スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
北海道から3頭が遠征してきた第48回東京2歳優駿牝馬 。
発馬後の加速が抜群だったバイアホーンの逃げ。それをエスカティアとヴィルミーキスミーが追っていきました。2馬身差でゼロアワーとプラウドフレールとエイシンマジョリカ。3馬身差でドナギニー。ウィルシャインとランベリーが併走で続き3馬身差でアメストリスとイイデマイヒメとエイシンナデシコ。2馬身差でオリコウデレガンス。2馬身差でクレイジーフルーツ。3馬身差の最後尾にヨルノチョウと縦長の展開。前半の800mは49秒6のハイペース。
逃げたバイアホーンは3コーナーで一杯になりずるずると後退。エスカティアが先頭に立ち2番手にエイシンマジョリカ。内を回ったゼロアワーは4コーナーでエイシンマジョリカの外に出てきました。内目からはドナギニーとプラウドフレールが伸びてきて,横に大きく広がっての競り合い。そこから抜け出たのはプラウドフレールとゼロアワー。内のプラウドフレールが制して優勝。ゼロアワーが1馬身4分の1差で2着。エイシンマジョリカが2馬身差で3着。
優勝したプラウドフレール は南関東重賞初制覇。デビューから連勝した後,3戦目は大敗。前走のローレル賞で3着と巻き返していました。このレースは各馬のコース取りが内外に広がった中で,外に出さずに伸びてこられた分の利がありましたので,2着馬に対して力量上位かどうかは分かりません。戦績からみても圧倒的な存在というわけではないと思います。母の父はネオユニヴァース 。4つ上の半兄が昨年 と今年 のフジノウェーブ記念を連覇している現役のギャルダル でひとつ上の半姉が昨年のローレル賞 を勝っている現役のミスカッレーラ 。Fleurはフランス語で花。
騎乗した船橋の張田昂騎手は昨年のゴールドジュニア 以来の南関東重賞7勝目。東京2歳優駿牝馬は初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞35勝目。東京2歳優駿牝馬は初勝利。
不確実な事柄から出発するということはできないので,デカルト René Descartesは方法論的懐疑 doute méthodiqueを採用します。それが本当であるかを疑うことができるのなら,そのものについてはすべて疑ってみるという方法です。吉田はこの方法をデカルトは提唱したといういい方をしていますが,提唱というと他者に対してそれを推奨するという意味合いが強く含まれるように僕には感じられますので,僕はそのようにはいいません。デカルトは確実なものに辿り着くための方法として,疑い得るものはすべてを疑うという方法を採用したといいます。つまり方法論的懐疑はデカルトが自身に課した方法であると僕は思っています。
自身の意識conscientiaのうちに浮かんでくるものを,方法論的懐疑の視線でみていけば,ほとんどのことは疑おうと思えば疑うことができます。このことは各人が反省的にこの方法を採用すれば,経験的に理解できることだと思います。たとえば人間は簡単に錯覚してしまうような生き物ですから,感覚sensusを通して入ってくるものについてはそのすべてを疑うことができるでしょう。また,論理的思考にいくら長じていたとしても,思考の過程で誤りerrorを犯すということはあり得るわけですから,この種の推理や推論も疑うことができることになります。さらにいうと,人間は夢を見る生き物ですから,何らかの行動をしていると思っても実際はベッドの中で眠っているという場合もあるわけですから,自身の思っていることや考えていることのほとんどすべては,あてにならないと疑うことができることになります。このように,すべてを疑おうとすればいくらでも疑うことができるのであって,この方法はきりがないといっていいくらいかもしれません。
では,自身が意識しているすべてのことを疑えるのだから,本当に確実だといえることは何もないことになってしまうのでしょうか。そこで実際に確実なことはないのだと断定してしまえば,これは方法論的懐疑ではなく単なる懐疑論です。デカルトはこの懐疑論には傾きません。錯覚をするとか論理的に誤るとか夢を現実だと思ってしまうといったことは人間にはあるとしても,それがすべて自身の考えであるということは変わりはありません。
