スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天龍の雑感㉒&スピノザとステノ

2024-12-02 19:10:41 | NOAH
 天龍の雑感㉑の続きです。
 天龍とジャンボ・鶴田は,1990年4月19日に横浜文化体育館でシングルマッチを行いました。この試合が天龍の全日本での最後の試合となり,SWSに移籍しています。この試合の前のことはいろいろな仕方で語られているのですが,僕は概ね以下のようなことがあったのだと推定しています。
 鶴田と天龍はこの当時,何度もシングルマッチを行っていました。そこでこの日の試合については,今までにはなかったような試合をしたいと天龍は考え,流血を伴なうような試合にしたいと思ったので,鶴田の了解を得るために,レフェリーであった和田京平を通してその旨を鶴田に伝えました。ところが鶴田はそのような試合にはしたくなかったので,それを断りました。和田にそれを伝えられた天龍は,その試合に対するやる気を失ってしまいました。この試合は鶴田が勝っているのですが,鶴田と天龍のシングルマッチとしては凡戦の部類に入ります。
 このことが天龍の全日本プロレスの離脱に直接的に影響したというようには僕は考えていません。たぶんSWSからの話はこの試合よりも前に天龍に届いていたと僕は推測しているからです。ただもしも鶴田が天龍の呼び掛けに応じ,天龍が満足できる試合内容で勝っていたら,全日本を退団することが困難になっていたかもしれません。
 鶴田が天龍の呼び掛けに応じなかったのは,天龍自身が推測しているように,すでにこの時点で鶴田は自身が肝炎のキャリアであるということを知っていたからかもしれません。鶴田がそれを知ったのは,長州力との初めてのシングルマッチが鶴田の負傷により流れ,そのときの詳しい検査によるものだったようですが,それが発見されたということは,たぶん馬場は知っていたのではないかと思いますが,ほかの選手には伏せられていました。なのでこのとき以降,鶴田は流血を伴なうような試合をすることは避けていたようです。これは万が一そうした試合によって相手にキャリアが感染するのを防ぐための鶴田の配慮だったと思われます。

 ステノNicola Stenoは1661年から1663年にかけて,ライデン大学に滞在していました。オルデンブルクHeinrich Ordenburgがスピノザを訪ねたのは1661年のことで,このときスピノザはレインスブルフRijnsburgにいたことになります。レインスブルフはライデンLeidenの郊外ですから,ステノとスピノザが友人になったのは,この時期のことであったと推定されます。
                            
 レインスブルフでスピノザが住んでいたのは,コレギアント派collegiantenであったヘルマン・ホーマンHermann Homanの家です。スピノザはこの家にカセアリウスJohannes Caseariusを寄宿させ,デカルトRené Descartesの哲学を講義しました。カセアリウスはライデン大学の学生であったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。後にこの講義がまとめられて『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』として出版されるのですが,この出版が1663年です。ですからこの時代にライデン大学に滞在していた人,というのは教授も学生も含めてということですが,その中にはスピノザと知己だった人が少なくないと思われます。ナドラーSteven Nadlerは,スピノザはライデン大学の関係者であったわけではないけれど,講義のいくつかを聴講していたと推定していますから,もしそれが事実であれば,ライデン大学に滞在していたステノとスピノザが友人になることも不自然ではないでしょう。
 もっともこれは友人となる契機のことであって,スピノザがステノと友人であったということは歴史的事実として確定させることができます。スピノザがアルベルトAlbert Burghに宛てた書簡七十六の中で,かつてアルベルトとスピノザがステノについて語り合ったとされていて,このふたりがステノについて語り合うことができたのは,ステノがふたりにとっての共通の知人であったからにほかなりません。また,書簡六十七の二においては,ステノがスピノザのことを,かつて私ときわめて親しかったし,今でも疎遠ではないと思う方,と表現しています。この書簡はスピノザのことを論難することを意図したもので,そうしたものの中でわざわざこのようにステノがいっているのですから,スピノザとステノが親しい友人であったことについては疑う必要がないと思います。
 ステノは以前に親しかっただけでなく,今でも疎遠ではないといっています。
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チャンピオンズカップ&ステノ

