前回の『月研ぎさんの「距離」について…』は
月研ぎさんの「距離」について… - 新・悟りを求めて~ (goo.ne.jp)
2020-03-11 11:32:08 | の事である。
それから一年が過ぎた。
今日、再度読み返したら…
なんかとても恥ずかしい気持ちになった。
よくもまあ~こんな中身のない事を長文で書けたモノである、と!
もっとも…今回の内容に中身が認められるとは限らないが…
教育過程での「距離」の問題を集団登山で考えてみよう。
初めに教師は、頂上への道を示し、登り方も教えてくれる。
そこで学生が教えられて直ぐに「頂上」が見えたとしても、
また忘れるかもしれない…
登り方や歩き方の形は記憶できても、
その体得・習得は、人によって難しいかもしれない、
平地なら普通に歩けても、山道歩きでは転ぶかもしれない、
途中で疲れて歩けなくなるかも知れない…
そこで「頂上」まで登り続けられる為に、
同輩、先輩、教師の存在が役立つ。
同輩同士は、互いに励ましたり、競い合ったりして、登り続けられる。
先行く先輩の姿は、後輩にとっては頂上へ道しるべ。
また、その登る姿から登り方も学べるだろう。
教師は教師同士、学生の登山の様子を互いに確認し合いながら、
水のみ・休憩の時間や登山路の難易度の選択を相談し合える。
人間が薄っぺらだからじゃないですか?
「人間」薄っぺらでは、
まともには立ってもいられませんね。
お宅のような薄っぺらな認識で
書かれた言葉と関わり続けた結果ですかね?!
まあ…
それを自覚できたという事は、
認識が少しずつ厚くなってきた!
という事でしょうかね!
悔しくて悔しくて夜も眠れなかったのでしょう。
人間には「意志」というものがありますから自分に厚みをつけれる場所に自分で移動できるのですよ。
お宅のような動物どころか植物のように今ある環境に恨み言を言うしかないボンクラしか南郷さんには育てられないということです。
中身もないくせに南郷さんや玄和会の名前を弄んだ己れを悔いるがいいでしょう(笑)
お宅は、このように理解したのですね。
それはそれは…
私は、他人のせい=お宅のせい、とは思っていません。
そのように「他人のせい」にするのは、お宅思考ですね。
要因が、お宅の悪しき認識との相互浸透であり、
原因は、それを知りつつ関わり続けた事です。
それを知ってて続けたのですから、
「誰のせい?」と問うなら、答えは「自分のせい!」かね…
そもそも「薄っぺら」が、悪いモノとは限りません。
「厚いモノ」を一枚一枚「薄っぺら」にするには技が必要です。
この場合、技は技でも認識技ですが…
その技習得の為に、
敢えて薄っぺらお宅と関わり続けるのもあり!です。
「移動できる」のに、敢えて「移動しない」のも意志です。
辛い事・悪しき事…と分かっていての移動せず、
その場で辛さ・悪しき事に耐え続けるのも意志。
お宅には
「意志」は、分かっても、
「その厚み」は、分からないようですね!