この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

『空のない街』/第十話

2017-07-12 23:41:28 | 空のない街
 奇妙な死体だった。
 自殺であることは疑いようがない。書斎へと通ずる出入り口はすべて内側から鍵が掛けられ、隠し扉といったようなものも見当たらない。アルバート・マクマーナンは、自らが所有するライフルを、自らの口に突っ込むと、自らの手で引き金を引いていた。そこに他者が細工を施したような形跡は見られなかった。
 問題は、死体につけられた二ヵ所の傷だった。どうしても納得の行く説明をつけることがオーレリー・ ローシェルには出来そうになかった。傷は二つとも生前つけられたものだと死体を診た監察医は請け負った。凶器であるレターナイフは現場である書斎ですぐに見つかったが、指紋はアルバート本人のものしか見つかっていない。
 胸の傷は心臓をわずかにそれており、もちろん放っておけば致命傷になることは疑いようもないほど深いものではあったが、それでも自らナイフを逆手に持って突いたと考えられないこともなかった。
 不可解なのは首の方の傷だった。胸の傷ほどは深くはないが、こちらの方はどう見ても第三者から切りつけられたものにしか見えなかった。
 さらに不可解なのはその動機だった。自殺者がなぜ自ら死を選んだのか、一人一人警察も筋道を立てて解明しているわけではないが、それでもアルバート・マクマーナンの場合常軌を逸していた。
 オーレリーは知らなかったが、アルバートは高名な外科医であるという。患者にも同僚にもきわめて評判がよく、模範的で、しかも腕のよい医者であったようだ。
 加えて彼が自殺した夜は一人娘の誕生パーティが開かれていた。
 誰しも心に深い闇を持つものだが、それにしても娘の誕生日に評判の医者でもある父親が自殺することなどあるのだろうか。
 どう考えてもオーレリーには納得の行く説明がつけられそうになかった。
 主立った関係者に事情聴取が行われることになり、まず第一発見者であるメイドが空いていた客間に呼び出された。
 彼女からは現場から推察される以上のことは聞き出せなかった。主人であるアルバートが帰宅したとき特に不審な点は見られなかったこと、一人娘のアティルディアの誕生パーティの最中書斎のある二階から何か破裂音がしたが、その時は誰もそれを銃声だとは思わなかったこと、主人が下りてくるのがあまりにも遅いので呼びにいったのだが、内側から鍵がかかっていたこと、その際主人の返事がなかったので予備の鍵を取りに行ったこと、鍵を管理する執事とともに戻り、そこで主人の死体を見つけたこと、などだった。
 次に執事が呼ばれたが、メイドの証言と食い違うようなこともなく、または逆に口裏を合わせているような印象もなかった。ただ予備の鍵がしまってあるキーボックス自体の鍵を常に自分が持ち歩いているので、予備の鍵は誰もが持ち出せるというものではないと執事は言った。これが本当であるなら、容疑者は執事一人に絞られるわけだが、彼は銃声がしたとき、多くの人に目撃されている。すなわちアリバイがあるということだ。どうやら自殺に間違いないようだ、どれほど不可解な点があるにしろ。そう結論を出しかけたオーレリーだったが、生前のアルバートに最期に会ったという少年が客間に入ってきたとき、思わず彼女は息を飲んだ。
 少年の顔には見覚えがあった。
「久しぶりね、ジョシュア」
 そう声を掛けたが、オーレリーは少年の、初めて会ったときの印象と今感じるそれとの違いに戸惑いさえ覚えた。線の細さは変わらないが、先日会ったときのような脆弱さのようなものは見事なまでに消えていた。
「お久しぶりです、ローシェル警部」
 少年は顔色一つ変えず挨拶を返した。
 これが偶然だというのか?オーレリーは誰にともなく問うた。一人はマフィアの幹部。もう一人は高名な外科医。まるで接点のない二人に思えるが、その間に一人の少年がいる。ジョシュア。ジョシュア・リーヴェ。これをただの偶然と、百万分の一?それとも一千万分の一?片付けていいのだろうか。
 結局少年からは、特別なことは聞き出せなかった。アルバートとは今日初めて会ったこと、彼に最後に
会ったのはおそらく自分であること、彼との会話は世間話の域を出なかったこと、自分にも彼が自殺する動機には心当たりはないこと、そんな当たり障りのないことしか少年の口からは出てこなかった。
「ねぇ、ジョシュア、アルバート氏にはあなたから声を掛けたんでしょう。何かもっとちゃんとした用件があったんじゃないの?」
 オーレリーの問いに少年はうつむいて黙っていたが、やがてこう答えた。
「そうです。アルバートさんには僕から声を掛けました。用件は…、用件は、僕と、ティルダのことです」
「ティルダ?」
「アティルディアのことです。僕は、彼女との交際を、交際といっても、あくまで友人としてですが、アルバートさんに認めてもらおうと思ったんです」
「反対された?」
「いえ、僕が切り出せませんでした」
「どうして?」
「どうしてって…。彼女はこんな立派なお屋敷に住んでいるし、僕には親もいません。彼女の友人として、僕はふさわしくないんじゃないかと、途中でそう思ってそのことは口に出せませんでした」
 身分違いの恋、というやつだろうか。一言でいえばそういうことなのだろう。人は生まれながらにして平等とはいうが、実際には家柄や学歴、果ては見も知らぬ血族の存在にまで、本人の人格とは無関係なことに縛られるものだ。
 ジョシュアの語り口は淡々としていて聞く者に対して説得力があった。先日彼に会っていなければ、オーレリーも彼の話を鵜呑みにしていただろう。
 関係者への事情聴取が済むと、といっても肝心の娘のティルダからは話を聞くことは出来なかったが、 パーティ客は帰宅してもよいこととなった。自殺であることは間違いないのだから、それ以上足止めする ことも出来なかった。
「警部は、あの少年のことを何かしら疑わしいとお考えなのですね」
 ハプスコットが、いつになく冷めた口調で、具体的に何の件とは言及せずにオーレリーに聞いた。
 わからないわ、と短く答えたが、彼女の口調はひどく力のないものだった。その弱さがある意味彼女の答えだともいえた。
 ただ一つ確かなことがあった。少年がどこまで事件に関わっているにしろ、彼にそれ以上罪を犯させてはいけないということだ。
「彼に一人尾行をつけますか?それとも適当な理由をつけて引っ張りますか?」
 別件拘留はオーレリーの望むところではない。そうしたところでジョシュアからは何も聞き出せまい。だからといって十二才の少年に尾行をつけるというのも、そのときの彼女には正気の沙汰とは思えなかった。
「事件を最初から洗い直してみましょうか」
 結局彼女は自らそう思いつつも中途半端な指示を出すにとどまった。


                                *『空のない街』/第十一話 に続く
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『空のない街』/第九話

