スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

キリストという意訳&警戒心

2024-11-30 18:43:21 | 歌・小説
 『カラマーゾフの兄弟』の中には,「大審問官」というタイトルでイワンが書いた物語があります。いわば小説内小説ですが,新潮文庫版の「大審問官」の訳には不備があるという主旨のことが『生き抜くためのドストエフスキー入門』で示されています。
                    
 新潮文庫版では,キリストという固有名詞が頻出しています。しかしドストエフスキーの原語版に,キリストに該当するロシア語は一度も出てこないそうです。キリストと訳されている部分は,直訳すれば彼なのであって,ここでいわれている彼を,イワンがキリストであると解しているのは間違いないでしょうし,この物語を聞かされるアリョーシャもまたキリストであると解したのは間違いないでしょう。ですから意訳としてキリストという語を充てることには問題はないかもしれませんが,ドストエフスキーの言語版にキリストに該当する原語が一度も出てこない以上,この彼をキリストと意訳してしまうのは不備ではないかと佐藤は指摘しているのです。
 しかも,彼というとき,この彼に該当するロシア語の最初の文字が大文字であれば,これは事実上キリストを意味するので,キリストは意訳よりも直訳に近いのですが,「大審問官」で使用されている彼は,最初の文字が小文字なので,これは一般名詞の彼であって,キリストとという語が一度も出てこないのであれば,その彼が再帰代名詞としてキリストを意味することもできないから,これをキリストと訳すのは意訳以外の何物でもないのであって,単に彼と訳すべきであったと佐藤はいっています。
 ロシア語のことは僕には分かりませんが,佐藤がいっていることに間違いがあるというようには僕は思わないです。一方,新潮文庫版の『カラマーゾフの兄弟』の訳者は原卓也であって,原については佐藤は原さんほどの学者といういい方をしていますから,学者として高い評価を与えているのは疑い得ません。いい換えれば佐藤にそう評価されるほどの学者が,単純に読めば彼としか訳しようのない語を,キリストと意訳していることになります。
 たぶんこの部分は彼という訳で読んだ方がいいだろうと思います。佐藤は,なぜこのような意訳が生じたかも考察していますので,それについてもいずれ紹介することにします。

 説得の部分が吉田の独自の見解であることは明白なので,全体ももしかしたら吉田の見解なのかもしれません。正確にいうと,吉田はカトリックの説教師にバチカン写本を見せてしまったとだけいっているので,ステノNicola StenoがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに近づいたというのはその部分からの僕の類推ですが,この一件がおとり捜査のような仕方で行われたとするなら,そのように解するのが自然なのは自明でしょう。
 吉田はチルンハウスがオープンであり,警戒心が欠如していたといっているのですから,チルンハウスはステノがカトリックの説教師であると知っていて,その上でバチカン写本を見せたのだというように解しているように思われます。しかし一件がおとり捜査であるなら,ステノは自身の立場を秘匿してチルンハウスに近づいたという可能性も考慮に入れておかなければならないでしょう。かつてチルンハウスはホイヘンスChristiaan Huygensにはバチカン写本のことを秘匿し,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対してもすぐにはそれを見せず,スピノザの許可を得ようとしたのですから,その事実だけで警戒心が欠如した人物であったというのはどうかという思いが僕にはありますが,その部分を考慮に入れないとしても,ステノが自身の立場を秘匿し,うまい具合にチルンハウスがライプニッツに対して抱いたような思いをステノに対しても思わせることに成功したなら,その時点では死んでいたスピノザの許可を求めることができなかったチルンハウスが,バチカン写本をステノに見せてしまったとしても,警戒心が欠如していたというようにいえるのかは疑問が残ります。もっとも,これはステノが自身の立場を秘匿していた,いい換えればステノがカトリックの説教師であるということを知らなかったという場合のことであって,実際には知っていたという場合もあり得るのですから,その場合には確かにチルンハウスには警戒心が欠如していたといえることは僕は否定しません。
 バチカン写本の末尾には,寄贈者の名前,これはつまり異端審問機関に寄贈した人の名前ということですが,それが付せられていました。だからバチカン写本をチルンハウスから巻き上げたのがステノだったことは間違いありません。
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竜王戦&吉田のチルンハウス評

2024-11-29 18:59:48 | 将棋
 一昨日と昨日,和歌山城ホールで指された第37期竜王戦七番勝負第五局。
 藤井聡太竜王の先手。後手の佐々木勇気八段がなかなか態度を明示しませんでしたが,雁木になり,先手の早繰り銀。後手から攻めていく将棋になりました。
                    
 これは封じ手で,この手か☖4五角成の二者択一から選択された一手。先手は☗7九飛と逃げました。後手は☖4五角成でこれは銀取りなので先手は☗4六銀。今度は馬取りですから後手が☖4四馬と逃げました。今度は香取り。なので先手は☗7七銀と引きました。
 後手はかなり歩を損していますが,その代償に馬を作ったという局面。これがどうかというところ。
 ここから☖5四銀左☗3七桂☖8五桂と攻め合いに。銀取りなので先手は一旦は☗8八銀。後手は☖6五銀と繰り出しました。
                   
 ここから☗3四歩☖同馬☗1六角という順が厳しく,すでに後手が悪いようです。なので後手は先手が☗3七桂と跳ねてきたときに☖3六歩と打つ余地を残しておいた方が優りました。よって封じ手は☖4五角成の方がよかったということになるのではないでしょうか。
 藤井竜王が勝って3勝2敗。第六局は来月11日と12日に指される予定です。

 チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausについてもステノNicola Stenoについても,僕はその生い立ちのようなものを示しましたし,スピノザとの関係がどのようなものであったのかということも示しています。そしてそのときに,人物評も書きました。ただ吉田の評価は僕の評価と異なったところがあるので,ここでそれを示しておくことにします。人物評というのは立場によって当然ながら変化するものですから,僕の評価だけを示しておくのはある点では不平等であるともいえるからです。
 もっとも吉田は,チルンハウスについてはそう多くを語っているわけではありません。そこで語られていることは,チルンハウスがスピノザの晩年の文通相手のひとりであったということと,スピノザが死んで半年ほどが経った後にローマに滞在していたとき,現地で近づいてきたステノに迂闊にもバチカン写本を見せ,そのまま巻き上げられてしまったということです。吉田はチルンハウスはスピノザの文通の相手としては哲学的な鋭さでトップクラスの人物であったけれど,人間的にはよくいえばオープンで,悪くいえば警戒心に欠如していたと,この一件から評しています。
 この吉田の評価の中には重要な点が含まれています。バチカン写本が出版されたときの解説の中には,チルンハウスはおとり捜査のような仕方でバチカン写本を巻き上げられたと書かれていると吉田はいっているわけですから,吉田の評価はこのことを前提としているわけです。したがっておとり捜査というのは,ステノがカトリックの信者であるということをチルンハウスが知っていたか知っていなかったということは別として,ローマを訪れたチルンハウスにステノが接近し,バチカン写本を読ませてもいい人物であるというようにチルンハウスに思い込ませたので,チルンハウスは実際にそうしたのであって,これも吉田のことばを借りていえば,その後に説教師であったステノが得意とする説得によって,チルンハウスがその説得に応じ,バチカン写本を巻き上げられたということになります。
 これが解説にある内容なのか,吉田が創作した物語であるかは分かりません。ただ,説得の部分はおそらくといっているので,吉田の見解です。
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サンケイスポーツ盃船橋記念&ふたつの事情