第18回東京シンデレラマイル 。カツノナノリが出走取消となって15頭。
隊列が決まるまでにやや時間を要しましたが,逃げたのはツーシャドーとなり2番手にフェブランシェで3番手にミスカッレーラとローリエフレイバー。1馬身半差でプリンセスアリーとカラフルキューブ。7番手にミルニュイ。8番手にスピーディキック。9番手にシャンブル。2馬身差でマーブルマカロンとメイドイットマムとカセノダンサー。13番手にサーフズアップでグレースルビーとフェルディナンドが最後尾を併走。前半の800mは49秒6のミドルペース。
3コーナーでフェブランシェと3番手の間が2馬身くらいに開くと,コーナーの中途でフェブランシェがツーシャドーの前に出ました。2番手はツーシャドー,ミスカッレーラ,ミルニュイ,スピーディキックの4頭が併走で直線に。先頭に立っていたフェブランシェはそのまま後ろとの差を広げていって圧勝。4頭の競り合いからはスピーディキックが2番手に上がりましたが,内目の馬群を割って追い込んだマーブルマカロンが差して5馬身差の2着。スピーディキックが半馬身差の3着で大外から脚を伸ばしたシャンブルが半馬身差で4着。
優勝したフェブランシェ はここが南関東転入初戦での南関東重賞制覇。3走前に2勝クラスを勝ち,前々走で3勝クラスで3着になっていましたから,牝馬の南関東重賞では実績上位といっていいくらいの馬。大井コースも苦にしなかったことでの圧勝になりました。牝馬相手なら重賞でも通用すると思いますが,今日のレースからすると距離が延びるのはプラスにはならないように思います。父はリアルスティール 。母の父はクロフネ 。4つ上の半姉が2019年の紫苑ステークスを勝ったパッシングスルー でふたつ上の半姉が昨年の中山牝馬ステークスを勝ったスルーセブンシーズ 。Fee Blancheはフランス語で白い妖精。
騎乗した高知で騎乗中の吉原寛人騎手 は船橋記念 以来の南関東重賞38勝目。東京シンデレラマイルは初勝利。管理することになった大井の藤田輝信調教師は南関東重賞28勝目。東京シンデレラマイルは初勝利。
『スピノザ 人間の自由の哲学 』の第一〇回で,哲学あるいは神学における主意主義と主知主義の対立と,この対立という観点からみた場合のスピノザの哲学という内容が講義されています。こうしたテーマはこれまでに僕は立てたことはありませんので,ここ吉田の講義を詳しく振り返りつつ,僕の考え方も合わせて示していくことにします。
スピノザの哲学がこのテーマと関連していくのは,スピノザの哲学がデカルト René Descartesの哲学から影響を受けていることと関係します。ここでいう影響というのは,スピノザがデカルトの見解opinioに同意する場合も反対する場合も含みます。スピノザの哲学の中には当然ながらスピノザに独自の見解というものがあるわけですが,その独自の見解の中にも,デカルトの影響を受けたものというのがあるのであって,単純にいっても,スピノザがデカルトの見解に不備があると考え,その不備を乗り越えるためにデカルトとは異なった見解を示したとすれば,それはデカルトと異なったスピノザに独自の見解であることになりますが,デカルトの影響を受けた見解であるということになるでしょう。吉田がいっているように,デカルトの哲学は考えるconcipere私というのが前面に出て,スピノザの哲学ではそもそも私ということが語られること自体がきわめて少ないので,一見するとその間には何の関係もないようにみえるかもしれないのですが,このこと自体のうちにも,スピノザがデカルトから受けた影響が含まれているといえるのです。
したがってまずデカルトの哲学から始めなければなりません。デカルトの方法論はよく知られているように,またこのブログでも何度かいっているように,とりあえず疑い得るもの,デカルトが疑い得ると思ったものについてすべてを疑うということから始めます。これはデカルトが,何が真理veritasで何が虚偽falsitasであるのかということを訴求するのが哲学であると考えているからです。とはいえ,あるものについてそれが絶対に確実であるということができなければ,真理を訴求することはできません。不確実な事柄を哲学の出発点として措定してしまえば,そこから思考を進めていっても不確実な事柄だけが導出されるからです。
