「意地」とは、
① 人の行いの根本にある考え方や心がまえ。
② 自分の考えを無理に通そうとする心。
ネットで以下の言葉を見つけた。
「意地と通す・意地を張る・意地を見せる」
昨日、補助員の同僚との会話
私、「…○○ちゃんって、本当に意地っ張りだね!」、
同僚、「本当に親に似て…、でも私もそうだから…」、
この○○ちゃんは、
その同僚の次女の子供で、同僚の孫にあたる。
その時、私はふっと思った。
その同僚は、非常に面倒見もよく、
特別支援学級補助員、通常級の補助員、登校支援の仕事、音楽サークル…と
地域の仕事を色々やっており、とても貢献している(ように私には思えている)。
確かに少々癖のある顔はしているが…
また、時に相手の言動に対して辛辣な指摘をする。
でも、その言い方・言い回しが、とても冗談ぽく…不快感は殆どない。
自分の生き方を貫き通す、
自分の考えを相手に伝える、
自分の生き様を見せる。
意地を張るとは、
自分の考えや心がまえをバリヤーのように張り巡らし、
相手の指摘や考えを弾き飛ばす事…。
意地を通すとは、
周囲の反対・意見…を無視して、
自分の考えや心がまえを優先し続ける事…。
意地を見せるとは、
自分の中の目に見えない考えや心がまえに従って、
周囲が納得・認めざるを得ない結果出す事…。そんな感じ~
また、昨日の通常級の◇◇君との会話~
授業中に、◇◇君がB4のプリントを半分に折っている所に遭遇して…
私、「この角と角はちゃんと合わせると綺麗に折れるよ!」
◇◇君、「僕にはできない!」
私、「やれば出来るよ!」
◇◇君、「ダメ!僕って不器用だから…」
私、「今は不器用でも、やっていれば器用になれるよ!」
◇◇君、「生れ付きだから器用にはならない!」
私、「じゃ~勉強が出来なければ、やってもできない…という事?」
◇◇君「うん!そうだよ!」
私、「それじゃ~いつまでも出来ないね!」
◇◇君、「うん~それでいいよ!」
私、「……???………!!!………」
この会話から考えるなら~
「意地を張る」とは、
ここでは、「できない」、「不器用」、「生まれつき」、「このままでいい」…
というように、言葉で「自分の考えや心がまえ」を主張し続ける。
「意地を通す」とは、
最後まで、自分のやり方―ここでは、
紙の折り方である「角と角を合わせようとしない」事。
をやり通す
そして、
「意地を見せる」とは、
私の助言を無視して、意地を貫き通して、
結果的に、角と角の合っていない、
正確にB4の半分になっていないB5サイズのモノの完成である。
また、○○ちゃんの場合は、
授業中、教師から注意や指導を受けた時、
それが気に入らない時に、無視したり、教室の外へ出て行ったり…
また、授業中でも突然に離れた席の友達の所へ行ってしまったり、
それを注意されたら、時に教室の外へと飛び出して、
そのまま廊下にいたり、校庭へ行ったり…
とてもとても担任に面倒をかけている。
○○ちゃん、◇◇君…の意地というモノ「根本的な考えや心がまえ」と
学校で求める意地の大きな相違があるから、このような事が起こるのだろう。
これは、個人生活での意地と社会生活に必要な意地との違いであろう。
友達との遊び…対等な人間関係での個人対個人の時の意地とその表現。
学校生活・授業中…上下関係での先生対個人の時の意地とその表現。
人間であるからには誰もが「根本的考え方や心がまえ」・意地がある。
その自分の意地を、どのように表現するかは、その人間にとって重要な課題でもある。
もっとも…それは、周囲とのトラブルを最小限にして、
自己の人生を生きたい!のであればの問題化…であるが…
さてさて、
ここでは「意地」というモノを言葉から考えようとしたが…
それでも、「言葉の意地」の確認をする前に、
日々の学校での私の生活の思い起こしがある。
それは、私の観念である。
従って、これは言説は観念から始められ、
言葉を参考に観念内で考えられ、言葉・表現として書かれたモノ。
思い起こした観念とは、現実生活の観念化である。
色々な多くの現実の生活過程を「意地」という意味から、
その概念―現実での言動・態度…から生じている(私にとっての)意味、
を、考え・思考・思惟…し…
このような観念論的な展開には、現実からの観念の形成がある。
