2月15日(火)晴れ。
夕方に伊豆高原の干物屋に頼んでおいた干物が届いた。伊豆と言えば、下田に初めて遊んだのは何時のことだったか・・・。思いだせないくらい昔のことだ。下田に実家のある長谷川光良氏の紹介で、良く行ったのが「いず松陰」という料理屋。もう十年以上行っていないが、リーズナブルで美味しい。恐らく吉田松陰先生が密航を企てたゆかりの浜というあこともあって「松陰」の名を付けたのだろうが、なぜかお店の入り口に山頭火の「伊豆はあたたかく野宿によろしい波音も」の句碑がある。同じ句の碑が下田の泰平寺境内にもある。種田山頭火は昭和11年4月伊豆の俳友を訪ねる旅をした。生前の山頭火と親しく、死後その顕彰につとめた大山澄太氏の揮毫により句碑の建立となる。と資料にある。
また名前は失念したが、下田駅のすぐ近くの蕎麦屋さんに大山澄太氏の書による山頭火の句の色紙があったことを覚えている。何の句だったかはお店の名前と共に思い出せない。その下田の弓ヶ浜海岸の近くに、亡くなられたが憂国三友会という団体を主宰していた高橋順之助さんが「うじま」と言う民宿を経営されていた。昭和60年8月18日、2泊3日で「うじま」に泊まり遊んだ。メンバーは、阿部勉、花房東洋、板垣哲雄の諸氏と私。岐阜から京都、そして下田と何の目的もない「金が尽きるまで」の旅だった。
下田から明日それぞれの家に帰るという夜。少ない現金を出し合って全て花火を買って海岸で楽しんだ。皆なぜ持ち金をほとんど使ってしまったのか。それは花房先輩が、「俺がカードを持っているから、駅でカードで切符を買えばいい」。ところが駅に行ったら当時はカードでは切符を買えず、正直言って焦った。下田から新宿までバスが出ているとのことなので、小銭を出し合って阿部さんを乗せ、我々は、入場券を買い電車に乗った。後輩に熱海までお金を持ってきてと頼み車中の人となった。車掌を見るとトイレに隠れたり、何とか熱海についてお金を貰い自宅に戻った。懐かしい思い出だが、共に旅した阿部、板垣の両氏はすでに鬼籍に入られてしまった。伊豆の山々月淡く・・・。※弓ヶ浜にて、昭和60年8月、左から故板垣哲雄氏、花房東洋氏、故阿部勉氏