2024-11-28 19:03:33 | 地方競馬
 昨晩の第69回船橋記念
 好発はルクスディオン。それを内からエンテレケイアとカプリフレイバーが追っていく形。2馬身差でスワーヴシャルル。ジャスティンとティアラフォーカスは併走でサンダーゼウス。ポーラチュカとギガースも併走。アイゴールド,ラヴケリーと続いてファイナルキングとカールスパートの併走。最後尾にエルロイ。最初の400mは22秒8のハイペース。
 3コーナーではエンテレケイアが単独の先頭に立ち,カプリフレイバーが2番手。好発を決めたルクスディオンは2馬身差の3番手に後退し,外からスワーヴシャルル,内からジャスティンの追い上げ。直線の入口でカプリフレイバーとの差を広げたエンテレケイアが,そのまま抜け出して快勝。スワーヴシャルルが単独の2番手に上がったところ,外からギガースが追い込んできて,かなり差を詰めたものの届かず,スワーヴシャルルが4馬身差で2着。ギガースがアタマ差で3着。
 優勝したエンテレケイアアフター5スター賞以来の勝利で南関東重賞3勝目。1000mでは南関東では敵なしという状況ですから,順当な優勝。スピードを前面に出す馬は,休養すると急激に能力が衰えてしまうケースがあるのですが,この馬は順調にレースを使い続けています。順調にレースに使い続けていられる限りは,これからも活躍が期待できると思います。父はアジアエクスプレス。はとこの子に2021年のホープフルステークスと2022年の中日新聞杯を勝っている現役のキラーアビリティ。Entelecheiaはアリストテレスの哲学用語で,完成された現実性。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手はアフター5スター賞以来の南関東重賞37勝目。船橋記念は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞70勝目。船橋記念は初勝利。

 このことから分かるのは,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはバチカン写本を慎重に扱っていたのであって,不用意に他人にそれを読ませてしまうようなことは避けていたということです。なのでこの観点からすれば,チルンハウスがバチカン写本を自主的にステノNicola Stenoに渡してしまうということはあり得ないことのように思えます。とくにホイヘンスChristiaan Huygensには自身がそれを所持していることを秘匿し,自身がそれを読むべき人物であると評価していたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対しても独断で読ませるようなことはせず,スピノザにその許可を求めていたチルンハウスが,カトリックの中でそれなりの立場にあったステノに草稿を渡してしまうようなことは,考えられないといっていいくらいでしょう。
                            
 一方で別の事情があります。ステノがバチカン写本を入手したのは,スピノザの死後のことです。スピノザが死んだのが1677年の2月で,ステノが草稿を入手したのは1677年8月です。スピノザの遺稿集Opera Posthumaはこの年の暮れには発刊されていて,この時期はおそらくその編集中であったと推測されます。たぶんチルンハウスはそのことを知っていたでしょう。したがってこの時期のチルンハウスは,すでにバチカン写本を所持し続ける意味が薄れつつありました。遺稿集が発刊されればそこには『エチカ』が掲載されるのは間違いありませんから,もし読む必要が生じたら,そちらを読めばいいからです。なのでこの時期のチルンハウスは,スピノザが生きていた頃ほどにはバチカン写本を慎重に取り扱う必要はなくなっていました。こうしたチルンハウスの気持ちの変化が,草稿がステノの手に渡ってしまったことといくらかの関係があったとみることもできるでしょう。
 解説の方で,おとり捜査のようなやり口でチルンハウスがステノにバチカン写本を巻き上げられたと書いてあるそうですから,そこには何らかの根拠はあるのでしょう。ただその根拠が何か分からない以上はその事情を考察することが無意味というわけではありません。ただ考察するのであれば,ここに示した二点はそのための論拠にしなければならないと思います。
 吉田はこの後でチルンハウスとステノについての概略を説明しています。
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第四部定理五六証明&スピノザの許可

2024-11-27 19:02:30 | 哲学
 第四部定理五六を証明しておきます。
                       
 第四部定理二二系により,virtusの第一にして唯一の基礎はコナトゥスconatusです。また,第四部定理二四により,理性ratioの導きに従うことを,自己の利益suum utilisを求める原理に基づいてなすことが,有徳的に働くagereということを意味します。これらを合わせると,徳の第一にして唯一の基礎は,理性に基づいたコナトゥスであるということになります。
 このゆえに,もしもある人間が現実的に存在していると仮定して,その人間が理性に基づく自身のコナトゥスあるいは理性に基づく自身の利益というものを何も知らないとしたら,その人間は徳の第一にして唯一の基礎を知らないというのと同じことです。逆に,その人間が理性の導きに従ったコナトゥスあるいは理性に基づく自身の利益を知っているとしたら,その人間は自分がそれを知っているということもまた知っていることになります。これは第二部定理四三から明らかであるといわなければなりません。よってその人間が,理性に基づくコナトゥスあるいは自己の利益を知らないというのは,まさにそれを知っていないということにほかならないので,現にその人間は徳の第一にして唯一の基礎を知らないということです。ですからこの人間は,一切の徳それ自体を知ることが最も少ない人間であるということになりますから,当然ながら有徳的に働くことが最も少ない人間であることになります。第四部定義八により,徳と力potentiamは同一ですから,この人間は最も無能力な人間であることになるでしょう。
 第四部定理五五でいわれているように,最大の高慢superbiaと最大の自卑abjectioは,自己に関する最大の無知です。すなわち自己の利益を知らないので,徳の第一にして唯一の基礎を知らないことになります。よって最大の高慢と最大の自卑は,精神mensの最大の無能力impotentiaを表示することになるのです。

 チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausはシュラーGeorg Hermann Schullerと知己になることによりスピノザとも面識を得たとされています。そのシュラーとチルンハウスの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。これは書簡七十から確証できます。シュラーはスピノザに宛てたこの書簡の中で,チルンハウスから3ヶ月も手紙が来なかったので,イギリスからフランスへ渡る間に何かよくないことが起こったのではないかと不安だったという主旨のことを書いています。これは3ヶ月にわたって書簡が途絶えると,シュラーがチルンハウスのことを心配してしまうくらい頻繁な書簡のやり取りがあったことを確定させます。
 途絶えていたチルンハウスからシュラーへの手紙は,パリに到着してからシュラーに送られました。シュラーはパリでのチルンハウスの様子をスピノザに伝えています。それによれば,スピノザから『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を送られたホイヘンスChristiaan Huygensにチルンハウスが会い,ホイヘンスがほかにスピノザが著した書物が出版されていないかをチルンハウスに尋ねたので,チルンハウスは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』以外に知らないと答えたと書かれています。
 この時点でチルンハウスは『エチカ』の草稿,すなわちバチカン写本を所持していたのですが,そのことをホイヘンスには伝えなかった,あるいは同じことですが秘匿したということを意味しています。一方でチルンハウスは,パリでライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとも会い,ライプニッツにはバチカン写本を読ませても構わないと判断したので,その許可をスピノザに求めていることもシュラーは伝えています。
 書簡七十二でスピノザはバチカン写本をライプニッツに閲覧させることを不許可としました。実際にライプニッツがそれを読んだかどうか,つまりチルンハウスがスピノザの指示を守ったのか否かは,研究者によって見解が分かれています。なので,僕はチルンハウスはその指示を守ったと考えていますが,ここでは指示を守らなかったかもしれないとしておきます。しかし,チルンハウスが少なくとも許可を得ようとしたことは事実なのであって,スピノザからの指示を待たずに独断でライプニッツにバチカン写本を見せなかったことは間違いないといえます。
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JT将棋日本シリーズプロ公式戦&おとり捜査

