スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

目指せケンタッキー 農林水産大臣賞典全日本2歳優駿&第四部定理六

2021-12-16 19:06:52 | 地方競馬
 昨晩の第72回全日本2歳優駿。本田正重騎手が14日の10レースで落馬し,第7頸椎を棘突起骨折したためプライルードは張田昂騎手に変更。
                                         
 ライアンは発馬直後に内によれてしまい2馬身の不利。逃げたのはカイカノキセキでリードは2馬身くらい。2番手にバウチェイサーとドライスタウト。4番手にコンバスチョンとノブレスノア。6番手にプライルードとモリデンブラック。8番手以下はマリンスカイ,セキフウ,ナッジ,,シルトプレ,アイスジャイアント,ライアンの順になり,ナインバイパーは大きく離されてしまいました。前半の800mは50秒2の超スローペース。
 2番手を追走していたドライスタウトは徐々に前との差を詰めていき,4コーナーではカイカノキセキの前に出て先頭に。ドライスタウトの直後でレースを進めていたコンバスチョンだけはそれなりに追ってくることはできましたが,前に届くという脚はなく,4コーナー先頭のドライスタウトが楽勝。コンバスチョンが2馬身半差で2着。コンバスチョンの後ろから前を追ったプライルードが5馬身差で3着。
 優勝したドライスタウトは9月にデビュー戦を勝つと先月の特別戦も連勝。このレースのタイムが非常に優秀で,メンバーの中では最も能力の裏付けがありましたので,最有力候補ではないかと考えていました。距離が延びることとコースを1周するレースへの対応が課題でしたが,ペースの関係もあって楽に克服。ただこのレースも速力で他を圧倒したという内容でしたので,さらなる距離延長はまだ課題として残るでしょう。短距離から中距離なら大成するのではないかと思わせる内容でした。祖母の父はフジキセキ
 騎乗した戸崎圭太騎手は秋華賞以来の大レース18勝目。第66回以来6年ぶりの全日本2歳優駿2勝目。管理している牧浦充徳調教師は開業から12年半で大レース初勝利。

 ここまでの説明から分かると思いますが,この種の誤謬errorというのは,オカルト的な要素に依拠して打つプレイヤーだけに特有のものではありません。誤謬というのが受動感情に引きずられることによって発生するものであるとするなら,受動感情に引きずられるプレイヤー,少なくとも受動感情に引きずられ得るプレイヤーであれば,デジタルに基づくかオカルトに依拠するかということとは無関係に,誤謬を犯し得るということになるからです。しかるに,第四部定理四からして,現実的に存在する人間はだれであっても,ある感情affectusに刺激されないでいるということは不可能です。よってその受動感情に引きずられるということは,現実的に存在するすべての人間に生じ得ることなのです。
 ただし僕はスピノザ主義者として,次のこともいっておきます。第四部定理四や第四部定理四系というのは,現実的に存在する人間が受動passioを免れることはできないということを意味します。したがって,受動感情を免れるということ,いい換えれば感情を受動しないで現在するということは,人間にとっては不可能です。ただし,感情を受動するafficiということと,その感情に引きずられるということは,同じことを意味するのではありません。感情を受動するというのは,ある受動感情に刺激されるafficiということを意味するのに対して,感情に引きずられるというのは,その受動感情を原因causaとして何らかのことをなすということを意味するからです。
 スピノザは第四部定理六で次のようにいっています。
 「ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ,かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる」。
 これでみれば,人間は受動感情に引きずられないでいること,すなわちある受動感情を原因として何の結果effectusも生じさせずにいることはできないように思われるかもしれません。明らかにこの定理Propositioは,受動感情の力potentiaを現実的に存在する人間の力によっては制御することができないといっているようにみえるからです。しかし実際にはそうではありません。ここでは人間の力ではなく,受動ないしは受動感情の力が語られているだけだからです。
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出自と出身&誤謬と結果

2021-12-15 19:27:24 | 歌・小説
 『坊っちゃん』の登場人物の幾人かは,その出自や出身が明らかにされています。そのことが,幕臣と維新の志士に対する漱石の見方と関連していると読むこともできるのです。
                                          
 うらなりは鍛治屋町というところに住んでいます。そこは士族屋敷だとされています。つまりうらなりの出自は武士です。また,うらなりは土地の人で,住んでいるのは先祖代々の屋敷と書かれていますから,出身も松山です。坊っちゃんが下宿することになる家の老婆の話では,うらなりの父親は坊っちゃんが松山に赴任してくる前年に死にました。そして父親が死んでから,うらなりの家は暮らし向きが思わしくなくなりました。どうもうらなりが何らかの詐欺の被害に遭ってしまったためのようです。このことから分かるように,うらなりの出自は武士であって,おそらく先祖は長きにわたって松山藩の藩士であったと思われます。それが,これはおそらくうらなりの人の好い性格のためだと思われますが,金銭的に困窮する事態に襲われました。つまり明治のこの時代には没落してしまった武士であると考えられます。つまりマドンナを巡って坊っちゃんと山嵐からある種の同情を受けるのは,没落した松山藩の武士であるとみることができます。
 山嵐は,坊っちゃんとの会話の中で,自身が会津の出身であるということを明かしています。会津藩は白虎隊で有名なように,最後まで徳川幕府に忠誠を尽くしました。漱石の先祖は武田家から徳川家に寝返った武士で,先祖がそういった寝返りをしたことを漱石自身はおそらく恥じていたのですが,会津藩の武士というのは,漱石からみれば,家臣としてあるべき姿を最後まで貫いた人たちであったということになるでしょう。
 坊っちゃんは東京,すなわち江戸という徳川幕府のお膝元から松山に赴任してきたのです。つまりある意味では徳川家を代表しているのです。つまりこの物語は,松山藩の困窮した武士を,江戸と会津藩の武士が助けようとする物語であると読むことができることになります。

 なぜ誤謬errorを結果から判断してはならないのかということは,スピノザが第二部定理三五を証明するときに示していることからも分かります。スピノザはそこで,誤るとか錯誤するといわれるのは精神mensであって身体corpusではないという意味のことをいっています。なので,少なくともスピノザの哲学の中で誤謬ということをいうのであれば,それは身体のある運動motusについていうのではなく,精神の何らかの思惟作用についていうのでなければなりません。しかるに,麻雀である牌を捨てるとかある牌を手の中に残すといった行為は,身体のある運動に属します。ですからその行為についてそれを誤謬であるということはできません。むしろどの牌を捨てているのかということを決定する要因となる,思惟作用について誤謬であるとか誤謬ではないというのでなければなりません。よって,ある牌を捨てることによって失点したからそれが誤謬であると断定することはできませんし,逆にある牌を手の中に残すことによって失点を回避したからといって,そのプレイヤーが誤謬を犯さなかったということはできないのです。
 なお,僕はここではあたかも精神のうちに生じる思惟作用が,どのような牌を捨てるのかということの原因causaになると読解することができるようないい方をしましたが,スピノザの哲学では第三部定理二にあるように,精神による思惟作用が身体の運動を決定するdeterminareことはない,つまりある人間の精神の思惟作用がその人間の身体の運動の起成原因causa efficiensとはならないといわれていますので,その点にも注意しておいてください。ただ,感情affectusの場合は,第三部定義三にあるように,人間の身体のある状態と同時に人間の精神のある状態を同時に示します。したがってある感情は,それ自体で人間の身体の運動の起成原因となりますし,その感情は認識されることによってその人間の思惟作用の原因ともなるのです。僕がこのような意味でどの牌を捨てるかの要因となる思惟作用について語っていると解してください。そしてその要因が受動感情であるなら,その人間の精神は誤謬を犯しているのであり,実際にどのような結果がゲームの中で生じるのかということは関係ないのです。
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ひろしまピースカップ&誤謬の意味

