【哲成視点】
8月の強い日射しの中、引っ越し作業が無事に完了した。
「結婚の予定でもあるの?」
と、梨華に聞かれたのは、一人暮らしには贅沢な間取りと、ダブルベッドのせいだろう。
「いや。広いのは友達たくさん呼ぶためで、ダブルベッドは、花梨と一緒に寝るためだよ」
しれっと答えてやったら、梨華は呆れたように、
「一緒に寝るなんてあと数年だよ?」
と、言ったけれど、それ以上の追求はしてこなかったので助かった。
まさか、享吾と一緒に住むためなんて言えるわけがない。
権利書を見られたらバレてしまうけれど、このマンションは享吾と二分の一ずつの権利で購入したのだ。ローンもそれで審査を通した。
でも、表向きは、オレ一人のものとしていて、マンションの管理組合の登録もオレだけの名前にしてある。享吾の住所は、歌子さんとの家のままで、うちには「泊まりにきている」だけ、ということだ。
リビングのソファーをベッドにもできる大きめのリクライニングソファにしたので、花梨が泊まりに来た日には、享吾にはこちらで寝てもらうけれど、普段はもちろん、ダブルベッドで一緒に寝ることに…………
「今晩が初夜?」
「……っ」
歌子さんにコソコソッと言われて、飲んでいたワインを吹き出しそうになってしまった。
「何を……っ」
「だって、享吾君に聞いたら、冷たーい目するだけで答えてくれないから、まだしてないのかなーと思って」
「今晩が初夜?」
「……っ」
歌子さんにコソコソッと言われて、飲んでいたワインを吹き出しそうになってしまった。
「何を……っ」
「だって、享吾君に聞いたら、冷たーい目するだけで答えてくれないから、まだしてないのかなーと思って」
あくまで真面目な顔をしている歌子さん。ここは歌子さんと享吾が経営しているワインバーだ。まだ開店直後で人も少ないし、常連のトオルさん達が盛り上がっているから、こちらの声が聞こえる心配はない。
歌子さんが小声で言葉を継いでくる。
「もしかして、今晩からようやく一緒に暮らすから、今晩を初夜にするつもりかなあと」
「…………」
確かに……まだしていない、とは言える。でも何もしていないわけではない。
三週間前……
『……したい』
勇気を出して言ったオレに、享吾はしばらくの沈黙のあと、
『何がしたい?』
と、聞いてきた。大学生の時と同じだ。あの時は「裸でくっつきたい」と返答したけれど、さすがにもう、知識は増えて、何をするのかは分かっている。けれど……何をどうしてどうするのかまでは、イマイチ想像しきれていないというかなんというか。そもそもどっちがする側なのかされる側なのか、そういうのって、どうやって決めてるんだ?っていうか、本当にできるのか?痛くないのか?とかグルグルしてしまう。
と、いうことで。
『キョウがしたいと思うことをしたい』
と、思いきり、投げてみた。責任転嫁だ。すると……
『分かった』
と、享吾は少し笑ってから、体中に優しくたくさんキスしてくれて、それからそれから……
(ああ……まずいまずい)
思い出して体の芯が疼きそうになり、慌てて回想に蓋をする……けれど、止まらない。
(前みたいに、一緒にくっつけて持って一緒にイカせてくれたり……先週なんて、また、口で……)
って、いかんいかんいかんっ。思い出すな!
いわゆる「最後まで」はしていないけれど、この3週間の週末泊まりに来た3回は、ガッツリとイチャイチャベタベタして、蕩けるほどの快楽を与えられて……
(…………って)
ふ、と嫌なことを思いついてしまった。
(享吾って、歌子さんとはそういうことしてないから、まだ経験ないって言ってたけど……)
本当に、本当にそうなんだろうか。
実は、こんな感じで、最後まではしていないまでも、このぐらいのことはしていたんじゃないだろうか。
(なんか、手慣れてる感じもするし……)
そう思ったら、フツフツと不快感が増してきて……
「あの……歌子さん?」
思わず、口に出していた。
「歌子さんは、本当にいいんですか? オレとキョウがそういうことするの、ムカついたり……」
「ないない……って、あ」
手を勢いよく振ってから、「あ」とその手を口に当てた歌子さん。やっぱり美人だなと思う。こんな美人と19年も夫婦してきて、やっぱり何もないわけないだろ……と思ったら、
「もしかして……哲成君、私のこと聞いてない?」
「え?」
歌子さんの問いかけにハテ?と首を傾げる。私のことって何だ?