第70回東京大賞典 。
好発はフォーエバーヤング。外からクラウンプライドが追い掛けていくと譲り,クラウンプライドの逃げに。控えたフォーエバーヤングが2番手。2馬身差でウィルソンテソーロとグランブリッジ。その後ろにデルマソトガケとグランデマーレ。さらにラムジェットとサヨノネイチヤとウシュバテソーロ。キングオブザナイルは10馬身ほど離されました。向正面の入口でクラウンプライドのリードが3馬身くらいに。内からラムジェットが進出してグランブリッジと並んでの3番手となり,ウィルソンテソーロはその2頭の後ろに。前半の1000mは63秒0の超スローペース。
3コーナーでクラウンプライドのリードは1馬身くらいに。外から押してフォーエバーヤングが追い上げていき,さらに外からグランブリッジ。直線に入るまでクラウンプライドは頑張りましたが,外からフォーエバーヤングが先頭に立つと内からラムジェットが追い上げて2番手。勝ち馬を追うようにウィルソンテソーロも追ってきましたが,フォーエバーヤングが2頭の追撃を許さずに優勝。外のウィルソンテソーロが1馬身4分の3差で2着。ラムジェットがクビ差で3着。
優勝したフォーエバーヤング はジャパンダートクラシック 以来の勝利で大レース3勝目。今年はチャンピオンズカップよりもメンバーのレベルが高くなりましたが,現3歳馬はレベルが高い上に,古馬との対戦も前走で経験していましたから,勝てるのではないかとみていました。1キロの斤量差があったとはいえこれが能力の差とみてよく,ダートでは日本でトップに立っているのは間違いないと思います。世界を駆け巡って大きく崩れないのは肉体的にも精神的にもタフな証明で,その点も特筆に値するでしょう。父はリアルスティール 。3代母がローミンレイチェル でひとつ下の半妹が今年のアルテミスステークスを勝っている現役のブラウンラチェット 。
騎乗した坂井瑠星騎手はチャンピオンズカップ 以来の大レース13勝目。東京大賞典は初勝利。管理している矢作芳人調教師 はジャパンダートクラシック以来の大レース27勝目。東京大賞典は初勝利。
ステノ Nicola Stenoの地層学の革新性,というのは当時にとっての革新性ですが,これは各々の地層の均一性および異質性を比較することによって,その地層が形成された年代を把握するという点にありました。これはちょうど,聖書の各部分の執筆時期および編纂時期を確定させ,そのことによってそこに書かれていることの意味を確定させようとするスピノザの方法に類似しているといえるでしょう。そしてこのスピノザの文献学的方法が現代の聖書解釈学にも通用する内容を有しているのと同じように,ステノの方法も,現代の地層学に通用する内容をもっているのです。ただステノはその方法を用いても,5700年という年数に縛られていましたから,そこから正しい答えを導き出すことができなかっただけです。
高地から海の生物,たとえば魚や貝の化石が発見されるということがあるのはなぜかということは,僕たちには答えを導き出すことができますが,ステノの時代にはそうであったわけではありません。そしてステノが発見した方法は,その答えを正しく導き出すのに役立つことになります。ですからステノ自身の研究がゆくゆくは行き詰まったであろうということは確かだと僕も思いますが,ステノの研究が方法論としてはきわめて優秀であったということは,僕は否定し難い事実であると思います。
ステノとスピノザが類似した方法論を採用したということは,偶然であったかもしれませんが,何らかの関係があったとみることもできないわけではありません。少なくともステノとスピノザは,ステノがオランダにいた時代には親しく交際していたわけで,その当時のスピノザがこうした方法論についてステノに語ったことがあったかもしれません。後に地質学の研究を開始したステノが,そのスピノザが語ったことをヒントとして,地質学の研究にそれを生かしたのかもしれません。ステノの先駆的論考が出版されたのは1669年ですから,その内容が『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』から直接の影響なりヒントを得たなりしたことはありませんが,ステノがスピノザから方法論に関してヒントを得ていたという可能性は,完全には否定できないのです。
