白雲去来

蜷川正大の日々是口実

歳と共に食の好みも変わって当たり前。

2015-11-04 18:35:47 | 日記
十一月二日(月)雨。

貧乏をしている身に雨は侘しさを増長させる。こんな日は、何処にも出かけずに、自宅のPCの前で雑用をこなすのが一番良い。群青忌でカメラマンの平早勉さんに撮って頂いた膨大な枚数の写真の整理に辟易している。何分にもデーターが重くて、CDに焼きたいと思っても、大きすぎて難儀している。データーを小さくする方法があるのだが、そこは素人の悲しさで、悪戦苦闘が続いている。

先日のブログに『金色夜叉』の作者である尾崎紅葉のことについて少し書いたが、最新の『週刊朝日』の嵐山光三郎センセイのコラム「コンセント抜いたか」の中で、「長寿食とはなにか」と題して尾崎紅葉について少し触れている。「明治の文人尾崎紅葉は三十六歳で死ぬとき、臨終の席に門弟を集めて、『これからはまずいものを食って長命(ながいき)して一冊でも一編良いものを書け』と言い残した。弟子の泉鏡花は師の言葉を胸にきざみ、六十五歳まで生きた」とあった。因みに紅葉の門下生は、泉鏡花の他に、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた人達がいる。

まあ泉鏡花の六十五年の人生が「まずいもの」を食べた結果ではないだろうが、毎日、まずいものを食べて長生きしても何か味気ない。秦の始皇帝が「不老不死」の薬を求めたのは有名だが、始皇帝は不老不死どころか四十九歳で亡くなった。歳を取れば自然と食の好みも変わってきて、若い頃はあれほど好きだった肉類も、今では月に一度食べるか、食べないかになっている。

夜は寒いので家族で鍋を囲んだ。具材は冷蔵庫にあるもので鍋の材料になりそうなものを手あたり次第に入れて、ホンワカと食した。そう言えば、野村先生が河野邸焼き討ち事件から復帰した昭和五十年の今時分、当時アジトになっていた先生のマンションに、深夜の新聞の配送(配達ではない)を終えた笠原正敏、森田忠明、宮城賢秀などの諸氏が集まり、早朝に鍋を囲んで良く一杯やっていた。先生から朝の五時過ぎに「皆いるから来ないか」と連絡を貰ってたまげたことがあった。

その森田忠明氏が、この度展転社より『論語のやぶにらみ』(一八〇〇円+税)を上梓された。その出版記念会が今月の二十日の六時より、國學院大學院友会館において開催される。私も発起人の末席を汚しているので参加の予定である。是非ご購読の程を。

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小春日和に仲良しさんたちと飲む。

2015-11-04 10:54:48 | 日記
十一月一日(日)晴れ。

今日は上の子供の大学の文化祭がある。九時に愚妻と下の子供を学校まで送って行った。私は、午後からの来客に出す料理の買い出しのために、子供が出るものを見ることができないので、先日購入したビデオを預けた。

松原商店街で買い物を済ませて、再び大学に戻り、家族をピックアップ。帰宅後は、お客さんを迎えるために、料理の腕を振るった。お客さんはカメ&アコチャンに京子ちゃん親子。松本佳展君たちは横浜駅の西口で行っている大行社の定例街宣を聞きに行っている。街宣は一人でもギャラリーが多いほど熱が入るものだ。

小春日和と言っても外は寒い。我が陋屋でこじんまりと宴会。気の置けない人たちとの酒席ほど癒されるものはない。他愛もない話に花が咲き、六時過ぎに解散。と言っても、私は早々と酔って寝ていたので、皆さんがいつ帰ったのか分からずじまい。

早いもので、もう十一月。我が街に冬の到来を告げる酉の市が開かれる。今年の一の酉は五日。この一の酉が立冬の前に来た年は三の酉まである。ちなみに立冬は八日であるから、今年は三の酉まであり、俗に火事が多いとも言われている。くれぐれも火の用心。また秋は、読書の秋でもある。「今夜新たに読む本は、未知の世界の旅ぞかし」とは与謝野晶子の言。根気が無くなって、難しい本は三行で眠くなる。従って、最近は読みやすい本ばかりを選んで読んでいる。今楽しんでいるのは『満州国演義』である。美味しいものを食べるようにチビリ、チビリと頁をめくっている。

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大先輩を「偲ぶ会」に出席。

2015-11-04 09:41:26 | 日記
十月三十一日(土)曇り。

十月も今日で終わりか。そんなことを考えているうちにあっという間に一年が終わる。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。か。朝食は、冷ご飯が沢山あったので、珍しく「お粥」にした。昆布や鰹節を贅沢に沢山使ってダシをとり、冷やご飯を洗ってぬめりを取ってから土鍋でカタコトと煮る。肝心なのは、二十分程煮たら、一度火を止めて、鍋をおろして蓋をして冷ます。煮物は冷める時に味が染みるからである。十分ぐらいおいてから再び煮る。味付けは、ヒマラヤのピンクの岩塩。

付け合せは、白髪ねぎにごま油と醤油をすこし垂らしたものを好みで入れながら食べる。「安記」風だ。そうそう具は、肉だんご。シンプルで良い。炊飯器でご飯を炊いていると、当然ながら機械的で、自分が手をかけている。と言う気がしない。しかし、土鍋でお粥を焚いていると、焦げないようにかき回したり、アクをとったり、火加減を見たりと、作り手の愛情が伝わるような気がしてならない。こういう時は、テレビを点けずにラジオの方が良い。

今日は、夕方から青年思想研究会主催の「先憂を偲ぶ会」が上野の東天紅で開催され出席。途中、御徒町にて大熊雄次氏と待ち合わせ。アメ横はすごい人で、通り抜けるのが大変である。店先には、「松茸」や「秋鮭」などの秋の味覚がが並んでいた。大熊氏と共に不忍池の中を通って行く。何十年ぶりなのだろうか。上野や御徒町には度々来るが、不忍池にはあまり来ることが無い。十分ほど歩けば東天紅に着いた。三十年も前のこと、ここで知り合いの結婚式に出たことがあった。その頃と比べて新しくなっていた。

会場に入れば、お世話になった北上清五郎先生や、当時は仰ぎ見るような斯界の大先輩の遺影が飾られていた。今年は、高橋正義先生の二十三回忌とのこと。野村先生と同じ年に亡くなられたのか。ご自宅に弔問に行ったことを思い出した。指名をされ献杯の音頭をとったが、児玉誉士夫先生や中村武彦先生と言った方々の遺影を前にして、「先生」などと呼ばれると、身がすくむような思いがする。先人の思い出話を肴に二時間ほど。閉会後は二次会。一時間ほどいて、犬塚博英議長と大熊雄次氏と共に席を離れた。

自宅に戻れば、下の子供が修学旅行から帰っていた。無事な顔を見て一安心。何でも、渡嘉敷島から本当に戻る際、海が荒れていて、船酔いで大変だったということ。それも良い思い出になるに違いあるまい。

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