2021-12-14 19:07:42 | 競輪
 12日の広島記念の決勝。並びは阿部‐和田の東日本,野原‐大坪の西日本,町田‐松浦‐池田‐三登の広島で阿竹は単騎。
 松浦と野原がスタート争い。松浦が制して町田の前受け。5番手に野原,7番手に阿部,最後尾に阿竹で周回。残り3周のバックから阿部が上昇を開始。ホームで町田を叩きました。バックに入ると野原と町田が共に上昇。外の野原が前に出て,阿部が3番手,5番手に町田で最後尾に阿竹という隊列になって打鐘。ホームから町田が発進。バックで野原を捲りきると,その3番手に阿部がスイッチ。直線に入ってから踏んだ松浦がフィニッシュ直前に町田を差し切って優勝。町田が4分の1車輪差の2着で広島のワンツー。切り替えた阿部が1車身差の3着に流れ込みました。
 優勝した広島の松浦悠士選手は8月の千葉記念以来の優勝で記念競輪13勝目。広島記念は2018年以来3年ぶりの2勝目。このレースは地元から4人も決勝に進出したので番手を回る松浦が断然有利だと考えていました。町田の先行を予想していたので,展開は違ったものとなりましたが,町田も落ち着いて対処し,逃げた野原を捲ることに成功。いいタイミングで踏み出して前の選手をぎりぎりで差し切った松浦の走りも見事だったと思います。

 ある場面で他のプレイヤーがリーチを宣言したとします。そこでは安全な牌を捨てるのが正しい選択であるという判断を理性ratioが下したとしましょう。しかし自分が得点を獲得することに向ける希望spes,あるいはこの場合には直接的に欲望cupiditasといった方がいいかもしれませんが,そうした感情affectusが強すぎるがために危険な牌を捨てるということはあり得ます。これがあり得るということは,この逆の場合を説明したことから明らかでしょう。ですからこの場合にも受動感情に隷属することによって,そのプレイヤーは誤謬errorを犯しているということになります。
 念のためにいっておきますが,こうしたプレイが単なる虚偽falsitasでなく誤謬であるということについては,実はそれ自体で明らかです。というのは,人間というのは一般的に,自身の判断が受動感情に影響されているということに気付きさえすれば,その判断を理性によって修正するからです。つまり,実際のプレイが受動感情に影響されているものとなっているということは,そのプレイが受動感情に影響されているということに気付いていないことの確かな証拠なのです。ですからこうしたプレイは虚偽ではなく誤謬であると断定してよいのです。一方,後にはそれが誤謬であったと知ることができる,したがってそれは誤謬ではなくなるのは,いろいろなパターンがあるのですが,その一例としては,第四部定理九を示すことができます。実際にプレイをしているときに感じる感情は,後にそれを反省するときに感じる感情よりも圧倒的に強いのです。
                                   
 さらにもう一点,このことは結果から判断して誤謬であるといわれるのではないという点にも注意してください。たとえば,不安metusに引きずられることによって理性的な判断に即することができず,安全な牌を捨てることによって,結果的に失点を回避するということは実際に生じ得ます。しかしこのとき,たとえそれで失点を回避したとしても,このプレイヤーは誤謬を犯したと僕はいいます。プレイの結果からそのプレイヤーが誤謬を犯したか犯していないのかということを判断してはなりません。あくまでも誤謬とは,虚偽が虚偽であるという認識cognitioの不足のことを意味するのです。
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香港国際競走&プレイ中の誤謬

2021-12-13 19:30:49 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で行われた昨日の国際競走4レースに,12頭の日本馬が遠征しました。簡単に振り返ります。
 香港ヴァーズGⅠ芝2400m。ステイフーリッシュは押して2番手。3コーナーの手前では逃げた馬の外に並び掛ける積極的なレース。直線の入口では先頭でしたがそこまでで一杯。勝ち馬から8馬身半差の5着。グローリーヴェイズは後方2番手の内を追走。直線は大外から伸び,残り50m過ぎに前を行く馬をすべて差し切って優勝。
 優勝したグローリーヴェイズは昨年の京都大賞典以来の勝利。大レースは一昨年の香港ヴァーズ以来の2勝目。父はディープインパクト。祖母の父がメジロライアン。3代母がメジロラモーヌ。5代母がアマゾンウォリアー
 日本馬による海外GⅠ制覇はブリーダーズカップディスタフ以来。香港ではクイーンエリザベスⅡ世カップ以来。香港ヴァーズは2001年,2016年,2019年に続く2年ぶりの4勝目。騎乗した香港のジョアン・モレイラ騎手は一昨年の香港ヴァーズ以来となる日本馬に騎乗しての大レース7勝目。管理している尾関知人調教師は一昨年の香港ヴァーズ以来の大レース4勝目で海外重賞2勝目。
 香港スプリントGⅠ芝1200m。ダノンスマッシュが5番手の外,レシステンシアがその後ろ,ピクシーナイトは後方2番手の外を追走。このレースは3番手の外を走っていた馬が4コーナーの手前で落馬。これに巻き込まれたピクシーナイトは落馬。ダノンスマッシュは落馬は免れましたが大きな不利を受け,完走した馬の中では最下位となる大差の8着。レシステンシアには影響はなく,外から5頭目を追い込んで勝ち馬から4分の3馬身差の2着。
 香港マイルGⅠ芝1600m。サリオスは内の2番手から向正面で先頭に立って逃げるレース。ヴァンドギャルドが3番手集団の内,インディチャンプが8番手の外,ダノンキングリーが9番手を追走。逃げたサリオスは直線でやや外へ。圧倒的だった勝ち馬に差された後,もう1頭にも差されて勝ち馬から2馬身差の3着。馬群の中から追い込む形になったインディチャンプがそこから4分の3馬身差の5着。サリオスの内に進路を取ったヴァンドギャルドがインディチャンプと僅差の6着で,ヴァンドギャルドのさらに内の進路になったダノンキングリーはそこから半馬身差の8着。
 香港カップGⅠ芝2000m。ラヴズオンリーユーは4番手集団の真ん中,レイパパレが7番手の内,ヒシイグアスは最後尾の外を追走。このレースはヒシイグアスが大外から伸び,前の2頭の間を割ってきたラヴズオンリーユーが競り合いながら残り50m付近で先頭に。競り合いを制したラヴズオンリーユーが優勝でヒシイグアスはアタマ差の2着。レイパパレは前が詰まってしまい2頭から4馬身4分の3差の6着。
 優勝したラヴズオンリーユーはブリーダーズカップフィリー&メアターフからの連勝で大レース4勝目。父はディープインパクト。母はラヴズオンリーミー。4つ上の全兄に2015年に共同通信杯,2016年にドバイターフ,2017年に毎日王冠を勝ったリアルスティール
                                        
