今年も8月31日と9月1日にかけて24時間テレビが放映されましたね。
皆さんはご覧になりましたか?
熱心な24時間テレビウォッチャーってどれぐらいいるのでしょうか。
自分はそうでないので合間合間にチラッと見ただけですが。
ネットを見る限り「出演者はノーギャラでやれ」とか、「感動ポルノ」など24時間テレビに対して批判的な意見の人が多いみたいですね。
まぁ24時間テレビに限らず、長寿番組って批判にさらされがちですけれど。
例えば年末の紅白歌合戦などもそうですね。
紅白歌合戦なんて止めればいいのにという声は昔からよく聞くような気がします。
かくいう自分も子どもの頃から紅白歌合戦ってつまらないなって思っていました。
その思いは大人になった今もさほど変わっていません。
では紅白歌合戦なんて止めればいいのにと思っているのか?
いや、全然思っていません。
自分がつまらないからという理由で安易に止めろというのはおこがましいと思います。
紅白歌合戦を止めたとして、代わりにどんな番組を放映するというのですか?
紅白歌合戦を面白くない、つまらないと思うこと自体は個人の自由だと思います。
ただ、紅白歌合戦を止めろというのであれば、代わりにやる企画を考えてからにしろ、と言いたいです。
フジテレビ系列の27時間テレビは止めても構わないと思っています。
あの番組を止めたからといって何か問題が生じるとも思えないので。
じゃあ同じように24時間テレビも無くなって構わないのか?
無くなっても構わないとは思いません。
番組を通じて集まった寄付金によって救われた人が(その声は小さくとも)一定以上いると思うからです。
まったくいない、ってことはないですよね?
「参加者はノーギャラでやれ」という声もよく聞きます。
無茶を言うよ、と思いますね。
ノーギャラでやれという人の根拠はアメリカやイギリスで行われているチャリティ番組に大物タレントがノーギャラで出演している、というものです。
〇〇やXXといった有名人がノーギャラで出演しているのだから、24時間テレビの出演者も同様にノーギャラでやれ、というのです。
逆なんですよ。
アメリカやイギリスのチャリティ番組で大物タレントがノーギャラで出演できるのは、大物だからこそ、経済的に余裕があるからこそ、です。
翻って24時間テレビの出演者って(こんなことを言うのもなんですが)皆が皆、経済的に余裕があるってわけではないでしょう。
経済的に余裕があろうがなかろうが、チャリティ番組なのだからノーギャラで出演しろというのは些か乱暴すぎやしませんか。
自分は24時間テレビの出演者にはきちんと既定のギャラを払い、経済的に余裕のあるものはギャラの全額(以上)を、余裕のないものは一部を寄付すればいい、そう思います。
それで特に何か問題がある、とは思えないのですが。
24時間テレビ恒例のチャリティマラソンも結構批判の的ですよね。
「暑い時期に長距離を走らせるな」という意見もあれば、「番組終了ギリギリになってゴールするのはおかしい」という意見もあり、どういう形でやっても何かしらクレームがつくのだろうな、と思ってしまいます。
個人的にはランナー自身(今回の場合はやす子)が自分の意志でオファーを受け、周りに医療スタッフもいて、不測の事態にも対応出来る態勢であれば、マラソンをやってはいけないってことはないと思いますけどね。
24時間テレビを止めろという人は、24時間テレビで集まる募金の総額と同じぐらい募金が集まる企画を考えろ、と言いたいですね。
で、考えました。笑。
そもそも24時間テレビの何が問題なのかというと、民放のテレビ局でやっていることなんですよ。
民放のテレビ局でやればどうしたってスポンサーの意向は気にしなくちゃいけないですからね。
こういったチャリティ番組はNHKでこそやるべきなんです。
NHKで年末に夕方の5時ぐらいから有名アーティストばかりが出演する、チャリティの歌番組を作ったらどうでしょうか。
もちろん出演アーティストは全員ノーギャラ。
会場はどこかのドームを貸し切り、コンサート形式で番組は進め、チケットの収益は全額寄付。
これなら24時間テレビと同額か、それ以上の寄付金を見込めるのではないでしょうか。
よく、紅白歌合戦には(オファーを受けても)出ないアーティストっているじゃないですか。
わからないでもないんですよ、年末ですしね、働きたくないのもわかる。
でもチャリティと名のつく番組ではどうですかね?
かなり断りにくいのではないかと思うのですが、、、どうかな。笑。
皆さんはご覧になりましたか?
熱心な24時間テレビウォッチャーってどれぐらいいるのでしょうか。
自分はそうでないので合間合間にチラッと見ただけですが。
ネットを見る限り「出演者はノーギャラでやれ」とか、「感動ポルノ」など24時間テレビに対して批判的な意見の人が多いみたいですね。
まぁ24時間テレビに限らず、長寿番組って批判にさらされがちですけれど。
例えば年末の紅白歌合戦などもそうですね。
紅白歌合戦なんて止めればいいのにという声は昔からよく聞くような気がします。
かくいう自分も子どもの頃から紅白歌合戦ってつまらないなって思っていました。
その思いは大人になった今もさほど変わっていません。
では紅白歌合戦なんて止めればいいのにと思っているのか?
