スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&理性と狂気

2024-03-16 19:07:09 | 地方競馬
 昨日の第35期女流王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は伊藤沙恵女流四段が8勝,加藤桃子女流四段が16勝。持将棋が1局。これはNHK杯の女流予選が公式戦であった当時の記録を含みます。
 振駒で加藤女流四段の先手。伊藤女流四段の雁木模様に先手は急戦を仕掛け,後手も反発していきました。途中で千日手模様となりましたが後手から打開しましたので,後手は模様がよいと思っていたのでしょう。
                                      
 この局面は☖6五桂から攻めていくのも有力そうですが,居玉を解消して☖4二王と上がりました。先手の☗3四歩に対して☖2四歩と銀を受けたのですが,たぶんこの手が問題だったのだと思います。
 先手は☗3三歩成☖同王と引っ張り出して☗2五飛を決行。☖同歩☗1五角☖4四王に☗3七角と成銀を取り,はっきり有利になりました。
                                      
 この手順に進むなら☖2四歩ははっきりと損。☖2四歩の局面では☖3四同金と取るほかなかったのではないでしょうか。
 加藤女流四段が挑戦者に。女流王位戦五番勝負には第31期以来の出場。第一局は来月24日に指される予定です。

 デカルトRené Descartesの哲学では,理性ratioによって欲望cupiditasを統御することが求められています。求められるということは,当然ながらそうしたことが現実的に存在する人間に可能であるということです。欲望と狂気を等置することは危険かもしれませんが,フーコーMichel Foucaultがいう狂気を理性によって統御することをデカルトが求めているということは疑い得ないのであって,その点ではデカルトの哲学では理性の地位が相対的に上昇し,それに伴って狂気の地位が相対的に降下しています。というより,デカルトは理性を全面的に肯定し,狂気については全面的に否定しているといってもいいでしょう。
 『はじめてのスピノザ』で示されているように,デカルト以降の近代,これは僕たちが現に生きている現代も含みますが,そこではこのデカルトの思想がオペレーションシステムとなって,社会societasが回っているのです。ですから現代社会においては,理性が全面的に肯定され,狂気は全面的に否定されるようになっています。だからデカルトが理性および狂気について近代あるいは現代に与えた影響というのは,きわめて大きなものであったということができると僕は考えるのです。
 スピノザの哲学でも,理性はそれ自体でみるなら全面的に肯定されているといっていいでしょう。しかし,理性によって狂気を統御することをスピノザは求めません。スピノザは狂気を理性によって統御することは,現実的に存在する人間にとって不可能なことだと考えているからです。たとえば第四部定理一がいっていることは,ここでの文脈に照合させれば,現にある狂気は理性によって除去することはできないし,理性は狂気が発生することを妨げることはできないというように解せるでしょう。また,第四部定理七でいわれていることをここでの文脈に合わせれば,現にある狂気を抑制したり除去したりするのは,その狂気とは別の狂気であるというように解することができるでしょう。ですから,理性を肯定し狂気を否定する点ではスピノザもデカルトと同じであるといえるのですが,スピノザの場合は理性は狂気に対しては直接的には無効であるとしていて,狂気の居場所が理性と共に確保はされているのです。
 
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藤井聡太論 将棋の未来&理性の地位

2024-03-15 19:04:33 | 将棋トピック
 十七世名人の谷川浩司は藤井聡太について多くを語っています。その1冊が『藤井聡太論 将棋の未来』です。これは2021年5月19日に講談社@新書から発売になったもの。「おわりに」のところで二〇二一年四月と谷川は書いていますので,原稿はそのときまでにできていました。説明するまでもないでしょうが藤井は現在はすべてのタイトルを保持していますが,谷川がこれを書いた時点では棋聖と王位の二冠でした。つまりそのときまでに書かれた藤井聡太論であって,現時点ではまた谷川は藤井に対して別の見方をしている部分もあると踏まえる必要はあるでしょう。このことは谷川自身がいっていることでもあり,「はじめに」の中で谷川は,現時点での私なりの藤井聡太論を展開していくといっています。それは同時に,藤井の将棋が進化していくのと並行して,谷川自身の藤井聡太論も進化していくであろうということを,その時点で谷川が意識していたということでもあるでしょう。たぶん谷川は藤井の将棋がさらに進化していくであろうということについては,ある程度の確信をこの時点で有していたのだろうと僕は思います。
                                        
 谷川は本書の目的として,藤井聡太という巨大な才能の謎に迫ることを通して,トップ棋士がもつ能力を明らかにしつつ,将棋の現在と未来を展望することをあげています。ですから,藤井聡太論と銘打たれていますが,藤井のことだけが集中的に語られているわけではありません。谷川は自身と藤井の共通点として,中学生のうちに棋士になり,詰将棋を愛好して創作もするという点をあげていますが,そうした観点から谷川自身のことも語られますし,羽生善治をはじめほかの棋士について語られる場面もあります。将棋の現在と未来の展望が目的ですからそれは当然のことであって,藤井聡太論を含む将棋論であるとみた方がよいかもしれません。他面からいえば,藤井聡太があまりにも巨大な才能であるがゆえに,藤井聡太について論じていくことが,将棋そのものについて論じることと相通ずる部分があるということです。
 谷川のように大きな実績を残した棋士が,藤井について考察し,その見解を表明するということは,それだけで大きな意義があることだと僕は思います。学術の世界では先輩が後輩の偉大さについて語るということはきわめて稀といっていいのですが,将棋界にそういう風土があることは,僕たちにとって幸いなことだと思います。

 繰り返しになりますが,フーコーMichel Foucaultは,デカルトRené Descartesやスピノザが真理veritasの探究を始めるときに,それを強い決意decretumと共に開始したのは,そうした強い決意が,狂気を自身から引き剥がすために必要だったからだと指摘しています。他面からいえば,狂気から身を引き剥がすことが,デカルトやスピノザの時代においては重要なことであったとフーコーは指摘しているわけです。
 ここでフーコーがいっている狂気を,どのようなものと解するべきであるのかということははっきりとは分かりません。國分はこれを,理性ratioに対立する状態と解しています。僕は『狂気の歴史Histoire de la folie à l'âge classique』は読んでいませんが,フーコーの全体的な主張からすると,このような解釈は恣意的なものではなく,それが指摘されている文脈において正しいか正しくないかは分かりませんが,少なくともフーコーの全体的な思想から俯瞰してみれば,ひどく誤った解釈を國分がしているということはあり得ないのであって,むしろフーコーの主張に沿ったものであるといえると思います。
 狂気が理性に対立するものであるとすれば,狂気から身を引き離すために強い決意が必要であったということは,理性がもっている地位は,狂気が有していた地位と比較したときに弱小であったということになります。つまりフーコーがここでいいたいのは,デカルトやスピノザの時代は,理性というのが確たる地位を獲得していたわけではないのであって,このような強い決意と共にあるのでなければ,簡単に崩れ去ってしまうようなものであったということであり,デカルトは『方法序説Discours de la méthode』で,スピノザは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で,揃って強い決意を述べているということが,この時代の理性の地位が弱小なものであったということを示しているということなのです。
 理性の地位は,この時代に比べれば現代では確実に強力になっているといえます。そしてそれに比較すれば,狂気の地位はきわめて弱小化しているのであって,排除されるべきものとすらみられているといえるでしょう。デカルトやスピノザは人びとの理性観あるいは狂気観の変貌に大きな影響を与えているといえるかもしれません。とくにデカルトの場合にそれは妥当しそうです。
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農林水産大臣賞典ネクストスター東日本&フーコーの指摘