しかし、その観念の形成には、別の観念が不可欠である。
ある観念で現実・事実を一括りにて観念化する、からである。
この場合の一括りの為の観念とは、
認識内で量質転化化した考え方・心がまえ・対象に対する感情…
それらは、生まれてから今までの人生の現実の中で、
時に知らず知らず無自覚・無意識に、時に強制的意識的に形成されたモノ。
どんな観念論でも始まりは事実・現実・世界である。
それで、世界・現実・事実の認識には観念(論)が必要である。
こんな観念論と唯物論だから、この両者の統一が必要、
と誰かが言ている。
唯物論と観念論を絶対的観念論で統一したモノが、
普通に言われている世界観としての「観念論」であり、
唯物論と観念論を(絶対的)唯物論としたら、
それは世界観としての「唯物論」でになろうか…。
絶対的唯物論なら、どうな(他人の)観念・記述も「存在するモノ」として、
モノの変化・運動として、世界の一部として己の中に受け入れ発展可能であろう。
でも…絶対的観念論だと、己の信じる観念が優先であり、
他の観念は、己の信じる観念内に同化させるモノ…なのだろう。
初めに観念化すべき観念は、
世界との関わり方であり、ミニ世界であろう。
己の家庭は社会の一部…
その社会環境は国家の一部…
その国家は世界の一部…
人間は、どんなに頑張っても、世界の一部の中で生き、生活している。
しかし、その己一部を世界の一部だと、自覚・認識・実感し得たなら…
多くの他人の一部と自己の一部を総合・総括…そして統括でき得たなら…
己の認識している今の世界像は、
確実に真の世界像に一歩も二歩の近づけるのだろう。
己を知り、敵を知り、味方を知り、
そして傍観者を知り得れば、世界に勝てる!
食い意地でも張っとけば?
ハ・ハ・ハ・ハ・ハ
お宅って、ヤッパリ己の姿が観えない阿保だね!
>食い意地でも張っとけば?
↑~
これって、
お宅の「食い意地」の悪さの表現なのに…
本当に分からない?
こんな簡単な事を!
人は、他人の記述の中に、
己の姿を映し出しているモノ、ですよ。
もっとも…
それは、その書き手の実像・本人を知らない場合ですが…
今回の記事を読んで、
「食い意地」を連想したのは、
お宅ぐらいでしょう!
私の熟知している友達や家族なら、
絶対に「食い意地」とは書きません。
きっと、こんな阿保コメントにレスする私を、
そんな、「書き意地」を張ってないで…
「無視!無視!無視!」ですよ、
ですね。
ハ・ハ・ハ・ハ・ハ…
筋違い意地でも張っとけば?
ハ・ハ・ハ・ハ・ハ
手を焼いたようですね。
私も中学の頃、器用・不器用という観念を
行ったり来たりしていました。
工作も水彩画もマンガも私より上手な
同級生のライバルがいたのです。
その作品のシンプルな美しさでは
どうやっても負けるので、
アイデアで私は対抗したのです。
本立てを作る課題で、お土産にもらった
箱根細工の秘密(からくり)箱をヒントに、
ただの真四角な箱が本立てに化ける
仕掛け本立てを作ったのです。
つまり私のは頭でっかちの工作なのです。
ライバルの工作は、表面上は
何の芸もない単純な形の本立てなのに、
圧倒的に美しい姿形なのです。
今振り返ると、プロの伝統工芸の世界で
言われるところの、「美しい手をしている」
作品でした。
後になって、ライバルの同級生の秘密が
わかったのは、使っている道具のその
おそろしいほどの切れ味を知ったときでした。
器用・不器用と相手や自分を規定して
納得してしまう前に、素材(木)と道具の
選択の次元でもう勝負がついていたのです。
ライバルの同級生の自信と謙虚さには、
比較する他人を必要としていませんでした。
私はと言えば、他人(ライバル)との比較で
うぬぼれと卑屈を行き来する、独り相撲に
必死だったのです。
お久しぶりです~月研ぎさん!
お宅くんとは、腐れ縁でしょうか…
もう…奴との関わりは、かれこれ七、八年…
それなのに、私はお宅くんの事を何も知らないし…
奴も同様に、私の事を何も知らない、のでしょう。
当初は兎も角…
今の私にしって彼との関りは、それ程イヤものではありません。
それでも、時々、その記述に💢くる事がありますが…
今回の記述で、月研ぎさんは何を私に伝えたがったのか?