この部分はここまでです。
第41回ホープフルステークス 。
逃げたのはジュンアサヒソラ。外目から勢いをつけて出ていったので3馬身くらいのリードを取ることになりました。2番手にはジェットマグナム。2馬身差でショウナンマクベスとピコチャンブラック。2馬身差でクラウディアイとマジックサンズ。この後ろにアスクシュタインとクロワデュノール。さらにレーヴドロペラとヤマニンブークリエ。マスカレードボールとアマキヒが続きデルアヴァー。リアライズオーラムがいてファウストラーゼンは向正面で外を一気に進出していったので,アリオーンスマイルが最後尾に。前半の1000mは61秒4の超スローペース。
向正面で捲っていったファウストラーゼンは先頭まで出ようとしましたが逃げたジュンアサヒソラは応戦。3コーナーではこの2頭と3番手との間に3馬身くらいの差。2頭は併走でコーナーを回り,この間に外のファウストラーゼンの方が前に。コーナーで3番手まで上がっていたクロワデュノールがファウストラーゼンを差して先頭に立つとそのまま抜け出して優勝。直線で勝ち馬を追うように坂上から伸びてきたジョバンニが2馬身差で2着。ファウストラーゼンが1馬身4分の1差で3着。
優勝したクロワデュノール は東京スポーツ杯2歳ステークスに続いて重賞連勝。デビューから3連勝で大レース制覇。2歳のレースですから初対戦となる馬が多かったのですが,このレースは新馬,東京スポーツ杯2歳ステークスと連勝してきた馬は堅調で,今年もそのような結果に。早めに外の方に出して前の動向をうかがい,楽に進出して抜け出すというのは非常に強い内容でしたから,来年のクラシック候補といえそうです。父はキタサンブラック 。Croix du Nordはフランス語で北十字星。
騎乗した北村友一騎手は2020年の有馬記念 以来の大レース8勝目。ホープフルステークスは初勝利。管理している斉藤崇史調教師は一昨年のエリザベス女王杯 以来の大レース9勝目。第38回 以来となる3年ぶりのホープフルステークス2勝目。
著名なところでいえばケプラーJohannes Keplerは自身の自然科学研究が聖書の真理veritasの正当性に役立つという前提で天文学の研究をしていました。ケプラーの法則は現代でも成立する法則であって,そのような心構えで研究すれば自然科学において現代にも通用する大きな成果をあげることはできないというわけではないということは,この事例から理解できると思います。ステノ Nicola Stenoが研究したのは地質学であったために,聖書の記述とは正面から対立することになってしまったのですが,これはあくまでも結果effectusなのであって,ステノの心構えが,聖書の正当性を証明しようということにあったということと直接的に関係するわけではありません。したがって,カトリックに執心していたということと,ステノの研究が行き詰まってしまうこととの間には,個別の事例でいえば必然性necessitasがあったかもしれませんが,一般論としていえばその間に必然性があったというようには僕は考えません。
次に,聖書における時間tempusには至るところで矛盾が生じていると『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』で指摘されていると吉田はいっていますが,この結論は,スピノザによる聖書解釈学がこの時代としては画期的なものであったがゆえに結論された事柄に含まれます。スピノザの聖書解釈学は,少なくとも方法論としては現代にも通用するものであって,この方法論というのがこの時代としてはきわめて画期的なものでした。このことについてはここで説明するような内容ではないので,いずれ機会があれば詳しく検討しますが,簡単にいうとスピノザは聖書をひとつの文献として精査し,その文献のどの部分がどの時代に編纂されたものであるのかということを検討することによって,そこに書かれていることの意味内容がどのようなものでなければならないのかということを検証していきます。簡単な説明ですが,これが『神学・政治論』にみられる聖書解釈の方法論であると理解してください。