2024-03-14 19:00:02 | 地方競馬
 川崎の1400mで実施された第1回ネクストスター東日本。北海道から1頭が遠征してきました。
                                        
 チャダルクンは発馬で立ち上がってしまい4馬身の不利。ライゾマティクスが逃げてギガースが2番手でマーク。3馬身ほど開いてクルマトラサンとスノーシュー。5番手にホークマン。6番手に内から追い上げてきたコスモカシアス。7番手に2コーナーで躓いたアムクラージュ。8番手にアジアミッション。9番手にエドノバンザイ。3馬身ほど開いてカプセル。11番手にコンバットスプーン。12番手にチャダルクン。13番手にパンセ。シナノスマイルは大きく離されてしまいました。最初の600mは37秒8のハイペース。
 3コーナーからはライゾマティクスとギガースが雁行。4馬身ほど開いた3番手にクルマトラサン。スノーシュー,アジアミッションの順で続きました。ギガースは4コーナーで勢い余って外に膨れましたが,その勢いのまま単独の先頭に。そこからは抜け出して快勝。ライゾマティクスは一杯になり,ギガースよりも外から伸びたクルマトラサンが2馬身半差で2着。さらに外から追い込んできたアジアミッションがクビ差の3着。
 優勝したギガースニューイヤーカップ以来の勝利で南関東重賞2勝目。前走の雲取賞は大きく負けていましたが,これは重賞で相手が強かったということもあるでしょうし,距離の延長に対応できなかったというところもあったのでしょう。今日の内容からしても,現状は短距離の方が向いているのだと思います。母の父はジャングルポケット。3代母がステラマドリッドで祖母がダイヤモンドビコー
 騎乗した船橋の森泰斗騎手はニューイヤーカップ以来の南関東重賞57勝目。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞11勝目。

 デカルトRené Descartesは『方法序説Discours de la méthode』で,そしてスピノザは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で,共に真verumなるものの探求に対する決意decretumを語っています。スピノザが『知性改善論』でそれを語ったのは,『方法序説』からの影響を受けたからかもしれません。しかし,それは著書にそれを書くか否かという点に関する影響なのであって,真なる事柄を探求しようと決意することに対する影響ではありません。デカルトはデカルトで,スピノザはスピノザで,それぞれ独自に真理veritasの探究を決意したのであって,その点ではデカルトもスピノザも共通していたと僕は解します。他面からいえば,たとえスピノザが『方法序説』から何らかの影響を受けたとしても,本当はそんな決意はしていなかったのに真理を探究することを決意したといったわけではないし,『方法序説』を読むことによって,デカルトに倣って真理を探究することを決意したのでもないというのが僕の見解opinioです。
 この部分に注目したのがフーコーMichel Foucaultであったと國分は指摘しています。フーコーはデカルトもスピノザも倫理的決断の中に身を置いていたと『狂気の歴史Histoire de la folie à l'âge classique』の中でいっていると國分は指摘しています。僕はフーコーの著書はいくつか読んでいるのですが,『狂気の歴史』は未読です。ですからこのことが『狂気の歴史』の中で,どのような文脈の下に指摘されているのかということは分かりません。ただ,國分がそのようにいっているのですから,確かにフーコーがそのような指摘を行っているということについては確実視します。
 フーコーは知の考古学者として,デカルトおよびスピノザの決意の理由を語っています。それは,狂気から身を引き剝がすためには,このような強い決意が必要であったということです。『知性改善論』の冒頭部分を読めば分かりますが,これは確かに強い決意なのです。スピノザは,名誉gloriaとか金銭nummusが自身にいろいろな利益を与えているということは知っているし,もし真理の探究に励むなら,そうした利益からは遠ざかるようになるということも分かっているけれども,それでも真理を探究することを決意したという主旨のことを語っているからです。つまり金も名誉もいらないと強く決意しているのです。
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印象的な将棋⑲-7&自伝的要素

2024-03-13 18:49:40 | ポカと妙手etc
 ⑲-6で示したように,⑲-5の第2図の☖4九飛に☗5九桂と合駒をすると先手玉が詰んでしまいます。なのでこの王手に対する正しい応接は☗6八玉と逃げる手です。
                                        
 これに対して後手は☖7九銀☗5七玉☖4七歩成と後手玉を追っていきます。
 ここで☗同金と取ると☖5九飛成として,これはさほど難しい手を必要とせずに先手玉が詰みます。なので先手は☗5六玉と逃げる一手。
 後手はさらに☖4五銀打☗6五玉☖5四銀引の順で先手玉に王手を掛け続けます。先手は☗6六玉。
                                        
 第2図まで,後手は最善の手順で先手玉を追いましたが,ここまで進めば分かるように先手玉に詰みはありません。なので先手の勝ちのように思えるのですが,そうではなく,第2図は後手の勝ちなのです。

 僕はボエティウスAnicius Manlius Torquatus Severinus Boethiusのことは知りませんでしたから分からない部分はあります。しかしトマス・アクィナスThomas Aquinasが偶然というのについて,何も連絡関係がない複数の因果関係の系列が出会うときに発生するというとき,ある因果関係と別の因果関係の間に空虚vacuumがあるとみなしたかどうかすら僕には疑問ですし,そうみなしていたとしてもその空虚を物理学的な意味で解していたということはあり得ないと思います。ですから,ここで國分がなしている説明自体から,空虚を物理学的な意味で,そして偶然あるいは必然を哲学的な意味で,それぞれを分けて考える必要はないといえるのではないでしょうか。
 この部分の考察はこれで終わりとします。
 『スピノザー読む人の肖像』の第二章で次のようなことがいわれています。これは考察の対象というのとは違うのですが,興味深い指摘であったので,ここで紹介しておきます。
 デカルトRené Descartesは『方法序説Discours de la méthode』で自身の方法論を著したのですが,この本には自伝的な要素が含まれています。これはすでに説明したように,正しい事柄を発見するためにとりあえずあらゆる事柄を疑ってみるというのは,単に方法論としてそのようにいわれているわけではなく,実際にデカルトがそのようになしたことなのですから,『方法序説』に自伝的な要素が含まれているということは明白でしょう。
 スピノザの『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』というのは,この点で『方法序説』と酷似しています。『知性改善論』は未完のまま終わってしまったのですが,そこでスピノザが示そうとしたことは方法論であったということは明白ですし,その中には自伝的な要素もまた含まれているからです。さらにその内容として,真理veritasを探究するという決意decretumをデカルトもスピノザも語っています。さらにそのために日常生活を疎かにしないため,日常的な当面の規則を打ち立てているところも共通しています。もっともこの二点が共通しているというのは,スピノザが『方法序説』を読んでいたからであって,スピノザがデカルトに倣ったからでしょう。他面からいえば,『知性改善論』を書き始めた頃のスピノザは,それだけデカルトから大きな影響を受けていたいえるかもしれません。
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支払い&対立