2024-11-26 19:21:53 | 将棋
 24日に東京ビッグサイトで指された第45回将棋日本シリーズの決勝。対戦成績は渡辺明九段が22勝,広瀬章人九段が16勝。
 抽選で選ばれた観客による振駒で広瀬九段の先手。角換わりを志向しましたが飛車先の歩を保留したので後手の渡辺九段が拒否。先手の腰掛銀に後手は雁木から右玉という戦型になりました。後手の模様がよい局面が続いていたと思われますが,先手も離されずについていったまま終盤戦に。
                            
 先手はここで☗7六玉と逃げて上部脱出を図りました。しかし☖7四銀☗同歩に☖4三角が厳しい王手となり,後手の勝ちに。
 ここは☗8八玉と下に逃げる手があったようです。☖7七歩と打たれてしまうのですが☗7九金と逃げておき,☖9五歩の攻めに☗6九金と寄る手があったようです。これは先手の勝ちとはいえなさそうですが,かなり有望な変化であったように思われます。
                           
 渡辺九段が優勝。2019年の日本シリーズ以来となる12回目の棋戦優勝。2014年2018年も優勝していて日本シリーズは4度目の優勝となりました。

 バチカン写本の解説の中に,この写本を所持していた人物が,ローマでおとり捜査のような手口に引っ掛かり,写本を巻き上げられてしまい,巻き上げた人物が危険思想の書と判断して異端審問の機関に寄贈したということが書かれていると吉田はいっています。吉田は一言でまとめるとそういわれているという主旨の書き方をしているので,実際はもっと詳しく書かれているのだと推測されます。
 『スピノザー読む人の肖像』の考察で示しておいたように,元々の写本の所持者はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausで,巻き上げたのはステノNicola Stenoです。僕はその当時にこれを考察したときに,この経緯がどういうものであったのかということを推測しました。というのも,チルンハウスが所持していたバチカン写本がステノの手に渡るというのは,チルンハウスが自主的にステノにそれを渡すという場合から,ステノが略奪するという場合まで,幅広いケースが考えられるからです。解説の中に,おとり捜査のようなやり口でステノがチルンハウスから巻き上げたと書いてあるなら,何らかの根拠があってそのように書かれていると解するのが妥当なので,たぶんそれが歴史的事実なのだと思うのですが,僕はそれを読んでいませんから,どのような根拠の下にそう書かれているのかを知りませんし,そもそも本当にそのように書かれているかということも分かりません。もしかしたら可能性のひとつとしてそのように書かれていて,講義にあたって吉田がその可能性を選択したということもないわけではないのです。そもそも,このことが明確に分かる根拠があるとすれば,自身がバチカン写本を手にした経緯についてステノが何かを書き残していて,それが発見されたということ以外に僕には思い浮かびません。しかし僕の調査ではそういう事実が出てきていませんので,このおとり捜査説というのは,ひとつの可能性,しかしきわめて高い可能性としてそうであったというように僕はここではいっておきます。
 この事情についての推測もしてありますので,そのことはここでは繰り返しませんが,もしも考察するなら,考慮に入れなければならない事情についてはここでも改めていっておくことにします。
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朝日新聞社杯競輪祭&バチカン写本

2024-11-25 19:02:20 | 競輪
 小倉競輪場で争われた昨晩の第66回競輪祭の決勝。並びは菅田‐松谷の東日本,寺崎‐脇本‐村上の近畿,犬伏‐松浦‐荒井の西国で浅井は単騎。
 スタートを取りにいったのは松浦と荒井と菅田の3人。松浦が誘導の後ろに入って犬伏の前受け。4番手に菅田,6番手に浅井,7番手に寺崎で周回。残り3周のホームの出口から寺崎が上昇。バックで犬伏と併走になりました。ホームで外から寺崎が前に出て,4番手に犬伏,7番手に浅井,8番手に菅田の一列棒状になって打鐘。ホームに戻って犬伏が巻き返していくと脇本が番手発進で対応。追い上げてきた犬伏が脇本の番手に嵌り,その後ろが内の村上と外の松浦で併走に。しかし併走の両者は前をいくふたりとの車間が開いてしまいました。直線に入っても脇本のスピードは衰えず,マークになった犬伏を振り切って優勝。マークの犬伏が1車身差で2着。村上の外を回った松浦が3車身差で3着。
                             
 優勝した福井の脇本雄太選手は9月の向日町記念以来の優勝。ビッグは3月のウィナーズカップ以来の11勝目。GⅠは2022年のオールスター競輪以来の8勝目。競輪祭は初勝利。このレースは寺崎が後ろからの周回になったので,前受けの犬伏を叩きにいくことになりました。そのときに犬伏が飛びつくのではなく,引いて巻き返すという戦法を採ったので,脇本が無風で番手を回れることに。犬伏の発進に合わせて番手から発進し,後ろに犬伏に入られてしまったのですが,小倉で1周くらいの先行であれば,自力型の犬伏に番手に入られてしまっても,余裕で振り切るだけの脚力があるということでしょう。犬伏は自分が勝つための戦法ですから,これはこれで悪くないと思いますが,脇本との差をほとんど詰められなかったのは課題といえそうです。

 第九回の中で,今世紀に入ってから『エチカ』の草稿の写本が発見された事実について,詳しい講義が行われています。ここで改めてどういった事情であったのかということを確認しておくことにします。
 このことが公になったのは,2011年の梅雨入り前であったと吉田はいっていますので,おそらく6月のことであったと推測されます。情報の発信源はオランダの新聞のウエブサイトだったそうです。その一報で明らかにされたのは,2010年の10月に,バチカンにある異端審問関係の資料の倉庫で,スピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊される以前に遡ることができる『エチカ』の手書きの原稿が発見されたというものでした。それは,スピノザ本人の自筆の草稿ではないものの,おそらく自筆の原稿から丁寧に写し取られた写本であるということまでそこでは伝えられていました。
 吉田は話の大筋とは関係ないからということで講義の中では語っていませんが,この写本を書いたのはスピノザの友人でラテン語の優れた使い手であったピーター・ファン・ヘントです。これはヘントがホイヘンスに宛てた自筆の書簡が現存していて,その筆跡によって鑑定された結果ですから,歴史的事実であると解して大丈夫です。実際に写本が書かれたのは,こちらは想定で,1674年末か1675年初めとされています。かなり短い期間に特定されていますので,これも想定とはいえ,ほぼ歴史的事実と解して大丈夫でしょう。このあたりのことは『スピノザー読む人の肖像』に書かれていて,それを検討したときに書いていますので,より詳しいことはその部分を読み直してください。
 この写本,吉田はバチカン写本と命名していますので,僕もここからヘントの手によるこの写本をバチカン写本ということにしますが,このバチカン写本は発見にたずざわったふたりの手によって,2011年の夏に貴重な資料として活字化されました。そしてバチカン写本が活字化されるにあたって,解説が付せられ,その解説によってバチカン写本の発見に関する諸事情も明らかにされたのです。ただしこの諸事情に関してもすでに説明してありますから,ここではそれを繰り返すことはしません。
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ロンジン賞ジャパンカップ&民主制

