白雲去来

蜷川正大の日々是口実

粉骨砕身各員其の任を完せよ。

2021-12-16 13:18:26 | 日記

12月7日(火)曇り。

連合艦隊は、北海道の先の我が国の固有の領土である南千島、択捉島(えとろふとう)の単冠湾(ひとかっぷ)を出発してハワイを目指している。いや80年前のことです。それから80年が過ぎて、歴史学者や評論家の多くが「馬鹿な戦争をした」と結論づけている。しかし本当にそうだったのか。勝ち目のない戦に、なぜ日本は向かわなければならなかったのか。戦わざるも亡国、戦うも亡国ならば、座して死を待つよりも、死中に活を求めて決然と決起する。先の大戦が、必ずや「聖戦」であったことを証明する時代が来ると信じている。

連合艦隊参謀長、宇垣纏海軍中将がハワイに迫りつつある連合艦隊全将兵に宛てた宇垣中将起案の電文。

皇国ノ興廃繋リテ此ノ征戦ニ在リ
粉骨砕身各員其ノ任ヲ 完ウセヨ

全太平洋に展開せる我が連合艦隊の将士以って如何とす。出撃命令によって、午前八時以後一四ノット四時間待機となす。各艦四〇〇発の更新四〇サンチ弾も搭載を終わり、陸上との縁も断ちてここに準備は完成せり。(昭和16年12月7日の宇垣纏の日記『戦藻録』)

そんな意義のある日の朝食は、納豆、筋子、豆腐の味噌汁に大沢農場のネギをたっぷり入れ。昼は、レトルトカレーにメンチカツ載せ。夜は、チゲ鍋に大沢農場の白菜たっぷり入れ。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。


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普門院の石垣。

2021-12-16 09:56:05 | 日記

12月6日(月)曇り。

朝食は、ちくわの天ぷら、鶏の唐揚げ、モズクの味噌汁。昼は、ソースチャーハン、にインスタントラーメンの「ラ王」。夜は、すりおろした自然薯に海苔を巻いて揚げた「磯部揚げ」、ホイコーロー、小エビの天ぷら。随分と毎日食べるなぁーと言われることがあるが、これは家族四人分のメニューです。お供は、最後の「伊佐美」。酔狂亭にて独酌。

歳をとると、昨日の朝食に何を食べたかは中々思い出せないが、昔のことは良く覚えているし、思い出す。過日も、思い立って歯医者の帰り道に、小学校の低学年の頃に住んでいた家のあった所を通ってみた。当然ながら、そのアパートはすでになく、大家さんだった人が建てた一軒家があるが、往時の面影すら感じられない。角にあった「オババの店」と呼んでいた駄菓子屋、消防署の焼け跡を使っていた自動車の修理工場、銭湯、材木屋なども皆なくなっており、無味乾燥なマンションや一軒家があるだけだった。

良く遊んだのは、真言宗のお寺の普門院の境内。関東学院に続く石段やお墓で、近所の工場から五時のサイレンが聞こえるまで遊んだ。時計などなくても、風呂屋の煙突からモクモクと黒い煙が上がると三時と分かった。ある日、家の近くの路地に、大人用の大きなコウモリ傘が落ちていた。広げてみるとどこも傷んでいない。頭に浮かんだのが、これを広げて飛び降りたら、落下傘のようになって、フアフアと降りられるのではないか。早速、近所の悪ガキどもを集めて、誰も飛び降りたことのない普門院の石垣の上から傘を広げて飛び降りるから一緒に行こうと誘った。この時点では誰もが成功を信じていいた。意を決して傘を広げて飛び降りた。瞬間に傘はオチョコとなって、何の役にも立たず、私は足をくじいて、母からこっぴどく怒られた。

その普門院の石垣を60年ぶりくらいに見上げた。我ながら、アホさが身に染みた。※写真の右側が、私が飛び降りた普門院の石垣。


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