そんな「問い」が、浮かびましたが…
そして少々考えて、その答えが浮かびました。
それは、「伝えたい事はあるが、特に伝えいた訳ではない」でした。
そう~月研ぎさんは、この記事を読んで連想した事を書いたのでしょう。
それは、私の記述・言葉を月研ぎさんが認識し、
その像化した認識を、月研ぎさんの言葉で表現したのでしょう。
そして、私が月研ぎさんの言葉を認識して
像化したモノを表現したのが、このコメントです。
器用・不器用は、相対的である事。
道具の使い方が、道具によって器用だったり、不器用だったり…
条件・対象に合わせて自分の考え・認識を器用に使って結果を出したり…
以前から月研ぎさんは、
「道具」について書かれる事が多いように、私は感じています。
一般的常識だと、道具とは実体的・物体的なのモノですが…
南郷氏は、認識も道具と捉えています。
なので、自己の認識・感情も器用に使える・使えないモノだろうと、私は思っています。
この観点から以下の現実を考えるなら、
>◇◇君の意地っ張りには
>手を焼いたようですね。
それは、私がお宅くんの記述に器用に対応していない。
それは、私が、私の認識・感情の使い方が不器用だという事でもあります。
それでも、以前に比べれば、
私は自分の不快感に、随分と器用ら対応できるようになりました。
端的には、以前程に感情的・激情化しないようになりました。
>私はと言えば、他人(ライバル)との比較で
>うぬぼれと卑屈を行き来する、独り相撲に
>必死だったのです。
他人との比較…私も苦しみました。
それは劣等感として表れていました。
相対的である筈の結果でも、
小・中・高・大・そして成人しても、
周囲に比して背が低かった私は、
意識・自覚した時は、常にその劣等感から、
積極的な言動・態度が取り難かったのです。
そうそう~最近読んだ本に書かれていました
優越感も劣等感も、どちらも他人と比較化から生じるモノ…根っこは一緒!
優越感は、時に劣等感へと急変するモノ…
必要なのは、有能感とか自己肯定感…と書いてあったかな…
そんな事から思ったのは、
劣等感に浸れるのは、
私が、それだけ日々の生活に困っていないから?
それとも、自分に自信がなかったから?
それとも、自信を持てるような体験・経験がなかったから?
それとも、自信を持てるような思い方・考え方が出来なかったから?
「器用貧乏」という言葉があります。
器用に物事をこなしてし上手くいってしまう時、
そこには失敗や苦痛がありません。
私は。昔から失敗を極度に恐れ、嫌って、
初めの一回は最大限に集中して取り組み、
何とか失敗せず上手くこなしていました。
球技は不得意でしたが…
自己の身体コントロールは、まあまあ上手でした。
それは対象に合わる事無く、身体を思い通りに動かす事。
空手の型は上手に出来ても、その形のまま組手で使うのは不得手でした。
それでも、寸止めの自由組手では、
高校時代に習得した少林寺拳法の「流水蹴り」が得意でした。
それは、相手が突っ込み突きで攻めて来た時、
前にある右足でカウンター前蹴りを入れる、のです。
器用にカウンターの前蹴りを使えたので、
後ろの左足の蹴りが上達しません、でした。
これなども、器用貧乏ですね。
>器用・不器用と相手や自分を規定して
>納得してしまう前に、素材(木)と道具の
>選択の次元でもう勝負がついていたのです。
私にとっては、
今の私の始まりが「南郷理論」であり、
そして、今の私があります。
そんな南郷理論をバカにする者の気が知れません。
そもそも…
人間の考えた理論に絶対的な間違いはあり得ません。
また当然に~絶対的な正しさもありません。
お宅くんと自由びとの究極的相違は、
「南郷継正」に対するモノなでしょうね。
その点において、お宅くんとは、絶対的に交わらない、でしょうが…
もっとも、「嫌い!嫌い!も好きの…」と言いますから、
お宅くんが、彼!彼女?自身の本音・本心を知り得たら…結果は?
