白雲去来

蜷川正大の日々是口実

バレンタインデーの思い出。

2021-02-17 15:04:01 | 日記

2月14日(日)曇り後晴れ。

毎年、この日に群青の会の大熊雄次氏が主催する「野村先生の生誕祭」を執り行っているが、今年は、コロナ禍で中止。そういえば何年か前の生誕祭の日に大雪が降り、帰るのに難儀したことがあった。ご存命ならば先生は今日で八十六歳か。想像もつかん。

バレンタインデーには忘れられない思い出がある。色っぽい話でなくて恐縮だが、昭和六十二年の一月に私たちが起こした事件で、荻窪警察に留置された。接見禁止が取れた二月十四日に先生が面会に来てくれた。当時は、拘留者との面会も規則が緩く、取調室でお茶を飲みながら面会させてくれた。帰り際に先生が「今日はバレンタインだから女房が蜷川にチョコレートを渡してくれと言われたので持って来た。食べさせてあげて下さい」と頂いたのが、何と「ウイスキーボンボン」だった。

先生が帰って留置所に戻る時に、担当さんが「アレ、蜷川、酒臭いぞ」。「イャー、ウイスキーボンボンみたいでした」。「このままじゃ留置所に戻せないので、警備課の部屋で少し休んで行け」。大らかな時代だった。

その後、大野康孝さんと犬塚博英先輩が面会に来た折に「赤福」を持ってきてくれた。三人とも、言葉もなく「赤福」を前にして、何も語らずにお互いの顔を見ながらただ泣いていた。後日、犬塚先輩から、その時の話を聞いた。面会を終えて帰る道すがら、大の男が二人、ポロポロと涙を流しながら歩いている姿に、すれ違う人が怪訝な顔をして通り過ぎて行った。と。

私にとってバレンタインデーは、「ウイスキーボンボン」と「赤福」、当然ながら野村先生と大野康孝さんの思い出につながる。


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この時期を春というのには無理がある。

2021-02-17 14:35:22 | 日記

2月13日(土)晴れ。

大寒、立春が過ぎて暦の上では春なのだが、北陸から大雪の便りを聞いたり、横浜だって朝晩は暖房が必要な今の時機を「春」というのは無理があると、以前から思っていた。春にふさわしい季節と言えば三月、四月、五月のような気がする。まあ冬があまり長くなっては気持ちも華やがないので、気持ちだけは早々と「春」の気分で行こうか。というノリかな。

「春の雪」と言うのは三島由紀夫の『豊饒の海』の第一巻の名前だが、私が「春の雪」と聞いてすぐに脳裏に浮かぶのが、「二・二六事件」、「桜田門の変」である。前者は二月二十六日、後者は三月三日。そういえば、昭和五十二年三月三日に野村先生らが決起した「経団連事件」の日にも横浜に一瞬、雪が舞った。冬と春の境があいまいなのが日本的という所か。私的には、桜が満開になった時に、春を実感する。

横浜は今年一番の暖かい日だった。下の子供からバレンタインのチョコを貰う。夜、地震あり。玄関のドアを開けたら、当たり前だが我が家だけではなく、隣近所の家もガタガタと音を立てて揺れていた。幸いにも我が家には被害なし。震源地は東北沖とか。この時期に地震か。被害がなければよいが。念の為に家族に懐中電灯を渡す。


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株取引のことは分からないけれど。

2021-02-15 12:13:20 | 日記

2月12日(金)曇り。

朝食は、久しぶりにマルシンのハンバーグ、マカサラ、目玉焼きに新ワカメの味噌汁。昼は、カップヌードル。夜は、カツオ、タケノコのから揚げ、糸こんにゃくの煮物。お供は、「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

株価がバブルの時以来好調とのこと。尤、株の取引など生まれて一度もしたことはないし、ナスダックだかキュウリダスかも分らん。しかし、マスコミではコロナによる経済の落ち込みが喧伝されているのに、株価だけが高騰・・・。果たして景気が良いのか、悪いのか、浪人風情には良く分からんし実感もない。

株と言えば、かつて兜町の風雲児と言われ、世に名高い「投資ジャーナル」事件を起こし、晩年は安アパートでタバコの火の不始末で焼死した中江滋樹のことを書いた『兜町の風雲児』(比嘉満広著・新潮社)を読んでいる。これが株などにも全く興味のない私が読んでも中々面白い。