2017-07-05 23:32:59 | 空のない街
「ジョシュア君といったかな。話というのは、ティルダのことかね」
 アルバート・マクマーナンは、穏やかな表情を浮かべて言った。
 まるで医者が患者に接するときのような落ち着いた口調だとジョシュアは思った。実際に彼は医者なのだからまさにその通りなのだろう。
「いえ、彼女のことではありません」
 ジョシュアは、ゆっくりと小さく首を横に振った。
 彼が通されたのは屋敷の二階にあるアルバートの書斎だった。壁に据え付けられた書棚にはびっしりと医学の専門書が並べられ、それらは荘厳な雰囲気さえ醸し出していた。
 ジョシュアには現実とは思えなかった。灰色のオーバーコートの男とこうして二人きりでいるということが。
 彼は不思議でならなかった。目の前にいるこの男は、なぜこうも善人ぶっていられるのだろう。自らが犯した罪を、すべて忘れてしまったとでもいうのか。それとも間違っているのは自分の方で、あの日起こったことはすべて夢であり、灰色のオーバーコートの男も、エミリーが死んだことも本当は自分が作り出した幻想だとでもいうのか。
 いや、違う。そんなわけがない。
 ジョシュアはもう一度かぶりを振った。今度は少しだけ大きく、アルバートにもわかるようにはっきりと。
「お話したいことというのは、妹のエミリーのことです」
 ジョシュアは、少しだけ後悔していた。武器になるようなものを何も持ってきていなかったのだ。まさか友人の誕生パーティに招かれ、そこで、仇敵に出くわすなどと思ってもみなかったのだ。視線を走らせ、部屋の中に何かないか物色する。マホガニーのデスクの上に銀製のレターナイフがあった。
「妹さんがどうかされたのかね」
 アルバートが、なおも変わらぬ口調で少年に尋ねた。カルテでも作るときのように。
 ジョシュアは考え込むような素振りを見せながら、ゆっくりとした足取りでデスクへと近づいた。医師に背中を見せたまま、レターナイフへと手を伸ばし、袖の中に滑り込ませる。本来殺傷能力を持つものではないが、使い方さえ間違わなければ、十分目的は達せられるだろう。
「妹は死にました」
 ジョシュアはアルバートに向き合うと相手の目を正面から見据えて言った。少年の言葉に医師はわずかに表情を曇らせた。
「そ、そうかね、それはお気の毒に…」
「殺されたんです、エミリーは」
 ジョシュアは畳みかけるように言葉を続けた。相手の表情の変化を一切見逃すまいと視線を固定したままで。
「二年前のことです。その時僕も半死の目に合いました。何か心当たりはありませんか?」
 ジョシュアがアルバートの方へ一歩近づいた。今では医師の顔に明らかに動揺が見て取れた。自白したも同じだと少年は思った。
「あ、あの時の、少年が、君なのか?」
 その一言によって、ジョシュアの心の中で、アルバート・マクマーナンに対する死刑執行の命令書にサインがされた。
「そうです、思い出しましたか!?」
 そう言いながらジョシュアは鋭く一歩踏み出し、レターナイフをヒュッと横に薙いだ。首筋から鮮血が滲み、アルバートはウッと呻いてそれを手で押さえた。
 しまった、ジョシュアは小さく舌打ちした。根元から首をかっ切ってやるつもりだったのに、使い慣れない道具のせいか手元が狂ってしまった。
 よろめいたアルバートが扉を背にした。
 このまま書斎の外に出られたら面倒なことになるとジョシュアは一瞬思ったが、同時に、構うものかという気にもなった。その時は追いかけていって背中から心臓にナイフを突き立てるまでだ。
「ま、待ちなさい、話を、話を聞きなさい…」
 相手の言葉などもうまともには聞いていなかった。今更何の話があるというのか、ジョシュアは内心せせら笑った。
 レターナイフを両手にしっかりと持ち直し、腰を落とし、ヒュウと息を深く吸い込みながら、ジョシュアは体重を預けるようにアルバートへとぶつかっていった。ズヒュという確かな手応えを感じた。
 少年は目を閉じて、ゆっくりと大きく息を吐き出し、そして天を仰いだ。
 これで、ようやくすべてが終わった…。
「気が、済んだかね?」
 アルバートはまるで何事もなかったかのような口調で言った。胸にはレターナイフを生やしたまま、顔には穏やかな笑みさえ浮かべて。
「人は、他人を傷つけることでは、自らを癒すことは決して出来ないのだよ」
 医師の言葉はあくまで落ち着いていて、静かなものだった。
 ジョシュアはその静かな迫力に気押されて、思わず後ずさった。
「いいかね、ジョシュア、よく聞きなさい。まずそこの洗面台で手を洗い、そして…、そして、ハンカチは持ってきているね?そう、持ってきたハンカチで手を拭きなさい。それから、一階に下りて、何もなかったように、み、みんなと話をして…。いいね、すぐに帰ってはいけない…。パーティが終わるまで、最後まで残っているんだ…。そうだ、服は…、よ、よかった、汚れて、いないようだ…」
 そして医師は少年が自分の言葉に従ったのを確かめると、震える手で扉を指し示した。
「行きなさい…」
 アルバートは半ばジョシュアを押し出すように、けれどその体には決して触れぬように細心の注意を払い、書斎から追い出した。
 ジョシュアの背後で扉が閉まるとガチャリと中から鍵が掛けられる音がした。
 階下のパーティ会場に戻ったジョシュアに、ティルダが無邪気に、もしくはそれを装って話し掛けてきた。
「ねぇ、パパとは何の話だったの?」
「いや、何でもないよ…」
 ジョシュアはぎこちなく笑みを浮かべると、そう答えた。それから十分ぐらいの間、ジョシュアは上の空でティルダの話に適当に相づちを打ち、うなずいたりしてみせた。
 突然バーンと何かが破裂するような音がした。一瞬パーティ会場は静まり返ったが、誰かが特大のクラッカーでも鳴らしたのだろうと、すぐに人々は喧騒を取り戻した。
 破裂音が何だったのか、その正体を正確に理解したのは、パーティ会場でおそらくジョシュアただ一人だった。


                              *『空のない街』/第十話 に続く
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『空のない街』/第八話

2017-06-28 22:14:15 | 空のない街
「いらっしゃい、よく来てくれたわ」
 ジョシュアを玄関先で出迎えたティルダは、彼に向かって煌くような笑顔を浮かべた。いつもの動きやすいカジュアルな服装ではなく、どこかの国の王女様のようにパーティドレスに身を固め、頭には王冠の代わりにティアラをちょこんと載せていた。
 本当に王女様みたいだとジョシュアは感想を抱いた。もしティルダとこれが初対面で、彼女のことをヨーロッパの小国のプリンセスだと紹介されたら、彼はそれを鵜呑みしていただろう。
「誕生日、おめでとう、ティルダ」
「ありがとう、ジョシュア」
 ティルダが手を取って、ジョシュアは初めてマクマーナン家の屋敷の中に足を踏み入れた。いつも彼はティルダを屋敷の前まで送るだけで、彼女がお茶に誘うのも丁重に断っていたので、屋敷の中がどうなっているか、まったく知らなかった。
 パーティ会場である応接間に一歩足を踏み入れたジョシュアはわあと感嘆した。パーティ会場はまるで年越しの夜のように派手に飾り付けられていた。中央のテーブルには美味しそうな料理やデザートが所狭しと皿に並べられ、部屋の隅には、おそらくはティルダへのものであろうプレゼントが山のように積んであった。
 そして驚いたことに四人ほどの楽団が賑やかに演奏をしていた。
 会場には本当にこれだけの人がたった一人の女の子の誕生日を祝うために来ているのだろうかとジョシュアが思うほどの客が、実際には三十人ぐらいだったが、いくつかグループを作って楽しそうに歓談していた。
 ジョシュアは急に恥ずかしくなった。ティルダの言葉を鵜呑みにして、プレゼントなど何も持ってこなかったし(もっともこのような誕生パーティに見合うプレゼントなど彼には思いつかなかったが)、このときの彼が身に付けているものといえば、一応タキシードと呼べるものだったが、無論それも彼のために誂えたものでなく、シスター・レイチェルが寄贈された品の中から仕立て直したものだった。シスター・レイチェルの裁縫の腕前は下手というわけではなかったが、それでも彼女は仕立屋というわけでもなかった。タキシードはジョシュアには大きすぎた。特に肩の辺りなどぶかぶかで、ひどく不格好だった。
「ごめんなさい、挨拶してこなければいけない人がいるの。お料理でも食べていて。すぐに戻ってくるわ」
 そう言ってティルダがジョシュアのそばを離れた。料理に手を伸ばす気にもなれず、ジョシュアは仕方なく楽団の舞台とは反対側の壁際に寄った。
 しばらくしてジョシュアは気づいた。彼の方をチラチラと見ている人間がいた。それは一人ではなかった。彼らはやがてあからさまに見遣るようになり、そしてジョシュアの方を指差して嘲笑めいた笑い声を上げた。
 そのグループの中の若者の一人がジョシュアの方に近づいてきて、やあ、と親しげに声を掛けてきた。
 ジョシュアは、こんばんわと挨拶を男に返した。それのどこがおかしかったのか、彼はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。
「僕の名前はリチャード・ターナー。こういったパーティは初めてだろう。どうだい、楽しんでいるかい」
「ええ、とっても」
 そう答えながら、ジョシュアは自分がターナーにどこかで会ったことがあるような気がした。
「君は、あれだろう、救護院の人間だろう。こういったパーティを楽しむコツは、肩肘張らず、気楽にやることだよ。そうそう、一つだけ覚えておいた方がいいマナーがある。教えてあげよう」
 ターナーは、ジョシュアの耳元でこう囁いた。
「ここは貧乏人が来るところじゃない。さっさと帰って次のバザーの準備でもしてきたらどうだ」
 ようやくジョシュアはターナーのことを思い出した。正確にはターナー個人というわけではなく、彼と同じ目付きのした人間を。それはバザーの寄贈品を各家に回収しに行った時、特に高級な品物を寄付してくれた家で見かけたものだった。
 ターナーは続けた。
「もう一つだけ言っておく。アティルディアのこと、勘違いするなよ。彼女はお前のことが別に好きってわけじゃない。ただ、物珍しくて、興味があるだけなんだ。それも今のうちだけだ、わかっているだろう」
 それだけのことを言うと、ターナーはジョシュアの肩をポンポンと軽く叩いて元いたグループの方に戻ろうとした。立ち去ろうとするターナーの肩をグッと引き寄せ、今度はジョシュアが彼の耳元で囁いた。
「そんなこと、お前に言われなくてもわかっている…。一つだけ僕も言っておく。お前を殺すことなんて、僕には簡単だってことだ。それを忘れるなよ…」
 自らの口を突いて出た狂暴な言葉に、ジョシュア自身が驚いていたが、もうどうしようもなかった。ターナーが彼を見る目付きが先ほどとはまるで変わって、怪物でも見るようなそれになった。
「どうしたの、ジョシュア、リチャード」
 その時ティルダがグラスを二つ持って戻ってきた。
「何でも無いんだ…。パーティで気をつけておいた方がいいマナーを教えてもらっていたんだ…」
 スラスラと嘘を並べ立てることに、ジョシュアはもう何の痛痒も感じなかった。
 ターナーの言っていることは半ば正しい。自分は彼女に相応しい人間ではない。自分の両手は血にまみれている。もう彼女に会うべきではない…。
「帰るよ」
 努めて素っ気なくジョシュアは言った。嘘をつくことに然して罪を感じることもないのに、なぜかその短い台詞を口にするのにひどく気力を要した。
「どうして?まだ来たばかりじゃない」
 グラスをテーブルに置いて、ティルダが彼の腕を掴んですがった。
「ごめん…。大事な用件を忘れていたんだ…」
 用件を具体的に何にするか考えたが、ジョシュアは結局何も思い浮かばなかった。
「お願い、あともう少しだけいて。十分でいいわ」
 ティルダの懇願にジョシュアは首を振った。
「ごめん、どうしても帰らなくちゃいけないんだ…」
 そう言って玄関の扉のノブにジョシュアが手を掛けたとき、扉が、彼の力には因らず、外から開いた。
「パパ!」
 三十台半ばに見える男がティルダの身を抱え上げた。
「ただいま、ティルダ」
「許さないんだから。一人娘の十三才の誕生パーティに遅れるなんて最低よ、パパ」
「すまない、ティルダ。急患が入ってしまってね。どうしても抜けられなかったんだ」
 拗ねている娘に平謝りする父親の姿は傍から見て微笑ましいものだった。二人だけの世界に浸っているようにも見えたが、ティルダはすぐそばにいるジョシュアのことを忘れているわけではなかった。彼女はジョシュアを父親に紹介した。
「パパ、彼は、ジョシュア・リーヴェよ。救護院のバザーでとても世話になったの」
「アルバート・マクマーナンだ。君のことは娘から何度も話を聞かされているよ。よろしく、ジョシュア」
 差し出された右手をじっと見つめながら、ジョシュアは自分でも知らぬ間に顔がほころんでいた。
 彫りの深い、鼻筋の通った顔立ち。瞳は水晶を思わせる淡いブルー。あの時と違って顎髭を蓄えているが、彼には見間違えようがない、一日たりと忘れたことのない顔だった。
 そして、何よりこの匂い。この消毒薬の、鼻につく独特な匂いが、あの時ジョシュアに、灰色のオーバーコートの男は医者ではないかと思わせたのだった。
 間違いない…。ああ、やっと見つけた…。
「はじめまして、ジョシュア・リーヴェといいます」
 少年は天使のような笑みを浮かべながら、長く追い続けていた男と握手を交わした。


