きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

莫迦・馬鹿・バカ 行き止まりの挽歌 

2011-05-15 21:39:28 | 近場の異邦人
ムスコの学校の運動会に行く(昨日はちなみに参観日だった)。
高校生にもなって親が運動会に行くというのもどうなんかなと思いつつ、それでも普通に楽しむ。鈍足の我が子に心の中で「(遺伝よなあ)すまん」と思いつつ、走る姿を目で追い友人と楽しそうに競技を見ている姿を見るとほっとする。
十分「おやばか」だと思う。
そういえば、儂の父もずいぶん前、儂の娘が幼稚園だったときに運動会で珍しく写真を撮り、その中に儂だけの写真が混じっていたことがあった。親は親子は子なんですかね。

午前中みて、次はムスメのテニスの試合を見に行こうとしたら、もう終わってたと先に出たヨメさんから連絡があり、しょうがないので、ちょっと予定よりぶらぶらしながら家路につくことにした。
時間的に余裕があるので、いつもこの辺を通るときに走る道から、一本筋違いの道を走ることにする。

昨日の参観に行く途中でも、近くでこういうのを見つけた。

この辺は市の中心部とは違った感じのいわば「B級」っぽい史跡が多そうである。ほんとかどうか分からんけど。
ただ、走ってみると、本当に一本ずらすだけで思いがけず異郷の地を走る感じになった。すごい。

昔からの家並み(景観賞かなんかをもらったらしい)も思いがけず見ることができる。この辺りは空襲を免れたからか、昔から続いている大百姓のような家が結構残っている。割合、あちこちで見ることも多いが、続いているのは珍しいかもしれない。
一本違う道を走っているだけなので、見たことがある建物は遠くに見える。変な感覚だが悪くない。
当然、事前のリサーチはしていないので、どこを走っているかはT字路になり行き止まりになってから近くの道に出るまで分からなかったりする。偶然ではあるが、バス通りが多かった。

先週走った川沿いの道も、反対側は走ったことがなかった区間があった。結構大回りになってしまうので足が向かなかったんだろう。

何で今まで一本違う道を走らなかったのかというと、たぶん同じ道を何となく走りたがるという習性だと思う。後は、すぐに行き止まって左右どちらかに向きを変えなければならないような道は選ばないことが多いからだと思う。この日は、途中で入り突き当りのT字路まで行って向きを変えるパターンで多くのルートを作った。初めて走る道が多いことに気づかされた。時間に余裕があったことも今日みたいな走り方ができた一因だと思う。
しかしまあ、道の終わりというと交差点ばかりではなく直進がなくなる場合だってあるはず、というとやはり行き止まりとか突き当たりということになるんかなとぼんやり考えてみると、普段走っている道は、T字ではなくどちらかといえば合流する感じのY字路みたいなのが多いのかなと思う。自然に合流するみたいな。わざわざ鋭角には曲がらないみたいな。今日はTだったので結構どちらか選択を迫られることが多かった。

途中ムスコが購入する予定のウォークマンの値段を何軒かの電器屋さんで調べながら走り、水分を購入したりいろいろしたので結構休憩もしたが、それでも4時間ぐらいは走った。珍しい(というほどではないか)サントリーのすぽどり。

今日は音楽は頭の中でもならなかった。テーマ的にはさだまさしの「分岐点」ぐらいかかりそうなもんだがなかった。

「ばかおや」ですから、家に帰ってから今走ってきた道を電車で戻り、ムスコのウォークマンを買いに行った。

しょうがないなあと自分でも思う。まあ、高額なもんなので仕方がない。一番遠い店が安かったので、走っていく気力はなかったな。
で、2時間後に再び家に帰り、ワンコの散歩をしていると、その値段を勘違いしていたことに気付いた。何やってんだか。しかも気付くのが遅い。
「ばかなおや」です。救いようがないな。2時間何やってたんだと思う。
でもまあ仕方がない。でも情けない。はあ。

ところで、タイトル考えたときに、ふっと出てきた「いきどまりのばか」ではなく「行き止まりの挽歌(もうおやぢぎゃぐびしびしですな)」。何のタイトルだっけと検索してみたら栗本薫の小説だった。儂はノンフィクション好きでしたが、確かに栗本薫は読んでました。妙なこと覚えているな。内容は忘れましたが。