吉田はこのことを,5700年という時間に縛られたステノと関連させて説明していますが,この方法論の部分だけを抽出してみると,ステノの地質学の方法論は,スピノザの方法論と一致する部分があるとみることができるのです。
『なぜ漱石は終わらないのか 』の第十三章は『道草』がテーマに設定されています。この『道草』は自伝的小説のような内容なのですが,その中から,作家が小説を書く目的が読解されています。
『道草』の主人公は健三といい,この健三のモチーフは漱石自身です。健三は留学からの帰国後に大学で教員をしています。家で試験の採点をするために赤ペンを使っているのですが,この赤ペンを普通のペンに持ち替えて,かつて養子に出ていた家の島田から半ば脅迫のように支払いを迫られた100円を稼ぎ出すというシーンがあります。小森はこの部分は,職業作家としての夏目漱石 が誕生する物語であると指摘しています。
これでみれば分かるように,『道草』で語られているのは,健三すなわち漱石が職業作家になっていくのは金のためであるということが語られている小説なのだと石原もいっています。芸術のためなのではなくて金のためなのであって,それが現実であるということなのです。
その部分で石原も指摘していますが,ドストエフスキー もルーレット で負けた借金の返済のために小説を書くということがあったのであって,それは芸術がどうこういうよりも,身の切迫に迫られて,書かざるを得なかったから書いたわけです。漱石は賭博で借金をするというようなことはありませんでしたが,状況としてはそれと同じようなことがあったのであって,とにかく金を稼ぐ必要があったから小説を書いたのだといわれています。
金のために書くというのは芸術のために書くということと比較するといかにも不純な動機であるようにみえるかもしれません。しかし芸術のために書いたから優れた作品が産出され,金のために書いたのでは作品の質が落ちてしまうのかといえば,必ずしもそうであるわけではありません。そのことはドストエフスキーや漱石が身をもって証明しているといえるのではないでしょうか。金のために必死に書いた作品から,きわめて優れた芸術作品が生まれるということもあるのです。
この二者択一を迫られたなら,ステノ Nicola Stenoは喜んで自然科学の研究を断念し,カトリックの普及に努めることになったと推測されます。なのでステノが地層学の研究から離れたのは必然であったと吉田はいっているのですし,もしかしたらステノはそうした予兆を感じていたから,地層学の研究を続けることを断念したのかもしれないと僕は思います。これは確かに,聖書の記述と自然科学の研究を両立させようとすることに伴う困難なのであって,そうした限界がステノにあったということについては,僕は吉田の見解opinioに同意します。しかし吉田のこの部分の講義内容は,ステノの研究成果については全面的に否定しているようにみえますし,聖書の記述と自然科学の研究を両立させようとすれば限界を迎えるということについても,ステノの個別の事例としてではなく,一般的な事例として説明されているようにみえます。このふたつの点については,吉田は意図しているというわけではないかもしれませんが,補充の説明が必要だと僕は思います。
すでにブルーノGiordano BrunoおよびガリレイGalileo Galileiの例でいっておいたように,この時代のカトリックの権威は絶大でしたから,自然科学の研究成果が宗教裁判にかけられるという事例はいくつもありました。しかし自然科学を研究しようと志す研究者が,聖書の誤りerrorを正そうとして研究に没頭し,その結果effectusとして宗教裁判の被告になったというように考えなければいけないわけではありません。むしろ科学者は科学者個人の探究心によって自然研究に励んだのであり,その結果として聖書の記述に反するような研究結果が出ることになったというようにみるべきだと僕は思います。しかしステノの場合にはたぶんそうではなかったのであって,むしろ地層学を研究することによって,聖書の記述の正しさを証明しようという意図を最初からもっていたのではないかと僕は推測します。
こうした研究態度がステノに独自のものであったなら,吉田のステノに対する批判はそのまま妥当するといわなければなりません。しかし僕の見解ではそういうわけではなくて,まず聖書の記述の正しさを証明するということを目的finisとした研究者はほかにもいたと思うのです。