「やだ。言っていいのに。それじゃ、哲成君、不思議だよね?」
「不思議?」
ハテナ?ハテナ?と更に首を傾げたオレに、歌子さんは、意味の分からないことを、言った。
「安心して? 私、アセクシュアルだから」
***
アセクシュアル。
初めて聞いた言葉だった。性愛感情を持たない人のことを言うらしい。
歌子さんが淡々と話してくれた話は、分かるようで分からないようで……でも、一つ分かったことは、歌子さんは享吾にとても感謝しているということだ。自分のことを「大きな愛を持っている人」と言ってくれた享吾の言葉に救われたのだという。
でも、「何で結婚したんだ?」という疑問は残る。享吾はお母さんを安心させるためだとしても、歌子さんは……?と思っていたら、心の中を読んだかのように、歌子さんが言った。
「元々、享吾君が私と結婚したのは、この店を譲り受けるためだったってことは知ってた?」
「え」
結婚して、歌子さんの父親から譲られたことは知っていたけれど、その「ため」ってことは、順序が逆なのか?
「父がこの店を辞めるって言いだして……そうしたら、享吾君、この店が無くなったら哲成君と過ごす場所がなくなるから困るって言ってね」
「え」
「それで、父に、店を潰さないでってお願いしたら、娘と結婚するならこの店譲ってやるって父が……」
歌子さんは苦笑気味に言葉を継いだ。
「うちは母もいないし兄弟もいないから。父も、自分がいなくなったあとに私が一人になることが心配だったのよね。それで、交換条件みたいにそんなこと言いだして……」
「………」
「それで……私も、私を救ってくれた享吾君には何かしてあげたいって気持ちが大きかったから」
「…………」
「…………」
「…………」
そんな……この結婚は、オレのためだったのか。
驚きの連続で言葉を失っているオレに、歌子さんは、ふっと笑いかけてきた。
「ごめんなさい。ちょっと嘘ついた」
「え?」
嘘?
「嘘っていうか……結婚したのは、もちろん享吾君のためにって気持ちがあったからなんだけど……」
「…………」
「正直に言うと、一人で生計を立てていく自信がなかったから、享吾君を頼ったってところも、大きい」
「ああ……なるほど」
女性一人でピアノ教室を立ち上げて経営していくのは大変だっただろう。
そうして一緒に生活して、助け合って、享吾の両親も安心させて……
「キョウが言ってました。歌子さんとはこういう形の家族だって」
「……そう」
歌子さんは目元を和らげると、軽く首を振った。
「本当は……哲成君と付き合うことになった今、享吾君と私、別れるべきだとは思うんだけど」
「いや、それは」
三週間前……
『……したい』
勇気を出して言ったオレに、享吾はしばらくの沈黙のあと、
『何がしたい?』
と、聞いてきた。大学生の時と同じだ。あの時は「裸でくっつきたい」と返答したけれど、さすがにもう、知識は増えて、何をするのかは分かっている。けれど……何をどうしてどうするのかまでは、イマイチ想像しきれていないというかなんというか。そもそもどっちがする側なのかされる側なのか、そういうのって、どうやって決めてるんだ?っていうか、本当にできるのか?痛くないのか?とかグルグルしてしまう。
と、いうことで。
『キョウがしたいと思うことをしたい』
と、思いきり、投げてみた。責任転嫁だ。すると……
『分かった』
と、享吾は少し笑ってから、体中に優しくたくさんキスしてくれて、それからそれから……
(ああ……まずいまずい)
思い出して体の芯が疼きそうになり、慌てて回想に蓋をする……けれど、止まらない。
(前みたいに、一緒にくっつけて持って一緒にイカせてくれたり……先週なんて、また、口で……)
って、いかんいかんいかんっ。思い出すな!
いわゆる「最後まで」はしていないけれど、この3週間の週末泊まりに来た3回は、ガッツリとイチャイチャベタベタして、蕩けるほどの快楽を与えられて……
(…………って)
ふ、と嫌なことを思いついてしまった。
(享吾って、歌子さんとはそういうことしてないから、まだ経験ないって言ってたけど……)
本当に、本当にそうなんだろうか。
実は、こんな感じで、最後まではしていないまでも、このぐらいのことはしていたんじゃないだろうか。
(なんか、手慣れてる感じもするし……)
そう思ったら、フツフツと不快感が増してきて……
「あの……歌子さん?」
思わず、口に出していた。
「歌子さんは、本当にいいんですか? オレとキョウがそういうことするの、ムカついたり……」
「ないない……って、あ」
手を勢いよく振ってから、「あ」とその手を口に当てた歌子さん。やっぱり美人だなと思う。こんな美人と19年も夫婦してきて、やっぱり何もないわけないだろ……と思ったら、
「もしかして……哲成君、私のこと聞いてない?」
「え?」
歌子さんの問いかけにハテ?と首を傾げる。私のことって何だ?
