白雲去来

蜷川正大の日々是口実

山口二矢烈士の五十年祭に出席。

2010-11-04 08:26:25 | インポート

十一月二日(火)晴れ。

 愚妻の調子悪がいので、いつもかかっている近くの病院へ行こうと思ったら、病院からの紹介でみなとみらいにあるMRIのある病院を紹介された。午後一番で、愚妻を病院に送り、私はトンボ帰りで自宅に戻り、子供達の夕食の支度をした。

 結果は、異常なし、との事でまず安心。それでもまだ顔の腫れはひかないし、歯にかぶせてあった金冠が取れたり、顔面を強打したことの後遺症が続いている。

 

 夕食はカレーである。具材を調理して、保温ポットに入れておくと、放っておいても調理が出来る。これを使うとジャガイモなどが煮崩れしないですむ。便利なものだ。

 

 三時半に、志村馨、松本佳展の両君が迎に来る。今日は、五時半から日比谷公会堂で山口二矢烈士五十年祭が行なわれ、出席する。会場となった日比谷公会堂は、実は、保田財閥の始祖である保田善次郎が寄付して建てられた物だ。東大の安田講堂もやはり安田の寄進による。

 

 その安田は、大正十年九月二十七日、大磯の自宅で、神州義団の朝日平吾によって刺殺される。それから三十九年後の昭和三十五年の十月十二日に、安田が寄進した日比谷公会堂において、当時の社会党の委員長であった浅沼稲次郎は、山口二矢により刺殺される。歴史的事件には、なぜかこういう因縁が付きまとうような気がする。それは、このような事件が偶然によって起こるものではなく、必然的に起こるからではないだろうか。

 

 五時過ぎに、公会堂着。全国からはせ参じた同志が会場を埋めている。やはり、山口烈士の五十年祭と言うことで、一般の参加者の数が少ないように感じられた。取材に来ていた「不肖・宮嶋」氏に会う。

 

 会場内で、久し振りに会う地方の同志の方とのご挨拶で忙しかった。野村一門からは、岩上賢、隠岐康、大熊雄次、志村馨、松本佳展の諸氏に私。六時開会。一時間ほどの神事の後に休憩を挟んで、國學院大學の大原康男先生の講演があった。当初、神事だけと聞いていたので、約二時間、神事だけでは、だれないかと思っていたので、大原先生の講演は、この追悼祭に強弱があって良かったと思っている。

 

 大原先生の講演は、四宮正貴先生のブログに、その要旨が掲載されていますので、是非ご一読下さい。

 

 終了後は、泰明小学校近くの日本蕎麦屋で直会。その後、有楽町の昭和を思わせるようなガード下の店で、久し振りに一杯やった。偶然に、政経調査会の槇泰智氏一行とお会いした。もう一軒、という岩上、大熊、隠岐の諸兄の誘いをお断りして、帰宅した。


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正田氏のご子息のご葬儀。悲しかった。

2010-11-02 00:22:15 | インポート

十一月一日(月)雨のち曇り。

 今日は、先日逝去なされた、群青の会の正田秀幸氏のご子息の告別式が北浦和の葬儀場にて行なわれるために、六時に起床した。七時三十一分発の湘南新宿ラインに乗るために、六時四十分のバスに乗った。本来ならば、もう少しゆっくりして、愚妻に車で送って貰うのだが、腕を怪我しているために車の運転がままならない。

 

 早目に駅に着いて、コーヒースタンドでトーストとスクランブルエッグの朝食。こんなものを食べていたら日本男児らしい屁も出ない。何でも、川崎で事故があったとかで、電車が遅れ、凄いラッシュである。今更ながら、そのラッシュの中を毎日通う、サラーリーマンに脱帽。私は、原稿の校正があるので、贅沢してグリーン車にした。しかし、座れたのは、大崎からだった。赤羽まで行って、京浜東北に乗り換え、北浦和へ。九時前に着く予定が、二〇分以上も遅れてしまった。正田氏の所の若い人に駅まで迎に来てもらい、葬儀場へ。

 

 昨日は、結婚式で若いカップルを祝福し、今日は葬儀で、逝く人を見送る。無常観というものを感じずにはいられない。

 

 正田氏と奥さんにご挨拶をするが、言葉がない。野村先生の奥さん、夏井辰徳、隠岐康、大熊雄次、古澤俊一の諸氏も来ていた。カメラマンの平早勉さんが、写真を撮っていた。ご焼香が済み、出棺。最近は、歳のせいか涙もろくなり、トイレに入って何度も涙を拭った。最後までお見送りをと思ったが、愚妻から連絡があり、頭が痛くて気持ち悪いとの事。先日の事故で顔を強打しており、そのせいかもしれないので、慌てて自宅に戻った。