 日本馬による香港カップ制覇は1995年,1998年,2001年,2015年,2016年,2019年,2020年に続き3年連続の8回目。騎乗した川田将雅騎手はブリーダーズカップフィリー&メアターフ以来の大レース31勝目で海外GⅠ2勝目。管理している矢作芳人調教師ジャパンカップ以来の大レース22勝目。海外GⅠはブリーダーズカップディスタフ以来の6勝目。

 どんな場合であっても,理性ratioから生じる感情affectusが,プレイ中に抱いた不安metusより強力であるとは限りません。したがって,理性的な認識cognitio,あるいはデジタルな思考をいくらしたところで,それによって不安を抑制することができるとは限らないのです。いい換えれば,理性から生じる感情によっては抑制することができない不安というのが現実的に存在するすべての人間に生じ得るのであって,その場合は不安という感情が人間のある行動の原因causaとなり得るのですから,それに従って人間は行動することになります。よってそれが麻雀のプレイ中であれば,たとえデジタルな認識は危険であってもその牌を捨てた方がよいという結論を出すとしても,不安の方が強いがゆえに,その牌を捨てることができず,手の中にある安全な牌を捨てるということが起こり得るのです。
 このことは,後にその場面を反省して振り返るときには,そのときの自分は不安という感情に隷属していて,理性的な判断ができていなかったと知ることができます。絶対に知ることができるとは僕はいいませんが,ほとんどの場合でそのような認識を有することができると僕は考えます。そしてすでにいっておいたように,スピノザの哲学において虚偽falsitasとは混乱した観念idea inadaequataであり,誤謬errorとは虚偽が虚偽であるという認識の不足ないしは欠如を意味するのですから,少なくとも反省したその時点では,その人間は誤謬を犯していることにはなりません。かつて不安という感情に流されていたということに気付くだけです。しかしプレイ中はそうではありません。プレイをしているときには不安という感情が現実的に存在しているというように,あるいは現実的に存在している事柄から発生しているというように感じられるわけですから,それが虚偽であるということには気付いていないのです。つまり,虚偽が虚偽であるということを認識していないということになりますから,そのプレイヤーは誤謬を犯しているということになるのです。
 これは麻雀をプレイしているプレイヤーの知性intellectusのうちに誤謬が生じる場合の分かりやすい一例であって,当然ながらこの逆のパターンも分かりやすい例として示すことができます。
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農林水産省賞典阪神ジュベナイルフィリーズ&プレイ中の感情

2021-12-12 19:51:34 | 中央競馬
 第73回阪神ジュベナイルフィリーズ
 ナミュールは発馬後の加速が鈍く2馬身の不利。好発はナムラクレアでしたがトーホウラビアンがハナへ。さらにダークペイジが前に出て,この2頭で後ろを4馬身くらい離していくレース。3番手にウォーターナビレラ。4番手にキミワクイーン。5番手にナムラリコリスとラブリイユアアイズとアネゴハダ。8番手にヒノクニとステルナティーアとパーソナルハイ。11番手にナムラクレア。12番手にサークルオブライフ。13番手はナミュールとシークルーズとタナザウィングとベルクレスタ。スタティスティクスとサクが並んで最後尾。前半の800mは46秒4のミドルペース。
 3コーナーから3番手以下の馬たちが前の2頭との差を詰めていき,直線に入るとほどなくウォーターナビレラが先頭に。これをめがけて追ってきたのが外からナムラリコリスとベルクレスタとサークルオブライフの3頭で内を突いたナミュールとラブリイユアアイズ。大外のサークルオブライフが内の馬をすべて差し切って優勝。ウォーターナビレラのすぐ内から伸びたラブリイユアアイズが半馬身差で2着。早め先頭のウォーターナビレラが半馬身差の3着で最も内のナミュールがクビ差で4着。
 優勝したサークルオブライフは初戦は3着でしたが2戦目で勝ち上がると前走はアルテミスステークスを制していた馬。3連勝,重賞2勝目での大レース制覇となりました。実績は出走馬の中でも上位の部類ですから,優勝候補の1頭。上位は混戦になりましたが,勝ち切った点は高く評価しなければなりません。来年のクラシックの注目株だといえそうです。父はエピファネイア。母の父は2005年に京成杯を勝ったアドマイヤジャパンでその母はビワハイジ。祖母の父はタイキシャトル
                                         
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手はオークス以来の大レース制覇。阪神ジュベナイルフィリーズは初勝利。管理している国枝栄調教師は秋華賞以来の大レース22勝目。第61回以来12年ぶりの阪神ジュベナイルフィリーズ2勝目。

 受動感情に隷属することによって,誤謬errorが生じるという場合を,麻雀を例にして説明します。
 4人で麻雀を打っているとして,だれかがリーチを宣言したとしましょう。そしてその宣言者とは別のプレイヤーが,ある牌を山から引いてきたとします。このときこのプレイヤーが,この牌はリーチに対して危険である,つまり失点してしまう可能性はあるけれども,何らかの事情によってその牌を捨てて自身の得点の獲得を目指す方が得策であるということを,理性ratioによって認識したとします。この場合,少なくともデジタルに即して打つプレイヤーであれば,その牌を捨てるのが合理的であるということになるでしょう。しかしこのとき,その牌を捨てることで失点してしまうことに対する不安metusという感情affectusが強いと,その牌を手の中に残し,絶対に安全であることが見込める牌を手の中から捨ててしまうというケースが生じ得ます。
 こうしたことが生じ得るということは,哲学的な観点から説明することができます。まず第三部定義三により,感情というのは現実的に存在するある人間の精神mens humanaの状態とその人間の身体humanum corpusの状態の両方を意味します。ですから感情は人間のある行動,これは精神がなす思惟作用と身体がなす運動motusの両方を含意しての行動ですが,そうした行動の原因causaとなり得ます。不安というのは感情の一種ですから,当然ながら人間のある行動の原因となり得るのです。よってある不安は,現実的に人間が麻雀をプレイするときの,そのプレイの内容の原因となり得るのです。
 次に,第四部定理七によって,現実的に存在する人間は,ある感情に刺激されたならば,それより強力な感情によってしかそれを抑制することができません。つまり,麻雀のプレイ中に感じた不安は,その不安よりも強力な感情によってしか抑制されません。なので,この不安が麻雀のプレイの原因となることを抑制するのは,その不安よりも強力な別の感情です。このとき,第三部定理五八によって,理性から生じる感情も人間にはありますから,その感情が不安よりも強力である場合は,不安という感情を抑制して,理性に基づいたプレイ,デジタルに即したプレイをすることができます。
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処分の場合&誤謬の発生