2024-03-12 19:16:02 | 哲学
 第四部定理六六残された課題について論理的に考察していく前に,結論めいたことになってしまいますが,いっておきたいことがあります。
                                   
 悪malumの確知が十全な認識cognitioであり得るということを示していく過程の中で僕は,もしも今日は100円を入手できるけれどもそれを断念すれば明日は1000円を入手できるのであれば,よほどの事情がない限りは明日の1000円の方を選択するであろうということを例として用いました。この例示が成立しているとするならば,これとは逆のこともいえるのでなければなりません。すなわち,もしも今日は100円を支払わなければならないが,それを拒否すれば明日は1000円を支払わなければならないとしたら,僕たちはよほどの事情がない限りは今日の100円を支払うことにするでしょう。この場合,100円を支払うことも1000円を支払うことも悪であって,僕たちは未来の大なる悪よりも現在の小なる悪を選択しているということになります。これは第四部定理六六にそのまま妥当しています。したがって,この例からしてこの定理Propositioは,僕たちが悪を認識するcognoscere場合にも成立しているということになるでしょう。
 第四部定理六五は,僕たちが理性ratioに従っていようといまいと成立するのですから,そこから帰結する筈の第四部定理六六にもそれは妥当します。しかし,100円を入手することと1000円を入手することを比較するときには理性に従ってそれらを認識することができるけれども,100円を支払うことと1000円を支払うことについては僕たちは表象imaginatioでしかそれを認識することができないというのは無理があると思います。確かに未来の大なる悪が現在の小なる悪を上回るような悪であると表象される限り,僕たちは明日の1000円よりも今日の100円を支払おうとするでしょうが,それは理性に従っていた場合には必ず明日の1000円の方が大なる悪と認識されるわけですから,このことを一般的に示すことが可能になるのです。
 このことから分かるように,おそらく第四部定理六六でいわれていることは,成立するのです。なのでそれがいかに第四部定理六四と両立するのかという観点から,この課題は探求されなければならないでしょう。

 これらの点から推測すると,デカルトRené Descartesやスピノザが,空虚vacuumは存在しないということを,哲学とは無関係な物理学的な観点から主張していたという可能性はきわめて低いように僕は思います。他面からいえば,デカルトが物理学的に空虚は存在しないと主張するとき,これは万有引力説を否定して渦動説を主張するときという意味を含みますが,それは純粋に物理学的にそう主張したというよりも,自身の哲学的帰結からそのように主張したと解する方がよいと僕は思います。このことは,スピノザがロバート・ボイルRobert Boyleと議論するときにも該当するのであって,ボイルは哲学的観点は無関係に単に物理学的に物事を主張するのに対して,スピノザは哲学的観点からそれを帰結させようとしています。つまりこの点ではデカルトとスピノザの間に一致があるのであって,それに対応させればボイルやニュートンIsaac Newtonの間に一致があるといえるでしょう。
 僕は基本的にこのような対立は,上述したようなものなのであって,物理学的な結論に関わるものではないと解します。万有引力説と渦動説の対立は万有引力説が正しかったというべきだし,スピノザとボイルとの間での硝石に関する対立も,ボイルの方が正しかったというべきだと思いますが,あくまでもそれは結論に関する正しさなのであって,空虚が存在するかしないかという点に関しての正しさではないというべきです。ニュートンについてははっきりとは分かりませんが,少なくともボイルはそういうことを主張しようとしていたわけではなく,それに限らず哲学的観点には一切の関心もなかったと僕は思います。
 さらにもうひとつ,國分はボエティウスAnicius Manlius Torquatus Severinus Boethiusやトマス・アクィナスThomas Aquinasが偶然というのをどのように解しているのかという説明をしていました。このとき,偶然が発生するためには,因果関係の系列が複数ある必要があり,かつある因果関係の系列と別の因果関係の系列との間には空虚がなければならないのでした。ボエティウスやアクィナスが,偶然をどのように考えていたのかは別として,そのときに空虚があるというにせよないというにせよ,その空虚というのを物理学的な意味における空虚と考えていたとは思えません。
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続・谷津の雑感④&哲学と物理学

2024-03-11 19:10:22 | NOAH
 で示したように谷津は自分は全日本プロレスの方が合っているのではないかと感じたと証言していますが,それは言外に,ハル・薗田とのコンビでアメリカで仕事を続けていきたかったというニュアンスがあるように僕には感じられます。しかしそのタイミングで坂口から電話があり,日本に呼び戻されました。坂口はアングルができたと谷津に伝えたそうですが,このアングルというのは新日本プロレスの中での仕事場という意味かと思われます。
 この仕事場というのは藤波に反旗を翻した長州力のチームに入るということでした。これは谷津の意志ではなく,単に長州も谷津もアマレス出身だったということでチームにさせられたということであり,このときに自分のプロレスラーとしての人生がひん曲がってしまったと表現しています。谷津はテキサスでは田吾作タイツに髭を生やしたヒールだったのですが,坂口からの電話が急だったので,そのままのスタイルで仕事をすることになりました。本当は正統派として凱旋する筈だったのに,アウトローになってしまったことで,その後のプロレースラー人生への影響も大きかったのでしょう。
 この帰国の前に,谷津は全日本プロレスの主力選手たちとも会っています。カンサスシティーでの試合に日本テレビのカメラが入ることになり,馬場やジャンボ・鶴田,おそらく天龍源一郎なども渡米していて,そこには三沢光晴もいたと谷津は言っています。全日本プロレスの選手たちはいいホテルに宿泊していて,谷津は馬場に誘われて,そのときは鶴田の部屋に同宿させてもらい,時間を忘れるくらいプロレスとは何かという話をしたそうです。この時点ではザ・グレート・カブキが日本で仕事をしていて,たぶん馬場はカブキから谷津のことを聞いていたのだと思います。馬場と谷津はこのときが初対面で,海外で気前が良くなっている馬場は,谷津に服をはじめいろいろなものを買ってプレゼントしたそうです。全日本プロレスのオーナーが新日本プロレスの所属の選手,それも破格の条件で入団した将来のエース候補にそういうことをするのは僕には意外だったのですが,海外ではこういうことはよくあることだったのかもしれません。

 このことから分かるように,空虚vacuumが存在しないということに関してスピノザがデカルトRené Descartesからの影響を受けていたとしても,それは物理学に関して影響を受けたと断定できるものではありません。なのでこの影響が物理学的なものであったのかそれとも哲学的であったのかということを推定するためには,空虚が存在しないということについて,デカルトが物理学的な意味でそういったのかそれとも哲学的な意味でいったのかを考えなければなりませんし,そもそもデカルトが物理学と哲学の関係をどのようなものとして解していたのかということも考えなければなりません。デカルトが物理学と哲学は無関係の独立した学問であると解していた場合と,両者の間には何らかの関係があったと解していた場合とでは,自ずからこの問いに対する答えも変じてくるからです。
 さらにいうと,ここではスピノザのデカルトからの影響を検討しているわけですから,デカルトがそこのところをどう考えていたかということと同時に,スピノザがそれをどう理解したかということも考えなければなりません。たとえばデカルトが純粋に物理学的な意味でいったことを,スピノザは哲学的な意味で解したという場合もあり得るからです。ここではこれらすべてのことを考えていくことはできませんので,主にスピノザが空虚の不存在についてデカルトから何らかの影響を受けていたと仮定して,それをどのような意味で解していたのかということに焦点を当てていきます。
                                        