 

 自宅に着いた時は、大分落ち着いていたが、頭が痛いという。そう言えば、事故以来、眠くて仕方ないと言い、寝てばかりいる。明日、脳神経外科に連れて行こうと思っている。それにしてもふざけているのは会社の対応だ。今日、私が電話して、初めて警察に届けるといったり、労災の申請をすると言い出した。私が連絡をしなければ、そ知らぬ顔を決め込むつもりだったのか。「自分で転んだことにして」「労災は、現在一人使っているので、使いたくない」と、当初はほざいていた。ナメンナヨ、という感じだ。

 

 愚妻に、お粥を作って、慌てて歯医者へ。私の通っている歯医者は、みなとみらいにあるために、エイペックでの警備が凄い。警察官だらけだ。期間中、歯医者に行けるかどうか心配である。

 

 夜は、家族の夕食を作って、片づけをして、原稿を書いて、風呂に入って、あーあ疲れた。そろそろ寝ますか。


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今月二度目の結婚式に出席。

2010-11-01 01:23:49 | インポート

十月尽(日)曇り。

 台風一過の晴天、とはいかずに、空は今にも泣き出しそうである。日曜日だというのに、上の子供は学校の行事で出掛けて行った。俄身体障害者となった愚妻のために、下の子供に手伝って貰い朝食作りと、食後の片付けを行なう。正午過ぎまで、原稿書き。ようやく「実話時報」の連載を脱稿。やれやれである。

 

 今日は、三時から、町内の友人であるオグリンさんの長女の結婚式が、中華街のローズ・ホテルにて行われるので出席。本来ならば、愚妻に送ってもらうのだが、片腕では運転もままならず、バスで関内駅まで行き、運動のためにそこからホテルまで歩いていった。

 

 サリーから電話が入り、愚妻を見舞ってくれると言う。恐縮してご辞退をしたのだが、仲良しのナリポンこと成田功君と一緒に我が家に向っているとのこと。入れ違いになって残念だが、友情に感謝。また、多くの社友の方より、お見舞いのメールを頂き、恐縮致しております。

 

 中華街のローズ・ホテル。以前は、ホリデーイン・ヨコハマという名前だった。宿泊と宴会だけの、さして特徴のないホテルだが、立地条件が良いせいか、いつも賑わっているようだ。新郎新婦や、ご両親、親しい方にご挨拶している内に時間となり、ホテルのバスで、山手の教会へ移動。港の見える丘公園を過ぎて、韓国領事館のすぐ先の小さな教会。良く通る道の、こんな所に教会があったのかと、少々不思議だった。

P1000021 ※こんな感じの教会でした。

 今月は、教会の結婚式に出席するのは二度目である。私は、仏教徒(浄土真宗)であるせいか、どうも教会での式が馴染めない。前回の牧師は毛唐、いや外人で、恐れおののいた。更に、賛美歌などを歌うと、心が洗われるどころか、魂が奪われそうで、思わず緊張してしまう。キリスト教徒や参列者に恨みもつらみも、決して偏見もないが、賛美歌は苦手で、いつも江戸の儒学者であった藤森大雅が瀕死の病床での中の作と言われている漢詩を呪文のように、心の中で反芻する。

  叱々(しっし)、叱々、又叱々

  汝、西洋の犬耶、咄(とつ)!(咄は、舌打ちし、叱る声)

  何すれど我が内地を横行する

  叱々、天山是絶筆(天山は藤森の号)

  

 決して、差別主義者ではありません。ただ教会と賛美歌を聞くと、月に向って吼えたくなるので、悪しからず。と言うのは、八割がた冗談です。

 

 式が終わって、ホテルに戻るのかと思ったら、教会のすぐ隣にある瀟洒な建物に移動しての披露宴。へぇー随分とオシャレじゃん。と感激した。乞われて、乾杯の音頭をとった。受けを狙って、「こなさん、みんばんは。もとい、皆さんこんばんわ」とやったら受けたのでほっとした。そのあとは真面目にやりました。

 最後のセレモニー、新婦の両親への挨拶では、歳のせいかいつも涙腺が緩む。いい結婚式だった。

 

 終了したのが、八時過ぎ。ビールを舐めただけで、後はウーロン茶にしたので、長かったこと。新郎新婦に「お幸せに」とご挨拶して自宅に戻った。


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