2021-12-11 19:11:32 | 将棋トピック
 離席の場合は,それが三浦九段が非合理的なことをしないということ,そしてそもそもコンピュータから指し手の援助を受ける蓋然性が低いということを覆すような根拠になるとは僕には考えられませんでした。ただ,実際のところをいえば,当時の僕がこのことを詳しく吟味したのかといえば,必ずしもそうはいえません。このことは,三浦九段が指し手の援助を受けたということについては何も論証していないのですから,不利な状況といえば不利な状況なのでしょうが,それほど大きな不利であるとは思えなかったといった方がより正確だったかもしれません。
 しかしもうひとつの点,現実的に三浦九段に処分が下されたという点に関しては,僕には大きな事象と思えました。今から考えれば,確かに当時はコンピュータを用いた研究によってどれほどの棋力の上昇が見込めるのかということが分かっていなかったですし,そのことは単に棋士の間でそうであったというだけでなく,僕のようなファンの間でも同様だったと考えなければなりませんが,そうした当時の状況というのを差し引いても,処分が下されるのであれば下されるだけの理由があるのでなければなりません。これは一般論としてそうなのですから,この件の場合にも妥当するのでなければなりません。したがって三浦九段には処分されるだけの理由がある,逆にいえば処分を下した将棋連盟の側には,処分を下すだけの明確な理由があるのだという判断が,当時の僕にはあったのです。そしてその明確な理由というのは,処分が指し手の援助を受けたことに対してであるのなら,三浦九段が指し手の援助を受けていたということに関する何らかの証拠でなければなりません。
 僕がその当時にこういった認識をもっていたということは,竜王戦について書いた記事に,こうした認識を有すること自体が合理的な判断であるという主旨のことを記述されていることからご理解いただけるものと思います。ですがこのことも,三浦九段側の合理性を覆すほどの根拠にはならないと僕は考えていました。次回はその理由を示すことにします。

 麻雀のようなゲームにおける誤謬errorというのは,多くの場合はふたつのケースから発生するといえます。そしてそれは,オカルトであるかデジタルであるかということとはあまり関係がありません。ひとつは思考の不足privatioから生じる誤謬で,もうひとつは受動感情への隷属servitusから生じる誤謬です。これらの誤謬には,デジタルなプレイヤーもオカルトのプレイヤーも陥る可能性があるので,その差異によって誤謬の有無を決定することはできないのです。順に説明していきましょう。
                                   
 思考の不足というのは,第二種の認識cognitio secundi generisによって十分にある事柄を認識したと思い込んでしまうときに生じる誤謬です。このとき,第二種の認識つまりデジタルな認識によって十分に認識したというようにそのプレイヤーは思い込むのですから,実際には十分ではないということ,いい換えれば思考の不足が生じているということにはそのプレイヤーは気付きません。したがって,当然ながら不足した思考からは真理veritasではなく虚偽falsitasが生じることになり,かつその虚偽を虚偽であるという認識は生じていないということになります。つまりこれは誤謬に該当することになるのです。これはたとえば単純な計算をするときにミスをしてしまうという類のものであり,錯覚とかポカといわれるようなミスはすべてこれに該当します。ただ,このようなミスは人間には避けられない,すなわちオカルトであるかデジタルであるかとは関係なく生じることがあるものですから,この誤謬があまり多く生じてしまうような場合は単にそのプレイヤーのそのゲームに対する実力が低いということになりますが,そうでないならばゲームの実力そのものと直結するような誤謬であるとはいえないでしょう。
 受動感情への隷属というのは,ある感情affectusに流されてしまうがために生じる誤謬です。受動感情に隷属するということ自体は,第四部定理四系により,現実的に存在するすべての人間に妥当するのですから,プレイヤーがオカルトを重視するのかデジタルに即するのかということとは関係ありません。この点はとても重要なので注意してください。デジタルに即するプレイヤーには何の感情もないというわけではないのです。
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第四部定理六六備考&オカルトと誤謬

2021-12-10 19:35:25 | 哲学
 人間的自由とは何かを考えるにあたっては,自由のヒントを考慮する必要があります。そしてそれによれば,人間が十全な原因causa adaequataとなってあることをなすなら,そのことについては人間的自由の範疇に含めるべきだという結論になるでしょう。つまり,第一部定義七の意味で自由libertasを解するなら,人間に自由はない,あるいは人間は自由ではないということになるのですが,だからといって人間について自由を語ることができないといえばそういうわけではないということです。
                                   
 人間が十全な原因となってあることをなすということのうち,代表的なものは人間が理性ratioによって何事かを認識するcognoscereということです。これは,理性による認識cognitioが,人間の精神mens humanaが十全な原因として何事かを認識するという思惟作用であるということから明白でしょう。よって,もし人間について自由という概念notioを導入しようとするのであれば,まずは理性的な認識を第一のものと理解しなければなりません。
 スピノザがそのように考えているということは,第四部定理六六備考から明らかにすることができます。この備考Scholiumでは感情affectusないしは意見opinioに導かれる人間と理性に導かれる人間の相違が主題となっているのですが,前者は自分のなすところを無知でやっているとされた上で,後者については次のようにいわれています。
 「自己以外の何びとにも従わず,また人生において最も重大であると認識する事柄,そしてそのため自己の最も欲する事柄,のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷,後者を自由人と名づける」。
 スピノザが自由の人homo liberについて,それがどんな人かを語っているのがこの部分です。つまりスピノザは理性に導かれる人間のことを自由の人といっているのであり,よって人間について自由という概念を用いるのなら,理性に導かれる人間のことを自由というべきであるということになるのです。

 これはオカルトの発生と関係するわけではありませんが,哲学的な観点からは次のこともいっておきます。僕はスピノザの哲学では虚偽と誤謬を厳密に分けて解するべきだと考えていますが,この部分はそれと大いに関連しているからです。
 僕が虚偽falsitasというとき,それは混乱した観念idea inadaequataを意味します。そして僕が誤謬errorというとき,それは虚偽が虚偽であることを認識していないということを意味します。他面からいえば,虚偽であるものを真理veritasであると思い込むことをいいます。そこでこれをオカルトに当て嵌めれば,オカルトはそれ自体では虚偽であるといわなければなりません。すなわち,オカルトに依拠して打つプレイヤーの精神mensのうちには,何らかの虚偽が含まれていることになります。しかし,だからといってそのプレイヤーが誤謬を犯しているということにはなりません。なぜなら,そのプレイヤーが自分はオカルトに依拠して打っているということを知っているなら,それは虚偽であるものを虚偽であると認識しているというのと同じことなので,そのプレイヤーは虚偽に依拠して打っているけれど誤謬は犯していないということになるからです。すでに示したように,あるプレイヤーの精神のうちにデジタルな打ち方に関する認識cognitio,これは虚偽に対していえば真理ということになりますが,そうした真理が認識されているにしても,それと同じことについての虚偽が発生することは妨げられないのです。したがって,オカルトに依拠して打つプレイヤーが,デジタルな打ち方を認識した上で,オカルト要素を上乗せした打ち方を認識し,後者に依拠して打つということは現にあり得るわけで,とくにこの場合は真理と虚偽とがあるときに虚偽に依拠して打っているということになるのですから,それが虚偽であるという認識が確かにあるといわなければなりません。第二部定理四三から分かるように,デジタルな認識があればそれがデジタルな認識であるということを同時に理解するのであり,第二部定理四二により,同時にオカルトをオカルトと理解することになるからです。
 つまり,オカルトに依拠するプレイヤーが,誤謬を犯していると断定することはできません。
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勝島王冠&除去と妨害

