白雲去来

蜷川正大の日々是口実

日大問題、最大の功労者。

2021-12-18 14:21:22 | 日記

12月9日(木)晴れ。

朝食は、メンチカツ、筋子、大沢農場のキャベツの味噌汁。昼は、ソース焼きそば。夜は、鰹の刺身、鮭の頭。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

「鹿を指して馬という」という中国の故事がある。出典は司馬遷の『史記・秦始皇本紀』。秦の始皇帝が死んだ後、悪臣の趙高が自分の権勢を試そうと二世皇帝に鹿を献上し、それを馬だと言って押し通してみた。しかし皆が趙高を恐れていたので、反対を唱えた者はおらず、正直に「鹿です」と言った者は処刑された。日大の田中英壽前理事長が脱税で逮捕され「ちゃんこ詣で」する人たちや、先に逮捕された取り巻きのことが明らかになるにつれ、頭に浮かんだのが前述の故事である。

マスコミは、こぞって田中前理事長を指弾している。当然かもしれないが、彼らの不正を明らかにしたのは「検察」の努力とも報じているが、私は、その事実を白日のものとした最大の功労者は「敬天新聞」の白倉康夫社主であると思っている。これまでに様々な企業、個人の不正を暴いてきた「敬天新聞」と、そのブログは、私の知る限りでは民族派関係では最も読者が多く、また各方面から注目されている新聞とブログである。「敬天新聞」が、当初、日大問題を取り上げた時、敬天新聞社の社員が何者かに襲撃されたという。(詳しくは「敬天新聞」のブログをご覧下さい)恐らく、検察もマスコミも「敬天新聞」の「日大」関連の記事を参考しているものと思っている。ちなみに白倉社主が、日大の田中体制を批判した『立ち上がれ日大マンー黒幕・田中体制に挑戦』という本を上梓したのは、田中前理事長が逮捕される三年も前のことである。

白倉社主は、国士館大学に入学。在学中は柔道部に所属し、警備会社を設立。8年間在籍の後、同校を中退。新宿の顔役だった加納貢会長との縁で日本大学アメフト部監督篠竹幹夫の秘書を10年間経験。1993年10月1日、敬天新聞を創刊。マスコミでタブー視されていた日本大学の問題追及を10年以上前から始めており、2018年5月アメフト部の危険タックル問題以降、田中英寿体制に対する大手マスコミ報道の先駆けと成る。2018年7月31日、著書『立ち上がれ日大マン!』を出版(人間の科学新社)。毎週水曜日の夕方、新橋駅前(東京都港区)の街頭で続けている演説は、26年間に及ぶ。その半生を巡っては、安藤昇氏の意志を継ぐ秘書で作家として知られている向谷匡史氏の著書「安藤組外伝、白倉康夫『殉心』」に書き綴られている。(ウイキペディア)より抜粋。

白倉社主の民族派運動に対する情熱と真摯な行動は、民族派内でも高く評価されており、ファンも多い。当然ながら私もその一人である。ご興味のある方は、是非「敬天新聞」と「ブログ」をご一読ください。

 

 

 

 


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開戦の日。

2021-12-18 13:21:29 | 日記

12月8日(水)雨。開戦記念日。

十二月八日・月曜日〔晴〕暖かい静かな開戦日。待ちに待ったその日はついに来た。午前三時というに自然と目は覚め、起き出て一服していると、当直でかつ航空掛かりの佐々木参謀が大急ぎで飛び込んで来て「三時十九分(ト)連送です」(注・真珠湾攻撃の際に「全軍突撃せよ」の暗号無電)。と報告す。すなわちハワイに近迫せる機動部隊の第一回攻撃部隊の飛行機約二〇〇機が、真珠湾に対し突撃を下令せるなり。飛行機の電を直了せるところ、鮮かなるものなり。(宇垣纏『戦藻録』より)

あれから80年。この攻撃に参加したほとんどの方が亡くなっているのだろう。野村秋介先生が、平成五年に朝日新聞社にて自決なされた際に、同志らに宛てた「檄文」とも言うべきものが「天の怒りか、地の声か」という文章である。その末尾には、こうある。「ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう」。と。そして野村先生の辞世の歌は、「さだめなき 世なりと知るも 草莽の 一筋の道 かはることなし」。

夜は、雨の音を聴きながら酔狂亭にて独酌。  


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