2024-11-24 19:25:05 | 中央競馬
 アイルランドから1頭,フランスから1頭,ドイツから1頭が招待された第44回ジャパンカップ
 シュトルーヴェは発馬後の加速が鈍く1馬身の不利。逃げたのはシンエンペラーで2番手にソールオリエンス。3番手がダノンベルーガ,チェルヴィニア,スターズオンアースの3頭。6番手はゴリアット,ジャスティンパレス,オーギュストロダン,ドゥレッツァの4頭。これらの後ろにブローザホーンとカラテ。シュトルーヴェとファンタスティックムーンとドウデュースの3頭が最後尾を並走して向正面へ。向正面で外からドゥレッツァが進出。先頭に出てそこからはドゥレッツァの逃げに。最初の1000mは62秒2の超スローペース。
 3コーナーでは2番手がスターズオンアースで3番手にシンエンペラー。その後ろがゴリアットとソールオリエンスという順に前の隊列が変化。ドゥレッツァが先頭のまま直線に入るとスターズオンアースの外からドウデュースが伸びてきました。内を回ってきたシンエンペラーも盛り返してきて3頭で優勝争い。外のドウデュースが内の2頭を競り落とす形で優勝。クビ差の2着はシンエンペラーとドゥレッツァで同着という判定になりました。
                       
 優勝したドウデュース天皇賞(秋)から連勝で大レース5勝目。そのときの回顧でもいったように,スローペースの瞬発力勝負を得意とする馬で,今日もまた絶好の展開になりました。前に出るのにやや苦労した感はありますが,これは距離の影響もあったでしょうし,いつもよりも早めに進出した影響もあったものと思います。切れ味で抜け出すのではなく,競り合う形で勝ったのは大きく評価したいところです。父はハーツクライ
 騎乗した武豊騎手は天皇賞(秋)以来の大レース制覇。第19回,26回,30回,36回に続く8年ぶりのジャパンカップ5勝目。管理している友道康夫調教師は天皇賞(秋)以来の大レース23勝目。第37回以来となる7年ぶりのジャパンカップ2勝目。

 スピノザは君主制,貴族制,民主制の三種類を比較したなら,民主制が最も優れていると考えています。しかしこれは,『スピノザ〈触発の思考〉』を考察したときにいったことですが,スピノザは民主制という政治形態が政治形態のいわば最終形態であって,そこを目指すべき制度であると考えているということを意味するわけではないのです。むしろ『国家論Tractatus Politicus』でいわれている民主制というのは,君主制がひとつの政治制度であり,また貴族制がひとつの政治制度であるというのと同じ意味において,民主制もひとつの政治制度であるという意味にすぎません。民主制が最も優れているというのは,共同社会状態status civilisにおける構成員の自然権jus naturaeが最も守られやすい制度がこの三種類のうちでは民主制であるというだけであって,民主制が導入されればそれが保証されるというわけではないのです。むしろ共同社会状態においてその構成員の自然権を守るにはどうすればよいのかという観点が『国家論』では検討されているのであって,君主制の場合にはどうすればいいか,貴族制の場合はどうするべきか,民主制ではどうすればよいのかということが示されています。したがってこれでみれば分かるように,構成員の自然権が守られるような君主制もあれば,それが守られにくい民主制というのもあるとスピノザは考えているのです。
 したがって吉田は,自然状態status naturalisなどは存在しないのだから,もし現実的に存在する人間が苦痛を感じるとすれば,それは共同社会状態においてなのだという主旨のことをいっていて,これは僕も同意しますが,だからといってそれは政治制度がどのようなあり方をしているのかということに還元することはできません。無法で歪な社会的な枠組というのがそれでも共同社会状態であるのは事実ですが,その枠組は君主制に限られるというように解することはできません。むしろ民主制であっても,無法で歪な社会的枠組というのはあり得るのですし,君主制であるからといって直ちにそのような社会的枠組であるわけではないのです。
 僕が補足しておきたかったのはこれだけです。なのでこの部分の考察はここまでとして,次の考察に移行することにします。
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フェアリードール&実践政治

2024-11-23 19:27:07 | 血統
 JBCレディスクラシックを勝ったアンモシエラの基礎輸入繁殖牝馬は,3代母の1991年にアメリカで生まれたフェアリードールです。アマゾンウォリアー,ファンシミン,マイグッドネス,アンティックヴァリュー,ソルティビッド,バイザキャットと日本で大レースを勝った馬が多く出ているファミリーナンバー9-fの一族の一頭。
                            
 繁殖牝馬としての生活は日本でのみ送りました。最初に産んだのがトゥザヴィクトリーですから,いきなり成功を収めたことになります。トゥザヴィクトリーの産駒には2010年に中日新聞杯,2011年に京都記念と日経賞,2012年に日経新春杯と鳴尾記念を勝ったトゥザグローリー,2014年に弥生賞を勝ったトゥザワールド,2017年の中山牝馬ステークスを勝ったトーセンビクトリーと3頭の重賞勝ち馬がいて,孫の世代にも2018年の七夕賞と2019年の阪神ジャンプステークスを勝ったメドウラーク,2019年に青葉賞とセントライト記念を勝ったリオンリオンが出ています。
 トゥザヴィクトリーの2歳下の全妹からは2015年の報知グランプリカップを勝ったバトードールと2018年のクラスターカップを勝ったオウケンビリーヴが出て,孫の世代には2021年のJBC2歳優駿を勝ったアイスジャイアント,2016年の京成杯を勝ったプロフェット,2018年の京都2歳ステークスを勝ったクラージュゲリエと3頭の重賞勝ち馬が出ています。
 トゥザヴィクトリーの3つ下の全妹はビーポジティブ。2002年にクイーン賞を勝ちました。
 トゥザヴィクトリーの4つ下の全弟はサイレントディール。2003年にシンザン記念と武蔵野ステークス,2007年の佐賀記念を勝ちました。
 トゥザヴィクトリーの10歳下の半妹の産駒には2013年にフローラステークスとローズステークスを勝ったデニムアンドルビーと2018年にしらさぎ賞東京シンデレラマイル,2019年にマリーンカップを勝ったラーゴブルーと2頭の重賞勝ち馬。
 トゥザヴィクトリーの12歳下の半妹の孫がアンモシエラ。
 トゥザヴィクトリーの13歳下の半妹の産駒には2020年に中山牝馬ステークスと福島牝馬ステークスを勝ったフェアリーポルカがいます。
 活躍馬が続出している一族ですが,なぜか大レースの勝ち馬はトゥザヴィクトリー以来出ていませんでした。アンモシエラが2頭目になります。まだまだ繫栄していくでしょう。
 フェアリードールの伯母にあたるヘバという馬も繁殖牝馬として輸入されています。こちらの子孫には2010年のCBC賞を勝ったヘッドライナー,2015年のサマーチャンピオンと2016年の武蔵野ステークスを勝ったタガノトネール,2014年のデイリー杯2歳ステークス,2020年の阪神ジャンプステークスと京都ジャンプステークス,2022年の京都ハイジャンプを勝ったタガノエスプレッソなどが出ています。