いや、全然思っていません。
自分がつまらないからという理由で安易に止めろというのはおこがましいと思います。
紅白歌合戦を止めたとして、代わりにどんな番組を放映するというのですか?
紅白歌合戦を面白くない、つまらないと思うこと自体は個人の自由だと思います。
ただ、紅白歌合戦を止めろというのであれば、代わりにやる企画を考えてからにしろ、と言いたいです。
フジテレビ系列の27時間テレビは止めても構わないと思っています。
あの番組を止めたからといって何か問題が生じるとも思えないので。
じゃあ同じように24時間テレビも無くなって構わないのか?
無くなっても構わないとは思いません。
番組を通じて集まった寄付金によって救われた人が(その声は小さくとも)一定以上いると思うからです。
まったくいない、ってことはないですよね?
「参加者はノーギャラでやれ」という声もよく聞きます。
無茶を言うよ、と思いますね。
ノーギャラでやれという人の根拠はアメリカやイギリスで行われているチャリティ番組に大物タレントがノーギャラで出演している、というものです。
〇〇やXXといった有名人がノーギャラで出演しているのだから、24時間テレビの出演者も同様にノーギャラでやれ、というのです。
逆なんですよ。
アメリカやイギリスのチャリティ番組で大物タレントがノーギャラで出演できるのは、大物だからこそ、経済的に余裕があるからこそ、です。
翻って24時間テレビの出演者って(こんなことを言うのもなんですが)皆が皆、経済的に余裕があるってわけではないでしょう。
経済的に余裕があろうがなかろうが、チャリティ番組なのだからノーギャラで出演しろというのは些か乱暴すぎやしませんか。
自分は24時間テレビの出演者にはきちんと既定のギャラを払い、経済的に余裕のあるものはギャラの全額(以上)を、余裕のないものは一部を寄付すればいい、そう思います。
それで特に何か問題がある、とは思えないのですが。
24時間テレビ恒例のチャリティマラソンも結構批判の的ですよね。
「暑い時期に長距離を走らせるな」という意見もあれば、「番組終了ギリギリになってゴールするのはおかしい」という意見もあり、どういう形でやっても何かしらクレームがつくのだろうな、と思ってしまいます。
個人的にはランナー自身(今回の場合はやす子)が自分の意志でオファーを受け、周りに医療スタッフもいて、不測の事態にも対応出来る態勢であれば、マラソンをやってはいけないってことはないと思いますけどね。
24時間テレビを止めろという人は、24時間テレビで集まる募金の総額と同じぐらい募金が集まる企画を考えろ、と言いたいですね。
で、考えました。笑。
そもそも24時間テレビの何が問題なのかというと、民放のテレビ局でやっていることなんですよ。
民放のテレビ局でやればどうしたってスポンサーの意向は気にしなくちゃいけないですからね。
こういったチャリティ番組はNHKでこそやるべきなんです。
NHKで年末に夕方の5時ぐらいから有名アーティストばかりが出演する、チャリティの歌番組を作ったらどうでしょうか。
もちろん出演アーティストは全員ノーギャラ。
会場はどこかのドームを貸し切り、コンサート形式で番組は進め、チケットの収益は全額寄付。
これなら24時間テレビと同額か、それ以上の寄付金を見込めるのではないでしょうか。
よく、紅白歌合戦には(オファーを受けても)出ないアーティストっているじゃないですか。
わからないでもないんですよ、年末ですしね、働きたくないのもわかる。
でもチャリティと名のつく番組ではどうですかね?
かなり断りにくいのではないかと思うのですが、、、どうかな。笑。
「24時間テレビ」私はなんの興味もないですから見てません。
出るタレントとは「ノーギャラで出ろ」これはおかしいという、せぷさんのご意見は賛成です。だったら、福祉の仕事に人は賃金なしで働けといってるみたいです。タレントも福祉の人も生活しなければなりません。
「反対するなら代案を」というご意見は賛同できません。
解説者とか評論家とかいう人がいます。せぷさんお好みの映画評論家柳下毅一郎。柳下さんは映画は創らないですね。
冒険小説なら北上次郎さん内藤陳さん、SFなら大森望さん。かれらは評論するけど小説は書かないですね。大森がSFの評論してら、だったらお前がSFを書いてみろとはいいませんね。
反対するなら代案を出せ。となると野党は不要ということになります。
反対するにしても、否定するにしても、より良い何かを生み出すためであれば許されると思います。
しかしそうではなく、ただ反対するだけ、ただ否定するだけというのは不毛で愚かしいことだと言っているのです。
評論家の例えはよくわかりません。
評論というのは別にその作品を否定することではないですよね?
どちらかというとより良い作品作りの手助けをしているのではないのですか。
それがなぜ評論家に対して映画を作れ、小説を書けということになるのか…。
自分は本文でそんなことを言っているつもりはありません。
野党の政治家にしても政権を担うことになればそれなりの政策や理想を持ち合わせているのではないでしょうか。
野党が与党のやることを反対するだけの存在であればそれこそ不要だと思います