「やだ。言っていいのに。それじゃ、哲成君、不思議だよね?」
「不思議?」
ハテナ?ハテナ?と更に首を傾げたオレに、歌子さんは、意味の分からないことを、言った。
「安心して? 私、アセクシュアルだから」
***
アセクシュアル。
初めて聞いた言葉だった。性愛感情を持たない人のことを言うらしい。
歌子さんが淡々と話してくれた話は、分かるようで分からないようで……でも、一つ分かったことは、歌子さんは享吾にとても感謝しているということだ。自分のことを「大きな愛を持っている人」と言ってくれた享吾の言葉に救われたのだという。
でも、「何で結婚したんだ?」という疑問は残る。享吾はお母さんを安心させるためだとしても、歌子さんは……?と思っていたら、心の中を読んだかのように、歌子さんが言った。
「元々、享吾君が私と結婚したのは、この店を譲り受けるためだったってことは知ってた?」
「え」
結婚して、歌子さんの父親から譲られたことは知っていたけれど、その「ため」ってことは、順序が逆なのか?
「父がこの店を辞めるって言いだして……そうしたら、享吾君、この店が無くなったら哲成君と過ごす場所がなくなるから困るって言ってね」
「え」
「それで、父に、店を潰さないでってお願いしたら、娘と結婚するならこの店譲ってやるって父が……」
歌子さんは苦笑気味に言葉を継いだ。
「うちは母もいないし兄弟もいないから。父も、自分がいなくなったあとに私が一人になることが心配だったのよね。それで、交換条件みたいにそんなこと言いだして……」
「………」
「それで……私も、私を救ってくれた享吾君には何かしてあげたいって気持ちが大きかったから」
「…………」
「…………」
「…………」
そんな……この結婚は、オレのためだったのか。
驚きの連続で言葉を失っているオレに、歌子さんは、ふっと笑いかけてきた。
「ごめんなさい。ちょっと嘘ついた」
「え?」
嘘?
「嘘っていうか……結婚したのは、もちろん享吾君のためにって気持ちがあったからなんだけど……」
「…………」
「正直に言うと、一人で生計を立てていく自信がなかったから、享吾君を頼ったってところも、大きい」
「ああ……なるほど」
女性一人でピアノ教室を立ち上げて経営していくのは大変だっただろう。
そうして一緒に生活して、助け合って、享吾の両親も安心させて……
「キョウが言ってました。歌子さんとはこういう形の家族だって」
「……そう」
歌子さんは目元を和らげると、軽く首を振った。
「本当は……哲成君と付き合うことになった今、享吾君と私、別れるべきだとは思うんだけど」
「いや、それは」
オレは離婚には反対だ、と前にも言ってある。
歌子さんは、オレが言う前に、分かってる、というように、うんうん肯いた。
歌子さんは、オレが言う前に、分かってる、というように、うんうん肯いた。
「うん。そうなの。ありがとう。だからね」
パチン、と拝むように手を合わせた歌子さん。少しおどけたように言葉を継いだ。
「お言葉に甘えて、別れるのは無しでお願いしたいの。私も今の生活を維持していくのに享吾君の存在が必要で……それに正直、今さら別れるのは面倒」
「面倒って」
思わず笑ってしまう。面倒、とは正直な言葉だ。確かに、ピアノ教室の名前も「村上歌子音楽教室」だし、別れたら色々と面倒なことも多いだろう。
「それに、享吾君のご両親にも申し訳ないし」
「はい。それはもう」
思いきり首を縦に振ってしまう。オレの中では、それが離婚して欲しくない一番の理由だ。今さら離婚となって、享吾のご両親を悲しませたくない。
「じゃあ、利害一致ってことで、いいかな?」
「………はい」
コクリ、とうなずく。考えてみたら、こうして具体的にこの二重生活について歌子さんと話すのは初めてだ。享吾と歌子さんは話し合ってきたみたいだけれども、オレは、ずっと蚊帳の外だった。これでようやくスッキリした気がする。
「これからもよろしくね」
「よろしくお願いします」
どちらからともなく握手をしていたら……
「あら、楽しそう。どうしたの?」
いつの間に、享吾のお母さんが入店してきていた。後ろから、享吾とお父さんも入ってきたけれど、トオルさん達のところで足止めされている。
「哲成君、引っ越しが終わったっていうので、これから享吾君のことよろしくねって言ってたんです」
ケロリと歌子さんが言うので、ドキドキしてしまう。息子を蔑ろにして、とか怒られないんだろうか、と思ったら。
「あらそう! 本当に引っ越してきてくれたのね。良かったわ」
享吾のお母さんもニコニコと手を打った。
