慶に頼まれて、入院患者である5年生の女の子、山崎ゆみこちゃんの勉強を見るようになってから、一ヶ月になる。なんとか数字に対する理解が進み、光が見えてきた感じがする。
ゆみこちゃんにおれを紹介したのは、慶の独断なので、一患者に対して特別な措置をしたということが他の患者さんや病院側にバレるとまずいらしい。それなのに、真木さんにだけは話してたんだ……と思うと心臓が痛くなる。まあ、おれと真木さんは顔見知りなので、病院内で会ってしまったときに不審がられないように、という配慮からなんだろうけど……それでもやっぱり、慶にとって真木さんは特別なのかな……と思ったりして、心中穏やかではいられない。
11月最後の日曜日。
今日も、夕方からゆみこちゃんとプレイルームの片隅で勉強をしていたのだけれども……
「あ、そうそう!渋谷先生、彼女できたんだって?」
「は?! ……あ」
ゆみこちゃんの発言に思わず大声で叫んでしまい、慌てて口を閉じる。
「それどこ情報?」
「看護婦さんが言ってたよー」
「そう……」
慶は大学生の時は「好きな人がいる」と言って、言い寄ってくる女どもの誘いを断っていた。病院で働くようになってからも、それを続けていると聞いていたけど、変えたのかな……
うーん、と思っていたら、ゆみこちゃんがケロリと言った。
「なんかね、真木先生が『渋谷先生は彼女いるんだから、誘ったりしたらダメだよ』ってみんなに言ったんだって」
「……………」
…………。
…………。
…………。
真木ーーーーー!!!
再び叫びそうになり、グッと抑える。
(くそ……やられた)
そうやって、女性陣を排除して男である自分だけがそばにいようって魂胆、ミエミエだ!!
「それで、渋谷先生はなんて?」
「笑ってたって」
笑ってた?
「違うって言わなかったから、本当なんだねーってみんな言ってるんだって。ねえ、浩介くんは知ってた?」
「うん、まあ…………」
笑ってた……笑ってた、か………
そこへ、「あ!」とゆみこちゃんが叫んだ。
「噂をすれば渋谷先生ー」
「……っ」
視線の先、白衣姿の慶……。あいかわらずの眩しいオーラ。かっこいい。
(…………慶)
でも慶は、こちらに一瞬手をあげただけで、ものすごい勢いの早歩きで行ってしまった。
「なんかあったのかな……」
「あったんだろうね……」
他の先生や看護師さんも数人、バタバタと同じ方向に向かっている……
「大きい事故があったらしいよー」
「これから救急車何台も来るとか言ってた」
他のお見舞いの人達が他人事のように言っている。まあ実際、他人事なんだけど……
(でも、慶にとっては他人事じゃない)
慶は、人の命を預かる仕事をしてるんだ……
すごい……すごいな……
すーっと、自分が遠くなる。昔よくなっていたブラウン管の中に放り込まれる……まではいかないけれど、それに近い感じ。おれ、どうしてここにいるんだっけ………
「浩介くん?」
「…………あ」
ゆみこちゃんに目の前で手を振られて、我に返る。そうだ。おれは慶に頼まれてゆみこちゃんの勉強を……
「……続き、しようか?」
「うん!退院するまでに5年生に追いつきたいな~」
「頑張ろうね」
言いながらも、どこか遠い……
ゆみこちゃんも遠い。慶は、もっと遠い……
***
12月に入ってすぐ、期末試験が行われた。
この一ヶ月、バスケ部を休部して試験に挑んだ一年生の関口君。本人的には頑張ったつもり、らしいけれども、母親が望んだ結果にはほど遠かった。
「退部させます」
学校にやってきて、そう言い切った母親をなんとか説得しようとしている最中、
「桜井先生、出身大学は?」
唐突に聞かれた。その高圧的な態度に若干びびりながら大学名を答えると、今度は出身高校を訊ねられた。
「神奈川県立白浜高校ですけど……」
「白高? へえ……」
知ってるらしい反応。一応、県内トップレベルの高校なので、教育ママならば知っていてもおかしくはない……
「大学には現役で?」
「はい……」
「へえ……」
ジロジロ、となぜか上から下まで見られ……
「高校時代、部活は?」
「3年間バスケ部でした」
「そう………」
もしかして、これは辞めなくてもいい方向に話を持っていけるのでは………と、期待したのも束の間。
「じゃあ、先生には私たちの気持ちは分からないわね」
「え?」
いきなり断言され、ポカンとしてしまう。
「白浜高校に入れる頭があって。バスケ部3年間やってもW大に現役合格して。学校の先生になれて。さぞかしご両親自慢の息子さんなんでしょうね」
「そんなことは……」