                                *『空のない街』/第九話 に続く
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『空のない街』/第七話

2017-06-21 20:47:17 | 空のない街
 その年のチャリティーバザーはいつになく上手くいった。
 バザーの行われた二日間、太陽はひどく上機嫌で、人々の心を戸外へと誘い出した。例えば風が気持ちよい丘の上へ、例えば穏やかな陽光が降り注ぐ公園へ、例えば救護院のバザーへ。ともかく、天候はきわめて良好だった。当然のようにバザーは客足、売上ともに例年以上に好調だった。
「物を売ることがこんなに楽しいなんて、想像もしてなかったわ」
 売り子に扮したティルダが、世紀の大発見でもしたようにジョシュアに言った。売り子の衣装は救護院で用意したものだが、それでもティルダが着るとどことなく品のよいものに見えた。
 ジョシュアは、バザーが好調なのは天気のせいだけではないことを知っていた。たぶん、極大のハリケーンが直撃しても売上げは新記録を達成したに違いなかった。
 そうだね、とティルダに笑みを返しながら、バザーに出品される品物を各家庭に引き取りに行った時のことを彼は思い出していた。品物を引き取る際、ほとんどの家ではジョシュアたちに対して好意的に接してくれたが、中には蔑むように、もしくは哀れむように見下す人々もいた。不思議なことにそういう家に限って銀食器やブランド物のアクセサリーなど、高価な品物をバザーに出した。タウンゼント神父の運転する小型トラックにそれらは積まれていった。
 そういった品々が、市場では考えられぬほどの安値で売られるのだから、人々がこぞって救護院のチャリティバザーへと足を伸ばすのは当然だった。赤子が泣いていても放ってバザーに出向くのではないか、そんな皮肉めいた思いをジョシュアは抱いた。
 タウンゼント神父などは寄付された品々が純然たる善意の証だと信じて疑ってない様子だったが、ジョシュアはティルダが何らかの手回しをしたのではないかと思えてならなかった。
 そうとでも考えなければ、これほど高価な品ばかりが集まるのは不自然だった。無論例えそうであっても、感謝の意を述べこそすれ、文句を言う筋合いなどないはずだったが、それでもジョシュアの胸の内には釈然としないものがあった。物乞いでも見るような彼らの目付き。自分たちが礼を述べようとしているのを、まるで追い払うかのように会話を打ち切る態度。
 それでいて渡される品は、素人目にも高級なものだとわかる。
 これが善意だとすれば、善意とはすなわち金だということなるのではないか、そうジョシュアは疑問に思わずにはいられなかった。
「ジョシュア、ジョシュアったら」
 ティルダに呼びかけられ、バザーの喧噪の中、ジョシュアは我に返った。
「ジョシュア、お客様よ」
 気がつくと、彼の目の前に自分の背丈とさほど変わらぬ大きさの熊のぬいぐるみを抱えた、五、六歳ぐらいの女の子が立っていた。
「これ、くたさぁい」
 ありがとうございます、そう丁寧に礼を述べて、ジョシュアは女の子の手から代金を受け取った。
「ぬいぐるみ、大事にして、くれるかな…」
 母親と思しき女性に手を引かれた女の子の後ろ姿を見つめながら、ティルダがつぶやいた。
 ジョシュアは今のぬいぐるみが彼女の寄付したものだということを思い出した。
「あの熊のぬいぐるみ、君が持ってきたものだよね…」
 ジョシュアの言葉にティルダは小さく頷いた。
「うん…。私がまだうんと小さいころ、ママが買ってくれたものなの…」
「え…。君のママって…」
「本当は家にあるもの、適当に見繕って持ってっていいって、パパは言ったんだけど、それは私が嫌だったから」
「どうして…?」
「あのね、うまく言えないんだけど、チャリティに出す物は私の持っている物から出したかったの。私の持ち物なんて、大したものなくて、ボビーしか思いつかなかった」
「ボビー?」
「ぬいぐるみの名前。ボビー・ブラウン」
「そんな大切なぬいぐるみ…」
「いいの。もうぬいぐるみを抱いて寝る年齢でもないし」
 ジョシュアは恥じていた。もしかしたらティルダがチャリティの出品に際し、何か手回しをしたのではないかと邪推したことを。そしてもしそれが本当だったら、彼女のことを軽蔑しようとしていた自分を。何だか自分がひどく小さな人間に思えて仕方がなかった。
 夕方近くになって、バザー会場のめぼしい品はあらかた売れてしまった。
「さあ、少し早いけど、片付けに入りましょうか」
 シスター・テレジアが、会場のみんなに声を掛けて回る。
「さてと、私たちも片付けよっか」
 ティルダがそう言って腕まくりする素振りをした。
「ありがとう」
 ジョシュアに突然礼を言われてもティルダにはわけが分からず、首をかしげた。
「どうしたの。片付けも終わってないのよ」
「今、言いたかったんだ。今度のことでは、すごく世話になったから。僕一人じゃこんなに上手くはいかなかったと思う」
「何だか、照れるなぁ。私の方こそ、ありがとう。一ヵ月間とても楽しかった」
 そう言ってすっと右手を差し出したティルダだったが、すぐに戻した。
「まだ、だよね、握手なんて。早すぎるよね、片付けもすんでないんだし」
 ティルダは机を抱えた。ジョシュアの方を見ずにつぶやくように言った。
「私、来週、誕生日なの」
「そうなんだ?それはおめでとう、ティルダ」
「それでね、ジョシュア。家の方でパーティを開くの。よかったら、貴方にも来てほしいんだけど…」
 最後の方はほとんど囁き声に近かったので、ジョシュアはえっと聞き返した。
「まあまあ、お誕生日ですって?おめでとう、アティルディア!」
 耳聡いシスター・アンジェラが、離れた場所にいたはずなのに、そう言って二人の会話に割り込んできた。
 ティルダが耳を真っ赤にさせた。
「あ、ありがとうございます、シスター・アンジェラ」
「ぜひ、伺わせてもらうわよ。ねぇ、ジョシュア」
 シスター・アンジェラが、ジョシュアの代わりに勝手に返答して、彼の方を見た。ジョシュアが、戸惑いながらもええと頷くと、それじゃあね、お二人さん、とそれだけを言って、シスター・アンジェラは二人の元を離れた。その時彼女はジョシュアにだけわかるようにウィンクした。彼には一瞬その意味がわからなかったが、シスターが、気を利かせてくれたのだと思い至った。自分だけなら、たぶん適当に理由をつけて、招待を断っていたかもしれなかった。
「来週の日曜日の夕方の六時からよ。プレゼントなんて何もいらないわ。服装も気にしないで。ただ来てくれたら、それだけでうれしいの」
 少女は、頬を赤らめて、早口でそれだけのことを言った。
 ジョシュアは少女の申し出に戸惑いつつも、半ばパーティに行く気になっている自分に驚いていた。 