2021-12-09 19:15:52 | 地方競馬
 昨晩の第13回勝島王冠
 好発はトランセンデンス。1馬身ほど遅れたのがデアフルーグ。逃げたのはワークアンドラブ。2番手にノーブルサターンで3番手にフィアットルクス。4番手集団のトランセンデンス,エルデュクラージュ,リコーワルサーまでの6頭は集団。2馬身差でセイカメテオポリスとコズミックフォース。2馬身差でアングライフェンとリッカルド。3馬身差でゴールドホイヤー。12番手にサブノクロヒョウ。その後ろにデアフルーグとマンガン。後方2番手がドーヴァーで最後尾にブレスジャーニーという隊列。最初の800mは49秒9のミドルペース。
 3コーナーからワークアンドラブにフィアットルクスとリコーワルサーが並び掛けていき,コーナーの途中でワークアンドラブは後退。直線に入るとリコーワルサーが先頭に。追ってきたのはすぐ外のコズミックフォース,さらにその外から追い込んできたアングライフェンの2頭。直線の競り合いを制したコズミックフォースが優勝。直線先頭のリコーワルサーが半馬身差で2着。アングライフェンが半馬身差で3着。
 優勝したコズミックフォースは南関東重賞初制覇。JRAでデビューし,ダービートライアルのオープンを勝ってダービーでも3着になった馬。昨年の春からはダートで走り始め,オープンで2回の5着を経て南関東に転入。転入後はオープンで3勝,2着2回。1度だけ走った南関東重賞は13着と大敗でしたが,ほかのレースの走りからするとこれは明らかに実力を出していませんでした。このレースは有力馬が多数いて,その中の1頭というのが僕の評価でしたが,南関東重賞を勝つ能力があったのは間違いありません。2着と3着が伏兵だったこともあり,レースの全体をどう評価するべきかは難しいですが,南関東重賞であればまた勝つことができる馬だとは思います。父はキングカメハメハ。母の父はネオユニヴァース。ひとつ上の半兄に今年のプラチナカップを勝っている現役のアンティノウス
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は東京記念以来の南関東重賞47勝目。勝島王冠は初勝利。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞22勝目。勝島王冠は初勝利。

 第二部定理三五備考では,ある人間が地球と太陽との距離を正しく認識しても,すなわちそれについての十全な観念idea adaequataをもっているとしても,その人間は太陽が実際にあるのよりはずっと近いところにあると表象するimaginari,すなわちその混乱した観念idea inadaequataを有するという意味のことがいわれています。一般的に僕たちは,太陽と地球との間にある距離を正しく知る以前に,太陽を表象します。そしてそれは,実際に太陽がある位置と比べた場合には,ずっと近い位置に太陽が現実的に存在するという知覚perceptioです。後に実際の地球と太陽の位置を知ることになったとします。それを正しく知れば,太陽が実際にある位置くらい遠い位置にあると表象するようになるかといえば,そんなことはありません。太陽の表象像imagoは,地球と太陽の間の距離の十全な観念がその人間の精神mens humanaのうちに存在するか存在しないかということとは関係なく,実際にあるのよりは近い位置にあると表象されるのです。したがって,第四部定理一は,前もって存在するXの混乱した観念が,Xの十全な観念によっては除去されないというように読解することができる文章になっていますが,ある人間の精神のうちにあるXの十全な観念は,その人間の精神のうちにXの混乱した観念が発生することを妨害しないということも意味していることになります。
                                   
 これをデジタルとオカルトの関係に当て嵌めれば,デジタルな思考はオカルト的なものを除去することはないし,オカルト的なものの発生を妨げることはないということになります。したがって,オカルトに依拠して打つプレイヤーが,ある局面においてデジタルに即した場合に捨てるべき牌を認識したとしても,オカルト的に打つ場合に捨てる牌の認識cognitioは除去されることも妨害されることはありません。よって,それが一致しない場合は,オカルト的に打つべき牌の方を捨てるということがあり得るのです。ここからも理解できるように,あるプレイヤーがオカルト的に打っているとしても,そのことはそのプレイヤーの知性intellectusのうちに,デジタルな思考が存在しないということを直ちに意味するわけではないのです。必ずあるとはいえませんが,絶対にないともいえないのです。
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リコー杯女流王座戦&オカルトの積極性

2021-12-08 19:28:22 | 将棋
 鶴巻温泉で刺された昨日の第11期女流王座戦五番勝負第三局。
 里見香奈女流名人の先手で中飛車。後手の西山朋佳女流王座が向飛車にしての相振飛車。ただし先手が左玉にしましたので居飛車対振飛車の対抗形に近い戦型になりました。
                                        
 この将棋はここから☖5四角☗4一龍と進み,それ以降は先手が有利のまま終局を迎えました。よって第1図が後手にとっての最後のチャンスだったようです。
 代わる手として考えられるのは,☖5四歩と取って☗7九金打に☖5七角と打つ手か,☖6九角成☗同玉としてから☖5四歩と取る手。どちらも有力な変化としてあったのではないかと思います。
 3連勝で里見女流名人が女流王座を奪取第3期,6期,7期,8期に続く3年ぶり5期目の女流王座となります。

 虚偽の積極性があるということは,ここで考察しているオカルトの麻雀にも,何らかの積極性が含まれているという意味です。それがどのような積極性であるかということは,各々のオカルトの種類によって異なるわけですから,具体的に措定することができるわけではありません。ただ単純にいって,人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによって刺激されたときに,その人間の精神mens humanaのうちに生じる表象像imagoは,外部の物体についても自分の身体についても,また自分の精神についても,十全な認識cognitioではありませんが,その外部の物体に刺激されるaffici限りで自分の身体の本性essentiaならびに自分の精神の本性を含む観念ideaです。この意味で,表象像には積極的なあるものが含まれているわけです。よって,麻雀のある場面において発生する表象像は,それがどんな表象像であったとしても積極的なものは含んでいるわけですから,少なくとも麻雀を打っているときのプレイヤーの精神のうちに発生するオカルト的な思考のうちに,何らかの積極的なものが含まれているということは,一般的な仕方で説明することができます。つまりオカルトにはオカルトの積極性があるということは否定することができないのであり,そのことはスピノザの哲学が担保している事柄でもあります。
 ところで,第四部定理一は,ある人間の精神のうちにXの混乱した観念idea inadaequataがあって,その同じ人間の精神のうちにXの十全な観念idea adaequataが発生したとしても,前もってあったXの混乱した観念は除去されないというように読めるかもしれません。ですがこの定理Propositioはそういうことばかりを意味しているのではありません。順序は関係なしに,Xの十全な観念がXの混乱した観念を除去することはできないということを意味しています。つまり,たとえXの十全な観念がある人間の精神のうちに存在するとしても,その人間がXを混乱して認識するcognoscereということが生じ得るのです。つまり,Xの十全な観念がXの混乱した観念を除去しないということのうちには,Xの十全な観念はXの混乱した観念の発生を妨げないという意味も含まれているのです。
 このことは,この定理よりも,第二部定理三五備考でスピノザがいっていることから明白です。
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ソルティビッド&両存

2021-12-07 19:07:35 | 血統
 アパパネの母は2000年にアメリカで産まれたソルティビッドという馬です。アマゾンウォリアー,ファンシミン,アンティックヴァリューなど,日本で多くの牝系が発展しているファミリーナンバー9-fの一族。
                                        