あるわけがない。おれは将来は弁護士に、という親の期待を裏切った。そして、諦めきれない母親にいまだに執着されて、職場にも迷惑をかけていて…………
「うちの子は高校受験失敗して、滑り止めだったこの高校に入って……、はじめは上位にいたのに、周りに影響されて遊んでばかりで、ずるずる成績が落ちていって……」
「…………」
「私立は面倒見がいいから塾には入れなくていいって言うのを鵜呑みにして、塾に入れなかったのがまずかったのかしら……。でもこれ以上お金がかかるのは……」
頬に手をあて、ブツブツと言い続ける関口君の母親。関口君はその横で半笑い、といった表情……。
『ホント桜井、使えねえ……』
彼が友達にこぼしていた言葉が脳裏をよぎる。このままでは本当に、おれはただの使えない顧問、になってしまう。
おれの高校の時のバスケ部顧問の上野先生は、おれの母親を説得して、学校に押しかけることをやめさせてくれたのだ。おれも上野先生みたいに……上野先生みたいに……っ
「あのっ」
「あー、もう、いいよ」
おれが口を開いたのと同時に、ふいっと立ち上がった関口君。
「辞めるよ。辞めればいいんだろ?うるせーなあ」
「ちょっと、友哉……っ」
「関口君!」
面談室から出て行こうとする関口君を慌ててひきとめる。今、ここで辞めたって何もいいことはない……っ
「休部している間、関口君はどのくらい勉強してた?」
「え?」
キョトンと振り返った関口君。
「どのくらいって……普通くらい」
「普通って?何時間?」
「え………」
目をパシパシさせる関口君に、畳みかけるように言ってやる。
「おれは高校生の時、家にいる間は、食事と風呂以外、ずっと机に向かってたよ」
「え」
「親に対して勉強してる姿見せるようにしてた。おれも高校の時、成績が少しでも下がったら部活やめろって脅されてたから」
「脅しってそんな」
眉を寄せた母親に向き直る。
「言葉が悪くて申し訳ありません。でも、脅し、としか思えなかったんです」
「それは………」
母親が何か言う前に、関口君がドアから手を離し、こちらを真っ直ぐ向いた。
「先生……何がいいたいわけ? オレの勉強時間が足りないって説教?」
「それもあるけど、それだけじゃない」
首を振る。
「関口君、前にも言ったけど……、きちんと授業聞いてる?予習復習してる?分からないところ先生に聞きにいってる?」
「…………」
関口君、休部してすぐに話した時は不貞腐れた顔をしてそっぽを向いていたけれど、今は下唇を噛みしめてこっちを睨んでいる。
『この子は高校受験失敗して、滑り止めだったこの高校に入って……』
先ほどの母親の言葉を思い出す。滑り止めで入った高校で落ちこぼれていくことは、本人も母親もプライドが許さなかったのだろう……
「もしかして、関口君って中学まではたいして勉強しなくても出来ちゃう子だったんじゃない? だから、勉強につまづくの初めてで、どうしたらいいのか分からないんでしょう?」
はっとしたような顔をした関口君。やっぱりか。
「そういうときこそ、先生を頼ってよ」
「…………」
「効率よく勉強できたら、部活だって辞める必要ないと思うんだよ」
「…………」
「明日からの補習授業ちゃんと出て? 立て直そうよ。今ならまだ間に合うから」
「…………」
関口君は下唇を噛みしめたまま、無言で部屋から出ていってしまった。
残されたおれと関口君の母親の間に沈黙が流れる……
何を言えば、この人を説得出来るんだろう……。おれの母に似ているこの人に何を言えば……。
「じゃあ、先生、私も……」
「あ、あの……っ」
席を立とうとする関口君の母親を慌てて引きとめる。
「あの……、息子さんともう少し話し合っていただけませんか?」
「…………」
「関口君、部活とても頑張っていたんです。チームメイトとも仲良くて……」
「そうやって仲良く遊んで、今度は大学受験に失敗したら、どうするんですか」
ピシャリと言われ、詰まってしまう。
「それは……」
「子供を正しい道に導くのが親のつとめです」
「………………」
ああ……本当に似てるな。うちの母と話してるみたいだ……
自分の思い描く「正しい道」を強要しようとする、おれのハハオヤ……
「あの……」
出ていこうとする関口君の母親の後ろ姿に、ポツリと言う。
「先ほど関口さんは、私のことを両親自慢の息子だっておっしゃいましたけど……そんなこと全然ないんです」
「は?」
眉を寄せた母親に、首を振ってみせる。
「私の親の希望は、私が弁護士になって父の事務所を継ぐことだったのに、それを裏切って教職の道にすすんだので……」
「それは……」
半笑い、の母親。先ほどの関口君みたいだ。
