バレンタインの夜……
「あれ? 渋谷先生、当直なんだ? 彼女放っておいていいのー?」
「………………」
真木さんのわざとらしい言い方に苦笑してしまう。近くにいた看護師チームからも笑い声とツッコミが飛んできた。
「ですよねー? 彼女かわいそう~」
「あ、いや、向こうも仕事なんで……」
本当のことを答える。
浩介は毎年この期間は勤めている高校の入試があるため、その準備やら採点やらでものすごく忙しいのだ。今年は今日で落ち着くらしいので、明日の夜会うことになっている。
「真木先生は何しにきたんですか?」
今日も明日も勉強会も研修会もないはず。大阪からわざわざどうしたんだろう?おれが知らない集まりとかあったのかな?と思ったら、ピースサインを返された。
「もちろん、東京の恋人たちのチョコレートを回収しにきたんだよ」
「回収って、キャバクラ行くってことですよね?」
看護師の早坂さんのツッコミに、みんなクスクス笑っている。
真木さんはゲイなことを職場では隠している。何もしなくても女性が寄ってくる容姿をしているため、女避けの意味で「キャバクラ好き」を公言しているらしい。
「そうそう。渋谷先生も仕事じゃなければ誘ったのになー」
「やだ先生、彼女いる人誘わないで~」
「渋谷先生、誘われても行っちゃダメだからね!」
口々に好き勝手言われることにもどこ吹く風、で、真木先生は、
「慶君、ご飯これから? 一緒いこう?」
と、にこにこと言ってきた。聞きたいことがあったからちょうどいい。真木さんはおれと違って医師としての知識も経験値も高く、人脈も広い。性格は変わっているところがあるけれど、医師としては尊敬する人の1人だ。
「すみません、食堂に行ってきます。30分で戻りますけど、何かあったら電話ください」
看護師さん達に声をかけ、真木さんと並び立つ。その背中に、また冷やかしの声をかけられた。
「真木先生、渋谷先生に変なこと教えないでくださいよー?」
「大丈夫~。役に立つことしか教えないから~」
真木さん、あはは、と笑って女性陣に手を振っている。でも、エレベーターに乗り込んだ途端、ぽん、とおれの頭に手を置いて、顔をのぞきこんできた。
「なんか悩みありますって顔してるよ? 大丈夫?」
「……………」
こういうところも、かなわないなあ……と思う。
おれより6歳年上の真木さん。おれも6年たったらこんな風になれるのだろうか……
***
次の日の夜……
前からの約束通り、浩介は最近ネットで評判だというチョコレートケーキを持っておれの部屋に遊びにきてくれた。こうしてバレンタインのチョコを一緒に食べるのも、もう12回目だ。
この数日、残業続きだった浩介は、まだ少し顔色が冴えない。大変だったんだろうなあ……
「大丈夫か?」
「うん……。3年生の担任よりは全然マシなんだけどね。3年は大学受験あるから、この時期はそのことでも気が休まらないから」
「だよなあ……」
思えば、高校時代、無謀な医学部受験を言い出したおれは、担任の先生にとって頭の痛い生徒だったろうなあ。
「お前、今2年生だっけ?」
「うん」
「来年度、持ち上がりで3年になったりするのかな? そしたら大変だな」
「ああ……」
ぼんやりと肯いた浩介。なんとなく、心ここにあらず、だ。受け答えに時差がある。なんだろう?
「浩介? お前、なんか……」
「お風呂入ろ?」
「え?」
おれの言葉を遮って、浩介が突然立ち上がった。
「慶の体、洗いたい。いいでしょ?」
「は?」
「早く。行こ?」
「???」
珍しい。まだコーヒー残ってるのに……
「慶、早く」
少し焦っているようにおれの名前を呼ぶ浩介。なんだろう……やっぱり、変だ。
脱衣所で、浩介は一瞬躊躇して……それから意を決したように下着に手をかけた。
(やっぱり……ない)
その背中を見て、心の中で息をつく。
本人は、自分の背中にアザがあると信じている。それが心因性のものではないか、とまで言っている。でも、違う。アザなんて存在していない。本人にしか見えていないのだ。
**
「幻覚症状は、否定しないのが基本、ですよね?」
前日、食堂で席につくなり真木さんに聞いたところ、「そうだね」と大きく肯かれた。
「否定は混乱を招くからね。受け入れるのが基本」
「…………」
「患者さん? 何か見えるとか聞こえるとか?」
「あの……今のところ幻視だけみたいなんですけど……」
どこまで具体的に話すか迷うけれど、話さなければ答えももらえない。
