白雲去来

蜷川正大の日々是口実

紀元節と漱石。

2022-02-16 13:02:02 | 日記

2月11日(金)晴れ。紀元節。

今日は皇紀二六八十二年の紀元節。神武天皇肇国の昔を偲び、日の丸を掲げ、橿原神宮を遥拝。ご皇室の弥栄と天皇、皇后両陛下のご健勝を心からご祈念申し上げます。この日を何の根拠もない、という人がいる。約三千年前の出来事に根拠がある、ない、などと言うのは不毛である。長い歴史のある国は、何処でも「神話」に基づいた麗しい文化がある。私は、それを誇らしいと思う者の一人である。

前から気になっていたのだが、夏目漱石の『永日小品』の中に「紀元節」という作品がある。漱石が小学生の頃に、先生が黒板に「記元節」と書いたのを、先生がいなくなった時に、漱石が、「記」の横に「紀」と書き直したことを述懐したものだが・・・。引用してみる。

「南向きの部屋であった。明かるい方を背中にした三十人ばかりの小供が黒い頭を揃えて、塗板(ぬりばん)を眺めていると、廊下から先生が這入って来た。先生は背の低い、眼の大きい、瘠せた男で、顎から頬へ掛けて、髯が爺汚く生えかかっていた。そうしてそのざらざらした顎の触わる着物の襟が薄黒く垢附いて見えた。この着物と、この髯の不精に延びるのと、それから、かつて小言を云った事がないのとで、先生はみなから馬鹿にされていた。先生はやがて、白墨を取って、黒板に記元節と大きく書いた。小供はみんな黒い頭を机の上に押しつけるようにして、作文を書き出した。先生は低い背を伸ばして、一同を見廻していたが、やがて廊下伝いに部屋を出て行った。すると、後ろから三番目の机の中ほどにいた小供が、席を立って先生の洋卓(テーブル)の傍へ来て、先生の使った白墨を取って、塗板に書いてある記元節の記の字へ棒を引いて、その傍へ新しく紀と肉太に書いた。ほかの小供は笑いもせずに驚いて見ていた。さきの小供が席へ帰ってしばらく立つと、先生も部屋へ帰って来た。そうして塗板に気がついた。『誰か記を紀と直したようだが、記と書いても好いんですよ』と云ってまた一同を見廻した。一同は黙っていた。記を紀と直したものは自分である。明治四十二年の今日でも、それを思い出すと下等な心持がしてならない。そうして、あれが爺むさい福田先生でなくって、みんなの怖がっていた校長先生であればよかったと思わない事はない。」

三年前の私のブログである。朝食は、納豆、焼きのり、鮭、新玉ねぎの味噌汁。昼は、カレーパン一個。夜は、自宅近くの魚屋で買ったカツオの刺身。この時期にしてはとても良いものだった。つぶ貝の煮たものも一緒に買った。お供は「黒霧島」。


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目からうろこの「鍋焼きラーメン」。

2022-02-16 12:21:00 | 日記

2月10日(木)雨のち雪。

寒いと思ったら雨。午後から雪になるという。野村先生の句に「淡雪の日と書き入れし 獄日記」と言うものがある。先生の座った千葉の長期刑務所は、歴史が長い分、古くて当然ながら暖房設備などない。この時期の監獄は文字通りの寒獄となる。先生は、面壁二十年。とても真似のできることではない。寒さが苦手な先生だったが、雪が降るとなぜか先生のことを思い出す。「俺に是非を説くな  激しき雪が好き」。は有名だが、その昔に先生に「千葉時代の思い出の句は」と聞いたことがあった。しばらく考えてから「この雪の打擲  耐へて耐へてゆく」を教えてくれた。12年も獄にいると、時には絶望や人間関係の煩わしさで『死』を考えたことが幾度かあった。しかし、死ぬべき時に死ねぬ者はだめだが、死ぬべき時でない時に死ぬ者はもっとだめだ。と歯を食いしばって耐えた。その時の句だ」。ぬるま湯に浸かって久しい。先生の獄中句集『銀河蒼茫』は私にとっての「はらわたの腐り止め」でもある。

年末に、お世話になっている方から、頂いたものの中にインスタントの「鍋焼きラーメン」と言うものがあった。説明書などほとんど読まずに、鍋の〆にご飯やうどんの代わりに入れるものと、勝手に思っていた。それが「アド街ック天国」で高知特集を見た時に、何と高知では、「鍋焼き」と言えば「うどん」ではなく「ラーメン」が一般的であることを知り、目からころも、ではなくうろこであった。文字通りの鍋焼きラーメンを作ってみた。袋の裏には「お好みで、生卵、ちくわ、鶏肉、ネギなどを加えますとさらにおいしく召し上がれます」とあったので、その通りにした。家族も大喜びの「鍋焼きラーメン」だった。

 

 


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