同じ長文・読解でも、
肯定的に読み取っての記述と、
否定的に読み取っての記述だと、
書かれた結果の内容は兎も角…
書く過程での時々感情が大きく違っていますね♪♪♪
今回も飛び飛びの記述でしたね。
それでも…これらは~
私の嬉しい気持ち・感情の表現としては一つです!。
「武道の理論」で読み解いてくれるかなと、
コメントしたのです。
器用・不器用というのは
日常の言葉ですから、たいていの人は
ひっくりかえる(反転する)相対的なものだと
気づいています。
器用が器用貧乏に「反転」するのは、
自由人さんのおっしゃる通りです。
「ルービンの壺」という絵があります。
「壺」の絵と「向かい合った二人の人物の顔」
の二つの絵が二重になっています。
この二つの絵は同時に現れることができず
どちらかの絵が先に現れた後、ふいに
「反転」してもう一方の絵が現れます。
この「ルービンの壺」は、二つの絵が
一つの絵として現れる意味において、
矛盾と言えば矛盾だし、
対立しているといえば対立しているし、
そこには片方の絵から片方の絵に
質的転化も起きているし、
それがお互いを否定して出現し合うという
否定の否定も起きています。
「反転」というあり方のおそろしいところは、
確実なものには到達しえないという
自覚(弁証法)ですね。
「武道の理論」を読んで驚いたのは、
器用・不器用という日常の言葉(反転)を、
ポンと超えてみせたことでした。
「人間体」のところでもって器用・不器用を
どんなに突き詰めみても、
そこでの認識の反転的性格からは
確実なものには決して到達しない。
そこで「武道の理論」に、
「武道体」という概念が出てくるのです。
これは本当にすごいと思いました。
自分が抱えていた、
「技という難問」のほとんどすべてが、
解けると思いましたから。
月研ぎさん
再度のコメントに感謝です。
>器用・不器用の問題を、自由人さんなら
>「武道の理論」で読み解いてくれるかなと、
>コメントしたのです。(月研ぎさん)
↑
ヤッパリそうでしたか!?…
前回のコメント完成の前に以下で
始まるモノを書いたのですが…
↓
<テーマは「器用・不器用」ですね。
<「器用貧乏」という言葉がありますが…
<私、運動はダメでしたが…
<手先は、とても器用だった、ようです。
<人っ子で一人遊びが多かった為か、
<人で細かい絵をかいたり、
<紙を折って何かを作ったり…(自由びと)
でも…結局は
以下の月研ぎさんの言葉から、
私とお宅くんの関係や奴への思い…になりました。
↓
>自由人さん、◇◇君の意地っ張りには
>手を焼いたようですね。(月研ぎさん)
……
これって…
他人の、その記述の中の、己の興味・部分に注目してしまうって事ですね。
他人の言葉を自分の認識で読み取ってしまっている…ですよね。
そう~「武道の理論」ですね。
もう…何年も読み返していない「武道の理論」ですね。
私にとって「武道の理論」は、南郷継正の初読・出会いでした。
しかし、「武道の理論」は、実際…よく分からなかったのです。
あの「上達論」・「勝負論」の書かれ方が抽象的過ぎて…難解でした。
それでも、「武道の復権」での、
「技の変化と崩れ」あたりから、割と分かり易くなりました。
寸止め空手試合判定での「上達論的な観点の判定」と「勝負論な的観点から判定」…
等、とても分かり易かったです。
そうそう幸いに、今日「心に青雲 旧ブログ」に以下の記述がありました。
↓
>さて、そこでやはり思いだされるのは、その南郷継正先生の処女作『武道の理論』で世界初の論理として提出された“武道上達の立体的論理構造”である。それは、第一に「技を覚える段階」、第二に「覚えた技を使用に耐えうるように仕上げる段階」、第三に「使用に耐えうる技を使う段階」(『南郷継正武道哲学著作講義全集 第4巻P.204』)であった。
さて、テーマは「器用・不器用」でしたね。
「武道の理論」的に考えるなら、
これらを、「上達論」で論じるか、
または、「勝負論」で論じるか、ですね。
初めに確認すべきは「器用・不器用」の意味・概念です。
「例解新国語辞典」[第二版]によると~
器用とは、
① 手先を使ってする細かな仕事が上手である。
② 要領がよい。
要領とは、
① 物事の一番大事な点。
② 物事を上手くやる為のリズム。
ここから言える事は、器用とは、
「手先の使い方…」「物事に対する認識の使い方…」
といった「使い方」の事と言えるでしょう。
「器用」とは、手先・身体や認識が物事に上手に対応できる事、と言える。
これは、自分に今ある能力を使う事になります。
