十一月二日(月)雨。
貧乏をしている身に雨は侘しさを増長させる。こんな日は、何処にも出かけずに、自宅のPCの前で雑用をこなすのが一番良い。群青忌でカメラマンの平早勉さんに撮って頂いた膨大な枚数の写真の整理に辟易している。何分にもデーターが重くて、CDに焼きたいと思っても、大きすぎて難儀している。データーを小さくする方法があるのだが、そこは素人の悲しさで、悪戦苦闘が続いている。
先日のブログに『金色夜叉』の作者である尾崎紅葉のことについて少し書いたが、最新の『週刊朝日』の嵐山光三郎センセイのコラム「コンセント抜いたか」の中で、「長寿食とはなにか」と題して尾崎紅葉について少し触れている。「明治の文人尾崎紅葉は三十六歳で死ぬとき、臨終の席に門弟を集めて、『これからはまずいものを食って長命(ながいき)して一冊でも一編良いものを書け』と言い残した。弟子の泉鏡花は師の言葉を胸にきざみ、六十五歳まで生きた」とあった。因みに紅葉の門下生は、泉鏡花の他に、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた人達がいる。
まあ泉鏡花の六十五年の人生が「まずいもの」を食べた結果ではないだろうが、毎日、まずいものを食べて長生きしても何か味気ない。秦の始皇帝が「不老不死」の薬を求めたのは有名だが、始皇帝は不老不死どころか四十九歳で亡くなった。歳を取れば自然と食の好みも変わってきて、若い頃はあれほど好きだった肉類も、今では月に一度食べるか、食べないかになっている。
夜は寒いので家族で鍋を囲んだ。具材は冷蔵庫にあるもので鍋の材料になりそうなものを手あたり次第に入れて、ホンワカと食した。そう言えば、野村先生が河野邸焼き討ち事件から復帰した昭和五十年の今時分、当時アジトになっていた先生のマンションに、深夜の新聞の配送(配達ではない)を終えた笠原正敏、森田忠明、宮城賢秀などの諸氏が集まり、早朝に鍋を囲んで良く一杯やっていた。先生から朝の五時過ぎに「皆いるから来ないか」と連絡を貰ってたまげたことがあった。
その森田忠明氏が、この度展転社より『論語のやぶにらみ』(一八〇〇円+税)を上梓された。その出版記念会が今月の二十日の六時より、國學院大學院友会館において開催される。私も発起人の末席を汚しているので参加の予定である。是非ご購読の程を。
貧乏をしている身に雨は侘しさを増長させる。こんな日は、何処にも出かけずに、自宅のPCの前で雑用をこなすのが一番良い。群青忌でカメラマンの平早勉さんに撮って頂いた膨大な枚数の写真の整理に辟易している。何分にもデーターが重くて、CDに焼きたいと思っても、大きすぎて難儀している。データーを小さくする方法があるのだが、そこは素人の悲しさで、悪戦苦闘が続いている。
先日のブログに『金色夜叉』の作者である尾崎紅葉のことについて少し書いたが、最新の『週刊朝日』の嵐山光三郎センセイのコラム「コンセント抜いたか」の中で、「長寿食とはなにか」と題して尾崎紅葉について少し触れている。「明治の文人尾崎紅葉は三十六歳で死ぬとき、臨終の席に門弟を集めて、『これからはまずいものを食って長命(ながいき)して一冊でも一編良いものを書け』と言い残した。弟子の泉鏡花は師の言葉を胸にきざみ、六十五歳まで生きた」とあった。因みに紅葉の門下生は、泉鏡花の他に、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた人達がいる。
まあ泉鏡花の六十五年の人生が「まずいもの」を食べた結果ではないだろうが、毎日、まずいものを食べて長生きしても何か味気ない。秦の始皇帝が「不老不死」の薬を求めたのは有名だが、始皇帝は不老不死どころか四十九歳で亡くなった。歳を取れば自然と食の好みも変わってきて、若い頃はあれほど好きだった肉類も、今では月に一度食べるか、食べないかになっている。
夜は寒いので家族で鍋を囲んだ。具材は冷蔵庫にあるもので鍋の材料になりそうなものを手あたり次第に入れて、ホンワカと食した。そう言えば、野村先生が河野邸焼き討ち事件から復帰した昭和五十年の今時分、当時アジトになっていた先生のマンションに、深夜の新聞の配送(配達ではない)を終えた笠原正敏、森田忠明、宮城賢秀などの諸氏が集まり、早朝に鍋を囲んで良く一杯やっていた。先生から朝の五時過ぎに「皆いるから来ないか」と連絡を貰ってたまげたことがあった。
その森田忠明氏が、この度展転社より『論語のやぶにらみ』(一八〇〇円+税)を上梓された。その出版記念会が今月の二十日の六時より、國學院大學院友会館において開催される。私も発起人の末席を汚しているので参加の予定である。是非ご購読の程を。