24日に放映された第32回銀河戦 の決勝。対局日は9月27日で対戦成績は丸山忠久銀河が2勝,藤井聡太竜王・名人が1勝。
藤井竜王・名人の先手で丸山銀河の一手損角換り 1-Ⅰ。相腰掛銀の将棋になり,猛スピードで進みました。途中で互いに手損を繰り返したので,通常の角換り相腰掛銀でも出現する将棋に。
ここで先手は☗9一飛成と香車を取りました。これは☗4三香を狙った手ですが,その手自体がそれほど厳しくないので後手は☖8八歩と攻め合いに転じました。先手は☗同銀と取ったのですが☖4五角と打つ手が厳しく,後手の勝勢になりました。
図の局面で攻め合うのならすぐに☗4三角と打ち込んでしまうのがよかったようです。また☖8八歩には☗同金と取る方が粘れました。
丸山銀河が優勝。実際の対局日は後ですが,放映日の関係で今期の達人戦以来となる15回目の棋戦優勝。銀河戦は昨年 からの連覇で2度目の優勝となりました。
吉田によればステノ は最初の先駆的論考において,自身の地質学の研究と,聖書の記述をすり合わせるために苦心しているそうです。この論考が出版されたのは1669年で,このときにはステノはカトリックに改宗していたのは間違いありません。ステノは熱心なカトリックの信者でしたから,カトリック信者の立場からそのように苦心するのは,ステノとしては当然のことであったでしょう。
この当時,年数に関連する聖書の中の記述を合算すると,おおよそ天地創造から5700年ほどだとされていて,これは定説のようなものになっていました。そこでステノは先駆的論考の中で,地球の表面を覆っている地層が,5700年という時間のうちにできあがったことにしようとしています。
しかし5700年という年数に縛られたまま地層学の研究を継続していたら,その研究はすぐに行き詰まりを迎えていたことでしょう。地道に地層学の研究を続けていけば,地球の姿が5700年などという短い時間ではなく,もっと長大な時間をかけて成立したであろうということは,ステノにも分かってくる筈だからです。というか,吉田はすでに先駆的論考の中で聖書の記述に一致させようと苦心しているといっているのですから,そのことにはステノはすでに気付いていたとみてよいように僕には思えます。
聖書に記述されている時間については,至るところで破綻しているということは,『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』の中でスピノザが指摘しています。したがってスピノザは,地層学的な見地を何かもっていたというわけではないのですが,天地創造から5700年という説については否定していたことになります。もっともスピノザは,神Deusを永遠aeternumと考えているわけであって,自然Naturaが,とくに能産的自然Natura Naturansについては時間tempusには縛られない,いい換えれば持続するdurareものではないとみているので,天地が創造されたということ自体を否定しているとみるのが,この場合の解釈としては妥当でしょう。
それはともかく,ステノが地層学の研究を続けていれば,聖書の前提にしがみついて研究を断念するか,研究を尊重して聖書に限界を認めるかの,二者択一を迫られることになったでしょう。
第24回兵庫ゴールドトロフィー 。
発馬後に飛び出していったのは4頭。エートラックスの逃げになり,ヘリオスが2番手。スペシャルエックスが3番手で挟まれる不利があったラプタスは4番手。マックスとサイレンスタイムは併走になり7番手にアラジンバローズ。8番手がエコロクラージュで9番手にフォーヴィスム。ギガースとパワーブローキングが併走で2馬身差の最後尾にサンライズホークで発馬後の正面を通過。向正面にかけて外に出されたラプタスが3番手に上がりスペシャルエックスが4番手に。前の8頭と後ろの4頭の差が大きく開きました。ミドルペース。
前の馬の中で頑張ったのは逃げたエートラックスとラプタス。向正面で最後尾から動いたサンライズホークとそれに合わせたフォーヴィスムの2頭が外から捲り上げてきて,この4頭が並ぶように直線に。追い上げてきた2頭が並んで逃げたエートラックスを差すとそのまま競り合ってフィニッシュ。写真判定で優勝はフォーヴィスム。サンライズホークがハナ差で2着。逃げたエートラックスが5馬身差の3着で内を回ったスペシャルエックスが4分の3馬身差で4着。優勝争いを演じた2頭の後から追い込んできたギガースがアタマ差で5着。