2024-12-01 19:12:22 | 中央競馬
 大井から1頭が遠征してきた第25回チャンピオンズカップ
 ミックファイアは発馬で立ち上がり1馬身の不利。逃げたのはレモンポップで2番手にミトノオー。2馬身差でクラウンプライドとペプチドナイル。3馬身差でハギノアレグリアスとペイシャエスとグロリアムンディ。8番手はドゥラエレーデとウィルソンテソーロとスレイマンとサンライズジパング。12番手にテーオードレフォンとセラフィックコールとガイアフォース。2馬身差でアーテルアストレア。最後尾にミックファイアという隊列。最初の800mは48秒2のハイペース。
 逃げたレモンポップのリードは1馬身で直線に。ここで外からペプチドナイルが進出してきて単独の2番手に上がったのですが,レモンポップとの差は開いてしまいました。大外からウィルソンテソーロが伸びてきてペプチドナイルを差し,単独の2番手に上がってフィニッシュに向かってレモンポップを追い詰めましたが僅かに届かず,一杯に逃げ切ったレモンポップが優勝。ウィルソンテソーロがハナ差で2着。直線で一番内を突いたドゥラエレーデが1馬身半差の3着。ドゥラエレーデとペプチドナイルの間に進路を取ったハギノアレグリアスが4分の3馬身差の4着でペプチドナイルがハナ差で5着。
 優勝したレモンポップ南部杯以来のレースで大レース6勝目。第24回からのチャンピオンズカップ連覇。このメンバーでは能力が上ですので,優勝自体は順当なもの。逃げを身上とする馬なので,ペース次第で着差が開いたり縮まったりますが,やや厳しめのペースでも勝ちを譲らないのは能力の証明といえます。着差は変じたものの上位の3頭は昨年と同じですから,この路線は今年はそれほど勢力図に変化がなかったということになるでしょう。この馬はこれで現役を引退します。
 騎乗した坂井瑠星騎手は南部杯以来の大レース12勝目。チャンピオンズカップは連覇で2勝目。管理している田中博康調教師は南部杯以来の大レース6勝目。チャンピオンズカップは連覇で2勝目。

 この講義の中で吉田はステノNicola Stenoについては多くを語っています。これがステノの経歴と大きく関係していますので,これまでより詳しくそれを説明しておきます。
                            
 ステノは1638年にデンマークで産まれました。スピノザは1632年産まれですから,スピノザよりは6つ年下になります。元々はプロテスタントのルター派で,これはコレルスJohannes Colerusと同じです。スペイクの一家はその説教を聞きにいっていたのですから,おそらくルター派の信者だったのでしょう。オランダで優勢だったのは同じプロテスタントでもカルヴァン派ですから,ルター派は少数派であったと推測されます。
 ステノの前半生は自然科学の研究者です。オランダに来て医学や解剖学を学びました。人間の耳下腺の研究でも後世に名を残しています。耳下腺と口を繋ぐ管,かつて僕の唾石ができた部分と思いますが,この管はステノン管といいます。名前の由来がステノです。
 科学史的な観点から大きく注目されているのはこちらではなく,地質学の研究だとされています。ステノはオランダを離れてイタリアに移ったのですが,地質学の研究はイタリアに移ってから始めたようです。その研究の成果は『固い地面の中に自然に含まれている固い物体についての先駆的論考De solido intra solidum naturaliter contento dissertationis prodromus』という本にまとめられました。この本はスピノザの死後に作成された蔵書録の中に残されていました。またステノの処女作だった『解剖学的所見集Observationes anatomicae』も蔵書録の中にありました。後者は1662年に出されたもので,このときはステノはオランダにいました。なのでステノが直接スピノザに渡したものだったかもしれません。前者は1669年のもので,これはステノがイタリアにいたときのものです。スピノザがどういう本を好んで求めていたかは分かりませんが,たぶんステノの方からスピノザに送ったものだったのではないかと思われます。つまりスピノザとステノは友人だったのです。
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