白雲去来

蜷川正大の日々是口実

野分祭か・・・。

2015-11-26 09:55:27 | 日記
十一月二十四日(火)曇り。野分祭。

今日にかけて かねて誓いし 我が胸の 思いを知るは 野分のみかわ 
この歌は、昭和四十五年十一月二十五日、当時の自衛隊東部方面総監室において楯の会の三島由紀夫烈士と共に壮烈な自決を遂げた、森田必勝烈士の辞世である。その決起前夜の森田烈士の思いを共有する、として行われたのが「野分祭」である。

その昔、まだ元楯の会の阿部勉さんや犬塚博英さんなどが中心となって「野分祭」を斎行していた当時、全員正座して行われたことがあった。確か、野村先生と一緒に行った覚えがあるので、先生が河野邸の事件から戦線復帰した翌年ぐらいではなかったと記憶している。

日頃から、「日本の伝統文化を守れ」などと、言っている割には、正座などほとんどできずに、祝詞の長いことで有名な、いや心のこもったと言うべきなのだが、現在熊本の本渡諏訪神社で奉職をしている大野康孝さんが神事を司ったのだが、正直言って参った。玉串の奉奠に指名された同志が、足がしびれて転んでしまうこともあり、もし私が指名されたらどうしようかと思って、体を小さくしていたことを思い出す。

その時、司会をしていた犬塚博英さんが、「腹を切った森田烈士に比べたら、足の痺れぐらいなんだ」。と言われ、益々体を小さくした。野分祭の季節になると、いつもそのことを思い出す。あの衝撃的な事件から四十五年か・・・。三島・森田義挙の当時、獄中にいた野村先生が、三島・森田両烈士の義挙に感じて詠み、出獄に際しての決意表明としたのが、「先駆けて 散りにし人の 悲しみを 我がものとせむ この道を行く」である。

私は、その三島・森田義挙の影響を受けて民族派運動に入った。もし、と言うのは不適当かもしれないが、その義挙が無かったならば、野村先生と知り合うこともなかったし、全く別の人生を歩んでいたに違いない。しかし、気障なようだが、我が人生に悔いはない。

夜は、自宅の近くの「バーミヤン」にて食事。中華料理と思うと、首をかしげざるを得ないが、「バーミヤン」風の料理と思って食べれば、あの値段で文句を言っては怒られる。二杯ほど飲んで帰宅。

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