 ソルティビッドは競走馬として輸入されました。2戦目で初勝利をあげた後,オープンを勝利。2歳の暮れに重賞で2着になり,年明けにまたオープンを勝利。ただその後は勝利をあげることができませんでした。競走馬としては早熟のスピードタイプ。当時のアメリカ産の輸入馬には,こういうタイプの馬が多くいました。
 4歳の3月のレースを最後に繁殖牝馬に。2007年の産駒がアパパネです。繁殖牝馬としては,自身と違ったタイプの産駒が輩出したことになります。
 繁殖牝馬となったアパパネの産駒は現時点で4頭が競走馬としてデビューし,いずれもJRAの現役馬です。最初の産駒が4勝。2頭目の産駒も4勝し,この馬は重賞2着が2回と3着が1回。3頭目の産駒も4勝していて,重賞3着が1回と大レース4着が1回。そして4頭目の産駒が今年のクイーンカップと秋華賞を勝ったアカイトリノムスメですから,繁殖牝馬としてのアパパネもかなり優秀です。
 日本での歴史はまだ始まったばかり。アカイトリノムスメも,アクシデントさえなければゆくゆくは繁殖牝馬となる筈ですから,さらに活躍馬が出てくるという可能性を大いに秘めた牝系だといえそうです。

 麻雀におけるオカルトの発生を,哲学的な観点から一例だけ説明しておきましょう。
 まず基本的な前提として,第二種の認識cognitio secundi generisで認識するcognoscereことができる事柄について,第一種の認識cognitio primi generisに頼ってプレイするということが,人間にとって可能であるということをみておかなければなりません。このことは,第四部定理一から説明することができます。この定理Propositioは,第一種の認識で認識したことが有する積極的なものは,第二種の認識ないしは第三種の認識cognitio tertii generisで認識した事柄によって除去されることはないということを意味しています。このことは,人間の精神mens humanaが第一種の認識で何かを認識するということは,そのものを誤って認識する,いい換えればそのものの誤った観念idea falsaがその人間の精神のうちに発生するというのと同じ意味であり,人間の精神が第二種の認識ないしは第三種の認識で何事かを認識するということは,その人間の精神がそのものを真に認識する,いい換えるなら,その人間の精神のうちにそのものの真の観念idea veraが生じるという意味であるということから明白です。したがって,あるプレイヤーが麻雀を打っているとき,自身の打ち方がオカルトに即してどのようになるのかということを認識しているとき,その認識は,そのときにデジタルに即した場合にどう打つのかという認識によっては除去されません。これは,僕がオカルトのプレイヤーはデジタルな打ち方ができないプレイヤーなのではなく,デジタルな打ち方にオカルトの要素をわざわざ上乗せして打つプレイヤーであるということとも関連しています。オカルト的要素を含む認識は,デジタルな認識によっては除去されないのですから,同じプレイヤーのうちに,デジタルな要素とオカルトの要素が両存するということも,この定理から明らかになっているからです。
 もう一点,この定理で除去されないのが,単に誤った観念といわれているのではなく,誤った観念が有する積極的なものといわれている点にも注意が必要です。これは僕がこのブログで虚偽の積極性といっているものであって,人間の精神のうちにある誤った観念あるいは同じことですが混乱した観念idea inadaequataのうちにも,積極的なものが含まれているのです。
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金亀杯争覇戦&オカルトの発生

2021-12-06 19:07:48 | 競輪
 昨日の松山記念の決勝。並びは新田‐大森の北日本,松本‐橋本‐渡部の愛媛,山田‐香川の西国で松谷と稲垣は単騎。
 新田と山田がスタートを取りに行き,新田が制して前受け。周回中に上昇してきた松谷が3番手。発走後に新田を追った橋本がその位置を確保したので4番手は松本。山田は7番手となり,最後尾に稲垣という周回に。残り3周のバックの出口から山田が上昇。稲垣も続いてホームで新田を叩きました。新田は稲垣の後ろになり,後方となった松本が上昇。松谷まで続いてバックで山田の外に並び掛けるとペースが極端に落ちて打鐘。外から松本が発進。一旦は離れた松谷は内を突いて上昇し,ホームでまた渡部の後ろに。5番手に山田となり,8番手となった新田がバックから発進。山田が合わせて出ようとしましたが新田が乗り越えました。しかし直線の手前で橋本が牽制。そのまま橋本が踏み込むと松本を差して優勝。立て直して橋本の外からまた伸びてきた新田が半車輪差で2着。逃げ粘った松本が半車輪差の3着で橋本マークの渡部が4分の1車輪差で4着。
 優勝した愛媛の橋本強選手はこれが記念競輪初優勝。このレースは新田の脚力が上ですが,先行は松本になりそうなので,その展開をうまく生かせば対抗格の筆頭と考えていました。新田としては橋本に牽制されるのはともかく,山田にもスピードを殺される形になってしまったのは誤算だったといえるでしょう。とはいえそれは後方から捲っていこうとする選手にとっての宿命であるとはいえます。展開上はあり得そうな結果と思っていただけに,配当にはやや驚きました。

 麻雀というゲームは,初心者であっても,1回だけの勝負であれば,プロを相手に勝つ可能性があるゲームでした。したがって,どんなに強いプロであっても,連戦連勝というわけにはいきません。4人で打つ麻雀であれば,1位になるということが勝つということを意味すると仮定するなら,勝つことよりも負けることの方が多いゲームです。4人の実力が同一であるとすれば,単純な計算では4回に1回は勝ち,3回は負けることになります。対戦を重ねていくことで,勝つことができる1回を1.1回,1.2回というように増やし,負けることを2.9回,2.8回という具合に減らしていくというような形で,麻雀のプロは争っているのです。
                                        
 このことは,デジタルであるかオカルトであるかということとは関係ありません。つまり単にデジタルに即して打ち,それ以外の要素を排除しても,やはり勝つ確率を,たとえば2回に1回というように,極端に上昇させることができるわけではありません。結局のところ,麻雀は負けることの方が多いゲームであるということは変わらないのです。僕の考えでは,これが麻雀というゲームにおいてオカルトという要素が発生してくる要因です。要するに,デジタルに打っても必ず勝てるわけではないから,そこでオカルトに頼るのです。つまり,第二種の認識cognitio secundi generisを駆使することによって必ずよい結果が生じるというわけではないので,よい結果をより多く出すために第一種の認識cognitio primi generisに頼るということになるのです。僕はここでは一例として,流れが来ているとか,調子がよいといった現象をあげましたが,こうしたことに限らず,たとえば普段の行いをよくするとか,神仏に頼るといった,おおよそ麻雀の結果を出すこととは関係ないことでも,麻雀でよい結果を出すことを目的としてそうしたことをするなら,それもオカルトに含まれるというように僕は考えます。たぶん何事かにゲンを担いでいるという人はそれなりに存在していると思われ,それもここでいうオカルトのひとつになるのですから,麻雀というゲームにオカルト派のプレイヤーが存在するということも,不思議でないのは理解することができるのではないでしょうか。
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チャンピオンズカップ&上乗せ