 考察の最初の方で紹介しておいたように,空虚すなわち真空vacuumが存在しないということは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第二部定理三で示されています。第二部は延長Extensioに関する議論ではありますが,それが哲学の原理であることに相違はありません。なのでスピノザはこの点に関しては哲学の一部として理解していたのであって,物理学として解していた,少なくとも哲学とは無関係な純粋な物理学としてのみ解していたという可能性はきわめて低いように僕には思えます。そしてデカルト自身がこのことを『哲学原理Principia philosophiae』の中で示しているわけですから,この点はデカルトもそのように解していたであろうと推測することができます。
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能登半島支援・金亀杯争覇戦&影響

2024-03-10 19:30:57 | 競輪
 松山記念の決勝。並びは北井‐和田真久留‐小原の神奈川,深谷‐和田健太郎の南関東,古性に和田圭,松本‐橋本の愛媛。
 松本と深谷と小原がスタートを取りに行きました。誘導の後ろに入ったのは外の小原で北井の前受け。4番手に松本,6番手に古性,8番手に深谷で周回。残り3周のバックから深谷が上昇を開始。古性が和田健太郎の後ろに続きました。誘導との間隔を開けていた北井がホームで突っ張る構えをみせると叩きにいった深谷は抵抗せずに後退。結果的に周回中と同じ隊列に戻って打鐘。この時点ではまだペースがさほど上がっておらず,6番手から古性が上昇していきました。北井は古性に合わせて突っ張りましたが,ホームで古性が外から和田真久留を極めて番手を奪取。和田圭も古性マークを死守して和田真久留は和田圭の後ろに。この隊列のままホームに戻り,番手から北井を差した古性が優勝。逃げ粘った北井が4分の3車身差で2着。古性マークから北井と古性の間を突こうとした和田圭と,バックからの捲り追い込みになった松本の3着争いは接戦。写真判定に持ち込まれ,外の松本が4分の1車輪差で3着。和田圭は微差の4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は和歌山記念以来の優勝で記念競輪10勝目。松山記念は初優勝。このレースは前受けさえできれば北井が強く,深谷が神奈川勢の邪魔をするということは考えにくいので,古性にとっては勝つとすれば番手を奪うほかないところ。ものの見事にそれが決まりました。叩こうとして上昇していったのかもしれませんが,叩きにいけば北井が突っ張ってくるのは,最近の北井のレース内容から十分に理解できていた筈で,番手に入るということも作戦のひとつとしてあったのだと思います。和田真久留は油断があったのかもしれませんが,あまりにあっさりと番手を失ってしまいました。番手を奪われてしまうにしても,少しでも競り合えば古性は脚力を消耗する筈で,着差からしてその場合は北井の優勝もあったのではないでしょうか。

 僕は空虚vacuumに関する部分を物理学,必然性necessitasないしは偶然に関する部分を哲学と分け,スピノザの物理学と哲学は一貫しているというように解する必要はないと思っています。むしろ空虚に関する部分も哲学の一部なのであって,ひとつの哲学の中で首尾一貫しているというように理解するのがよいのではないでしょうか。なぜ僕がそのようにいうのかを最後に説明しておきます。
                                        
 スピノザがデカルトRené Descartesの物理学の影響を受けているということについては僕は否定しません。ただしこのことが物理学についてだけ妥当するのであって,哲学に関しては妥当しないというようには考えません。確かにデカルトの哲学とスピノザの哲学は,國分の入門書である『はじめてのスピノザ』でいわれているように,コンピュータの比喩を用いれば,ОSが異なっているというほどの相違があるのであって,スピノザの哲学はデカルトの哲学をアップデートしたものであるということはできません。しかしだからスピノザはデカルトの影響を受けずに,独自に哲学を構築していったのかといえばそんなことはないのであって,デカルトの哲学の影響というのは確実にあるのです。たとえば『エチカ』の中でデカルトの名前を出してスピノザがデカルトのことを批判するのは,デカルトの哲学がスピノザにとっては不十分な哲学であったからですが,不十分なОSを十分なОSに書き換えるということは,書き換えられるデカルトの哲学の影響を受けている何よりの証拠であると僕は思います。あえていいますが,デカルトという哲学者が先行していなければ,スピノザという哲学者は存在しなかったといっていいくらいだと僕は思います。
 したがって,空虚が存在しないという点はデカルトとスピノザの間で一致していて,ある部分,たとえば人間には自由意志voluntas liberaがあるかないかという点でデカルトとスピノザの間で相違があるとしても,空虚に関してはスピノザはデカルトの影響を受け,自由意志に関しては影響を受けなかったというように断定することができるわけではありません。どちらの場合も影響を受けた可能性はありますし,どちらの場合も大した影響は受けなかったという可能性もあるのです。
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生き抜くためのドストエフスキー入門&偶然と空虚

2024-03-09 18:57:54 | 歌・小説
 先月のことになりますが佐藤優の『生き抜くためのドストエフスキー入門』という本を読み終えました。前々から佐藤優が書いたものを読みたいと思っていましたので,とりあえず簡単に読めそうで価格も手頃なこの本を選択しました。2021年11月1日に新潮文庫から発行されたものです。佐藤は同年の6月に,新潮社で3回に分けて講座を行いました。この本はその講座の内容を文章化したものです。そのまま文章化していますので,どちらかといえば話しことばに近い内容で書かれています。
                                        
 本の内容は題名からおおよその類推ができます。特徴はふたつあって,ひとつはドストエフスキー入門といわれているように,入門書的な内容であるということです。これはおそらく元が講座であったためで,ドストエフスキーに詳しくない人にも分かるような内容でなければなかったからでしょう。もうひとつが,生き抜くための,とあるように,この本は文芸評論であるよりは,実用書的な内容をもっています。少なくとも佐藤はそれを目指しているといっていいでしょう。なお,この題名自体は講座の名称とは異なっていて,講座は21世紀に長編小説を読む意味という副題で行われました。ただその講座の時点で佐藤が実用的な内容を目指していたのは間違いありません。これもおそらくそれが講座であったからで,講座であるからにはそうした内容を持たせた方が,受講者の関心を高めるだろうと佐藤が考えたからだと思います。
 あとがきで佐藤は自身がドストエフスキーを読むとき,3つの利点をもっているといっています。第一に基礎教育がキリスト教神学であったという点です。第二に外交官としてモスクワで7年8ヶ月の生活を送ったことです。そして第三に,自身が所属する国家の暴力性と温かさの両方を身にもって知っているという点です。最初の2点はドストエフスキーの小説を理解するために役立ち,第三の点はドストエフスキーと佐藤の人生における共通点です。確かにこの3点を有する人間は稀で,佐藤にとって有利に働いていると思います。