 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は政治理論を展開することを意図していたので,理性の有entia rationisである自然状態status naturalisや,その自然状態から脱出して共同社会状態status civilisに入るための社会契約を,概念notioとして利用することに一定の意義がありました。もちろんそれでもスピノザはそれをホッブズThomas Hobbesがいうのと同じ意味での社会契約として規定することはできず,ホッブズの政治論においては不可逆的であったといえる社会契約を,むしろ一般的な契約pactumと同じように解し,それは破棄され得るものとして規定するほかなかったわけですが,そのように解釈されるスピノザの社会契約もまた実在的有entia realiaではなく理性の有であったことに違いないのであって,それを利用することができたのは,そこで示されるのが政治理論であったからであるということは,同じように成立するだろうと思います。
 『国家論Tractatus Politicus』は政治理論よりも実践政治のあり方,あるいはあるべき姿を展開しようとしたので,そこでは実在的有だけが意味をもつことができました。自然状態は理性の有であっても,共同社会状態は実在的有なので,実在的有のあり方,あるべき姿について論述しようとする場合は,理性の有に頼ることはできなかったからです。このために『国家論』では社会契約説が大きく後退してしまったのではないかというように僕は考えています。もちろんこれは,その理由のひとつであって,理由のすべてであるといいたいわけではありませんが,確かにこの点が,『国家論』の中でスピノザが社会契約説に触れなかった理由のひとつを構成していると思うのです。
 実践政治のあるべき姿を論述しようとした『国家論』の中で,スピノザはみっつの制度をあげてそれらを比較検討しています。ひとつ目が君主国家,ふたつ目が貴族国家,三つめが民主国家です。政治体制でいえば,君主国家は独裁制,貴族国家は共和制,民主国家は民主制を意味すると解するのが,現代の僕たちにとっては分かりやすいだろうと思います。
 これらの政治制度の中で,最も優れているとスピノザが考えているのは民主国家すなわち民主制です。これは間違いなくそうであると断定することができるのですが,それが意味しているところが重要です。
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ルヴァンスレーヴ&補足

2024-11-22 19:33:50 | 名馬
 JBC2歳優駿を勝った北海道のソルジャーフィルドの父はルヴァンスレーヴです。父がシンボリクリスエスで母の父がネオユニヴァース。6代母がファンシミンで4代母が1986年の京成杯と牝馬東京タイムス杯,1987年のエプソムカップと新潟記念とオールカマーを勝ったダイナフェアリー。叔母に2018年のクイーン賞を勝ったアイアンテーラーで従弟に2020年のJRA賞の最優秀ダートホースに選出されたチュウワウィザード。Le Vent Se Leveはフランス語で風立ちぬ。                       
 2歳8月のデビュー戦を勝つと10月の特別戦も連勝。さらに全日本2歳優駿も勝って3連勝で大レースを制覇。
 3歳初戦となった4月のオープンは2着でしたがユニコーンステークスで重賞2勝目。ジャパンダートダービーを制して大レース2勝目。
 秋初戦の南部杯で古馬を撃破し大レース3勝目。チャンピオンズカップも勝って大レース4勝目。この年のJRA賞の最優秀ダートホースとNARグランプリのダートグレード競走最優秀馬に選出されました。
 ここから長期の休養。復帰したのは5歳のかしわ記念でここは5着。帝王賞で10着に敗れ,かつての能力を取り戻せないまま引退となりました。
 故障がなければたぶんもっと大レースを勝てた馬だと思います。古馬相手の初戦で大レースを勝ち,3歳にしてチャンピオンズカップを勝つというのは快挙。そこまでの戦績もほぼ完全ですから,ダート馬としては活躍の期間が短かったとはいえ,能力は確か。ダートが主戦場となるとは思いますが,種牡馬としても産駒の活躍が期待できると思います。

 吉田の結論は以上の通りですが,このことに関して僕には補足しておきたいことがあります。
 スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では社会契約説を用いていますが,『国家論Tractatus Politicus』では用いていません。そうなった理由はいくつか考えられるところですが,そのひとつとして,『神学・政治論』では政治理論を展開しようとしていたのに対し,『国家論』では実践政治について論述しようとしたという点があるのではないかと僕は思っています。このことについては以前の考察でいったことがありますから,なぜ僕がそう思うのかということについてはここでは省略します。
 これは政治論に限ったことではなく,理論的な論述を展開していくときは,実在的有entia realiaだけでなく理性の有entia rationisもまた大きな効果を発揮します。自然状態status naturalisから共同社会状態status civilisに移行する契約pactumを社会契約というのであれば,スピノザにはそもそも自然状態というのが現実的には存在しないのですから,社会契約も存在しないのです。いい換えれば『神学・政治論』では社会契約説が展開されてはいるものの,それはホッブズThomas Hobbesがいっている社会契約とは実質的にも理論的にも異なったものです。実際にスピノザはそこでは社会契約というのを,締結されたとしても不服であれば解除することができるようなもの,いってみれば僕たちが普通に契約という場合の契約と同じようなものといっています。ホッブズの社会契約はそれを解消することは不可能である,少なくとも社会契約を解除することは自然法lex naturalisに反するということになっていますから,それだけで大きな違いがあることは明白でしょう。スピノザがいう社会契約は,むしろ一定の条件が与えられてしまうと,自然法によってそれが解消されるというようになっているからです。このあたりのことは今回の考察の中でも説明しましたから,これ以上は不要でしょう。
 それでも実在的有であるとはいえない社会契約を政治理論の中にもち出すことは,スピノザにとっても一定の意義があったのです。たとえば共同社会状態においての権力は,共同社会の成員の利益utilitasを考慮する必要があるということは,社会契約説を展開することによって説明可能になっているといえるでしょう。
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農林水産大臣賞典兵庫ジュニアグランプリ&出発