現在の能力を使う事で得られる能力とは、その機能の発達・深化…でしょう。
人間以外の動物なら、使い方の限界が、その動物の本能です。
また、機械・機器なら、その創られ方が、使い方の限界であり、
使い方の限界が、その機器・機械の限界です。
人間以外の動物には、本能突破は不可能…。
でも、機械・機器なら、限界突破には、
新たな構造の機器・機械の創出となります。
これを「人間体」と「武道体」で考えるなら、
人間にとって、その個人の現在の能力は、
生誕後から現在までの生活過程で創出された・したモノとし…
日常生活に必要な能力を「人間体(能)力」とし、
武道に必要な能力を「武道体(能)力」と規定(武道の理論では…)
なので、ここは以下の二重化が考えられます。
人間体としての器用・不器用と
武道体としての器用・不器用とです。
そうそう…「人間体」とは、抽象的過ぎですね。
ここは、「受験勉強体」とか、「バレーボール体」とか、
「野球体」とか、「事務員体」とか「営業体」…
または、「サラリーマン体」、「農民体」、「漁師体」…ですね。
まあ~過去から現在までの生活から形成された
その人の体力・運動能力・認識力…です。
現代では、殆どの人が「人間体」から武道を始めています。
なので殆どの武道(と言われているモノ)では、
その人保持している人間体の能力で、
個々の武技習得・練習を始めさせられる事になのます。
端的には、現代社会では、学校教育を含めて、
殆どが人間体の「使い方」から始められている、
と私には思えています。
成長期なら、使い方から始める事もありでしょう。
それは、使う事で、身体・認識の成長に即して、
それらの能力の発達・発展もあり得るからです。
それでも、そこには、当人の自己への不満足・不満が不可欠です。
成長期の自己の人間体能力への不満・不満足が、
新たな自己・人間体形成へ向かうのです。
器用な人は、現在の人間体へ満足・納得し得て
新たな自分を求めよう、とはしないモノです。
そこに、「人間体の技」が「武道体の技」へ変質が起こり得ないのでしょう。
当然に「人間体」から「武道体」へも無理でしょう。
大学時代に考えた事があります。
それは、「少林寺拳法と空手の違いとは?」です。
そこで、当時の私は以下のように考えました。
剣道的に例えれば、
少林寺拳法は、自分の身の回りにある棒で闘うモノ。
空手は、確りと斬れる真剣を自力で創り上げ闘うモノ。
「器用・不器用」の問題は、
武道なら、
決闘で勝つ為の器用・不器用、
絶対に負けられない試合での器用・不器用、
上達の為の試合での器用・不器用…
武道の上達に、人間体としての「器用」が邪魔します。
正確には、人間体を器用にこなして、
現状に自己満足してしまう己の認識が上達の障害になり得る。
もっとも…現代では、
周囲の納得・満足があるからの自己満足なのですが…
だから、南郷継正は、
「武道とは、生死を賭けた勝負の道」とか、
「武技は、一撃必殺であるべき…」とか、
書いているのでしょう。
上記の認識に欠けるから、
本来は、武道体・武道体技であるべモノが、
それが、人間体・人間技レベルで多くの人達や自己の満足・納得を
得られている、のでしょう…
>第一に「技を覚える段階」、
>第二に「覚えた技を使用に耐えうるように仕上げる段階」、
>第三に「使用に耐えうる技を使う段階」
↑~
そうそう忘れていました。
上記の各段階で「器用」の弊害は、
「器用」にできる。
「満足」する。
「努力」に必死さかが欠ける。
「量質転化化」が必要レベルに到達しない。
コメントを書き始める自分と、
コメントを書き終わった自分とでは、
自分が変わったと、実感しますか。
長短の文章にかかわらず、
書くことは自分に影響を与えること、
自分を変えること、だと思うのです。
自由びとさんのタイトルが示すのは、
器用・不器用について、
ついに確信に迫ることができなかった
という思いなのでしょうか。
私が自由びとさんだったら、
こう返事します。
「月研ぎさん、器用・不器用という
問題の立て方では、答えが出ませんよ」
百も承知ですよね、自由びとさんなら。
そうなんです「武道の理論」では、
カン・コツの問題として、
もう決着している問題なのです。
器用・不器用の問題の立て方では、
すぐに器用貧乏と「反転」してしまい、
確実な答えは出ないのです。
「武道の理論」の概念を使っていえば、
認識の集約化・抽象化・止揚化による
論理化の結果の一つが、いわゆる
カンとかコツの類なのです。
日常の言葉で言い換えれば、