 國分はこの部分でふたりの思想家の名前をあげています。ひとりは古代ローマの末期の哲学者のボエティウスAnicius Manlius Torquatus Severinus Boethiusです。そしてもうひとりが中世の神学者であるトマス・アクィナスThomas Aquinasです。僕はアクィナスの方は知っていましたが,ボエティウスの方は知りませんでした。またアクィナスの方も知っているというだけであって,思想の詳しい内容を知っているわけではありません。なのでこれから示すことは,國分がそのようにいっているということであって,僕がそれについて確証を得ているわけではないということを前もっていっておきます。
 國分によれが,このふたりは偶然というのを,複数の異なった系列の因果関係の出会いとして規定しています。したがって,自然Naturaのうちに偶然が生じるためには,現にそれらの間では連絡が生じない複数の因果関係の系列が存在するのでなければならないことになります。それが可能になるための条件が,真空vacuumすなわち空虚vacuumが存在することであると國分はいいます。ここのところは,ボエティウスやアクィナスがそのようにいっていると國分がいっているというようには僕には解せないので,國分がそのようにいうと僕はいいます。ただ,ボエティウスなりアクィナスなりが,直接的にそのような主張をしているという可能性を否定するものではありません。
 AとBが真空すなわち空虚で隔てられているというのは,AとBの間に何らかの関係が存在しないということを意味します。これは真空すなわち空虚をここでどのように規定しているのかということから自明です。したがって,真空すなわち空虚を否定するnegareということと,必然性necessitasを肯定するaffirmareということは,一貫した立場であることになるでしょう。空虚が存在しなければ偶然が発生する余地はなく,すべては必然的necessariusであるということになるからです。だからスピノザはそもそも自然には偶然は存在していないという意味でも偶然を否定しているのだと國分はいいます。この結論に関しては僕も一致しているということは,すでに述べた通りです。
 國分は空虚の否定を物理学,必然性の肯定を哲学として,スピノザの物理学とスピノザの哲学は一貫しているというようにいっています。
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京成盃グランドマイラーズ&複数の系列

2024-03-08 19:14:29 | 地方競馬
 昨晩の第27回京成盃グランドマイラーズ
 フォーヴィスムとベストリーガードとアランバローズの3頭が前に。フォーヴィスムの逃げとなり,半馬身差の外にベストリーガード。引いたアランバローズは向正面に入るあたりで3馬身差の3番手。3馬身差でヒーローコールとギガキング。3馬身差でブルベアイリーデとディアセオリー。7馬身ほど開いてホウオウスクラムとホウオウトゥルースとナニハサテオキが後方を追走。前半の800mは48秒5のハイペース。
 3コーナーまでにベストリーガードは後退し,ここからフォーヴィスムとアランバローズが雁行。3馬身差でギガキングが追ってきてその後ろは内から順にヒーローコール,ディアセオリー,ナニハサテオキの3頭。直線の入口ではアランバローズが単独の先頭に立ち,逃げたフォーヴィスムは一杯。外からギガキングが追ってきて,さらに外からナニハサテオキ。直線で一杯になったアランバローズを楽に差したギガキングが悠々と抜け出して快勝。一杯になったアランバローズを僅かに差したナニハサテオキが3馬身差で2着。アランバローズはアタマ差で3着。
                                 
 優勝したギガキングは前走のオープンから連勝。南関東重賞は8月のフリオーソレジェンドカップ以来の勝利で5勝目。とにかく船橋では強い馬ですが,この距離の実績はありませんでしたから,勝ったことは収穫といえるでしょう。わりと優秀なタイムになったのは馬場の影響だったかもしれませんが,もしかしたらこの距離の方が合っているからなのかもしれません。父はキングヘイロー。母の父はバブルガムフェロー。従姉に2018年の愛知杯を勝ったエテルナミノルで従兄には2019年のNARグランプリでダートグレード競走特別賞に選出されたオメガパフューム
 騎乗した大井の和田譲治騎手は若武者賞以来の南関東重賞15勝目。京成盃グランドマイラーズは初勝利。管理している船橋の稲益貴弘調教師は南関東受賞8勝目。京成盃グランドマイラーズは初勝利。

 第一部公理三が,公理Axiomaとしては成立していないということは,かつて僕が考察した通りなのであって,僕は今でもその見解opinioをもっているということです。ですからなぜ僕がそのように考えているのかということについては,その当時の考察をお読みください。ただ,同時に僕は,第一部公理三でいわれていることは,公理としては成立しない,いい換えれば何らかの証明Demonstratioを要する事柄ではあるけれども,そのことは『エチカ』の中で論証されていると考えています。ですから第一部公理三の内容は,少なくとも『エチカ』の公理系の中では成立するので,これを公理として使用しても問題は生じないと考えています。つまり何らかの事柄を論証するためにこの公理に訴求するということがあったとして,この公理は公理として成立していないのだからそのような訴求は無効であるとは考えません。むしろその内容が正しいということは保証されているので,その論証は有効であると解します。
 國分は第一部公理三が公理として成立するということについてはおそらく疑問を抱いていません。つまりこの公理によって,すべてのものが単独の因果関係の系列で繋がりをもっているということも保証されていると考えているのです。なので,もしも空虚vacuumとみなし得るものが介在するような複数の因果系列があるならばという仮定から,そこからは偶然が生じ得るといっています。確かにある因果関係の系列と別の因果関係の系列が出会うということがあるのなら,そこでは各々の因果系列の中には必然であるとしても,偶然が生じる要素があり得ると僕は認めます。スピノザが必然性necessitasを単一のものと考えているという点については僕も國分も一致しているのですから,スピノザの哲学からはそのような偶然は生じ得ないという点でも一致していることになります。そのことを國分は空虚の不在と関連付けて説明しているのに対し,僕はそのような説明はしないというだけなのであって,結論が一致している以上,このことについてはもう探求していく必要はないでしょう。
 國分によれば,偶然ということと複数の因果系列を関連させるこの考え方は,哲学の世界においては古典的な概念notioです。
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農林水産大臣賞典ダイオライト記念&因果関係の系列

2024-03-07 19:00:31 | 地方競馬
 昨晩の第69回ダイオライト記念
 発馬後の正面で先手を奪ったのはエルデュクラージュ。2番手がハギノアレグリアスで3番手にアナザートゥルース。4番手はセラフィックコールとテリオスベル。6番手にコウエイスーシェフとトーセンブルとディクテオン。2馬身差でサンマルエンパイアとロードレガリス。2馬身差の最後尾にマンガン。テリオスベルは例のように上昇していき,かなりてこずりましたが1周目の正面ではエルデュクラージュの前に出ました。2周目の向正面では2番手に引いたエルデュクラージュから3馬身差の3番手にハギノアレグリアス。さらに7馬身くらい開いてセラフィックコール。2馬身差でアナザートゥルースとディクテオンとロードレガリス。最初の1000mは61秒9のハイペース。
 2周目の3コーナー付近でエルデュクラージュは一杯。ハギノアレグリアスが2番手となり,セラフィックコール,ディクテオンという順に。直線に入るところでは2番手のハギノアレグリアスの外まで並び掛けたセラフィックコールが,直線では粘るテリオスベルを差し切って快勝。粘ったテリオスベルが4馬身差で2着。直線での伸びを欠いたハギノアレグリアスが3馬身差で3着。外から追い上げたディクテオンがアタマ差で4着。
 優勝したセラフィックコールはみやこステークス以来の勝利で重賞2勝目。みやこステークスまでデビューから5連勝。前走のチャンピオンズカップで初黒星を喫していました。レースの序盤で前から離されがちになるのが弱点ですが,交流重賞はそのようになりにくいレースなので,この馬には向いているのではないかと思っていました。これまでよりはついて回ることができましたので,その見立ては正しかったのではないでしょうか。大レースを勝てる馬だと思います。母の父がマンハッタンカフェ。祖母がハルーワソング。母の5つ上の半兄が2011年にラジオNIKKEI賞を勝ったフレールジャックで,4つ上の半兄が2014年に中日新聞杯と新潟記念を勝ったマーティンボロ。Seraphicは天使の階層のひとつ。熾天使と訳されています。
 騎乗したカザフスタン出身のバウルジャン・ムルザバエフ騎手と管理している寺島良調教師はダイオライト記念初制覇。