2024-11-21 18:52:04 | 地方競馬
 第26回兵庫ジュニアグランプリ
 コパノヴィンセントが無理なく前に出てそのまま逃げることに。外の分だけ前に出られなかったべラジオドリームが2番手。ヤマニンシュラとコスモストームが並び,サンジュウロウとヴィグラスデイズとシャインミラカナの3頭が併走。ラピドフィオーレ,ハッピーマン,キミノハートの順で続き2馬身差でマナヴァルキューレ。4馬身差の最後尾にジーニアスレノン。ミドルペースでした。
 3コーナーを回ってサンジュウロウとシャインミラカナは後退。最内を回って追い上げてきたのがハッピーマン。べラジオドリームは直線の手前で一杯。2番手に上がったヤマニンシュラと逃げたコパノヴィンセントの間を突いたハッピーマンが粘るコパノヴィンセントを差し切って優勝。コパノヴィンセントが1馬身半差で2着。ヤマニンシュラが1馬身半差の3着。ヴィグラスデイズがクビ差の4着でコスモストームが半馬身差の5着と,総じて前につけていた馬がそのまま流れ込む決着。
 優勝したハッピーマンは重賞初制覇。このレースはJRAの1勝クラスで好走歴がある馬が3頭いて,そのうちの2頭によるワンツー。ハッピーマンは道中の位置取りが後ろになってしまい,展開面からは不利でしたが,内を回ることで相殺しました。それでも前にいた馬たちが有利なレースであったことは間違いありませんから,このメンバーの中では能力が上位であったとみていいと思います。小回りで器用なレースで勝ち切った点も評価できます。父はダノンレジェンド。母の父がキングカメハメハで祖母が2007年のフラワーカップを勝ったショウナンタレント。その父がアグネスタキオン
 騎乗した坂井瑠星騎手と管理している寺島良調教師は兵庫ジュニアグランプリ初制覇。

 『国家論Tractatus Politicus』の第六章の第一節では,人間は本性naturaの上で共同社会状態status civilisを欲求するので,人間が共同社会状態を解消してしまうことは起こり得ないという意味のことがいわれています。これは一読すると,スピノザがホッブズThomas Hobbesと同じことをいっているように見えます。ホッブズは,それがどんなにひどい共同社会状態であったとしても,自然状態status naturalisに戻るよりいいから,人間が共同社会状態を解消して自然状態に回帰することはないといっているからです。しかし実際には,人間が共同社会状態を解消することはないという同じことをいっているとしても,スピノザとホッブズでは違う意味のことを主張していると考えなければなりません。ホッブズは実際に自然状態があって,そこに回帰することはないといっているのに対し,スピノザはそもそも自然状態などというものは存在しないから,共同社会状態を解消して別の状態に移行することはできないといっているのだからです。すなわち人間は常に共同社会状態に現実的に存在することになるのですから,政治論を構築していくときは共同社会状態から出発しなければならないのであって,共同社会状態以前の状態としての自然状態から出発することはできないのです。
                            
 もちろん共同社会状態というのは,現実的に存在するあるひとりの人間だけを抽出するなら,その人にとって不本意で苦痛に満ちたものであるということがあり得ます。ホッブズの政治理論では,それでもその状態は自然状態よりよい状態であるということができますが,スピノザの政治理論ではそのようにいうことができなくなります。したがって人間は,というのは僕たちはという意味ですが,共同社会状態が現にあって,その中で現に暮らしているということをもってよしとするわけにはいかなくなります。自然状態など存在せず共同社会状態しか存在しないのであれば,現実的に存在している人間に対して苦痛を齎すのは共同社会状態にほかならないからです。それがどんなに無法で歪んだものであったとしても,共同社会状態は共同社会状態であって,そうした共同社会状態が現に生きる人間の苦痛の原因causaとなり得るということを弁えておかなければなりません。
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農林水産大臣賞典浦和記念&懸念

2024-11-20 18:59:11 | 地方競馬
 第45回浦和記念
 鞭を入れてメイショウフンジンがハナへ。2番手にダイシンビスケスで3番手にアウトレンジ。2馬身差でライトウォーリア。4馬身差でサヨノグローリー。2馬身差でアイブランコとディクテオン。あとはディアセオリー,ナニハサテオキ,オウケンムーン,スリーヘリオスの順で発馬後の向正面を通過。正面に入って逃げたメイショウフンジンがペースを落としたことで全体の隊列は縮まりました。向正面に戻って内からライトウォーリアが3番手に上がり,アウトレンジが4番手に。3馬身差でディクテオンとナニハサテオキ。その後ろがサヨノグローリーとアイブランコの併走に。前半の1000mは63秒5のスローペース。
 4番手の外になっていたアウトレンジが3コーナー手前から外を進出。2番手のダイシンビスケスは苦しくなって後退。コーナーの途中でアウトレンジが逃げたメイショウフンジンの前に出て先頭で直線に。そのまま後ろを引き離していって快勝。内を回ったライトウォーリアが直線だけメイショウフンジンの外に出され,メイショウフンジンを差して6馬身差の2着。メイショウフンジンが2馬身差の3着に粘り,外から追ってきたディクテオンがクビ差で4着。
 優勝したアウトレンジは重賞初制覇。とはいえ前々走でオープンを勝ち,前走のみやこステークスが不来方賞を勝ったサンライズジパングの2着でしたから,実績は下でも近況からは上位と思われました。また,4歳とまだ若かった点も魅力。逃げることができなかった2着馬とは2キロの斤量差がありましたので,着差ほどの能力差は見込めないかもしれませんが,大レースでも好勝負になる余地があると思います。母の父はキングカメハメハ。9代母がスカーレットインクの3代母にあたる同一牝系。
 騎乗したフランスのクリスチャン・デムーロ騎手と管理している大久保龍志調教師はは浦和記念初勝利。

 スピノザの思想に準じて検討していけば,『国家論Tractatus Politicus』の当該部分で空想の産物といわれているのは,実際は自然権jus naturaeではなく自然状態status naturalisであるという吉田の指摘に僕は同意します。したがって,思い切ったことをいえば,スピノザはその部分で,自然状態は空想の産物だといってしまえばよかったのではないかと僕は思いますし,そういうべきだったのではないかと思います。もちろんこの部分の文脈は,空想の産物であるのが自然権であるのか自然状態であるのかということをいいたかったわけではなく,自然状態ではないも同然である自然権が,共同社会状態status civilisでは空想の産物ではなく現実的なものになるということをいいたいがための前振りですから,スピノザとしては自然権が空想の産物であるといっておいた方がよかったのだということは僕も理解できます。しかし一方で,書簡五十においては自然権はそっくりそのまま残しているといっているのですから,自然状態が空想の産物であるとスピノザが考えていることは確実だと思いますから,たとえこの部分でではなくとも,スピノザはそのようにいっておくべきではなかったかと思います。そうでなければ『国家論』のこの部分と,書簡五十でスピノザは矛盾したことをいっていると理解されかねないと懸念されるからです。
                            
 自然状態を空想の状態と解するスピノザの政治論から,どのようなことが結論されるのかということが第一四回では考察されていますので,それもみておきましょう。
 自然状態が空想の産物であるのなら,現実的に存在する人間は,自然状態にはいないということになります。これは現時点でいないということだけを意味するのではなく,かつて人間は自然状態に存在したということはないし,これからも自然状態の存在するということはないという意味です。ではどこにいるのかといえば,それは共同社会状態にいるということになります。つまり人間は常に共同社会状態に存在していたのだし,これからも共同社会状態に存在し続けるということです。そしてその状態において,現実的に存在する人間は自然権を行使してきたのだし,今も行使し,またこれからも行使し続けていくことになるのです。
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竜王戦&確実な説明

