ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

稀勢の里、遅すぎた決断

2019-01-18 19:39:54 | スポーツ
横綱・稀勢の里が3日目の栃煌山に敗れ初日から3連敗となり、翌日引退を表明しました。あまりにも遅かったですね。稀勢の里自身にとっても、横綱という特別な立場からも。

先場所、同じく3連敗を喫した時「引退かな」と推測していました。しかし、稀勢の里は休場すらせず、4日目も土俵に上がり4連敗。これも自分の記憶にはありませんが、まあやるだけやっての引退なのだろうと考えていたら、休場という結論でした。横綱審議委員会は「激励」を決議。事実上の最後通告でした。そして2019年初場所、3連敗でようやく引退の決断に至りました。36勝36敗97休。これが横綱・稀勢の里の成績です。僕は輪島・北の湖から数々の横綱を見てきましたが、言うまでもなく横綱の成績ではありません。史上最弱の横綱の汚名は本人も覚悟の上でしょう。

最初のボタンの掛け違いは左肩の怪我を軽視したことではないでしょうか?新横綱の場所、優勝争いの終盤で左肩を痛めながらも強行出場した気持ちはわかります。本人も優勝したいだろうし、何よりファンが大きな期待を抱いていました。そして優勝決定戦で劇的な優勝を飾り、彼は紛れもなく角界のヒーローになりました。

そして翌場所、ここで休むべきだったと思うのですが、完治していない左肩の故障を抱えながら強行出場したものの途中休場。以降はその繰り返し。久しぶりに千秋楽まで土俵に上がった昨年の秋場所は10勝5敗。引退の危機はひとまず脱したものの、数字的にも横綱としては合格点には程遠く、何より負け方が悪かった。下半身の衰えを隠し切れなくなっていました。そしてこの後、7度土俵に上がりましたが、白星を挙げることなく引退となりました。

大きかったのは育ての親・鳴門親方の不在です。もし親方が生きていたなら、左肩の怪我を負った翌場所は休ませていただろうし、引退の決断ももっと早い時期にできていたと思われます。稀勢の里も相当迷っていたようですから。鳴門親方は稀勢の里を15歳の入門時から指導していますし、自身も元横綱です。現在の師匠、田子ノ浦親方は元平幕です。相撲界には自分の現役の地位を弟子が超えた場合、指導しにくい立場になるという独特の風潮があります。そのため親方も稀勢の里の現役続行に意見できなかったのではと推測します。

本名の萩原で土俵に上がっていた10代の頃から将来を嘱望され、大関昇進後もモンゴル勢全盛の中、5年間立派な成績を残した稀勢の里は名力士に違いはありません。しかし同時に稀勢の里が横綱を張った2年間は、結果として綱の権威を失墜させてしまったことも間違いありません。今後、横綱の引退に関する新たな規定を作らなければならないかもしれません。
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