 前もっていっておいたように,國分は存在論的視点からの偶然の否定negatioは『エチカ』には明示されていないとしているのですが,この観点からもスピノザの哲学は偶然を否定するという点では僕と一致しています。そして,この視点からの偶然の否定を,スピノザが空虚vacuumを否定していることと関連させて説明しています。
                                        
 スピノザの哲学では,僕たちがそのすべてを十全に認識するcognoscereことはできないとしても,あらゆるものが最終的には単独の因果関係の系列で繋がりをもっているということになります。これも前に説明しておいた通りです。このとき,もしも単独の因果関係の系列で繋がっているわけではなく,因果関係の繋がりがあるとしても,それが単独ではなく複数の系列,つまりその間には何らかの空虚が認められるような複数の系列から成立しているとしたら,ある系列と別の系列,たとえば系列Aと系列Bの間に何らかの連絡が生じた場合は,そこには偶然的なもの,必然的necessariusではないという意味で偶然的なものが生じるという可能性が生じてしまうでしょう。
 僕がかつて考察した事柄でいえば,この主張は,第一部公理三がそれ自体で公理Axiomaとして成立しているか否かという点と関連します。これが公理として成立するためには,まず,Aが原因causaとなってBが結果effectusとして生じるというとき,AとBの間には必然性necessitasがあるということでなければなりません。次に仮にそれが認められるとしても,Aが原因となってBが結果として生じるというときの必然性は,Cが原因となってDが結果として生じるといわれるときの必然性と,同一の必然性であるといわれなければなりません。そして最後に,すべての因果関係には必然性があり,かつあらゆる因果関係に生じる必然性が同一の必然性であるとしても,それらが同一の必然性であることを保証する何かが必然的に存在しなければならないのです。スピノザはこれらの条件がすべて達成されているという前提で第一部公理三を公理として提示しているので,國分がいっていることも成立することになります。この場合はそこに偶然が入り込む余地が一切なくなるからです。
 僕はこれが公理として成立するとは考えていません。
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マイナビ女子オープン&認識論的視点と存在論的視点

2024-03-06 18:55:56 | 将棋
 4日の第17期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は北村桂香女流二段が2勝,大島綾華女流初段が2勝。
 振駒で北村女流二段の先手となり大島女流初段の横歩取り。先手は青野流で対抗し,早々に飛車角が総交換になりました。
                                        
 先に角が交換となり,飛車も交換になった局面。ここで☗3七角と打って2六の歩を外しにいったのですが,この手が問題であったように思います。
 後手は☖7三角と打ち返しました。☗同角成☖同桂は明らかに損。かといって☗2六角は☖1九角成。しかし放置すると☖3七角成で処置に困ります。よって☗4六歩と交換を阻止しました。後手は☖3三桂と活用。先手は☗2八歩と受けることになりました。
                                        
 この間の手順は明らかに後手の得で,ここで差がつきました。第1図は単に☗2八歩と受けておく方がよかったでしょう。とにかく先手は後手の攻めをすべて封じれば自然とよくなるという方針で指すべきだったということになります。
 大島女流初段が勝って挑戦権を獲得するとともに規定で女流二段に昇段。タイトル戦は初出場。第一局は来月9日に指される予定です。

 第一部定理三三備考一が,人間には偶然に思えるものでもその背後には必然性necessitasがあるという観点から偶然を否定していることは間違いありません。國分はこの観点を,認識論的視点からの偶然の否定negatioと仮称しています。これに対して,そもそも自然Naturaのうちには偶然は存在しないという観点からの偶然の否定は,存在論的な視点からの偶然の否定と名づけています。ここでもこの國分の命名に倣って考察をしていきます。
 國分は『エチカ』には存在論的視点からの偶然の否定は明示されていないといっています。僕はたとえば第三部序言でスピノザがいっていることは,偶然や必然について直接的に言及しているわけではないとしても,間違いなく存在論的観点からの偶然の否定,あるいはこの場合は必然の肯定affirmatioといった方がいいかもしれませんが,明らかにそれを示していると思いますので,國分の見解opinioに同意はしません。しかしこの点について争うことに意味はないといったのは,國分は,スピノザは認識論的な観点からだけ偶然を否定しているといいたいわけではなくて,存在論的な観点からも偶然を否定しているということを示そうとしているからです。つまりそれが『エチカ』に明示されているか否かという点だけ僕と國分の間に相違があるのであって,スピノザは存在論的な観点からも偶然を否定しているということについては,國分も僕も同じです。そして國分はこのことを,空虚vacuumの存在existentiaをスピノザが否定しているということから導こうとしているのです。
 スピノザにとっての必然性というのは,第一部公理三にあるように,因果論的な必然性を意味するのであって,因果論的な必然性だけを意味します。他面からいえば,それ以外の必然性というのをスピノザは認めません。したがって,もし存在論的な観点から偶然が否定されるのであれば,存在論的観点の必然性が肯定されなければならないことになりますから,それは自然のうちに存在する一切のものが,因果論的関係を通して連関しているということを意味しなければなりません。もちろんこれは全自然を貫く視点からの結論で,たとえば僕たちがその連関のすべてを十全に認識できるという意味ではありません。
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全能と自由意志&第一部定理三三備考一

2024-03-05 19:11:34 | 哲学
 第一部定理一七備考でスピノザが示しているDeusの全能についての主張と,最も関係してくるのが神の意志voluntasの自由libertasに関する主張であるといえます。スピノザはここでも神は本性naturaの必然性necessitasに従って働くagereのであると主張することによって,自由意志voluntas liberaが神の本性essentiaには属さないということを示すからです。これは第一部定理三二系一でいわれていることです。
                                   