2024-11-19 19:15:39 | 将棋
 15日と16日に茨木市で指された第37期竜王戦七番勝負第四局。
 佐々木勇気八段の先手で角換わり相早繰銀。先手が腰掛銀に組み替えるという工夫を出し,後手の藤井聡太竜王が対応に時間を使う将棋になりました。
                       
 ここから先手は☗9三角と打ち☖9二飛に☗7五角成と馬を作りました。
 7筋の歩がなくなったので後手は☖7二歩の受け。先手は☗6四歩☖同歩と突き捨ててから☗9三歩。☖8二飛とさせておいて☗6四馬と取りました。
 後手は☖4二角と打ち☗4六馬に☖6四歩。
                       
 上の図は馬を作ることができ,駒損の回復も見込めるのですでに先手優勢かもしれません。下の図になって後手は角を使った上に自ら使いにくくしているのですが,受け止められれば悪くないという判断だったのだと思います。しかし下の図から桂馬を取った後で3筋の歩を突き捨て4五に銀を出る攻め筋があり,一方的な展開になりました。たぶん上の図から下の図の間に後手の形勢はかなり悪化しているので,☖4二角と打つのは拙く,☖5二金のような手で粘らなければいけなかったのではないでしょうか。
 佐々木八段が勝って2勝2敗。第五局は27日と28日に指される予定です。

 人間が現実的に存在しているということと,その人間が自己の有esseに固執しているということは,第三部定理七により同じ意味でなければなりません。つまり人間が現実的に存在していることと,その人間が自己の有に固執するperseverarepotentiaを発揮していることは同じことです。そしてこの自己の有に固執する力こそ,スピノザが自然権jus naturaeといっている力そのものなのですから,人間が現実的に存在しているということと,人間の自然権が働いているということは,同じ意味であると解さなければなりません。よってもし自然状態status naturalisにおいて人間が現実的に存在するなら,その人間には自然権が働いていることになるでしょう。ところが『国家論Tractatus Politicus』の当該部分では,自然状態においては個人の自然権はないも同然だとスピノザはいっています。だとするとここでないも同然である,あるいは同じことですが実質的に存在しているというよりも空想上の産物であるといわれているのは,自然権ではなくて自然状態の方であろうと吉田はいっています。吉田はこの種の自然状態のことを,特異で非現実的な想定だとしています。
 これでみれば分かるように,吉田もまた自然状態,これは『国家論』でスピノザがいっている自然状態であると同時に,ホッブズThomas Hobbesが共同社会状態status civilis以前の状態として規定している自然状態を含めてもよいと僕は解しますが,そうした自然状態は非現実的だ,つまり人間の歴史において現実的に存在した状態ではないと考えていることになります。つまり吉田も自然状態について,僕と同じような見解opinioを有していることになります。だから僕がこの部分からスピノザは自然状態を空想の産物あるいはそこまでいわなくても実在的有entia realiaではなく理性の有entia rationisにすぎないとみなしていると看取することは,牽強付会といわれる可能性が残るように,吉田の説もまた牽強付会なのであるといわれ得るといわなければならないことは僕も否定できません。しかし吉田の論述は,確かにこの部分からスピノザがないも同然といっているのは自然権であるけれども,実際の意味としてそういわれているのは自然状態の方であるということを,スピノザの思想から確実な仕方で説明していると僕には思えるのです。
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施設整備競輪ザ・レオニズカップ&吉田の指摘

2024-11-18 19:21:46 | 競輪
 松阪競輪場で行われた昨日のザ・レオニズカップの決勝。並びは長島‐芦沢の栃木茨城に海老根‐中村の千葉,西村‐笠松の中部,塚本‐堤の西国で伏見は単騎。
 笠松と芦沢がスタートを取りにいき,内の笠松が誘導の後ろを確保し,西村の前受け。3番手に長島,7番手に伏見。塚本は道中から長島の外に張り付き,併走での周回になりました。残り3周のホームに入って塚本の内で併走していた長島が引いたので,3番手に塚本,5番手に長島,最後尾に伏見の一列棒状になりました。残り2周のホームに戻って長島が上昇。誘導が外れて西村が突っ張りました。伏見が内から上昇していったので,西村の後ろで伏見,こちらも動いた塚本,西村マークの笠松の3人が併走。塚本マークの堤を挟んで長島という隊列になって打鐘。ここから長島が再び発進。ホームで西村を叩くと海老根までの3人が出きりました。後ろから自力を使う選手がいなかったのでこのまま3人の争いに。番手から差した芦沢が優勝。逃げた長島が半車輪差の2着。海老根が1車身半差の3着でこのラインの上位独占。
 優勝した茨城の芦沢辰弘選手はGⅢ初優勝。このレースは長島の先行1車。なので西村や塚本が長島の番手を狙う動きがあってもおかしくありませんでした。長島としてはそういう展開にした方が自分の優勝は狙いやすかったと思うのですが,番手の芦沢にも配慮したような先行になり,芦沢が無風で番手を回ることに。その分だけ芦沢の差しが上回ることになったといえるでしょう。ラインのことを考えて先行するのは悪くないと思いますが,先行1車ですから長島に対してはやや物足りなさも感じるような結果でした。

 僕は自然状態status naturalisは,人類史上に存在したことはないと考えています。したがって,『国家論Tractatus Politicus』の当該部分の解釈として,スピノザも自然状態を空想的な状態であると考えているというように理解するのは,牽強付会であると思われるかもしれません。確かに文脈上は,スピノザは自然状態における自然権jus naturaeは空想的なものであるといっているのであって,自然状態についてそのようにいっているわけではないからです。しかし吉田もまた,この部分を僕と同じように解釈しています。ですから確かにこの部分を僕がいったように解釈する余地があるといえるのです。この点に関する吉田の検討をみていきます。
                            
 スピノザは自然状態を自然権を通して規定しています。ところがその自然権が,自然状態においてはないも同然であるとスピノザは断言しています。一方でスピノザは,第三部定理七を通して自然権を規定しているのです。この定理Propositioは前もっていっておいたように現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当する定理です。よって人間が現実的に存在するなら,必ず妥当する定理であるといわなければなりません。これはつまり,人間が自然状態において現実的に存在していようと,共同社会状態status civilisにおいて現実的に存在していようと,同じように必ず妥当するということを意味として含みます。つまり自然権が働くagereということと,人間が現実的に存在しているということは,同じ意味でなければなりません。
 この吉田の指摘はきわめて的確であると僕は思います。もちろん人間には,自然状態においてはなし得ないけれど,共同社会状態においてはなし得るということが,具体的に一つひとつの事象を検討していけばあるかもしれません。他面からいえば,自然状態において有さない力potentiaを共同社会状態において有するということがあるかもしれません。しかし自己の有esseに固執する力というのをひとつの力として抽出するのであれば,現実的に存在する人間は常に自己の有に固執するのであり,この点においては自然状態にあろうと共同社会状態にあろうと同様です。いい換えれば,人間が現実的に存在するということと,自己の有に固執するということは,同じことでなければなりません。
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マイルチャンピオンシップ&自然状態の規定