優勝したフォーヴィスム はスパーキングサマーカップ 以来の勝利で重賞は初挑戦での優勝。南関東転入後は1600mをずっと使っていたのですが,JRA時代の2勝クラスと3勝クラスは1400mで勝っていて,この距離の方がよかったのでしょう。兵庫まで遠征して重賞を制覇したのは評価に値するところ。斤量差があったとはいえこの距離の重賞は多くありますから,メンバー次第でまた優勝も見込めるのではないでしょうか。父はドゥラメンテ 。
騎乗したのは現在は高知で騎乗している吉原寛人騎手 で川崎記念 以来の重賞9勝目。兵庫ゴールドトロフィーは初勝利。管理している川崎の内田勝義調教師は川崎記念以来の重賞2勝目。
吉田はこの後で,ステノ Nicola Stenoが自然科学の研究から身を引いてカトリックの布教に専念したのは必然で,それを,聖書宗教としてのカトリックあるいはキリスト教に入れ上げてしまったことと関連して説明しています。僕はこの点については吉田の説明に全面的には同意しませんが,僕の見解opinioは後に説明することにして,ここでは吉田がいっていることをまずみておくことにします。
先述しておいたようにステノは1669年に『固い地面の中に自然にふくまれている固い物体についての先駆的論考De solido intra splidum naturaliter contento dissertationis prodromus』という地質学の知見を書物としてまとめています。これは化石と地層に焦点を当てた論考で,おそらくステノがスピノザにも献本したので,スピノザの死後に蔵書として残されていました。1669年には間違いなくステノはカトリックに改宗しています。つまりこれはカトリック信者としてのステノが書いた論考です。
自然科学の研究と,その研究者が信仰する宗教religioは無関係のように思えます。ただそれは現代的な僕たちの視点からそう見えるというだけであって,ステノが論考を書いている時代は必ずしもそうではありませんでした。これは,この時代の自然科学の研究によって,その研究の成果が宗教裁判の対象になり得たということから明白でしょう。ブルーノGiordano Brunoは研究の内容を問われて火炙りの刑に処せられましたし,ガリレイGalileo Galileiも,改心したと認められたので重刑には処されませんでしたが,裁判にはかけられています。ブルーノとかガリレイというのは,必ずしも深い信仰心をもって自然科学を研究したというわけではなかったといえますが,当然ながらその逆のパターンもあるのであって,自然科学を研究することによって聖書に示されている知見の正しさを証明しようとした自然科学者も存在したわけです。なので自然科学の研究と研究者が信仰する宗教というのは,この時代には分かち難く結びついている場合もあるのであって,ステノもそうでした。つまりステノの地層学の研究というのは,単に学問としての地層学について先駆的な所見を論考するということだけを目的finisとしていたわけではなくて,その研究によって聖書の正しさを証明するという目的もあったのです。
第62回ゴールドカップ 。オメガレインボーは野畑騎手から笹川騎手に変更。
一旦はシーサーベントが前に出ましたが外から追い抜いたエンテレケイアの逃げ。シーザーベント,スマイルウィ,アウストロの3頭が並んで追い,5番手にサヨノグローリー。2馬身差でカジノフォンテンが続きその後ろにオメガレインボーとティアラフォーカス。4馬身差でビヨンドボーダーズ。最後尾にグレートジャーニー。向正面に入って2番手以下はシーサーベント,スマイルウィ,アウストロの順になり,内からサヨノグローリーが5番手に。最初の600mは36秒5のミドルペース。
3コーナーでエンテレケイアのリードは1馬身。その後ろが再びシーサーベント,スマイルウィ,アウストロで併走となり,サヨノグローリーはここも内を回りました。直線に入ってエンテレケイアがコーナーワークで再びリードを広げたのですが,3頭併走の大外から伸びたアウストロが差し切って優勝。逃げ粘ったエンテレケイアがクビ差で2着。内から差したサヨノグローリーが1馬身差で3着。