 なぜそれが大きく関係してくるのかということはふたつの点から説明できます。ひとつは第二部定理四九系にあるように,スピノザが意志と知性intellectusを同一視しているという点です。このために,知性について妥当することが意志についても同様に妥当することになるのです。したがって知性についての能力potentia,神の全能について妥当することは神の意志についても妥当することになるのです。しかしこのことは,神の本性に自由意志が属すると信じて疑わない人びとに対しては,あまり説得的ではないかもしれません。
 もうひとつは,神が完全であるためには,神が認識したことが事柄がことごとく実現しなければならないのと同じように,もし神が完全であるためには,神が意志したことはことごとく実現しなければならないという点に存します。もしも神の本性に自由意志が属するというのであれば,神はその自由意志によって現にあるものを現にあるのとは異なってあることができるようにすると主張するのでなければなりません。しかし現に真verumであるものは永遠aeternumから永遠にわたって真であるのでなければなりませんから,神が自由意志によって真であるものを偽falsitasにすることができるとか,逆に偽であるものを真にすることができるというのは不条理です。
 このことから,神の本性に自由意志を帰してしまうと,かえって神の完全性perfectioを損なうことになってしまうのです。その説明の仕方が,神の全能についての説明とパラレルな関係にあることは明白でしょう。神は本性の必然性によって働くのであり,そのことによって神は全能であることができ,神の本性には自由意志は属さないのです。

 アインシュタインAlbert Einsteinがスピノザ主義者であったことと,提唱した一般相対性理論において空虚vacuumの存在existentiaを否定したことの間に,何か関係があるというのはさすがに牽強付会であると思います。スピノザは哲学的な観点から空虚を否定したのだし,アインシュタインは物理学的な観点から空虚を否定したのであって,双方において空虚の存在が否定されているということは,結果的な一致にすぎないと解するのが妥当でしょう、ただ,結果的にではあってもそのことが一致しているということは,確かにアインシュタインの物理学とスピノザの哲学との間には親縁性があるということはできるでしょうし,アインシュタインがスピノザ主義者であるということが自称のものではなかったということのひとつの証明であるといえないこともないでしょう。なのでこの部分では,アインシュタインがスピノザ主義者であったということが指摘されていてもよかったのではないかと僕は思います。
 國分はこの後で,空虚の否定negatioがスピノザの哲学全体の中で有している意味を,哲学的観点から考察しています。これは参考に値する論考だと思いますので,ここでは『スピノザー読む人の肖像』でされているよりもやや詳しく探求していきます。
 スピノザは第一部定理三三備考一で次のようにいっています。
 「ある物が偶然と呼ばれるのは,我々の認識の欠陥に関連してのみであって,それ以外のいかなる理由によるものでもない」。
 ここでは國分に倣って,スピノザのこうした主張を一般的に偶然の否定といっておくことにします。
 國分によれば,偶然の否定にはふたつの種類があります。ひとつは,人間には偶然であると感じられるどのような事柄にも,その背後には必然性necessitasがあるということです。そしてもうひとつは,そもそも自然Naturaのうちには偶然は存在しないということです。ここに示した備考Scholiumは,前者の意味で偶然を否定しています。そしてスピノザは偶然の否定について言及する場合には,もっぱらこの意味で偶然を否定していると國分はいっています。僕はそれが確かにそうであるというようには思えませんが,この点についてはここでは論争する意味がまったくありません。
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棋王戦コナミグループ杯&量子力学

2024-03-04 19:12:32 | 将棋
 新潟で指された昨日の第49期棋王戦五番勝負第三局。
 藤井聡太棋王の先手で角換わり相腰掛銀。先手の研究手順に後手の伊藤匠七段が時間を使って対応する将棋に。持ち時間は削られたものの馬を作って後手もうまく対応しました。
                                        
 ここで後手は☖1五歩と突きました。☗3五歩で馬の行き場所がなくなるので☖1六馬☗同金☖同歩で金との交換に。☗2六馬と逃げた手に☖2七金と打ち☗5九角に☖3七歩と垂らしました。このまま歩に成られてはいけないので先手は金取りに☗2九飛。
                                        
 第2図から☖3八金はいかにも駒の効率が悪いので☖1七歩成でしたが☗2七飛☖同と☗1一香成で先手の駒得が拡大。しかもその局面は☗6四香と打つ手が厳しい狙いとして残り,先手の優勢となりました。この後手の手順はあわよくば入玉という狙いだったと思うのですが,それが不発に。したがって第1図では☖2五歩と突いて馬を助けるほかなかったようです。
 藤井棋王が勝って2勝1持将棋。第四局は17日に指される予定です。

 國分は,一般相対性理論の重力理論が,遠隔操作論より近接作用論の変種であるとみなせることについて,もうひとつの理由を示しています。それは空虚vacuumの存在existentiaに関わるものです。僕自身は,空虚が存在しようとしなかろうと遠隔操作論,とくに万有引力説は成立すると考えますから,この部分は単に遠隔操作論と近接作用論の対立としてのみ理解しますが,國分はここでも空虚の存在と関連させてこのことを解しているのです。
 ニュートンIsaac Newtonの万有引力説が,空虚の存在を基にしたものであったのは,おそらく歴史的な事実なのでしょう。しかし一般相対性理論における重力理論は,二次元で説明したような布が,宇宙空間の至るところに存在することで説明することができる理論です。空間の至るところで重力作用は生じる,少なくとも生じ得ると考えなければこの理論は成立しません。いい換えれば宇宙のうちでは至る所で空間が歪む,少なくとも空間が歪み得るとしなければ,一般的には成立しません。そうでないと宇宙空間のうちでは重力が作用する空間と重力が作用しない空間とが共存しているといわなければならないのですから,これはそれ自体で明らかでしょう。一般相対性理論というのは,宇宙空間の至るところで成立する理論として想定されているからです。
 なので,二次元的に説明したときの布に該当するものは,宇宙空間の至るところに張り巡らされていることになります。これはつまり,宇宙空間に空虚が存在しないということを意味します。実際に相対性理論は空虚の存在,あるいはおそらく同じことなのだろうと思われますが,真空vacuumの存在というのを否定しています。つまりデカルトRené Descartesおよびスピノザの主張にむしろ合致しているのです。アインシュタインAlbert Einsteinはあまりそれに同調しませんでしたが,一般相対性理論から発展したといえる現代の量子力学においてもそれは同様です。量子力学でも真空の存在は否定されていますし,遠隔作用論は斥けられているのです。
 國分は『スピノザー読む人の肖像』の中で何も指摘していないのですが,このブログでは何度かいっているように,一般相対性理論を提唱したアインシュタインはスピノザ主義者でした。
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能登半島支援瀬戸の王子杯争奪戦&一般相対性理論