カン・コツはその個人の資質ではないが、
その個人の資質に育ちすぎてしまって、
他人の役に立つ論理には
なかなかなりえない。
カン・コツは、それが個人として十分に
役立つことから、自己満足して
何ら一般論にまで高めることなしに、
そこで終わってしまうことになります。
自分のカン・コツの類は、それ自体としては
いわゆる論理(対象の構造を一般的に
把握した認識のあり方)であっても、
なぜそうなるのかの説明が
少しも論理的ではなく恣意的・独善的
なのです。
月研ぎさんへ
>自由びとさんのタイトルが示すのは
>器用・不器用について、
>ついに確信に迫ることができなかった
>という思いなのでしょうか。
と言うより、書きたい事が、
要領よく書けない…
という事です。
そもそも、
器用に武道体を駆使して、
器用に武技を駆使して、
器用に相手に駆使出来れば、
全く問題はない、のです。
しかし、
武道体でもなく、
武技もない者が、
器用に人間体を駆使して、
武技もどきの技が使えてしまうから問題です。
>私が自由びとさんだったら、
>こう返事します。
>「月研ぎさん、器用・不器用という
>問題の立て方では、答えが出ませんよ」
私の問題の立て方は、
「器用・不器用」について…とか、
上達に役立つ「器用・不器用」とか、
勝負に役立つ「器用・不器用」とか、
>器用・不器用の問題の立て方では、
>すぐに器用貧乏と「反転」してしまい、
>確実な答えは出ないのです。
それは勝手に「反転」するのではなく、
視点・観点の切り替えによる「反転」なのでしょう。
なので、視点・観点を確りと自覚さえしていれば、
特に問題ないのでは?
それでも、この自覚そのものが無理なのかも…
例えば、白帯の段階で、器用に基本が使えてしまう者は、
試合に勝てて評価され、その基本技で満足します。
しかし、不器用な者は、評価されずに、満足も得られず、
基本を頑張り続けます。
でも、武道体も武技も確実に体得した者が、
それらを器用に駆使する事は何の問題もないのでは…
ただし…その相手のレベルが上がった時の想定が不可欠です。
「器用貧乏」とは、ある事が器用が故に、
他の事も「ある事」同様にこなしてしまい、
結果的に上達が阻まれる事でしょう。
不器用が拙いのは、不器用が故に、
その事の継続を断念してしまう事です。
>百も承知ですよね、自由びとさんなら。
>そうなんです「武道の理論」では、
>カン・コツの問題として、
>もう決着している問題なのです。
「カン・コツ」ですか?
いや~このようには考えませんでしたよ…
なる程…「カン・コツ」ですね!
カンがいいから器用。
カンが悪いから不器用。
コツを掴んでいる器用。
コツがないから不器用。
これって、器用・不器用の裏の認識ですね。
人間体で体得したカン・コツを、
武道(武道体)で使用とするから問題なのです。
武道体で修得したカン・コツなら有効なのでしょう。
人間体としてのカン・コツを使って器用に
武道的に見えてる動きでも、
武道体としての動き・武技しては、
不器用という事かな…?
これは、
日常生活で体得したカン・コツ(その働き・行為)は、
非日常的な武道の闘いにおいては体現し難いモノ。
それは認識・精神状態が大きく違っているから…
日常的なカン・コツと非日常的なカン・コツの
区別と連関ですかね…
普通の精神状態で器用にできても…
恐怖・パニック状態では器用なり難い・不器用という事かな…
器用⇒不器用への反転
月研ぎさんへ
>自由びとさんのタイトルが示すのは
>器用・不器用について、
>ついに確信に迫ることができなかった
>という思いなのでしょうか。
と言うより、書きたい事が、
要領よく書けない…
という事です。
そもそも、
器用に武道体を駆使して、
器用に武技を駆使して、
器用に相手に駆使出来れば、
全く問題はない、のです。
しかし、
武道体でもなく、
武技もない者が、
器用に人間体を駆使して、
武技もどきの技が使えてしまうから問題です。
>私が自由びとさんだったら、
>こう返事します。
>「月研ぎさん、器用・不器用という
>問題の立て方では、答えが出ませんよ」
私の問題の立て方は、
「器用・不器用」について…とか、
上達に役立つ「器用・不器用」とか、
勝負に役立つ「器用・不器用」とか、
>器用・不器用の問題の立て方では、
>すぐに器用貧乏と「反転」してしまい、
>確実な答えは出ないのです。
それは勝手に「反転」するのではなく、
視点・観点の切り替えによる「反転」なのでしょう。
なので、視点・観点を確りと自覚さえしていれば、特に問題ないのでは?