                              *『空のない街』/第八話 に続く
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『空のない街』/第六話

2017-06-14 22:33:05 | 空のない街
 刑事たちの夜中の訪問のあと、ジョシュアの元に再び平穏な日常が訪れた。
 日常が、自らの心の裡を隠し、仮面を被って暮らすことを意味すれば、だが。
 手がかりは途切れた。落胆はしたが、ジョシュアは諦めるつもりはなかった。この世のどこかにあの灰色のオーバーコートの男がいる限り、諦めるつもりなど毛頭なかった。
 時間を見つけてはジョシュアは駅や公園に出かけ、電話を掛けた。相手が出てもこちらからは名乗らない。声のトーンは落とし気味に、時には世間話をするように、そして時には脅迫めいた口ぶりで。
「やあ、ディルフォードさん。先日の件、考えてくれました?おっと、切らないで!切らない方が貴方の為だと思いますよ。お金?いえ、お金なんかじゃあないんです。ある男を捜していましてね。そうです、あなたと同じ趣味を持つご同輩ですよ。その男の特徴は…」
「ジョセフ・クレインズさん?どうも初めまして。いえいえ、悪戯じゃありませんから。実はですね、こちらに名簿があるんですよ、ある会員制クラブの。心当たりはありますか?意外ですねぇ、ご存知なんですか、顧客の方々は弁護士である貴方がこんなクラブに名を連ねていることを…」
「ノートンさん、そんな聞き分けのないことはおっしゃらないでください。貴方がそういった態度に出られるならば、我々もいろいろ考えなければいけないじゃないですか…」
 狭い世界のはずだった。人としてのプライドを半ば以上捨てた彼らであれば、赤の他人を庇うとは思えなかった。
 いつかは必ずあの男の情報が自分の仕掛けた網に引っかかるはずだと、ジョシュアは信じていた。諦めるつもりという選択肢は彼にはなかった。
 ジョシュアはただひたすら電話を掛け続けた。
 それでも男の行方は杳として知れなかった。
 日常が過ぎていった。
 その日常の中で、ジョシュアはよく笑い、そして時に泣いた。けれど本当に楽しいと思うこともなければ、また悲しいと思うこともなかった。
 周りにいる人間が楽しそうにしていれば、それに合わせて笑顔を浮かべ、ここは悲しむべき状況であると判断すれば、大粒の涙を流してみせた。それは彼にとって造作もないことだった。
 自分の中のそういった感情を司る部位はあの日、エミリーとともに死んでしまったのたと少年は思っていた。
 ただ一つの例外は、あの男のことを考えている時であり、その時だけは少年は胸の奥深くに触れることがかなわぬほど熱いドロリとした何かを感じることが出来た。だからこそ彼にとって男のことを考えるときだけが生きているということを実感できるのであった。

 初秋のある日、ジョシュアは救護院の院長であるシスター・テレジアに呼ばれた。
 ジョシュアは救護院の大人たちの中でも院長が一番苦手だった。
 シスター・テレジアの穏やかな笑みは、まるで全てを見通しているのような気がした。無論それは錯覚に過ぎない。もしジョシュアの手についている汚れた血が見えるのであれば、何事もなく彼を一人の人間として扱うことはないはずだからだ。
「院長先生、ジョシュアです。入ります」
 そう言って院長室に入った彼は先客を認めた。窓のそばに一人の少女が立っていた。年の頃はジョシュアと同じか、一つ上ぐらいだろうか。着ているものを見ただけでいわゆるいいところの出であることがわかる。ただ上流階級の年頃の子女であれば腰まで髪を長く伸ばしているのが常で、その少女の髪が肩までしかないことにジョシュアは少しだけ違和感を覚えた。
「今日来てもらったのは他でもありません。来月始めに行われるバザーのことです」
 院長の台詞に、もうそんな時期か、とジョシュアは内心つぶやいた。彼が暮らす救護院では毎年春と秋の二回、チャリティのバザーが開かれる。そこでは救護院特製のクッキーや、子供たちの手作りの工芸品も売りに出されるが、実際商品として主となるものは近在の資産家や名家からの寄付によって賄われる。そのためのまとめ役が必要であり、救護院と住人たちから一名ずつ選ばれる。まとめ役といえば聞こえはいいが、実際には各々の家を頭を下げて回る損な役 回りだった。特に救護院側のまとめ役は苦労も多いと聞く。
「住民たちの代表のマクマーナンさんよ、ジョシュア」
 シスター・テレジアがジョシュアに少女を紹介した。
「アティルディア・マクマーナンです。ティルダと呼んでください」
 少女が握手を求め、ジョシュアに右手を差し出した。
 まとめ役を断ってはいけないという決まりがあるわけではなかったが、自分に回ってきた苦役を他人に押し付ける気にはなれなかった。ジョシュアは穏やかな笑みを浮かべて、ティルダの手を握り返した。
「ジョシュア・リーヴェといいます。よろしく、ティルダ」
 正直に言えばジョシュアはいわゆる上流階級の人間は好きではなかった。資産家の婦人や令嬢がボランティアと称し、週に一度、もしくは月に一度、救護院にやってきて子供たちの面倒を見ることがある。
 けれど彼らがやっていることは、動物の世話でいえば、エサやりや散歩だけで、フンの後始末や小屋の掃除といった汚れ仕事には決して手を出そうとしない。
 それでも救護院が財政的には決して豊かではなく、そういった人々の寄付で成り立っていることも事実であるということを十分に承知していたので、ジョシュアが彼らの前で笑みを絶やすことはなかった。ティルダもその一人なのだろうと彼は思った。
 このときの会合はごく短時間に終わった。
 ティルダが帰る段になって、玄関先まで見送りに出たジョシュアたちは迎えの車が来ていないことに気づいた。不審に思ったジョシュアがそのことを問うと、彼女は歩いてきたのだから車がないのは当然だと平気な顔で言った。夕刻も迫り、救護院からティルダの家までは歩いて三十分以上掛かる距離だった。ティルダは固辞したが、結局ジョシュアが送ることとなった。
 道すがら、ティルダがジョシュアに話し掛けてきた。
「私のアティルディアっていう名前、おばあ様に付けていただいたの。面白い由来があるのよ。ねぇ、聞きたい?」
 いや、別に、そう答えるジョシュアに構わず、ティルダは話を続けた。
「アティルディアっていう名前は、おとぎ話に出てくる登場人物の名前なんだけど…」
 ティルダはジョシュアの方を向いてから、少しだけすねたような表情を浮かべた。
「でもそのおとぎ話に出てくるアティルディアは意地悪な魔女なの。ひどいと思わない?可愛い孫に、魔女の名前を付けるなんて!」
 ティルダは道端の小石をつま先で軽く蹴った。
 だがそんな不機嫌そうな仕草もほんの一瞬で、でもいいの、この名前、気にいってるから!と少女は言った。
 ティルダの変わり身の早さにあっけに取られたジョシュアだったが、思わずくすっと笑ってしまった。
 そんなジョシュアを見て、ティルダは不思議そうに、私、何かおかしなこと言った?と聞いた。
 いや、何でもないよ、そう答えながら、ジョシュアは自分の中の、ずっと張り詰めていた何かが溶けていくようなそんな不思議な気分になった。
 初めは鬱陶しくさえ思っていたジョシュアだったが、いつしか少女の話に耳を傾けるようになっていた。
 マクマーナン家は代々医者を輩出してきた家系であること、彼女の父親や、叔父、亡くなった母親もまた医者であること、彼女自身もその意思を継いで将来は医者を目指していること、貧しい国々の恵まれない人々に奉仕することが彼女の希望であること、ティルダは初対面であるにもかかわらず、目を輝かせながら、少年に語って聞かせた。
「ねぇ、ジョシュアは将来何になりたいの?」
 ティルダにそう問われ、ジョシュアは戸惑った。そんなことは考えたこともなかった。
「別に…。将来なりたいものなんて、ないよ」
 そう彼が答えるとティルダは怒ったように言った。
「だめよ、ジョシュア。生きるっていうことは、単に生きているだけじゃだめなの。パパが言ってたわ。明日はこうしたいっていう希望を持ち、将来はこうありたいと夢を抱いて、それが叶うように努力することが生きるということだって。私もそう思う。夢や希望がなければ、死んでいるのと一緒よ。そうでしょ、ジョシュア?」
 少女のきつい口調にジョシュアは苦笑しながら頷いた。
「うん、そうだね。きっとそうだ」
「そうよ。世の中見回しても暗い話題ばかりだわ。せめて自分の体の中に、無限の可能性があるんだって信じなくっちゃ、つまらないじゃない」
 そう言ってはにかむと、ティルダは競走よ!と叫んで駆け出した。慌ててジョシュアもその後を追う。まるで彼が追いかけてくることを信じて疑っていないように、少女はジョシュアの方を振り返ろうともしない。
 ジョシュアももちろん足が遅い方ではなかったが、気を抜けば置いていかれそうなほど少女の足は速く、少年はスピードを上げた。久しく本気で走っていなかったせいか、いつになく心臓の鼓動が激しくなり、少年はそれを無視した。
 この少女なら、きっとどこまでも遠くに行けるのだろう、風を切って走りながら、ジョシュアはそう思った。