「享吾がこれからは家で仕事するっていうから、そんなんじゃ歌子さんの息が詰まっちゃうって心配だったのよ」
「え」
息が詰まっちゃうって……。
享吾はこの2年以上、ずっと家にいたけど……お母さん、知らないらしい。話しの感じからして、最近会社を辞めたと思っているようだ。
お母さんはニコニコしたままこちらを振り返った。
「村上君、是非たくさん、享吾のこと誘ってやってね?」
「え……あ……はい」
なんだかよく分からないけど、肯く。
と、享吾のお母さんと歌子さんは二人で笑いながら……自分たちの夫には聞こえないように、小さく言った。
「亭主元気で留守がいい、わよね?」
「ですね」
くすくすくす……と笑い合っている二人。仲が良い、本当の母娘みたいだ。お母さんがそんなこと言うなんて、こんな表情するなんて、すごく意外で……意外だけど、自由な感じがして、いい。歌子さんが義理の娘になって良かったな、と思う。そして、歌子さんにとっても、享吾の家族は家族なんだろうな、と思う。
ケロリと歌子さんが言うので、ドキドキしてしまう。息子を蔑ろにして、とか怒られないんだろうか、と思ったら。
「あらそう! 本当に引っ越してきてくれたのね。良かったわ」
享吾のお母さんもニコニコと手を打った。
「享吾がこれからは家で仕事するっていうから、そんなんじゃ歌子さんの息が詰まっちゃうって心配だったのよ」
「え」
息が詰まっちゃうって……。
享吾はこの2年以上、ずっと家にいたけど……お母さん、知らないらしい。話しの感じからして、最近会社を辞めたと思っているようだ。
お母さんはニコニコしたままこちらを振り返った。
「村上君、是非たくさん、享吾のこと誘ってやってね?」
「え……あ……はい」
なんだかよく分からないけど、肯く。
と、享吾のお母さんと歌子さんは二人で笑いながら……自分たちの夫には聞こえないように、小さく言った。
「亭主元気で留守がいい、わよね?」
「ですね」
くすくすくす……と笑い合っている二人。仲が良い、本当の母娘みたいだ。お母さんがそんなこと言うなんて、こんな表情するなんて、すごく意外で……意外だけど、自由な感じがして、いい。歌子さんが義理の娘になって良かったな、と思う。そして、歌子さんにとっても、享吾の家族は家族なんだろうな、と思う。
「何の話?」
「楽しそうだね」
こちらにきた享吾と享吾のお父さんが、何も知らず聞いてきて、妻二人は笑いながら「何でもない」と仲良く手を振った。
「何の話だ?」
オレに再度聞いてきた享吾に、オレも「何でもない」と手を振って、
「キョウ」
きゅっと腕を掴んで、見上げた。真っ直ぐに目を合わせる。昔から変わらない、透明な瞳。
「今日も、あれ弾いて。あれ」
「分かった」
ふっと微笑まれ、ポンポンと頭を撫でられる。昔から変わらない仕草。胸のあたりがキュッとなる。でも、今までと、違うのは、それを隠さなくてもいいってこと。
「今、常連さんしかいないから、本気で弾いていいわよー」
ピアノの椅子に座った享吾に、歌子さんが揶揄うように声をかけると、享吾はちょっと笑って……それからオレのことを見た。愛しいっていう瞳で。そして……
(ああ……綺麗だな)
美しい旋律がはじまる。オレの大好きな曲。ドビュッシーの「月の光」……
今までは、こうしてここで享吾のピアノを聴いて満たされても、その後は、それぞれ別の場所に帰っていた。でも今日からは、同じ家に帰れる。
『d=r-r’=0』
ふいに思い出した、一つの公式。2つの円の位置関係……
オレ達は同じ円だと、大学生の時に書いたけれど……ようやく、本当の意味で、同じ円になれるんじゃないだろうか。
(2つの円は、合同)
そう、オレ達は同じ円だ。もう、離れない。離さない。
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お読みくださりありがとうございました!
哲成視点最終回でした。次回、享吾視点最終回になります。
ちなみに……哲成君が大学生の時に「裸でくっつきたい」みたいなことをいったのはこちらです。初々しい。→「続々・2つの円の位置関係13・完」
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哲成視点最終回でした。次回、享吾視点最終回になります。
ちなみに……哲成君が大学生の時に「裸でくっつきたい」みたいなことをいったのはこちらです。初々しい。→「続々・2つの円の位置関係13・完」
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