「ご両親の希望と先生の希望が違っただけで、この学校の先生だったら充分自慢の……」
「いえ。両親にとっては弁護士でない息子はただの出来損ないです」
「そんなこと……」
「あります」
おれも半笑い、で言う。
「父とは何年も口をきいてませんし、母はいまだに私を弁護士にすることを諦めていない」
「え………」
目をみはった関口君の母親に淡々と続ける。
「母は、それが私にとっての『正しい道』だと思っているんです。……いえ、私にとって、ではなく、母にとって、ですね」
「…………」
「ずっとです。小さい頃からずっと。母は私に『正しい道』を押しつけてきていた」
「………」
「私はそんな母が大嫌いでした。今も、憎んでいるといってもいい」
「!」
ハッと息を飲む音が聞こえた。
「どうか、もう少し、息子さんの気持ちも考えていただけないでしょうか。将来が大事なのと同じように、今も大事だと思うんです」
「…………」
「今後のこと、息子さんと話し合っていただけないでしょうか」
お願いします、と頭を下げると、関口君の母親も、息子同様に無言で部屋から出て行ってしまった。
「あー………」
どっと体中の力が抜ける。何が正しいのかは分からない。でも大人になった関口君が高校時代を振り返った時に、親のせいで少しも楽しくなかった、と思うようなことだけは避けてあげたいのだ。
翌日の補習授業、関口君はきちんと出席したらしい。
「オレも親に『勉強してるアピール』することにしたよ」
社会科準備室にわざわざ来て報告してくれた関口君。へへへ、と照れたように笑っている。
「これ以上成績下がったら、バスケ部本当にやめさせるって脅されたからさ」
「そっか」
辞めさせるってことは辞めないでいいってことだ。
「明後日の練習から復帰するから」
「うん。頑張ろうね」
ホッとした。おれの母親と似てる、と思ったけれど、母とは違って、ちゃんと理解のある人だったんだ……
と、安心していたのだけれども……。
その翌日、校長室に呼ばれた。入室すると、学年主任の吉田先生と一年担任の藤井先生もいて……、吉田先生、ものすごく渋い顔をしている。同じように渋い顔の校長がボソリ、と言った。
「一年の関口友哉の父親からクレームの電話が入った」
「え」
父親……
「部活を辞めさせてもらえなかった、と。これで成績が下がったら誰が責任をとるんだ、と」
「……………」
誰が責任って……
「学校生活の充実はもちろん結構だけれども……、学校側の一番の目標は学力向上だということは分かっているよね?」
「………はい」
それはもう……この5年半で思い知らされた。
「それが生徒の将来にとって一番役立つことなんだからね? 余計なことはしないように。辞めるという生徒を引き留める必要はどこにもない」
「でも、関口友哉に辞める意思は……」
「生徒の意思より、保護者の意向を優先しなさい」
「…………」
そんな……そんなの……
へへへ、と嬉しそうに笑っていた関口君の顔が浮かんでくる。
ああ……やっぱりおれは、生徒を守ることもできない、出来損ないの使えない教師だ。
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お読みくださりありがとうございました!
これでもかというほど真面目な話……すみません……
お読みくださった皆様に、深く深く感謝申し上げます。
今日は、横浜市開港記念日のため、横浜市立の学校はお休みです。
横浜市立の小学校中学校に通っていた人は、ほぼほぼみんな「横浜市歌」を歌えます。何かにつけて歌うのでね~~。
作詞は「森林太郎」またの名を「森鴎外」。私もいまだに3番までちゃんと覚えてます。
ちなみに浩介君は横浜生まれ横浜育ちですが、私立の幼稚園・小学校・中学校、高校は県立だったため、歌えません!
成人式で、みんなが普通に横浜市歌を歌っていることに、相当の疎外感を味わったそうです^^;
ちなみに成人式は、1974年生まれの浩介達の時は、横浜アリーナで3回に分かれて行われました。
ということで……
クリックしてくださった方々、読んでくださった方々、本当にありがとうございます!!
次回、火曜日。よろしくければどうぞお願いいたします!
クリックしてくださった方、読みにきてくださった方、本当にありがとうございます!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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