                              *『空のない街』/第七話 に続く
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『空のない街』/第五話

2017-06-07 22:15:09 | 空のない街
 オーレリー・ローシェルとマーク・ハプスコットの両刑事がその救護院を訪れたのは、ウォルター・マードックが殺されてからちょうど一週間目のことだった。
 オーレリーの危惧していた通り、捜査会議は実にお座なりで、お粗末なものだった。会議に出席していた連中は誰もが、もちろん口に出して言ったりはしないものの、キッズビジネスで荒稼ぎしていたクソ野郎が殺されたところで真面目に犯人探しなぞやっていられるかといった態度だった。士気もきわめて低く、陣容も満足なものだとはいえなかった。実際人手が足りないことはオーレリーも承知していたので、そのことで文句は言えなかった。事件は敵対するマフィア同士の抗争の末の殺人として捜査は進められることとなった。
 捜査方針を限定することにオーレリーは異を唱えたが、人手が足りないことを理由にそれも却下された。
 現場に残された凶器からは指紋は検出されず、ただ大手メーカーの量産品であるということしかわかっていなかった。現場付近の聞き込みは連日行われて入るものの、それも今のところ成果は上がっていない。
 救護院への訪問は捜査活動の一環というよりオーレリーの独断だった。被害者であるウォルター・マードックに関するファイルをめくっていた時気になる記事があったのだ。マードックは会員制の幼児売春組織の元締めをしていた。その組織に属していたと思われる少女が二年ほど前に殺されている。少女の名前はエミリー・リーヴェ。彼女には二つ違いの兄がおり、その少年もまた妹が殺された時に犯人から暴行を受けている。少年の名前はジョシュア・リーヴェ。彼は現在市内のある救護院で暮らしている。
 正式な捜査活動の合間を縫って行かなければならなかったので、その救護院にオーレリーたちが着いたのは午後八時をすぎていた。そういった施設を訪れるにはいささか遅い時間といえたが、応対してくれたタウンゼントという名の神父は少年に引き合わせてくれるという。ただし、保護者代理として彼がその場に同伴することを条件に出した。オーレリーとしても無論異存はなかった。
 二人は応接室に通された。応接室といっても古びたソファが向かい合うように並べてある質素な部屋だった。しばらくの間待たされ、ハプスコットが膝を揺すり始めた頃、応接室のドアが開いた。
「お待たせしました」
 そう言って現れたタウンゼント神父の影に隠れるように少年は立っていた。少年を見たときのオーレリーの第一印象は、ずいぶんと線が細いな、というものだった。部屋の照明が充分でなく、また少年がうつむいていたために表情はうかがえない。
 少年は母親に幼子が甘えるように神父から離れようとせず、また椅子にも座ろうとしなかった。
「こんばんは、私はオーレリー・ローシェル警部よ。夜遅くにごめんなさいね」
 差し出した右手をあからさまに無視され、もしくは拒絶され、オーレリーは苦笑した。これでも子供の扱いには慣れているつもりだったが、どうやら嫌われてしまったようだ。
「すみません、人見知りが激しくて」
 神父は代わりに謝ると、少年を横に座らせた。少年の表情は相変わらず強張ったままで、オーレリーたちの方を見向きもしない。
「ねぇ、怖がらなくていいのよ。ジョシュアといったかしら。別にあなたを取って食べようというわけじゃないから」
 オーレリーの冗談めかした言葉にも反応は無し。オーレリーは人形に話し掛けているような気分になった。
「少しだけ、話が聞きたいの。十分でいいわ」
 ジョシュアからの返答は無し。ただ一瞬オーレリーの方をちらりと見たようだったが、それも彼女の思い過ごしかもしれない。
「ウォルター・マードックを知っているわね、モンツェリーニ・ファミリーの幹部だった」
「知らない…」
 消え入りそうな声だった。注意していなければ聞き落としそうな、目の前の少年が発したとは思えないほど小さな声。だが、少年がようやくしゃべってくれたことにオーレリーはほっとしていた。
「やっと、しゃべってくれたわね、ジョシュア。でも嘘はいけないわ」
「知らない、そんな奴、知らないよ・・・」
 ジョシュアは首を振った。何度も、何度も。まるでそうすることによってそれに関する記憶が頭の中から消えてしまうかというように。
「知らない、知らないよぅ、僕、そんな奴、知らない…」
 少年は椅子に座ったまま膝を抱えた。
「マードックが死んだわ。そのことは知ってる?」
 少年は小さく頷いた。
「うん、テレビの、ニュースで、見た・・・」
「そのことで、ジョシュア、あなた、何か知ってることはないかしら?彼のことを怨んでいる人とか知らない?」
 少年は首を振った。今度は力無く。
「知らない…。知らないよ…。いや…」
 ジョシュアは突然立ち上がった。
「僕だよ、マードックのことを一番怨んでいたのは僕だよ。マードックなんて、あんな奴、死んじゃえばいいってずっと思ってた。死んじゃえばいいって、死んじゃえばいいって!!」
 少年は泣いていた。泣きじゃくっていた。
「あんな奴、死んで当然だよ!誰が殺したかなんて知らないけど、し、死んで、と、当然なんだ!」
 ジョシュアがウッとうめいた。足元に水溜りが広まっていき、ほのかに湯気が立った。
 少年は失禁していた。
 署へと戻る車の中、オーレリーは我ながら見当違いなことを考えていたものだと半ば自棄になって自嘲した。
 とてもあの少年がマードック殺しに関係しているとは思えない。あのような神経の細さでは到底人を殺せるものではない。ましてマフィアの幹部など。わずかでも疑っていた自分が恥ずかしい。
「見当違いもいいところでしたね」
 ステアリングを握るハプスコットに心の中を見透かされたようにそのままズバリと言われ、オーレリーはムッとした。そうね、とぶっきらぼうに応えた。
 そう、見当違いもいいところだ。あの少年はマードック殺しとは無関係だ。彼女は自分にそう言い聞かせ、しかし同時に納得できていないもう一人の自分の存在に気づいた。
 本当にそうなのか。
 オーレリーは思い返す。
 ぶるぶると震え、顔をくしゃくしゃに歪めながら、涙を流しつつ神父に許しを乞う少年の姿を。
「ご、ごめんなさい、神父様。汚い言葉を使ってしまいました。それに、床を…、よ、汚して…」   タウンゼント神父は穏やかな眼差しでジョシュアを見つめ、そして頭を優しく撫でた。
「よいのだよ、ジョシュア。この世に、許されない罪など、何も無いのだから…」
 それから神父はオーレリーとハプスコットの方を見た。
「見ての通りです。ジョシュアは過去の傷を癒そうと必死なのです。昔のことを忘れようと懸命なのです。今夜のところはこれでお引取りください。もうこれ以上、彼から何かを聞き出すことは出来ないでしょう」
 神父の言葉に従うまま、二人は救護院を後にした。
 オーレリーは窓外の景色に目をやった。ハプスコットと目を合わせたくなかった。
 何かが引っかかった。見落とし。違和感。わだかまり。どう言い換えたところで同じ何かだ。
 オーレリーは胸ポケットから残り一本になった煙草を口にくわえ、火を点けようとしたとき、不意にその何かがわかった。
 神父のあの言葉だ。
 神父は、少年が昔のことを忘れようとしていると言った。しかし本当にそんなことが出来るのか。
 生まれたときから二人きりの家族だったという。その絆は我々が考えるよりもずっと強いものだろう。
 たった一人の家族である妹を殺され、それを一年や二年で忘れることは出来るものなのだろうか。
 もう一度オーレリーは少年のことを思い出してみた。
 頬を伝う涙、神父に懺悔する姿、弱々しい態度、感情的な行動、途切れ途切れの言葉…。
 それらは全て自らを弱者に見せかける演技ではなかったのか。
 自らの想像に慄然とし、彼女は唾を飲み込んだ。
「着きましたよ、警部」
 ハプスコットにそう声を掛けられるまで、オーレリーは車が止まったことにも気づかなかった。





                          *『空のない街』/第六話 に続く
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『空のない街』/第四話

