スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ニューイヤーカップ&第三部定理二七系二

2018-01-10 19:22:07 | 地方競馬
 第61回ニューイヤーカップ。ドンビーが発熱したため競走除外となり9頭。
 ヤマノファイトとレベルスリーは加速が鈍く,1周目の正面に入るまでほかの7頭から遅れました。正面に入って先頭に立ったのはゴーレンマッハ。2番手にセイヴェルビットで3番手にシェーンリート。ヤマノファイトが4番手まで追い上げ,5番手にこれも巻き返したレベルスリーとハセノパイロ。7番手がクロスケで8番手にトーセンブル。最後尾がヴァンルモンテ。向正面に入るとゴーレンマッハ,セイヴェルビット,ヤマノファイトで雁行の形になり,4番手にシェーンリート,5番手にハセノパイロ,6番手にレベルスリー,7番手にクロスケ。ここから離れて8番手にトーセンブルで最後尾にヴァンルモンテという隊列に。前半の800mは51秒7のスローペース。
 3コーナーにかけてクロスケが外を進出。これに対応したのがヤマノファイトで,この2頭がゴーレンマッハとセイヴェルビットを抜き去り,4コーナーにかけて3番手以降を大きくを引き離しました。さらに直線に入るとクロスケが苦しくなり,ヤマノファイトが抜け出す形で優勝。クロスケが4馬身差で2着。内で粘るシェーンリートを交わして3番手に上がったレベルスリーを,大外から差したトーセンブルが5馬身差で3着。レベルスリーがクビ差の4着。
 優勝したヤマノファイトはここが北海道からの転入初戦。北海道時代はイノセントカップとサンライズカップを勝っていて,実績的にはここを勝つ力があると思われました。浦和の1600mは内枠が断然有利で,ほかの能力上位と目された馬がわりと外枠に回ったので,その分だけ勝つ可能性も高まったと考えていました。ただ,あまりダッシュがつかず,確かに挽回するのには有利に働いたでしょうが,内枠の利を最大限に生かしたという勝ち方ではありません。それでこの着差ですから,クラシックでも十分に戦える馬という評価でいいのではないかと思います。父は2009年にJRA賞で最優秀ダートホース,NARグランプリでダートグレード競走特別賞,2010年にJRA賞で最優秀ダートホース,2012年にNARグランプリでダートグレード競走特別賞に選出されたエスポワールシチーでその父がゴールドアリュール。母のはとこに2006年に京都新聞杯と中日新聞杯,2008年に京都大賞典を勝ったトーホウアラン。6代母がクレアーブリッジの祖母にあたります。
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は2015年の東京記念以来の南関東重賞制覇。第53回以来8年ぶりのニューイヤーカップ2勝目で南関東重賞は13勝目。管理している船橋の矢野義幸調教師は第53回以来8年ぶりのニューイヤーカップ2勝目。南関東重賞は13勝目。

 この考察だけで,先生は静の涙を目にすることによって悲しみtristitiaを感じたのだけれど,だからといって静に対する排他的思想を有しているわけではないこと,もっといえば,思想のレベルにおいてではなく感情affectusのレベルにおいてさえ,排他的感情を有していなかったということを,自由の人homo liberはたちどころに理解します。
                                
 この理解の要点はふたつあります。そのひとつは,このときの先生に生じた感情の模倣が,第三部定理二一によって説明される事象であったという点です。つまり先生は静に対する愛amorのゆえに静の感情を模倣したのです。逆にいえば,もし先生が静を愛してなければ,静の感情は先生によって模倣されなかったかもしれません。これでみれば分かるように,この事象の基調になっている先生の感情は,静に対する愛です。第三部諸感情の定義六をみるまでもなく,愛は喜びLaetitiaの一種です。ですから基調において先生は静のことを肯定しているのであり,否定しているあるいは排除しているのではありません。先生の悲しみが「一滴の潤い」たり得たのは,先生の記述によればその他の事情も考慮しなければなりませんが,それが静に対する感情の模倣として生じたということも一因であり得たと考えられます。ですからこの感情の模倣によって,先生の静に対する愛は,強まりこそすれ弱まるということはあり得ません。いい換えればそれによって先生はそれまでよりも強く静を肯定することはあっても,否定negatioに向かうということはないのです。なので先生は排他的感情および排他的思想を有したわけではありません。
 さらにもう一点,先生の静に対する愛を無視したとしても,このときに先生が感じた悲しみが憐憫commiseratioであったということからも,そこには排他的思想も排他的感情もなかったということを自由の人はすぐに理解します。なぜなら憐憫は,憐れむ相手を排除する方に向かう感情ではないからです。それは第三部定理二七系二から理解することができます。
 「我々の憐れむものの不幸が我々を悲しみに刺激するからといって,我々はそのものを憎むことはできない」。
 つまり憐憫という悲しみは,憎しみodiumという悲しみとは相反する感情なのです。
コメント
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