きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

杏村から【改】、そして横須賀ストーリー

2011-11-20 20:52:31 | 近場の異邦人
この文、昨日アップした後でやっぱ違うわと思い、今日改めて加筆修正したモノです。

走っているとき音楽は聴かないが、最近は頭の中で中島みゆきの歌がよく鳴る。これについては理由は分からん。「波の上」とか「ホームにて」とか「小石のように」とか「遍路」とか、まあいろいろ。歌詞は当然うろ覚え。
昨日の朝は「杏村から便りが届く昨日お前の誕生日だったよと」いうフレーズが、繰り返し繰り返し流れる。久々にかかったなという感じ。イメージは、信州の山の方なんだが。学生の時に単車で出かけた安曇野のあたり。とことこと走っているだけで満足した。暖かくて道祖神をぽつぽつ見つけながら走った。

とここまで書いて、走りに出かける。雨上がりの曇天。寒くはないが快適でもない。それでも用があるので街まで行かなければならない。「杏村から」が流れてきた。しばらくさびの部分だったが、昔ながらの店が並ぶなんていうか「○○銀座」みたいな雰囲気のところで、突然しばらくわすれてた歌詞が飛び込んできた。

「街のねずみは霞を食べて夢の端切れでねぐらを作る」

うろ覚えなので間違っているかもしれないが、これについては間違って覚えるにはそれ相応の理由はあると考えていいんだろう。
杏村はのどかな村の歌じゃない。街の中でひっそりとでも必死で生きるというかそんな歌だ(そんなことを忘れていたのかと帰ってから情けなくなったのも確か)。村の情景は分からないが、村から出てきた主人公が住む夕方の東京は映る。夜になる一歩前の仕事が終わった後のやれやれとちょっと疲れたのが混じった東京。

走りながら、情景が頭に浮かび気分が滅入る。自分にここまでの原体験はないのになんでだろ。どうも「帰る」というキーワードに弱いとこがあるらしい。ジッタリンジンなんかはもろタイトルにそんなのがあるがそれもジンとくる。反面さだまさしの歌は好きだが、帰るというワードは見せているものの、ちょっと違う気がする。いい唄だがここまで気が滅入ることはあまりないか。「案山子」や「寒北斗」「安曇野」はどうだろう。
「帰る」ところがあることの幸せは普段感じない。無くなってから気付くものの一つなんだろう。

今日は、ヨメさんの用事につきあい、職場に立ち寄る。職場近くを少し走る。愛媛マラソンのバイパスを左に曲がり、旧道に向かう。JRの線路を跨ぐようにして道が続いている。

学生の時に、京急の横須賀中央駅で降り、山の上の公園に行ったことがある。名前は忘れた。幾途中の商店街で炊き込みのおにぎりを買った。田舎の人間なので、木枠のショーケースにおにぎりが並んでいるのが珍しかった。こんなもんも売ってるのかということと、和菓子とか作っていそうな古い店構えのショーケースにそれがおかれていたのが(こちらでいえば「労研饅頭」や「醤油餅」の店のもっと古い感じ?)。
重々しい曇天だった。風景の広がり方は違うが、そのときも、そして曇天の時ここを通るときも浮かぶフレーズがある。

「急な坂道駆け上ったら今も海がみえるでしょうか」

時間はすごく過ぎたけど、今も確かに見える。分かりそうで分からない、どうしていいのか分からない感情もそのままに見える気がする。

ばたばたばたと毎日が過ぎていく。いいのか悪いのかわからんけど。
だらだらだらと反動で過ごしたくなるが、時間が流れる早さはそう変わらない。
負けてはいかんねと思いながら、でも昔ほどは純粋に生きるという気持ちがなくなっているような気もするなと思う。いや、だからって、どうなるとかどうするとかっていうのはないのですが。