2017-05-24 20:06:51 | 空のない街
 画面に浮かび上がる文字は、ジョシュアにとって何ら意味を成さなかった。そこに存在する情報は、『彼ら』にとって致命的なスキャンダルとなるはずだったが、ジョシュアの追い求める男らしきものは、持ち出したディスクからは、ついに見つからなかった。
 それにしても、とジョシュアは思う。彼らはなぜそれほどまでのリスクを犯して、あのクラブに在籍していたのだろうか。会員のほとんどは、いわゆるエリートであり、上流階級の人間であった。おそらくは幸せな、今までジョシュアが味わったことのない、家庭というものを築いているはずだった。
 それなのに、なぜ・・・?ジョシュアには理解できなかった。
 不意に彼の胸の内に暴力的な衝動が沸き起こった。ジョシュアは叫び出すのを堪えるために自分の右腕を強く噛んだ。鉄の錆びた味がした。このまま噛み千切ってしまいたいという負の誘惑を、ギリギリと歯を食いしばることでどうにか断ち切った。
 マードックから情報を引き出すことは予想以上に骨が折れる難事だった。ただ単に命を奪うだけであれば、それほど手間取らなかったに違いない。だがそれは目的ではなかった。
 自明であったかもしれないが、それでもジョシュアにとってマードックが死んでしまったことは成り行きに過ぎなかった。
 マードックは頑迷に抵抗した。もしかしたら死んでも口を割らないんじゃないかとジョシュアは途中本気で思ったほどだった。
 テーブルに釘付けされていない、残されたほうの腕をやたらに振り回し、だがジョシュアが一瞬の隙を突いて八本目のナイフをその右目に突き立てると、マードックの体から急速に戦意が消え失せた。
 それまでの反動からか、彼は急にペラペラとしゃべりだした。
 聞くこと、聞かないこと、勝手に口にしだしたマードックだったが、灰色のオーバーコートの男ことだけは、知らないの一点張りだった。そんなわけがない、とジョシュアは思った。庇っているだけなのだと。クラブの元締めであるマードックが会員のことを知らないはずはない。
 本当のことを言ってください、そう冷淡に言うと、ジョシュアはさらに三本のナイフをマードックの腕や腿、そして背中に突き刺した。それでもマードックは発言を翻そうとはしなかった。
 クラブとは別に、飛び込みの客を扱うこともあるというのが彼の言い分だった。男とはバーで飲んでいたときにたまたま彼の隣に座っただけの間柄だという。名前も、住所も知らないとマードックは言った。
 そんなふざけた話はない、とジョシュアは激昂した。それでは何のための会員制のクラブなのか、まったくわからないではないか。
 万が一マードックが嘘をついている場合のために、ジョシュアはクラブの会員名簿が載っているディスクを持っていくことにした。マードックは抗議の声を上げたが、ジョシュアは黙らせるために彼の右肩にナイフを一本、そしてパスワードを聞き出すために左肩にもう一本生やした。
 パスワードが合っているかマードックの部屋に置いてあるパソコンでチェックした後、ジョシュアはそのまま立ち去ろうとした。もうそれ以上情報を引き出せそうもないと判断したからだった。
 だがマードックはそのことにも抗議した。このままだと自分は出血多量で死んでしまうと。救急車を呼べとも言った。
 ジョシュアはその物言いが気に食わなかった。出来ればその舌を切り取ってやりたかったが、残念ながらナイフは先ほど左肩に突き刺したのが最後の一本だったのでそれは出来なかった。わざわざマードックの体からナイフを引き抜く気にもなれなかった。
「あなたが生きるか、死ぬかは神の御心にお任せするとしましょう」
 そういい残し、ジョシュアはマードックのマンションを後にした。

 マードックから灰色のオーバーコートの男の居所を聞き出すことが出来たなら、ジョシュアはそのまま男の元へ向かうつもりだった。だがそれも男の正体すらわからなかったのでは叶うはずもない。
 公園の水飲み場でせいぜい血の匂いを洗い流した後、ジョシュアは結局救護院に戻ることにした。他に行く宛てもなかった。
 夕方戻ったジョシュアを何も知らないシスター・レイチェルが笑顔で出迎えた。
「勉強、よく出来た?」
 ジョシュアは休みの日は近くの市立図書館に行くことにしていた。この日もそうなのだと彼女は思っているようだった。
 ジョシュアは黙って頷いた。言葉が何も出てこなかった。出掛けるときはもう二度と戻ってこないつもりだったから、その日の朝はいつも以上にシスターたちの手伝いをした。
 しかし彼は戻ってきた。
 ジョシュアを慕う子供たちが、彼が帰るのを待ちわびていたように駆け寄ってくる。ジョシュアは子供たちの手を振りほどきたい衝動に駆られた。
「シスター、子供たちの面倒を見ていただけますか?」
 普段とは違う少年の様子に、シスター・レイチェルは心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫、ジョシュア?顔の色がひどく悪いわ」
「いえ、大丈夫です、シスター。少し休めばよくなります」
 そう言ってジョシュアは自分にあてがわれた部屋に引きこもった。ベッドに横になり、天井を見上げた。後悔の念はなかった。高揚感もない。ただやるべき事をやったという思いと、泥のように体を覆う疲労感だけがそこにはあった。
 その夜ジョシュアは目を閉じても眠ることは出来なかった。

 翌朝ニュースで、マードックが死んだことをジョシュアは知った。けれどそれによって特に感慨も動揺もなかった。自分がやったという現実感もなかった。ただ運がない男だったな、という感想を少年はいだいただけだった。
 それからの一週間、ジョシュアは夕食が終わってからの自由時間を救護院の事務室で過ごした。事務室には旧型ではあるがパソコンが置いてあり、マードックの部屋から持ち帰ったディスクの中身を確認することが出来た。だが結局彼の欲する情報はそこにはなかった。
 一週間目の夜、同じように事務室に向かおうとするジョシュアをタウンゼント神父が呼び止めた。彼に客が来ているという。珍しいことだった。だが来客が誰なのか、ジョシュアには心当たりがあった。むしろ彼に言わせれば遅いくらいだった。
 そしてジョシュアは客が待つという応接室に向かった。





