・教師が子供に「ありがとう」を教育しよう、とする。

「ありがとう」の教育目的は「社会的な人間の育成」
「ありがとう」の教育目標は、「正しくありがとう言える事」


「ありがとう」の教育の目的の二重性
 
(一) より円滑な社会生活の為。
(二) 個人内の感謝の感情育成。

「ありがとう」教育目標の二重性
上記(一)の目標は、相手の適切な行為に対して言える。
上記(二)の目標は、感謝の感情を抱いて言える。

社会的に「正しくありがとう」(社交辞令的な)
個人的に「正しくありがとう」(感謝の感情から)

さて、親は、子供に
「何かしてもらったら『ありがとう』を言おうね」とか…
「ここは『ありがとう』でしょう」とか…
色々な場面で「ありがとう言うタイミング」を教えようとする。

でも、果たしてその時、そのタイミングで、
その子供が「感謝の感情」を抱いているかは不明であろう。
このような言葉での「ありがとう教育」は、
言うなれば「ありがとう型」を教える事であろう。

ならば、その「ありがとうの使い方」教育とは?
それは、親が、常に子供の行為・言動に対して
「ありがとう言葉を意識する」事であろう。

親にとって特に「有難い」とか「感謝の気持ち」が湧かなくても、
子供が「親を意識して好意でした事に対して言う」事。
これは、「ありがとうの使い方」の型と言える。

ここで、いくら幼児が親を意識・好意でも、
それが、「叩く」なら「ありがとう」は不適切であろう。

さて、教師の学生に対する「ありがとう教育」でも、
学生が何かしてくれたら、教師は「ありかとう」であろう。

しかし、教師の人数は少ないので、その機会も少ない。
その点、学生から学生への「ありがとう教育」は
同学年・先輩…と無数にあり得る。

同級生同士の「ありがとう教育」は機会が多くても、
そこでの適切さに難点がある。
先輩による教育は同級生同より機会が少なくても、
その適切さの精度がよい、だろう。


このような「ありがとう」の教育過程での距離とは、
教師の「ありがとう像」と、
その学生が描いている「ありがとう像」の差異と言える。

その像とは、
相手の適切な行為に対して言える。
感謝の感情を抱いて言える。
このような行為実現可能な「認識・像」である。





この「差異」から「一致」へ目指すと決めた時、
その「差異」を「距離」と捉え、
そこへ至る「道程」を考え始める。

この「距離」を縮める為には、
その「道程」を歩み続ける事。


その歩みの「道程」が以下である。
理想的・適切な「ありがとうの基本型」の教育。
理想的・適切な「ありがとう使用型・法」の教育。

教師と学生では理想的な「ありがとうの基本型」の距離は、
一人一人異なるが、それでも比較的近いモノであろう(知識として)。
だも、その理想的・適切な駆使型は、かなり離れていると考えられる。


教師は全体・学生全員に、「理想・適切」を共通の言葉で教え、
一人一人が、理想的とは言えずとも、
適切な「ありがとう」を言える為に
日々の教育過程でのチェックを怠らない必要があろう。

たかが「ありがとう」、
されど「ありがとう」。


誰かが書いていた。
人は、「ありがとう」と「すみません」が言えれば、
人生なんとか生きて行けるモノである。

これは、社会生活・人間関係では、
嬉しい・感謝の気持ちと
悪かった・謝罪の気持ちが、
とても重要だという事なのだろう。


ここでも「ありがとう教育」を例にとったが…
論理的に、教育全てに通じるモノがあると確信している。

それは、「人は創り創られて人間となる」
教育は、「個別的個人を社会的個人として教え育てる」事。






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