2024-11-17 19:20:01 | 中央競馬
 イギリスから1頭が遠征してきた第41回マイルチャンピオンシップ
 バルサムノートが主張しての逃げ。ニホンピロキーフとレイべリングが並んで2番手。4番手にコムストックロードで5番手にはブレイディヴェーグとフィアスプライド。7番手にウインマーベル。8番手にエルトンバローズ。9番手にオオバンブルマイ。10番手にナミュールとマテンロウスカイ。12番手にソウルラッシュとアルナシームとチャリン。15番手にセリフォス。16番手がジュンブロッサムで3馬身差の最後尾にタイムトゥヘヴン。前半の800mは45秒7のミドルペース。
 軽快に飛ばしたバルサムノートのリードは3コーナーで3馬身。そこから差が詰まっていき,直線の入口ではバルサムノート,ニホンピロキーフ,ウインマーベルの3頭が内外に大きく離れた先頭に。ウインマーベルよりさらに外から追い込んできたソウルラッシュが内の各馬を差すとそのまま抜け出して快勝。2着争いはウインマーベルとそのすぐ外から追ってきたブレイディヴェーグとエルトンバローズの3頭で接戦。エルトンバローズが2馬身半差の2着でウインマーベルがクビ差の3着。ブレイディヴェーグがハナ差で4着。大外を追い込んだチャリンがクビ差の5着。
 優勝したソウルラッシュはマイラーズカップ以来の勝利。重賞4勝目で大レース初制覇。一昨年の4月に4連勝でマイラーズカップを勝って以降はずっとこの路線のトップクラスで走り続け,昨年のマイルチャンピオンシップが2着,今年の安田記念が3着と,優勝に近いところまできていました。ここは今までの悔しさを払拭するような快勝で,留飲を下すことができたのではないでしょうか。父はルーラーシップ。母の父はマンハッタンカフェ。母の3つ上の半兄が2013年の青葉賞を勝ったヒラボクディープ
 騎乗した団野大成騎手は昨年の高松宮記念以来となる大レース2勝目。管理している池江泰寿調教師は昨年のスプリンターズステークス以来の大レース24勝目。第34回以来となる7年ぶりのマイルチャンピオンシップ2勝目。

 スピノザが想定している自然状態status naturalisというのは,各人が自己を他の圧迫から防ぎ得ることが困難な状態のことです。したがってこの状態においては各人は,それほど多くのことをなし得ないことになるでしょう。なし得ないということはそのpotentiaが現実的にないということを意味し,この力が自然権jus naturaeを意味するのですから,この状態では各人の自然権は無に等しいということになるのです。
                            
 このことは,実はスピノザがホッブズThomas Hobbesの順序とは逆に,自然状態の方を自然権によって規定していることと関係しているといえます。スピノザは自然状態というのを『国家論Tractatus Politicus』においてどのような状態であるかということを規定していないのですから,その概念notioをホッブズがいっているのと同じ意味でいっていると解することもできます。しかし吉田がいっているように,『国家論』における論述だけでみるなら,自然権を先に規定しておいて,その概念を利用して自然状態を説明しているということも事実であって,この限りにおいては,各人の自然権が無に等しい状態のことをスピノザは自然状態というというように解せるからです。いい換えればスピノザは各人の自然権が無に等しい状態のことを想定し,その状態のことを自然状態といったというように解せるのです。つまり自然権によって規定される自然状態というのは,スピノザにとっては初めからその自然権が各人にとって無に等しい状態のことであったということが可能でしょう。
 なおスピノザは,この自然状態における各人の自然権は,現実的な権利というよりは空想上の産物にすぎないという意味のことをいっていますが,これは自然状態そのものについても妥当すると解してもいいと思います。要するに自然状態のような状態は現実的な状態ではなくて空想の産物であって,人間がそのような自然状態において存在したことはないしこれからも存在することはないというように解してもよいと思います。前もっていっておいたように,とくに『国家論』においては社会契約説は斥けられているといっても間違いではないので,現に自然状態が存在したあるいは自然状態が存在するというように解する必要はまったくないからです。
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バーレーン国際トロフィー&自然権と力

2024-11-16 19:26:39 | 海外競馬
 日本時間で今日の未明にバーレーンのサヒール競馬場で行われたバーレーン国際トロフィーGⅡ芝2000m。
 キラーアビリティとヤマニンサンバはレースの前半はキラーアビリティが外,ヤマニンサンバが内の8番手あたりを並走。先頭からは6馬身くらい。レースの後半にかけて馬群が凝縮していき,キラーアビリティが7番手の内,ヤマニンサンバは後方2番手まで下がりました。馬群がばらけないまま直線に向かったので,キラーアビリティは開いたところを突こうとしましたが,伸びを欠いて8着。位置が下がったヤマニンサンバは外に出されて伸び6着でした。
 このレースは昨年のネオムターフカップを勝った馬が勝ったのですが,そのときはキラーアビリティが2着でした。したがってレースのレベルとしては通用の余地があったわけですが,力を十分に発揮することができなかったということでしょう。レースのレベルは年によって変動すると思いますが,どの程度の能力がある馬なら通用するレースであるのかということは分かったと思いますので,あとはそこで力を発揮できるのかどうかということになるのではないでしょうか。

 各人は自然状態status naturalisにおいては自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の権利jusの下にあるといった後で,人間の自然権jus naturaeは,それが単に個人のものであり,個人の力potentiaによって決定される間は無に等しいのであり,現実においてよりは空想においてのみあるとスピノザはいっています。この点は分かりにくいところが含まれているかもしれませんので,詳しく説明することにします。
                            
 スピノザは自然権というのを力と等置するわけですから,個人の力と個人の自然権を等置していることについてはそれ以上の説明は不要でしょう。一方,自然状態においては自然権は空想上の産物であり,現実的には無に等しいといっているのは,自然状態においては各人は力を実質的には有していないという意味になりますから,不思議に思えるのではないでしょうか。実際にスピノザは書簡五十では,自然状態における自然権を共同社会状態status civilisにおいてもそっくりそのまま残しているといっているのですから,自然状態における力を共同社会状態においても残していると解する必要があり,これでみればスピノザは『国家論Tractatus Politicus』と書簡五十で矛盾したことをいっているように思えます。このふたつの言説がどうして両立し得るのでしょうか。
 留意しておくべきことは,スピノザは力というのを現実的なものとしてのみみなし,可能的なものとしてはみないということです。つまり,たとえばある人間は何かをなし得るとしても,実際にそれをなしているからそれは力といわれるのであって,単にそれをなし得る,分かりやすいいい方をすれば,なそうと思えばなせるけれどもなしていないという場合には,スピノザはそれを力とはいわないのです。このブログで何度か示した実例でいえば,人間は理性的に考えるconcipere力がありますが,それは実際に理性ratioを用いて能動的に考えている場合にそのようにいわれるのであって,ある人間が受動感情に捉われているときには,その人間に理性によって考える力はあるとはいわれないのです。
 このことがこの場合にも適用されることになります。つまり自然状態において人間にある力があるといわれるのは,その人間が現に何かをなしているという場合だけなのです。
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