                            *『空のない街』第五話 に続く
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『空のない街』/第三話

2017-05-17 21:30:54 | 空のない街
 その路地は昼なお薄暗かった。太陽の沈む時刻にはまだ早いはずだったが、通りの独特な澱んだ空気は、ハプスコットに夕闇そのものを思い起こさせた。いつしか彼の足取りは重いものになっていた。
 旧建築の煉瓦造りの街並みは道行く人に時間の流れさえも忘れさせかねなかった。
「北がどちらかわかる?」
 先を行くオーレリーが振り返りもせずにハプスコットに尋ねた。もちろんですよ、とハプスコットは答えたが、言葉尻はすぼんでいた。
「初めて来る人は誰でもそうなるのよ。侵入者を拒絶するようにこの通りは設計されているの」
 ハプスコットは空を見上げ、それから後ろを振り返った。誰かに見られているような感覚。
 おそらく錯覚では ないだろう。オーレリーとわずかに距離が開き、ハプスコットは慌てて彼女の後を追った。さらに幾つか角を 曲がり、不意に道が行き止まった。
「どこです、ここは?」
 行く先は一度ならず聞いている。だがオーレリーははぐらかすように答えようとはしなかった。
「怖ければ残っていていいのよ」
 オーレリーはそう言うと木戸を叩いた。 木戸の向こうから目つきの鋭い若者が現れた。まるで二人が来ることを予め知っていたかのような素早さだった。
「ローシェルが来たと、ファシカに伝えて」
 若者はオーレリーを一瞥すると、木戸の向こうに消えた。しばらくすると再び木戸が開き、先ほどの若者が顔を出し、二人に手招きをした。
「ファシカさんが入っていいって言ってる」
 オーレリーとハプスコットは身を屈ませて木戸をくぐった。ごく短い廊下の先で重い鉄製の扉がオーレリーたちの行方を遮った。若者がその扉をゆっくりと開け放った。
 ハプスコットはアッと息を呑んだ。そこは外界とはまったくの別世界だったのだ。煉瓦造りの建物の内部とは 到底思えないきわめて近代的な設計思想に基づいた空間だった。 通常の建物であれば三階の高さに相当する吹き抜けのフロアが広がり、ほぼ正方形の部屋の一方を巨大なバーカウンターが占め、残る三方に円形のテーブルが不規則に配置されている。フロアの中央には踊り場だろうか、広くスペースが設けられていた。全体的に退廃的な空気が漂い、音楽はそれに合わせるかのように耳に心地よく、それでいて気だるい曲調のものが流れていた。
 照明は充分とは言えず、フロア全体を見渡すことは出来ない。
 テーブルには数組のカップルが着いていたが、彼らはまるでオーレリーたちに注意を払おうとせず、それどころかその存在に気づいていない可能性さえあった。明らかに何らかの薬物の影響下にあった。
「久しぶりだな、オーレリー・ローシェル警部補殿」
 オーレリーたちが入ってきたのとは別の入り口から現れた男が彼女にそう声をかけた。
 身の丈は百九十センチほど、仕立てたばかりのような白のスーツに、時代遅れの、というより時代を超越したようなデザインのエナメル靴、髪はオールバックで後ろにまとめ、鋭いが、どこか焦点の合っていない目。
 男は、オーレリーを見てニヤリと爬虫類じみた笑みを浮かべた。
「本当に久しぶりね。お互い壮健そうで何よりだわ、ジョバンニ・ファシカ」
 ファシカの言葉の誤りをあえて正そうとせず、オーレリーは挨拶に応じた。
「昼間なんぞに来たりせず、夜来てもらえれば、ハハ、ここはもう少し楽しいところなんだが、残念でならんね」
 ファシカは視線をわずかにハプスコットへずらした。
「そちらのお若いのにも、快楽の本当の意味ってのを教えて差し上げられるんだが」
「快楽論の講義はまたにして頂戴、ファシカ。今日ここにきたのは貴方にちょっとしたお願いがあったからなの」
 ファシカは大仰に驚いた振りをした。
「おう、我が愛しのオーレリーの願いとあらば、このジョバンニ・ファシカ、いかなるものであっても叶えてみせようぞ」
 オーレリーはファシカの芝居がかった言い草を別段気に留める様子もなく言葉を続けた。
「マードックが死んだわ。もう知っていると思うけど」
「ああ、さっき聞いたばかりだがね。おかげで寝覚めが悪い」
「何か、知っていることはあるかしら。犯人の心当たりがあれば、教えてくれたら助かるんだけど」
「いや、知らんね。知ってても教えるかどうかわからんが、今回ばかりは本当に知らん」
「でしょうね。こっちも本当に教えてくれるなんて期待しちゃいないわ。お願いしたいのは、ジーナのこと」
「ジーナ?誰だ、そりゃ」
「しらばっくれないで!事件の第一発見者よ」
「ああ、あの娘がジーナっていう名前なのか」
「そうよ。あの子に手を出さないでくれる?」
「手を出す?一体どういう意味だ、そりゃ?」
「マフィアが関係した事件の証人が、消されるのはよく聞く話でしょうが。今回の場合、必ずしもそういうわけじゃないけど、貴方たちのやり方には心底ウンザリしているところなの。とにかく、ジーナには手を出さないで」
 ふん、とファシカは鼻を鳴らすと、いいだろ、と頷いた。俺の残りの髪の毛にかけて誓ってやるよ、と余計な一言を付け加えた。
「それともう一つよ」
「おいおい、まだあるのかよ!」
「どうせだから言っておくわ。今回の事件に手を出さないで。必ず犯人は挙げてみせるわ。迷宮入りにはさせない。だから、一切手を出さないで欲しいの」
 オーレリーの言葉に一瞬ファシカは虚を突かれたようだった。ファシカはウッとうめくと口の辺りを押さえ、必死に何かを堪えているようだったが、やがてくすくすと笑い始めた。そしてそれはすぐにフロア全体に響く高笑いに変わった。
「最高だ。あんた、最高だよ、オーレリー・ローシェル。警察がマフィア殺しに本気になるだと?ハハ、聞いたこともねぇ冗談だ。いいねぇ、ますます俺はあんたに惚れちまいそうだよ」
「貴方に惚れられても少しも嬉しくないわ、ファシカ」
「つれないねぇ、相変わらず」
「じゃ、今回の事件、モンツェリーニファミリーは静観してくれるんだね?」
「いや、それは出来ない相談だな、オーレリー」
 ファシカはほとんど間を置かず答えた。
「確かに殺されたマードックは、ガキを使って金を稼ぐ下衆野郎だった。俺だって、奴の顔を見るたびにゲロを吐きそうになったもんだ。殺されても仕方のねぇ、どうしようもない屑だったよ」
 ファシカはそこで言葉を切って、唇の周りを舌で濡らした。
「だが、だからといって、ファミリーの幹部が殺されて、それを放っておいたんじゃ、俺たちが回りの同業者に舐められちまう。この世界じゃ舐められたらお仕舞いなんだよ。おちおち道も歩けず、おまんまも食いっぱぐれだ。わかるだろ、オーレリー?」
 ファシカは一旦目を閉じ、そして薄く開けた。
「ファミリーの中でも飛びっきり腕の立つ奴を用意させてもらった。奴には手段を選ばず、何としてでもマードックを殺した奴を見つけ出して、ぶっ殺すように指示をしてある」
 マフィアからの宣戦布告を神妙な面持ちで受け止めたオーレリーは小さくため息をついた。やはりこういうことになったかと言いたげだった。
「邪魔したね、ファシカ」
 そう言って立ち去ろうとするオーレリーにファシカが後ろから声をかけた。
「いいだろう、もし仮に犯人の糞野郎を俺たちより先に見つけ出し、あんた自身の手で、見事そいつの手に手錠を掛けることが出来たなら、その時は、きっぱりそいつのことは諦めよう、忘れようじゃないか。それでどうだ、オーレリー」
「恩に着るわ」
 オーレリーはファシカの方に振り返ろうともせずに短くそう答えると、出口へと向かった。