「本人は、自分にはアザがある、と信じていて。でもそんなもの存在していないんです」
「…………」
「これ、本人に、そんなものはない。自分に見えているだけだって言ったら、楽になったり……」
「しないと思うよ」
アッサリと真木さんは首を振った。
「嘘ついてる、と思われるよ。自分を慰めるために、そんなものはないって言ってるんだって」
「でも、信頼関係があったら……」
「混乱するだけだよ」
「……………」
「もしくは、自分の頭がおかしいんだ、と追い詰められるか」
「……………」
そうか……そうだよな……。
「ちなみに、真木さんはこういう患者さんの経験……」
「あるよ」
真木さんの肯きに、あるんだ!と思わずがっついてしまう。
「あのっ、その人は……」
「小学校3年生の女の子だったんだけどね。腕に傷があるのを隠すために長袖しか着ない。体操着も半袖は着たくないって言って、お母さんが困ってて……」
「で?! 先生はどう……」
「薬を出したよ」
真木さん、涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。
「薬?」
「単なる保湿剤だけどね。寝る前と、朝起きてから、毎日塗ってあげてくださいって、お母さんにお願いした」
「………」
「その子、弟が生まれたばかりでね。お母さんに構ってほしかったんだろうね。そうやって、朝晩の数分だけでも、お母さんを独占できる時間ができたら、自然と幻視もなくなった」
「そう……ですか……」
薬か……
でも……
「でも、これは、相手が小学生だからできた方法だよ。今は、自分に処方された薬が何の薬かなんていくらでも調べられる。大人に対してこの方法は難しいと思う」
「………ですよね」
思わず、ため息をつくと、真木さんはふっと目元を和らげた。
「冷めちゃうよ? 食べたら?」
「はい……」
カレーを一口食べる。……と、ジーッとこちらをみている真木さんの視線が突き刺さり……
「あの……真木さん夕飯本当にいらないんですか?」
「これから約束があるからそっちで食べるよ」
「え、時間大丈夫ですか?」
もうすぐ8時だ。
真木さんは、ニコニコで肯くと、
「大丈夫大丈夫。あーでも少しお腹空いてきたなー」
「おれなんか買ってきましょうか?」
立ち上がりかけると、いやいや、と手を振られた。
「いいよいいよ。それより、そのカレー一口ちょうだい?」
「え?」
はい? と言ったおれの目の前で、真木さん、口をあけると、
「はい。あーーーーん」
と、自分の口を指でさしている。この人、やっぱり…………変だ。
「あげませんよ……」
「なんだ。つまらない」
子供みたいにぷうっと頬を膨らませた真木さん。本当に変な人だな……とおかしくなってくる。
(浩介……)
ふいに思いだす。先月、鍋の鶏肉、あーんってして食べさせてくれたんだよなあ……
「あの…………真木さん」
カレーの続きを食べつつ問いかける。
「そのアザ、幼少期の辛い記憶が原因みたいなんですけど……」
「うん」
「そういう辛い記憶を消すには、どうしたら……」
「消すことはできないよ」
「え」
あっさり断言されて言葉を失ってしまう。
できないって……
「でもね」
呆然としたおれに、真木さんが淡々と言う。
「消すことはできなくても、薄めることはできる」
「薄める?」
「そう。例えば、このコーヒー」
コップを差し出される。残りあと一口の黒い液体。
「これにミルクを入れると……」
真木さんの長い指がミルクの容器を開けて白い液体をコップに注ぎ込む。ミルクに染まっていくコーヒー……
「ね?」
にこっとする真木さん。
「白い記憶でいっぱいにすれば、黒い記憶は薄くなっていく」
「………………」
「君が白でいっぱいにしてあげればいいんじゃない?」
白で…………
「なにしろ君は、白い天使だからねえ。うってつけだよ」
「……は?」
また意味わかんないこと言い出したぞ、この人……
「今日会う子も、なかなかの天使君なんだけど………、ああ、やっぱり今日、慶君に会いにくるんじゃなかったなあ」
真木さんは、おれの顔を見てから、はあ……と、大きくため息をついた。会いにくるんじゃなかったって……
「あの……」
「やっぱり君はレベルが高すぎる。君に会っていなければ、チヒロでも満足できたかもしれないのに……」
「チヒロ?」
「君と顔はまあまあ似てるけど、中身は真逆の子」
「?」
何の話だ? 今日会うという人のことか?
