3月11日 追悼の日
いわき芸術文化交流館・アリオスで、東日本大震災犠牲者追悼式が執り行われた。
以前にも書きコしたが、小生、2011年3月11日、スーパーひたち(当時)で江戸に向かっていた。羽鳥駅約1キロ手前で急停車、電車の車体が弾むように揺れ、そこから羽鳥駅まで線路上を歩き、その日は小美玉市の小学校で避難生活であった。携帯のテレビで、津波の状況が刻一刻と入ってきた。ただ、あれほどの被害者になるとは、その時点では想定もできなかった。避難所となった体育館ではラジオが流され、津波被害もさることながら、原発の非常事態宣言が、より大きな情報として流されてきた記憶がある。いわきまで戻るとき、タクシーの運ちゃんが「爆発したよ」と何気に言ったことを思い出す。
あれから6年、復旧・復興は進む。原発の避難区域でも避難解除されてきている。
残すところは「心」だ。「心」が復興しなければ、真の復興ではない。
6年目の命日 合掌
いわき芸術文化交流館・アリオスで、東日本大震災犠牲者追悼式が執り行われた。
以前にも書きコしたが、小生、2011年3月11日、スーパーひたち(当時)で江戸に向かっていた。羽鳥駅約1キロ手前で急停車、電車の車体が弾むように揺れ、そこから羽鳥駅まで線路上を歩き、その日は小美玉市の小学校で避難生活であった。携帯のテレビで、津波の状況が刻一刻と入ってきた。ただ、あれほどの被害者になるとは、その時点では想定もできなかった。避難所となった体育館ではラジオが流され、津波被害もさることながら、原発の非常事態宣言が、より大きな情報として流されてきた記憶がある。いわきまで戻るとき、タクシーの運ちゃんが「爆発したよ」と何気に言ったことを思い出す。
あれから6年、復旧・復興は進む。原発の避難区域でも避難解除されてきている。
残すところは「心」だ。「心」が復興しなければ、真の復興ではない。
6年目の命日 合掌
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