                           *『空のない街』/第四話に続く
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『空のない街』/第二話

2017-05-10 21:39:24 | 空のない街
 オーレリー・ローシェルは無性に煙草を吸いたくなった。
 現在の彼女にとって喫煙という習慣は欠かすことの出来ない悪徳の一つであり、紫煙は彼女の体から輩出される排泄物の一つといえた。煙草なしでは冷静な思考を維持することも、的確な判断を下すことも、オーレリーには自信がなかった。彼女は愛煙家というより、もはや重度の喫煙依存症者だった。
 しかし今彼女はそれが許されない状況にあった。
 現場の保存は何よりも優先される。
 下手に煙草の吸殻を捨てたり、不注意で灰をわずかに落としただけでも初動捜査に混乱を来たす恐れがあった。
 オーレリーは苛立っていた。煙草を吸えないことも一因ではあったが、それだけではなかった。深く眠れない夜が続いていた。理由はわかっていた。もっともそれは他人に気軽に話せることでなく、自分でも容易に認められることではなかったが。他人に必要以上にきつく当たってしまい、それを女性特有のヒステリーと揶揄され、そのことでまた腹が立った。悪循環だった。
「複数犯の犯行でしょうか、ローシェル警部」
 そう声を掛けてきたのは新入りのマーク・ハプスコット刑事だった。
 無能というわけではないにしろ、警官という職業を単なる公務員の一つと考えている節があった。そこがオーレリーには気に入らなかった。
「いや、最初からそうと決め付けるわけにもいかないでしょうね…」
 教師が教え子に接する時のような口調で答えると、オーレリーはハプスコットを伴い被害者の遺体の傍に屈みこみ、あらためて観察した。
 なるほど、ハプスコットが複数犯犯行説を唱えるのも充分頷けた。あながち的外れというわけではなかった。
 被害者の名前はウォルター・マードックといい、コルシカマフィアであるモンツェリーニファミリーの幹部の一人だった。死因は多量の出血によるショック死。マードックはからだ中を十三ヶ所も刺されていた。凶器はディナーナイフ。どこの雑貨屋でも置いていそうなありふれた品物だったが、同時に今まで見たこともないような代物だった。というのも凶器に使われたナイフは恐ろしいほどに、それこそ外科手術用のメス並に研いであったのだ。
 これほど鋭い刃物で刺されたのであれば、おそらく最初の一刺しは、たぶんマードックの動きを封じるための右手の甲への一撃だろうと思われるが、さして痛みも感じなかったのではないか、とオーレリーは推測した。
 マードックは合わせて十三ヶ所刺されていたが、それぞれ別々のナイフによるものだった。つまり犯人はマードックのからだからナイフを引き抜こうとしなかったのだ。十三本のナイフをからだのあちこちから生やしたマードックはさしずめ人間ハリネズミといった様相だった。
「これが単独犯の犯行だとするなら犯人は一人で十三本ものナイフを用意したというのですか」
「十三本、あるいはそれ以上のナイフを、よ」
 オーレリーはハプスコットの言葉を訂正した。
「確かに単独犯の犯行だとしても腑に落ちない点はあるわ。でもそれは複数犯だとしても一緒よ。例えば、入り口のドア。こじ開けられた形跡はないわ。犯人はマードック自らが部屋の中に招き入れたのよ。殺されるとまでは思ってなかったにしろ、ドアの向こうに二人も三人も人間がいたら、普通は不審に思って、チェーンを掛けたまま用事を済ませるものよ」
「しかしマードックのような大男を、しかもマフィアの幹部である男を、本当にナイフだけでたった一人の人間が殺せるものでしょうか。相当暴れたでしょう」
「難しい、でしょうね。でも不可能ではないはずよ」
 オーレリーはハプスコットの問いに一つ一つ丁寧に受け答えしていたが、そうすることによって自分自身に筋道を立てて説明しているようでもあった。
「なぜ犯人はこれほど大量の凶器を用意する必要があったのか…。それはおそらく…」
「おそらく?」
「犯人の目的は、マードックを殺すことではなかったのじゃないかしら」
 オーレリーの言葉がよほど意表を突いたのだろう、ハプスコットは、一瞬怪訝な顔をして問い返した。
「これほど残酷な殺し方をして、それでも犯人の目的はマードックの命を奪うことではなかったと?」
 オーレリーは、たぶんね、と言って小さく頷いた。
「本当に殺すことが目的であれば、用意するナイフは一本でいいわ。不意を突いて、それを急所に突き刺せばいいだけのことよ」
 ハプスコットは納得しかねるというふうに首を傾げた。
「では犯人の目的とは一体何なんでしょう」
「はっきりとはわからないけど、例えば見せしめや拷問、あとは…」
 その時制服警官が一人の少女を連れてきた。半ば無理やりといった感じで、警官に腕を掴まれ、少女は痛みに顔を歪めていた。
「ローシェル警部、第一発見者を連れてきました」
 そう報告する警官に、オーレリーはそれまでのハプスコットに対する講義的なものとは打って変わって、きわめて攻撃的な口調で言った。
「この子は容疑者でも何でもないんでしょうが。そんな手荒に扱う人がいますか!」
 面食らう警官を尻目にオーレリーは少女に向き合うと彼女の頭を軽く撫でた。
「面倒なことに巻き込まれたわね。私はオーレリー・ローシェル警部よ。あなた、名前は?」  
 少女はきょとんとした顔をして、逆にオーレリーに問い返した。
「あたし、ジーナ。ジーナ・ファレウルよ。女の警部さんなの?」
 この子は一体いくつなのだろうかと思わずにはいられなかったが、あえてそれを問うことはせずに、ただオーレリーはジーナににっこりと笑ってみせた。
「そうよ。でも時々、自分でもそのことを忘れちゃうこともあるけどね、アハハ。でも、そんなことより偉いね、ジーナ。通報してくれて、逃げなかったんですものね。ところで聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「うん、いいよ、何でも聞いて」
 ジーナは負けずににっこりと笑みを浮かべた。
「ジーナ、あなたはこの部屋の鍵を持っている?」
「持ってるよ、ほら」
 ジーナは自慢気に鍵がつけてある胸のペンダントを見せびらかした。
「他に鍵を持っている人はいなかった?」
「うーん、わかんない・・・。いないと思うけど」
「マードックは部屋にいる時ドアにチェーンを掛けてた?」
「うん、必ず掛けてたよ」
「じゃあ、鍵はマードックがいない時、部屋に入るために使うってことね?」
「うん、そうだよ」
「今日ここに来る時、誰か不審な人間を、いや、そうじゃないわね、普段見かけない人を見なかった?」
「別に、いなかったけど…」
「そっか。じゃあ最後に一つ、教えてくれるかな。ジーナはマードックのこと、好きだったかい?」
 オーレリーのその問いに、初めてジーナは考え込む振りをした。妙に大人びた仕草だった。
「そうねぇ…」
「大丈夫よ。あなたがどう答えたって、あなたのことをマードック殺しの犯人だなんて誰も考えないから。それは私が保証する」
「うん。嫌いじゃなかったよ。欲しいもの、なんでも買ってくれたし、すごく優しかったし、何よりあたしの話、真剣に聞いてくれたし」
 そしてジーナは年齢不相応な艶然とした表情を浮かべ、こう付け加えた。
「セックス、ヘタクソだったけどね」
 少女を下がらせたから、オーレリーは彼女に警護の人間を付けるようにハプスコットに指示を出した。
 彼は意図がつかめずオーレリーに問い返した。
「どういう意味です?彼女が犯人に狙われると?」
 オーレリーは首を横に振って、しばらく間を置いた。教師が正しい答えを教え子が導き出すのを待つように。
「そうじゃない。どうして警察に一番に知らせたのかとモンツェリーニファミリーの奴らに責められる可能性があるからね。下手すると八つ当たりで殺されかねない」
「そんな、まさか」
「そういうものなのよ。マフィアっていうのはね」
 オーレリーは役者が舞台から去るように身を翻した。
「どこに行かれるんです、ローシェル警部。これから捜査会議が、第一回目の捜査会議が行われるんですよ!」
「時間は掛からない、すぐ戻るよ。あなたはそのまま会議に向かっていい」
「待ってください、警部、自分も行きます」
 置いてきぼりになるのを恐れる子供のようにハプスコットはオーレリーのあとを慌てて追った。




                          *『空のない街』/第三話 に続く
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『空のない街』/第一話

2017-05-03 22:05:55 | 空のない街
 ウォルター・マードックはその朝最悪な目覚めを強いられることとなった。
 ドアのチャイムの、ほとんど偏執的とまでいっていいしつこさに、元来気が長い方ではないマードックは、半ば激昂しかけていた。インチキ宗教家か、それとも百科事典のセールスマンか、どちらにしてもただじゃおかない、ぶっ飛ばしてやると怒り心頭に発してはみたものの、チェーンを外し、ドアを開けると、彼の怒りは戸惑いへと変わった。
 ドアの向こうに立っている少年が誰なのか、寝起きのマードックはすぐにはわからなかった。
 洗いざらしの古物のジーンズ、上着には地元のフットボールチームの赤いジャンパー、頭にはジャンパーとお揃いのキャップ、身につけているものだけならどこにでもいそうな子供だった。
 だが、その顔にはわずかながら見覚えがあった。
 これまで生きてきて、あらゆる悪徳と、そして原罪に関わったことが一切なさげな、その、まるで慈愛に満ちた天使のような顔立ちには、確かにどこかで…。
 少年はマードックの顔を見ると、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、マードックさん」
 琴線を弾くような耳に心地よいその声に、マードックはようやく少年の名前を思い出した。
「ジョシュア、ジョシュアか!見違えたな、まったく…」
 そう、見違えた。まるで別人だぜ、とマードックは独りごちた。
 あの頃のこいつときたら、泥にまみれ、ゴミにまみれ、糞にまみれ、近寄るのも嫌になるくらい臭かった。妹の方は、名前は何だったか、エリー、いや、エミリーだ、商売上着飾らせてはいたが、兄貴の方は本当にゴミ同然だった。
 それがどうだ、この変わりようときたら!あの頃からは到底想像できない。
「あの、入っても、いいですか・・・」
 ジョシュアはおずおずと、まるで加虐心を煽るように尋ねた。
 ああ、もちろんだ、入ってくれ・・・」
 マードックは少年の肩に手を回し、抱き寄せるようにしてジョシュアを部屋の中に招き入れた。
 妹の方はずいぶんと稼いでくれたが、兄貴のほうもなかなかどうして上玉だ。この手の商品は決して需要が絶えることはない。俺様の眼も節穴もいいところだ・・・。少年を値踏みつつ、マードックは自分でも知らぬ間に唇の端がゆがみ、自然とにやけるのを押さえることが出来なかった。
「いい部屋に、住んでらっしゃるんですね…」
 ジョシュアが部屋の中を見回しながら、抑揚のない口調で感想を述べた。
「ん?そうか…?」
 マードックは壁に備え付けられたワイン棚から、無造作に一本のワイン瓶とグラスを二つ取り出した。
「飲むだろ?」
 少年の年齢などほとんど気にする様子もなく、マードックはジョシュアの分までグラスにワインを注いだ。
「本当に、いい部屋ですよね・・・」
 手渡されたグラスに口をつけずに、ジョシュアはゆっくりとマードックのそばに寄り、同じ感想を再び繰り返した。
 これは?そう言って、少年はベッドサイドテーブルの上に置いてある写真立てを指差した。
 写真にはマードック本人と、彼の妻と思しき女性、そして二人の子供が写っていた。子供たちはさして楽しくもなさそうに笑っていた。
「うん?ああ、カカァとガキだ」
「お子さんがいらっしゃるとは知りませんでした」
「まあ言いふらすことでもないからな…」
 まったく近頃生意気な口をきくようになってな…、そう言いながら、マードックは写真立てに手を伸ばした。写真立てに触れる寸前、ジョシュアがマードックの手を、拳で上から思いっきりバンと叩いた。
「何しやがる・・・」
 そう言いかけて、マードックは目を見開いた。彼の右手の甲が銀色のナイフでテーブルに串刺しになっていた。
「本当にいい部屋です」
 グラスをテーブルに置きながら、ジョシュアは同じ台詞をさらにもう一度口にした。
「ここなら防音設備も整っているようですし、少しぐらいの騒音が外に漏れることもないでしょう…」
 天使のようなおだやかな笑みを浮かべながら、少年はバタンと写真立てを倒した。
 ウォルター・マードックの、人生最悪の目覚めは、同時に彼にとって人生最後の目覚めとなった。


                            *『空のない街』/第二話 に続く
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