2021-12-05 19:09:37 | 中央競馬
 第22回チャンピオンズカップ
 逃げようという意欲を見せた馬がなく,最内枠のソダシが成り行きで逃げることになりました。リードは2馬身くらい。2番手にインティ。3番手にサンライズホープ。4番手にカジノフォンテンとアナザートゥルース。6番手にテーオーケインズ。7番手にエアスピネルとオーヴェルニュとクリンチャー。2馬身差でチュウワウィザードとカフェファラオ。2馬身差でメイショウハリオ。13番手にスワーヴアラミスとサンライズノヴァ。15番手にケイティブレイブ。ゲートの中で暴れていたダノンファラオは道中で離されていきました。最初の800mは49秒3のスローペース。
 直線の入口でソダシにインティが並び掛けました。内目を回っていたテーオーケインズがインティの外に持ち出すとあっさりと内の2頭を差し,ここからは抜け出してワンサイドの圧勝。ソダシを競り落としたインティに外からアナザートゥルースが並んで競り合いになったところ,大外から追い込んできたチュウワウィザードがその2頭を差して6馬身差の2着。インティに競り勝ったアナザートゥルースが4分の3馬身差の3着でインティがクビ差で4着。
 優勝したテーオーケインズ帝王賞以来の勝利で大レース2勝目。ここは実績ではチュウワウィザードですが,帝王賞のときに勝っていましたので,こちらが最有力と考えていました。前走はコースに対する適性の差で後塵を拝したものでしょう。今日はペースの関係でチュウワウィザードと大きな差がついたという見方もできますが,現状の能力はこちらの方がずっと上とみていいのだと思います。課題はコーナーを何度も回るようなレースへの対応だけ。まだ4歳ですから今後もかなりの活躍を見込める馬だと思います。母の父はマンハッタンカフェ。母の5つ下の半妹に2016年にレディスプレリュードを勝ったタマノブリュネット。4代母がピンクタートル
 騎乗した松山弘平騎手は帝王賞以来の大レース7勝目。ジャパンカップダートは初勝利。管理している高柳大輔調教師は帝王賞以来の大レース2勝目。

 麻雀のプロというのは,基本的な技術というのは兼ね備えています。ましてプロでもトップクラスとなればそういう技術をもっているのは当然です。ですからたとえオカルト派のプレイヤーであっても,デジタルに,すなわち何らかの合理性に基づいて麻雀を打てといわれれば,そのように打つことができるのです。それを前提として,オカルトに依拠した打ち方をするのです。つまり,オカルト派のプレイヤーはデジタルな打ち方ができないというのは大きな間違いなのであって,むしろあえてデジタルな打ち方をしていないといった方が正しいのです。いい換えれば,オカルト派のプレイヤーというのは,デジタルのものにオカルト的なもの,つまり合理的なものに非合理的なものを意図的に上乗せして打つプレイヤーのことをいいます。これに対してデジタル派のプレイヤーというのは,非合理的な事柄については意図的に上乗せすることを避けるプレイヤーです。ここの部分はおそらく重要なので,しっかりと理解しておいてください。スピノザの哲学に合わせていえば,第二種の認識cognitio secundi generisで認識できる事柄に対して,第一種の認識cognitio primi generisによる上乗せをあえてするのがオカルト派であり,第一種の認識には何も頼らず,第二種の認識だけに基づいて打つのがデジタル派のプレイヤーであるということになるのです。つまり第一種の認識だけに基づいて打つのがオカルト派ではありません。第二種の認識についてはオカルト派であろうとデジタル派であろうときちんと論理的な認識をもっているのであって,それに対して第一種の認識でのみ認識されるようなこと,つまり合論理的には説明できない事柄を上乗せするのかそれを避けるのかという点が,デジタル派とオカルト派を正しく分かつ区分なのです。
                                        
 第二種の認識で物事を認識するcognoscereことができるのに,あえて第一種の認識に依拠したものを上乗せするということ自体が,非合理的であって不思議であると感じる人もいるかもしれません。しかしこれは麻雀というゲームの性質によるものなのであって,それほどおかしなことではないのです。なぜそのようなプレイヤーが出現するのかということは,合理的に説明することができます。
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離席の場合&区分

2021-12-04 19:22:23 | 将棋トピック
 三浦九段にとって不利な状況であると当時の僕に思えたのは,二点だけでした。しかしその二点を考慮に入れても,当時の僕はそれらは,三浦九段が非合理的なことをしないとか,そもそも三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受ける蓋然性が低いということを覆す要因にはならないと考えました。ここからはその理由を詳しく説明していくことにします。
 このうち,不自然な離席に対する合理的な説明がなされていないということについては,たとえそれがなされていなかったとしても,不自然に離席しているからといって,それがすぐにコンピュータによる指し手の援助に繋がるかということが不分明に思えました。つまりこれは,仮に三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているとして,そのための時間が三浦九段にはあったということだけを論証しているのであって,三浦九段が指し手の援助を受けているということそのものについては何も論証していません。さらにいうと,この種の不自然な離席を三浦九段だけがしていてほかの棋士はだれひとりとしてしていないということも示していません。もしそれが三浦九段に特有の行動であったとすれば,そのことで三浦九段が何らかの疑義をかけられたとしてもおかしくないということは僕も認めていましたが,事情がそうであったということは何もいわれていませんでしたし,僕は一ファンであって棋士の行動というのを逐一知っていたというわけではありませんが,それが三浦九段に特有の行動であるというようにも思えませんでした。そもそも当時は,対局場から外出することが許容されていたのですから,僕のように判断するのは自然だったと思います。
 仮に特有の行動であったとしても,それは何らかの疑義をかける理由にはなるというだけであって,それが指し手の援助を受けているということを証明しているわけではありません。なので三浦九段が不自然な離席に対して合理的な説明をしていないということは,当時の僕は事実としてそうであるし,三浦九段にとって不利な状況であると認識していましたが,だからといってそれは疑惑を正当化するような根拠にはなり得ませんでした。

 結局のところ,どう打つかという点で似通ってくるのは,デジタルであるかオカルトであるかという点より,雀風がどのようなものであるのかという点の方が大きく影響します。とりわけ,何の情報もないような場面,つまりゲームが始まったばかりの東一局などは,オカルト的な要素を発揮する要因がほとんど与えられていないわけですから,雀風が一致するオカルトプレイヤーとデジタルプレイヤーの打ち方の方が,雀風が一致しないオカルトプレイヤー同士やデジタルプレイヤー同士の打ち方よりも,似通ってくることになります。
                                        
 さらに例として示したこの南四局のように,各々のプレイヤーのするべきことが決定しているような局面では,オカルトであるかデジタルであるかということはもちろん,雀風がどうあるのかということと関係なく,打ち方はほぼ一致します。最も分かりやすい例でいえば,この局面でフェニックスの立場で打つのなら,だれであれとりあえず2000点を確保した上で,あとはとにかくスピードを重視して打つことになるからです。これはそのプレイヤーがデジタルであるかオカルトであるかということとは関係ありませんし,たとえそのプレイヤーが,スピードよりも得点を重視するタイプであったとしても,2000点のテンパイをスルーして8000点のテンパイを目指すなどということはあり得ないからです。
 僕がこの部分の考察の始めの方に,オカルトとデジタルという区分は確かに存在し,かつ存在すると認識されているけれども,実際にはそう思われているほどの相違があるわけではないという主旨のことをいったのは,こうした事情に左右されてはならないと考えるからです。いい換えれば,近藤が直感とオカルトは異なるというときのオカルトは,デジタルと反対の意味でのオカルトではあるのですが,だからといってデジタルはオカルトとは反対の打ち方をするという意味ではないのです。それが実際に意味しているところが何であるのかということは,後に示します。
 もうひとつ気を付けておいてほしいのは,オカルト派のプレイヤーはデジタルな打ち方ができないプレイヤーであるというわけではないということです。
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ドゥラメンテ&結果の相違

