スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

処分の場合&誤謬の発生

2021-12-11 19:11:32 | 将棋トピック
 離席の場合は,それが三浦九段が非合理的なことをしないということ,そしてそもそもコンピュータから指し手の援助を受ける蓋然性が低いということを覆すような根拠になるとは僕には考えられませんでした。ただ,実際のところをいえば,当時の僕がこのことを詳しく吟味したのかといえば,必ずしもそうはいえません。このことは,三浦九段が指し手の援助を受けたということについては何も論証していないのですから,不利な状況といえば不利な状況なのでしょうが,それほど大きな不利であるとは思えなかったといった方がより正確だったかもしれません。
 しかしもうひとつの点,現実的に三浦九段に処分が下されたという点に関しては,僕には大きな事象と思えました。今から考えれば,確かに当時はコンピュータを用いた研究によってどれほどの棋力の上昇が見込めるのかということが分かっていなかったですし,そのことは単に棋士の間でそうであったというだけでなく,僕のようなファンの間でも同様だったと考えなければなりませんが,そうした当時の状況というのを差し引いても,処分が下されるのであれば下されるだけの理由があるのでなければなりません。これは一般論としてそうなのですから,この件の場合にも妥当するのでなければなりません。したがって三浦九段には処分されるだけの理由がある,逆にいえば処分を下した将棋連盟の側には,処分を下すだけの明確な理由があるのだという判断が,当時の僕にはあったのです。そしてその明確な理由というのは,処分が指し手の援助を受けたことに対してであるのなら,三浦九段が指し手の援助を受けていたということに関する何らかの証拠でなければなりません。
 僕がその当時にこういった認識をもっていたということは,竜王戦について書いた記事に,こうした認識を有すること自体が合理的な判断であるという主旨のことを記述されていることからご理解いただけるものと思います。ですがこのことも,三浦九段側の合理性を覆すほどの根拠にはならないと僕は考えていました。次回はその理由を示すことにします。

 麻雀のようなゲームにおける誤謬errorというのは,多くの場合はふたつのケースから発生するといえます。そしてそれは,オカルトであるかデジタルであるかということとはあまり関係がありません。ひとつは思考の不足privatioから生じる誤謬で,もうひとつは受動感情への隷属servitusから生じる誤謬です。これらの誤謬には,デジタルなプレイヤーもオカルトのプレイヤーも陥る可能性があるので,その差異によって誤謬の有無を決定することはできないのです。順に説明していきましょう。
                                   
 思考の不足というのは,第二種の認識cognitio secundi generisによって十分にある事柄を認識したと思い込んでしまうときに生じる誤謬です。このとき,第二種の認識つまりデジタルな認識によって十分に認識したというようにそのプレイヤーは思い込むのですから,実際には十分ではないということ,いい換えれば思考の不足が生じているということにはそのプレイヤーは気付きません。したがって,当然ながら不足した思考からは真理veritasではなく虚偽falsitasが生じることになり,かつその虚偽を虚偽であるという認識は生じていないということになります。つまりこれは誤謬に該当することになるのです。これはたとえば単純な計算をするときにミスをしてしまうという類のものであり,錯覚とかポカといわれるようなミスはすべてこれに該当します。ただ,このようなミスは人間には避けられない,すなわちオカルトであるかデジタルであるかとは関係なく生じることがあるものですから,この誤謬があまり多く生じてしまうような場合は単にそのプレイヤーのそのゲームに対する実力が低いということになりますが,そうでないならばゲームの実力そのものと直結するような誤謬であるとはいえないでしょう。
 受動感情への隷属というのは,ある感情affectusに流されてしまうがために生じる誤謬です。受動感情に隷属するということ自体は,第四部定理四系により,現実的に存在するすべての人間に妥当するのですから,プレイヤーがオカルトを重視するのかデジタルに即するのかということとは関係ありません。この点はとても重要なので注意してください。デジタルに即するプレイヤーには何の感情もないというわけではないのです。
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