2024-03-03 18:58:35 | 競輪
 玉野記念の決勝。並びは真杉‐平原‐佐藤の東日本,山口‐村上の中部近畿に中本,取鳥‐松浦‐岩津の中国。
 スタートを取りにいったのは平原と村上。平原が誘導の後ろに入って真杉の前受け。4番手に取鳥,7番手に山口の周回に。残り3周のバックを出る手前から山口が上昇。ホームで真杉が一旦は突っ張る構えをみせましたが,誘導が退避するタイミングで山口が叩きました。その外から取鳥が上昇。バックの入口では山口を叩き,中国の3人が前に。真杉も山口の外まで追い上げてきたところで打鐘。ここから真杉が発進。平原が離れてしまったので単騎の上昇。取鳥が突っ張っていき,先行争いに。これはホームからのコーナーワークで取鳥が前を譲らなかったのですが,バックでまた真杉が巻き返してきて併走になったので,コーナーの手前から前のふたりの外に出した松浦が発進。捲り切って直線へ。松浦マークの岩津も迫りましたが振り切った松浦が優勝。岩津が半車輪差の2着で中国のワンツー。捲り追い込みになった山口が両者の外から半車身差の3着。山口マークの村上は松浦と岩津の間を突こうとしましたが,最後は行き場を失うような形になって4分の3車輪差で4着。
 優勝した広島の松浦悠士選手はグランプリ以来の優勝。記念競輪は昨年7月の小松島記念以来の優勝で20勝目。玉野記念は2021年以来の2勝目。2022年のサマーナイトフェスティバルも当地で制しています。このレースは取鳥の先行が有力。真杉がどこまで対抗するかといったところで,叩きにいったのですが,平原が離れてしまったので厳しくなりました。取鳥は真杉を突っ張れそうだったので,番手捲りは必要なかったのかもしれませんが,外で真杉と併走になってはいけないという判断で出ていったものと思います。展開面からはそれほど厳しくなかった筈で,そのわりには詰め寄られてしまった印象。本調子とはいえないのかもしれません。

 アインシュタインAlbert Einsteinの一般相対性理論に含まれる重力理論は,二次元的に考える方が容易に理解できるとされています。なので僕もそうした説明をここでは試みますが,僕は門外漢ですから,説明自体が物理学の説明として適切であるということを保証することはできません。
                                        
 1枚の大きな布を空中に広げたと仮定します。その大きな布の中央に,ある程度の重量がある物体を置くと,その物体の置かれた部分を中心として布はへこみます。つまり平面であった布に歪みが生じます。この歪みが重力を意味します。布は大きなものと仮定されていますから,全体が歪むわけではなく,ある部分からは元のまま歪みがありません。つまり歪みのある部分には重力が作用し,歪まない部分には重力が及んでいないということです。この歪んだ部分に,歪む以前から軽量の,というのは中央に置かれたある程度の重量を有する物体corpusに比べて軽量のという意味ですが,それが置かれていたとすると,布がへこみますのでそのへこんだ分だけある程度の重量を有する物体に近づくことになります。これが引力といわれる力potentiaに相当します。
 一般相対性理論というのは,二次元における布に妥当するものを,三次元の空間に適用したものです。したがってこの比喩でいえば,布に該当するものが全宇宙空間に広がっていて,その布の各部にそれぞれの重量を有する物体が無数に存在することによって布が,この場合は三次元ですから空間が歪み,この空間の歪みが重力そのものを表示します。表示するというのは僕たちはそれによって重力を知覚するpercipereという意味です。そして宇宙空間にある無数の物体は,この空間の歪みによって相互に引き合うことで,移動したりまた定位置に静止したりします。これが万有引力を指示するということです。
 この理論は,二次元的に示した布の歪み,三次元的にいえば空間の歪みによって重力や引力を説明しています。したがって,万有引力はそれ自体では遠隔作用論に適合するかもしれませんが,むしろ各々の空間の歪みによってその力が示されることになるので,近接作用論である,少なくとも近接作用論の変種であるとみなすことができることになるのです。
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戸口の雑感⑰&万有引力説

2024-03-02 18:51:19 | NOAH
 の最後のところでいった,戸口が家族を日本に呼び寄せるための飛行機代を馬場が出してくれなかったというのが誇張であるというのは,まずそのこと自体から説明できます。戸口が全日本での仕事をやめて新日本に移る理由として,それだけではあまりに弱いといえるからです。しかしその他の事情から,これは契機にはなったとしても,それだけが理由ではなかったということは明らかにできます。
 戸口は全日本の経営にはタッチしていませんでしたから,この当時の全日本の経営状態が厳しいということは知らなかったようです。だから,馬場がジャンボ・鶴田と戸口を呼んで,もうすぐ身を引くからふたりで会社を仕切っていくように言われたとき,その馬場のことばを文字通りに受け止めました。だからこれは引き留め工作だったのではないかと戸口は推定しているのですが,おそらく馬場にはそういう意図はなかったのではないかと僕は推測します。
 戸口は馬場のことばを真に受けたので,鶴田とふたりで頑張ろうと思っていました。ところが馬場は身を引くどころかリングシューズを新調しました。つまりまだ現役を続けるつもりだったのです。もとより馬場はそのつもりではあったでしょう。ただ戸口はそれをみて,馬場が現役を続行する意志があることを知ったのです。そのときに東京スポーツで新日本プロレスを担当していた記者に声をかけられ,猪木の懐刀であった新間寿に会いました。それで新日本に行くことになったわけです。
 ここから分かるように,戸口は全日本をやめる気はあったかもしれませんが,その後の仕事先のあてがあったわけではないのです。むしろやめようと思った後で新間に会うことになったので,スムーズに新日本に移籍できたのです。しかも,それは馬場が現役を引退すると自分たちに言ったのだと思ったのに,実際はそうではなかったからだということによって戸口のうちに生じたのですから,仮に馬場が戸口の家族を呼ぶための飛行機代を出したところで,やはり戸口は新日本に移籍することになったであろうと僕は思います。なので飛行機代の件を移籍の主要因としている戸口の発言には,誇張があると僕は思います。

 その当時の科学者たちがそれをどのように考えていたかは不明ですが,現代に生きる僕たちからすれば,遠隔作用論すなわち万有引力説が空虚vacuumを必要とするというのは,明白に誤りerrorであると断定することができると僕は思います。俗にニュートンIsaac Newtonはリンゴの実が木から落下するのをみて万有引力説を思いついたといわれています。しかしこの種の落下運動は地球上の至るところで発生する運動motusなのであって,かつそれが万有引力によって生じる運動です。ですから万有引力が作用するために空虚が存在しなければならないというのであれば,地球上の至るところに空虚が存在するといわなければならないでしょう。しかしそれが不条理であるということは,僕たちがよく知っているところです。この空虚は,真空という語を置き換えたものなので,それを文字通りの真空という意味に解すれば,それが不条理なことは容易に理解することができるでしょう。僕たちが地球上で生きていくことができるのは,地球上の至るところが真空ではないからなのです。
                                        
 國分はここのところをまったく説明していないので,事の真相は僕には分かりません。近接作用論と遠隔作用論の対立はデカルトRené Descartesやニュートンの死後,18世紀の半ばまでは続いたと國分はいっています。万有引力説が定着していったのはその後のことでした。そしてデカルトが自説として主張した渦動説は,荒唐無稽な説であると斥けられるに至ったのです。これは確かにその通りなのですが,だから空虚の存在existentiaが定着し,空虚の不存在は斥けられるに至ったということにはならないのではないかと僕は考えます。したがってこの部分は,空虚が存在するかしないかという対立であるよりは,遠隔操作論と近接作用論,すなわち万有引力説と渦動説との対立に絞って,國分のいっていることは事実であるというように僕は解します。
 ところが,遠隔作用論と近接作用論の対立だけをみても,必ずしも遠隔作用論が勝利したとはいえないと國分は指摘しています。なぜなら,アインシュタインAlbert Einsteinは重力を,非ユークリッド的な場の概念notioを導入することで説明するのですが,この説明は,遠隔作用論ではなく近接作用論に近いからです。
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