2021-12-03 19:47:58 | 名馬
 菊花賞を鮮やかに逃げ切ったタイトルホルダーの父はドゥラメンテです。父はキングカメハメハ。母はアドマイヤグルーヴで祖母がエアグルーヴ。5代母がパロクサイド。Duramenteは音楽用語で荒々しく。
                                        
 デビューは2歳10月。新馬を2着に負けた後,未勝利戦で初勝利。
 3歳初戦の500万の特別戦を勝つと共同通信杯に出走して2着。賞金を上積みできたのでそのまま皐月賞に出走すると,4コーナーで外に大きく膨れ,ほかの馬に迷惑をかけたものの優勝。初の重賞制覇が大レースとなりました。さらにダービーも勝って大レース連勝。故障で休養に入りましたが,この年のJRA賞の最優秀3歳牡馬に選出されました。
 故障が癒えて4歳初戦となったのが中山記念でこれは優勝。遠征したドバイシーマクラシックは2着。帰国して臨んだ宝塚記念も2着。また故障を発症してしまったため,これで現役引退となりました。
 競走能力は確かなものがありましたが,精神面は常に課題であった馬。とはいえこの能力で血統も確かですから,種牡馬として成功できないとは考えにくいです。まだ重賞の勝ち馬がタイトルホルダーだけというのはやや意外なくらいです。

 スピードを優先させるか,得点を優先させるかということで,当然ながら打ち方に相違が生じてきます。打ち方に相違が生じてくれば,ゲームの結果も異なってくるということになります。つまり,同じようにデジタルといっても,得られる結果まで完全に一致するというわけではありません。このあたりは,第二部定理四〇備考二とは一致しないので注意してください。ただしこの相違は,与えられているテーマの相違に依拠するものです。つまり,比例数を抽出するという問題の場合は,3つの項が与えられさえすれば,残る1つの項は決まっているのであって,得られる解はそれが唯一です。そして唯一の解を求める場合には,どのような知性intellectusが第二種の認識cognitio secundi generisを駆使してそれを求めようと,求める手順には相違が生じる可能性はあるでしょうが,求められる解は同一です。この点は僕がいうスピノザの哲学の特徴のひとつである,主体の排除と関連しています。しかし麻雀のようなゲームの場合には,勝ついい換えればトップになるための解というものが存在するわけではなく,各々のプレイヤーが各々の方法でその解を求めにいくことになります。したがって各々のプレイヤーが何を重視するのかということに差異があると,打ち方に差異が生じ,そのために結果が異なってくるのです。そしてそれは前にいった,将棋でいう場合の棋風と同じ,雀風によるものなのであって,デジタルすなわち第二種の認識に即して打つにしても,その雀風に応じた相違が発生するということです。
 さらに注意しなければならないのは,オカルトに依拠して打つのか,デジタルに即して打つのかということは,雀風の相違には還元することができないということです。というのは,たとえば,オカルトに依拠したとしてもスピードを重視するのか得点を重視するのかといった相違は当然ながら生じてくる筈だからです。したがって,デジタル派の打ち手がふたりいて,オカルト派のふたりの4人で麻雀をプレイすると仮定して,得点重視派とスピード重視派がひとりずつオカルト派とデジタル派に含まれていれば,似た打ち方をするプレイヤーはデジタル派とオカルト派では分けられないでしょう。
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デイリー盃クイーン賞&打ち方

2021-12-02 19:08:07 | 地方競馬
 昨晩の第67回クイーン賞
 サルサディオーネが即座にハナへ。2番手にリネンファッション。3番手にはエリザベスタワーとデジマノハナとウェルドーン。6番手にダイアナブライト。7番手にハピネスマインドとプリティーチャンス。9番手にサルサレイアとディアリッキー。11番手にファイントリック。12番手にゴールデンヒーラーとナラ。大きく離れた最後尾にハナウタマジリ。かなり縦長の隊列になりました。最初の800mは47秒2の超ハイペース。
 直線の入口でサルサディオーネのリードは2馬身くらいに。ここまででサルサディオーネを追いかけた馬たちは苦しくなり,コーナーで内を回って上がってきたダイアナブライトが2番手に。ここからは2頭の優勝争い。ダイアナブライトは外に外にと走ろうとしたのでかなり馬場の外を走ることになりましたが,直線では一旦は開いたサルサディオーネとの差を徐々に詰めていき,フィニッシュ直前で差し切って優勝。逃げ粘ったサルサディオーネがクビ差で2着。道中はダイアナブライトの後ろに位置していたプリティーチャンスが5馬身差で3着。
 優勝した川崎のダイアナブライトは重賞初勝利。JRAでデビューして4勝。前走のレディスプレリュードで4着になったのを最後に川崎に転入。転入初戦で重賞を制覇しました。前走は4着といっても1秒4の差で,ここでは苦しいのではないかとみていました。超ハイペースで逃げたサルサディオーネが追い掛けてきたほかの有力馬を潰し,サルサディオーネ自身も最後にペースが祟って一杯になってしまったという展開に恵まれた面はありましたが,かなり荒い競馬で逃げれば強いサルサディオーネを差し切った上に,3着以下には大きな差をつけているのですから,それ相応の評価は必要かと思います。父はディープインパクト
 騎乗した大井の笹川翼騎手はデビューから8年8ヶ月で重賞初勝利。管理している川崎の内田勝義調教師は一昨年のマリーンカップ以来の重賞2勝目。

 デジタルに基づいて打っても,オカルトに依拠して打っても,結果的に打ち方は同じようになることがあるということは,第二部定理四〇備考二でスピノザがいっていることからも理解することができます。なぜならそこでは,比例数の問いに対する答えを出すために,第一種の認識cognitio primi generisに基づいて答えようと,第二種の認識cognitio secundi generisに基づいて答えようと,出てくる答えは同じになるということ,少なくとも同じ場合になり得るということがいわれているからです。このことは,暗記することを強く要請するような教育のあり方の問題に関連しているといえますが,ここではそれに関する事柄には言及しません。ここでは,直感に基づいて打つということはオカルトではなくデジタルな打ち方であるのだけれども,その打ち方が,結果的にオカルトに依拠した打ち方と同一になる場合があり得るということについては,スピノザの哲学からも肯定することができるという点を強調しておきます。
                                        
 一方,デジタルに基づいて打つからといって,それに基づけばだれでも一様な打ち方になるというものでもないという点にも気を付けておいてください。これは,デジタルに基づく,つまり第二種の認識に基づいて打つとしても,麻雀のようなゲームの場合には,どの合理性に基づいて第二種の認識を働かせるのかということは諸個人によって異なり得るからです。このゲームですでに説明した例でいえば,パイレーツがテンパイを果たしたときに,リーチを宣言するのも合理的だし,リーチを宣言しないのも合理的であるので,たとえデジタルに基づいて打ったとしても,あるプレイヤーはリーチを宣言し,別のプレイヤーはリーチを宣言しないという場合があり得るからです。こうしたことが各場面で生じ得るのですから,ふたりのデジタルに基づくプレイヤーが,あまりに異なる打ち方をしたとしても,それは驚くに値しないのです。そもそも麻雀というゲームについての根本的な考え方からして,得点は低くてもよいからとにかくスピード優先で得点の獲得を目指すのは合理的な考え方ですし,一方でスピードは遅くなってもなるべく多くの得点の獲得を目指すというのも合理的な考え方です。
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