首を傾げっぱなしでいたら、真木さんは「ああ、ごめん」と手を振ってきた。
「なんでもない。こっちの話。慶くんは、とにかく頑張って」
「え、あ」
ありがとうございます、という言葉にかぶさるように、真木さんはコーヒーを飲み干し、
「うわ、甘い……」
と、ぶつくさ言いながら行ってしまった。そういえば、真木さん、いったい何しにきたんだろう……。
(ま、いっか……)
おかげでヒントはもらえた。
『白い記憶でいっぱいにすれば、黒い記憶は薄くなっていく』
おれが、浩介の黒い記憶を薄く薄く薄く、思い出せないくらい、薄くしてやる。
***
『慶の体、洗いたい』
という宣言通り、浩介は風呂の縁におれを腰かけさせて、優しく優しく体中を洗ってくれた。足の指の一本一本も、耳の後ろの窪みも、全部。
「あのさ……」
「ん?」
「あ……んんっ」
おれが何か話そうとするたびに、わざとのように(いや、絶対わざとだ)、感じるところを撫で上げたり、キスをしたりして妨害してくる浩介……。いったいなんなんだ! なんか最近、こうやって色々誤魔化されている気がしてならない。
なし崩しにそのまま風呂で一回抜かれ、上がった後は、温まったのと、疲れているのと疲れたので、朦朧としてきてしまい……、その上、パジャマを着せられ、浩介がいつものように、髪の毛を乾かしてくれたりするから、もう気持ち良すぎて……
「慶?」
ウトウトしているところに、耳元で優しくささやかれる。
「もう寝ようね? 歯、磨こ?」
「……まだ寝ねーよ」
しまった。このままではまた、知らない間に寝ていて、知らない間に浩介は帰ってしまう。冗談じゃない。
「でも……」
「お前、やってねえじゃん」
「おれはいいよ……、って、痛っ」
思いきり腕を引っ張って、浩介をベッドに投げ飛ばす。
「もう、乱暴だなあ……」
苦笑した浩介に馬乗りになり、手を顔の横について覗き込む。
「なんかモヤモヤすんだよ」
「モヤモヤ?」
「お前、やっぱなんか変だから」
「…………」
浩介は瞳をそらさず、真っ直ぐにこちらを見てきた。まるで、そらしたら負け、みたいに。
「何が変?」
「何がって……なんとなく変」
「なにそれ」
ふっと笑った浩介の手が、ツーッとおれの頬を撫でてくる。
「別に変なつもりはないんだけど……変かな?」
「おお。変だぞ」
「うーん……やっぱり変かあ。だから、アザとかできちゃうのかなあ……」
寂しそうに笑う浩介……。
もう、こんな顔させたくない。
…………。よし!やってやる!
「その件について、おれに考えがある!」
「え?」
キョトンとした浩介の体を一回引っ張りあげ、力任せにひっくり返してうつ伏せにする。
「え、ちょ、慶!?」
「そのまま!」
起き上がろうとする浩介の肩を足で押さえつける。
「正直言って、お前のアザ、おれは全然気にならない」
「…………」
「たぶん、温泉とかプールとかで見られたって、他の奴も誰もそんなの気にしねえだろう」
「それ、高校の時も言ってたね」
小さく笑った浩介。
そんなこと言ったっけ? 覚えてない。……まあいいか。
浩介のパジャマの裾をめくりながら言葉を続ける。
「でも、お前が気になるってんならさ」
「…………うん」
泣きそうな声……。もう、そんな声、出させない。
浩介の傷一つない綺麗な背中を撫で上げる。
「おれが、お前に新しいアザ、つけてやる」
他の誰でもない、おれのしるしを、お前の背中に付けてやる。
「お前がこれから見るアザは、全部、おれのしるしだ」
「…………」
息を飲んだ気配………
「全部、おれの痕だ」
腹の下に手を回し、背中を少し丸くさせる。滑らかな背中をゆっくりなでる。
「いいな?」
「…………」
小さくうなずいた浩介……。そっと、背中に唇をあてる。
「痛いって言ってもやめねえからな」
「……………」
また、無言でうなずいた浩介。枕に顔を埋めているから、どんな顔をしているかは見えない。見えないけど……たぶん泣きそうな顔をしているのだろう。
「よし。覚悟しろ」
「………っ」
思いきり歯を立てる。と、浩介の体がビクッと震えた。でも、構わず、少し場所をずらしてまた歯を立てる。
「慶……っ」
こちらに伸ばしてきた手をぎゅっと握り返す。
「浩介………」
お前の黒い記憶は、おれが白くぬりかえてやる。
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お読みくださりありがとうございました!
浩介さん、この時点ではすでに、ケニア行き決定して、学校へ退職願いも出してあります。
でも、慶には言えない。言って「行くな」と言われたら困るから。
でも、会いたい。会ってトロトロに甘やかしたい。甘えたい。
でも、また殺意が芽生えることが怖くて、泊まることはできない……
という複雑な状況です。
残すところあと2回くらい。これが終わったら、9月中旬までお休みをいただこうかと思っております。
真木先生とチヒロの話が書きたくなってきました。ベタ過ぎて面白くないけど、自分が読みたいから書こうかな、と^^;
クリックしてくださった方々、見にきてくださった方々、本当にありがとうございます!
更新できない日もチラリと覗いては、ものすっごく励ましていただいております。本当に本当にありがとうございます!!
次回は火曜日。よろしくければどうぞお願いいたします!
クリックしてくださった方、読みにきてくださった方、本当にありがとうございます!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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