白雲去来

蜷川正大の日々是口実

良い本に出会った。

2010-11-23 10:32:41 | インポート

十一月十八日(木)曇り。

 朝一番で東京行きである。下山してくる盟友と待ち合わせて、お世話になっている方の会社にご挨拶。珍しく来客もなく一時間半ほどお話を伺った。いつも大変勉強させて頂き、感謝している。

 

 終了後、書店に行き、岐阜の細川先生から薦められた「特務機関長・許斐氏利―風浰瀝として流水寒し」(牧久著・ウエッジ出版・1800円)を購入した。許斐氏利という人の名前は、様々な昭和史、とりわけ「闇」の部分を扱った本の中で知っていた。戦前は特務機関として中国で活躍し、戦後は、東京駅の八重洲口で東京温泉を経営している、程度の知識しかなかった。苗字が珍しいので記憶にあったと言った方が正しいかもしれない。

 

 その許斐(このみ)氏のノンフィクションである。読み進むうちに許斐氏という人が、とても素晴らしい人であることを知り、そんな人の生き様を知らずにいた怠慢を反省した。右翼の先輩で特務出身といえば、児玉誉士夫先生が有名であるが、許斐氏も同じ特務機関員として活躍した。

 

 児玉先生は、特攻隊の産みの親である大西瀧次郎に私淑し、許斐氏は、硫黄島で自決された長勇に私淑した。大西、長の両将軍も自決している。戦後、許斐氏は長勇中将の墓を郷里の福岡に建立している。

 

 久し振りに、読み応えのある本に出会った感じだ。まだまだ勉強が足りないと思った次第。

 

 夜は、友人が来訪して、我が酔狂亭での一献会。久し振りの大破・轟沈の夜だった。

Img492 ※是非、ご一読を。


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主夫業も大変である。

2010-11-23 01:34:00 | インポート

十一月十七日(水)雨のち曇り。

 午前中、家事をこなしてから東京行き。今日は、私が相談役の末席を汚している大行社の幹部会議がある。季刊「大吼」の新年号の校正や、来年の三十周年記念号の打ち合わせなどを行なった。

 

 今日の会議で、私の盟友であるS氏が戦線復帰を果たし、大行社の執行部入りした。終了後に、その彼を囲んでの一献会があって私も誘われたが、夜の家事を放り出すわけにも行かず、欠席した。

 

 自宅に戻り、夕食後は、机に向かい「大吼」の校正。外に出ているよりも、家にいる方が疲れる。あーあ主夫業も大変である。


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飲み屋も様変わりしつつある。

2010-11-23 00:58:06 | インポート

一月十六日(火)曇り。

 私の後輩で、長い間居酒屋を経営していたA君が店を閉めた。決して、高級な店ではなく、庶民的な店であったが、最近の「立ち飲み屋」や「ホルモン」ブームにより、かつての大衆的な店が、値段的に「高い」と感じられるようになってしまったためだ。

 

 先日、テレビで見たが、最近の居酒屋は、料理の平均的な値段が二百七十円程度だそうだ。薄利多売の商売をするためには、まず人件費を削る。機械化を図って、百人ぐらいのお客の注文ならば厨房に三人もいればこなせるという。

 

 今まで六人でやってきた厨房が半分の三人で済む。では、リストラされた三人はどこへ行くのか。こういった現象が日本中の飲食店でおこっていると言っていた。確かに安いことはいいことかもしれないが、「安い」中に、人件費が削られて行く。何でもデフレスパイラル(経済が専門ではないので、抽象的ですみません)と言うそうだ。

 

 私が、いわゆる赤い看板の居酒屋が嫌いで行かないのは、そんな経営手法にも原因がある。

 

 どんな所で飲んでいるかで、大体、その人の事が分かる。決して気取った、高級な店でなくとも良い。男たるもの、友人が来た時には、自信をもって接待の出来る、行きつけの店を何軒か持っていなければダメだ。もし、初対面で、赤い看板の居酒屋などに連れて行かれたら、私は、二度とその人と酒席を共にしないだろう。

 

 もう残り時間も少ない。人生の大事な一杯を、全国チェーンのくだらん酒場で飲んでたまるか。

コメント (1)
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つらい知らせが・・・。

2010-11-23 00:31:24 | インポート

十一月十五日(月)晴れ。

 いわゆる「尖閣ビデオ」を公開した海上保安官がが不起訴となった。当然の事で、ザマーアカンカン河童の屁である。あの程度の内容のものを公開せずにいた民主党の責任問題が浮上しても良いと思うのだが。

 

 実は、今日とてもショックな葉書が届いた。私の、小学校から中学、高校と一緒だった一つ後輩のK君という人がいる。中学から陸上を始め、将来を嘱望されていた。高校も、私を慕って横浜高校に入った。しかしながら、私同様、開花せずに終わったが、卒業後も私との交友は続いた。

 

 社会に出てからは、仕事や生き方は別々となったが、年に幾度かは会って酒席を共にした。特に、私が社会不在を余儀なくされた時も、母を見舞ってくれたり、気遣いを忘れずにいてくれた。生き方は真面目を絵に描いたようだったが、反面、悪く言えば頑固なところがあって、NTTに務めていながら、携帯電話を持ったことがなく、独身を通していた。

 

 三年ほど会わずにいたので、今年の夏に彼の勤めている会社に電話をした所、病気で長期療養しているとのことだった。仕方がないので彼の自宅に、私が、高校一年のときに箱根駅伝を見に行った帰りに、彼と陸上部の後輩と一緒に撮った写真を葉書に印刷して、「久し振りに会いたいので、連絡下さい」と添えて出した。

 

 返事がなかったが、いずれ電話でもかかってくるだろうと思って、そのままにしていた。彼の事が分かったのが、今日の葉書だった。それは、彼の「成年後見人」をしているという司法書士からのもので、何でも、三年ほど前に、脳梗塞で倒れ植物人間状態だったが、奇跡的な回復で、現在は、「特別養護老人ホーム」で生活しているとのことであった。

 

 病院ではなく、「養護老人ホーム」での療養と言うことが、私と彼の年齢を象徴しているようで、少々ショックだった。司法書士の方によれば、脳梗塞による脳のダメージは大きく、寝たきりで言葉も上手く発せられず、短い言葉は理解できるが、話がこみいると理解できないようだが、全く他人の司法書士の方が面会に行ってもとても喜んでいる。とあり、面会に行った折に、私が出した、学生時代の写真入の葉書を見せた所、大変喜んで涙を流していた。と書いてあった。

 

 この葉書を読んだときに、家族がいるのにも関わらず、声を上げて泣いてしまった。泣かずにはいられなかった。あんないい奴が、あんなに思いやりに溢れ、友情に厚い彼が、何と言う残酷なことかと・・・。そして三年も連絡を取らなかったことを申し訳なく思った。つらい知らせであった。

Photo※後輩のK君に送った葉書に印刷した写真。昭和41年1月3日、箱根駅伝観戦の帰りに。上段左側がK君。隣が私である。


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