中江が最初に株を買ったのは小学校の五年生のこと。(これも凄い)コツコツ貯めたお小遣いを減らさず、かつ楽しめる方法として映画会社の日活の株を二万円で千株買ったそうだ。二万円は当時の大学卒の初任給に近い金額とのこと。なぜ日活かと言えば『四季報』を読んでいて、(普通小学生で『四季報』を読むか)「株主優待」というものがあることを知る。毎月二枚の映画の優待券を貰える。年間二十四回もただで映画が見れるわけだ。さらに投資したお金も減らない。

父親が証券会社に勤めていたこともあって株を買い易かったこともあろうが、中江自身は、父親からの影響は受けていない。と言っている。株取引の何たるかも知らない私が読んでも、色々な意味で勉強になる本だ。

 


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懐かしい方の訃報。

2021-02-15 12:13:20 | 日記

2月11日(木)晴れ。建国記念の日、紀元節。

起床後、玄関に国旗を掲げ、神武天皇肇国の昔を偲び橿原神宮を遥拝。輝く皇紀は二六八一年の紀元節をお祝いする。

フェイスブックにアップしたが、当時、神奈川の民族派の指導者として活躍していた大日本殉皇会の小早川貞夫先生が主催していたのが、紀元節奉祝神奈川県大会である。私が初めて参加したのは、昭和四十八年の第二回大会からである。私は二十二歳だった。大日本殉皇会の本部のあった大磯は二宮から出発して流し街宣を行いながら、途中2キロ程を奉祝行進を行った。以後二十年以上も参加しただろうか。懐かしく思い出す。

懐かしいと言っては失礼かも知れないが、今朝の新聞の訃報欄に、元警視庁の捜査第一課長の寺尾正大さんの名前があった。オウム事件や奇しくも私の友人だった三浦和義さんの「ロス疑惑」や「トリカブト事件」と言った大事件の指揮を執ったことでも知られている。

もう二十五年以上も前のことだが、やはり当時の警視庁の公安三課長だった宮崎忠さんに誘われて神楽坂の小料理屋で食事を共にした折に、紹介されたのが寺尾さんだった。なぜ捜査一課長が、と訝しく思ったが、中々くだけた人で、名刺を頂いたときに驚いたのは私と同じ名前だったこと。寺尾さんもそれを意識して酒席に私を呼んでくれたのだろう。寺尾さんとは正に一期一会だったが、度々テレビで記者会見する姿をお見掛けしていた。最近体調を崩し、先月の二十四日に亡くなられたそうだ。享年七十八歳。合掌。※写真は昭和48年2月11日、。JR国府津駅前、紀元節奉祝神奈川県大会に参加した方々と。私は後列、左から三人目。

 


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私の好きなお店。

2021-02-12 14:32:14 | 日記

2月10日(水)晴れ。

朝食は、ブリの照り焼き、カボチャの天ぷら、韓国海苔、マルちゃんの「ワンタン」。昼は、焼きそば。夜は、餃子、スライス・マッシュルームをたっぷり載せたポークソテー、紅鮭。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

横浜に好きな食べ物屋が何軒かある。うなぎは東神奈川の「菊屋」に吉田橋の「八十八」。蕎麦屋は平沼の「角平」に「田中屋」、関内の「利休庵」。カレーは伊勢佐木町の「モハン」。焼肉は井土ヶ谷の「アリラン飯店」。中華街は「菜香」、「安記」に「大珍楼」、モツ炒めの「中華飯店」、小籠包と水餃子だけ食べに行く「北京飯店」。焼き鳥は、最近ご無沙汰をしている曙町の「千屋」と井土ヶ谷の「ばくだん」に定宿の「やまと」。寿司屋は元町の「藤松」。牛タンの「たん右衛門」。ここも随分とご無沙汰をしている。イタ飯の「オアジ」。ステーキはランドマークの地下の「横浜」。まあ行くのは年に一度か二度。ハレの時だけである。そりゃ何といっても安くはないからね。

最近、若い人に人気の野毛にはなぜか馴染みの店がない。どうも肌に合わないのだ。コロナで外食する機会が少なくなった。また人を疎遠にする。早くコロナが終息して貰いたいと願っている。


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