それでも、この自覚そのものが無理なのかも…
例えば、白帯の段階で、器用に基本が使えてしまう者は、
試合に勝てて評価され、その基本技で満足します。
しかし、不器用な者は、評価されずに、満足も得られず、
基本を頑張り続けます。
でも、武道体も武技も確実に体得した者が、
それらを器用に駆使する事は何の問題もないのでは…
ただし…その相手のレベルが上がった時の想定が不可欠です。
「器用貧乏」とは、ある事が器用が故に、他の事も「ある事」でこなしてしまい、
結果的に上達が阻まれる事でしょう。
不器用が拙いのは、不器用が故に、その事の継続を
断念してしまう事です。
>百も承知ですよね、自由びとさんなら。
>そうなんです「武道の理論」では、
>カン・コツの問題として、
>もう決着している問題なのです。
「カン・コツ」ですか?
いや~このようには考えませんでしたよ…
なる程…「カン・コツ」ですね!
カンがいいから器用。
カンが悪いから不器用。
これって、器用・不器用の裏の認識ですね。
人間体で体得したカン・コツを、武道(武道体)で使用とするから問題なのです。
それが、武道体で修得したカン・コツは有効なのでしょう。
人間体としてのカン・コツを使って器用に見えてる動きでも、
武道体としての動き・武技しては、不器用という事かな…?
これは、
日常生活で体得したカン・コツ(その働き・行為)は、
非日常的な武道の闘いにおいては体現し難いモノ。
それは認識・精神状態が大きく違っているから…
日常的なカン・コツと非日常的なカン・コツの区別と連関ですかね…
普通の精神状態で器用にできても…
恐怖・パニック状態では器用で有難い・不器用という事。
ピンチのとき、助っ人で行ったのです。
そのとき人物が苦手で描けないアシスタントが一人いました。当時、アシスタントを職業とは考えず、劇画家になるための過程でした。
だからそのアシスタントは見込みがないので田舎に帰ろうと、真剣に悩んでいました。
聞くとそのアシスタントは、さいとうたかをの
初期の「ゴルゴ13」が好きだというのです。
そこで、
私の「方法」ならすぐに人物が描けるように
なるから、だまされたと思って試してみませ
んかと、1週間の期限付きで死に物狂いで
の実行を約束したのです。
そのアシスタントの彼は、独り立ちして今も
劇画家として続けています。
武道を理論化するなんて誰もが眉唾と
思っていました。でも「武道の理論」を
実際に読んでみるとあまりに面白くて、
これはマンガにも適用できると思いました。
マンガから論理(方法)を取り出せるか、
考えました。
その方法の一つが、
人物が苦手のアシスタントの彼に教えた
方法なのです。
とても単純明快な方法なのです。
「ゴルゴ13」の主人公の「立ち姿」と
「走る姿」を取り出して、その二つを
丸写しの丸暗記させて
描けるようにしたのです。
すると一週間後、彼は人物が描けるように
なりました。
つまり、こういうことなのです。
「ゴルゴ13」で、さいとうたかをさんは
様々な登場人を描き分けていますが、
よくよく観察すると、主人公と他の人物の
容姿はそっくり同じなのです。
劇画家・マンガ家は、ソラ(何も見ない)で
人物を描きます。
それができるのはなぜか。
それは、登場人物が全部、
同一の容姿(形体)だからなんです。
ひとり主人公が描ければ、細くしたり
太らせたりして、いくらでも登場人物
を描き分けられるのです。
この方法は、器用・不器用も、カンもコツも
不要なのです。
ただひたすら丸写しで丸暗記をすれば
いいだけなのですから。