スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典川崎記念&自由の人の対処

2018-01-31 19:06:30 | 地方競馬
 第67回川崎記念
 ケイティブレイブがハナへ。2番手にアポロケンタッキー。3番手は内にグレンツェントで外にメイショウスミトモ。5番手がアウォーディー。6番手以下はディアドムス,キャッスルクラウン,コスモカット,サウンドトゥルー,イッシンドウタイの順で続きました。交流重賞はまったくついていかれない馬がいることの方が多いのですが,このレースは10頭がほぼ一団のまま2周目の向正面まで進みました。これは超スローペースとなったためです。
 3コーナー手前でメイショウスミトモはついていくのが困難になり,2番手のアポロケンタッキーの内からグレンツェントが並び掛けようとし,コーナーでこの2頭の外を追い上げてきたのがアウォーディーで逃げたケイティブレイブを含めた4頭の争いに。終始先頭のケイティブレイブは余裕があり,最後までどの馬にも並ばれることなく逃げ切って優勝。グレンツェントとアポロケンタッキーは激しく競り合いましたが,ずっと前にいたアポロケンタッキーが最後まで抜かせず,競り落として1馬身半差の2着。大外を回ったアウォーディーが1馬身差の3着でグレンツェントは半馬身差で4着。
                                
 優勝したケイティブレイブ帝王賞以来の勝利で大レース2勝目。このレースは上位3頭とサウンドトゥルーの4頭が能力上位。次位グループがグレンツェント,メイショウスミトモ,ディアドムスの3頭で,これらは一角でも崩せば健闘だろうと見立てていました。その意味では能力上位の4頭のうち3頭で3着までを独占したというきわめて順当な結果。今日は楽に逃げられた分だけケイティブレイブにとって有利になり,末脚型のサウンドトゥルーには不利になったという結果。展開やペース次第で着順は入れ替わるでしょうが,この4頭とその他の馬では差があるという見方を変える必要はないだろうと思います。父はアドマイヤマックス。母の父はサクラローレル。母の12歳上の半兄に1999年に北海道スプリントカップ,2000年にガーネットステークスと黒船賞と群馬記念とかしわ記念と朱鷺大賞典,2001年にガーネットステークスととちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ
 騎乗した福永祐一騎手は帝王賞以来の大レース制覇で川崎記念初勝利。管理している目野哲也調教師は帝王賞以来の大レース3勝目。川崎記念は初勝利。

 自由の人homo liberは理性ratioに従って生活する人のことを意味します。理性による認識cognitioは十全な認識であるので,自由の人は十全な観念idea adaequataすなわち真の観念idea veraに従って生活する人であるといっても,ほぼ同じ意味になります。ここで完全に同一といわずほぼ同一であるというのは,理性による認識すなわち第二種の認識cognitio secundi generisの基礎となる共通概念notiones communesによる認識だけが人間の精神mens humanaのうちに十全な観念を発生させるというわけではなく,第三種の認識cognitio tertii generisによっても十全な観念が人間の精神のうちに発生するということを考慮したものです。したがって十全な観念に従って生活する人という方が,理性に従って生活する人というのより広くわたることになります。よって理性に従って生活する人が十全な観念に従って生活する人であるということは間違いありません。
 真理の規範は真の観念そのものです。したがって,十全な観念に従って生活する人は真理の規範を有している人,他面からいえば自分が真理の規範を有しているということを自覚している人のことです。これは観念と観念の観念idea ideaeが同一個体であるということから明白でなければなりません。なので自由の人は,真理veritasと虚偽falsitasを分かつ規準を有している人ということになります。よってどんな人間も現実的に存在する限り何らかの混乱した観念idea inadaequataを有することになりますが,自由の人はそれが混乱した観念であるということ,いい換えればそれが十全な観念ではないということを即座に理解できる人であることになります。このゆえに,虚偽と誤謬の違いでいえば,自由の人も虚偽falsitasには必ず陥りますが,その場合でも誤謬errorを犯すことはありません。
 何度もいっているように,不安metusも希望spesも何らかの不確実な観念すなわち虚偽とともにでなければあることができない感情affectusです。このとき自由の人はそれが虚偽であるということを理解するのですから,恐怖metusや希望に由来する欲望cupiditasは,虚偽に由来する欲望であるということを理解します。よってその欲望に従うということはありません。従うならそれは虚偽に従っていることになり,そうした人は理性すなわち真理に従うということから外れるので,自由の人ではなくなるからです。これが自由の人の対処です。
コメント
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