優勝したアウストロ は南関東重賞初挑戦での勝利。昨年10月から軌道に乗り,それ以降は8戦して6勝,2着2回。ここ2走は浦和のA2クラスを連勝していました。このレースは速力で上回るエンテレケイアを力でスマイルウィが捻じ伏せられるのかが最大の焦点。エンテレケイアは持ち前のスピードでスマイルウィは封じたのですが,その後ろから差してきたアウストロに屈するという形になりました。スマイルウィの後ろからレースを進められた展開面の利がありましたし,コース適性の利もあったなど,恵まれたところがあったのも確かだと思いますが,負かした馬たちが強い上にまだ4歳馬ですから今後も楽しめる馬かもしれません。父はダノンレジェンド 。6代母がパロクサイド で3代母のひとつ下の半妹がエアグルーヴ 。
騎乗した浦和の秋元耕成騎手は益田でのデビューから25年8か月で南関東重賞初勝利。管理している浦和の小沢宏次調教師は南関東重賞2勝目。ゴールドカップは初勝利。
ステノ Nicola Stenoは1677年9月にまず上申書,それからバチカン写本 という順で異端審問の機関に提出したのですが,少なくともこの提出した時点では,ステノは自然科学の研究からは身を引いていたとされています。逆にいえば,その直前まではカトリックの普及にだけ専念していたというわけでなく,自然科学の研究にも勤しんでいたということでしょう。チルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausがイタリアに移ったのがいつであったかということが不明なのですが,もしかしたらチルンハウスとステノが初めて会ったときは,ステノはむしろ自然科学の研究の方に重きを置いていたのかもしれません。
提出の後,ステノはカトリックの司教としてドイツおよびオランダの各地を渡り歩き,プロテスタントが主流の地域で,カトリックへの再改宗を促し,また残っていたカトリックの信者たちの世話をするようになりました。この吉田の説明が正しいなら,『宮廷人と異端者 The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World 』で,スピノザが死んだときにステノとライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizが一緒に仕事をしていたというのはやはりスチュアートMatthew Stewartの創作で,史実ではなかったということになります。ただし,ステノがドイツに移ったときにライプニッツと出会い,一緒に仕事をしたことがあったということは,吉田は何も語っていませんが,歴史的事実と解釈していいようです。これについては資料が残っていて,ただその時期が確定的に書かれていないので,スチュアートはその資料を参照して,勘違いしたのかもしれません。いい換えれば意図的に創作したというわけではないのであって,資料を読み間違えただけかもしれないということです。この点はスチュアートの名誉のためにもいっておかなければなりません。
ステノは熱心に仕事に打ち込んだ影響が出たのかもしれませんが,1686年にドイツで死んでいます。このときまだ48歳でした。1988年になってから,当時のローマ教皇から列福というのを受けています。ローマカトリックでは列聖という処置があって,これは聖人に指定されるという意味です。列福というのはそのひとつ前の段階を意味するようです。したがって現在ではステノはローマカトリックの中では聖人の一歩手前となっているのです。
昨日の佐世保記念の決勝 。並びは佐々木‐末木の上甲,深谷‐渡辺の静岡,窓場‐稲川‐村田の近畿,松浦‐荒井の西国。
渡辺がスタートを取って深谷の前受け。3番手に松浦,5番手に佐々木,7番手に窓場で周回。残り3周のバックから窓場が上昇開始。コーナーで深谷に並びかけるとホームで叩きました。コーナーで外から松浦が上昇し,バックで窓場を叩いて前に。佐々木がさらに外から松浦を叩いて打鐘。ホームでは末木が佐々木との車間を開けて待機。バックから松浦が発進。末木が牽制しましたが乗り越えました。しかしこのラインの後ろにいた窓場の捲りには抵抗できず,窓場が先頭。荒井が松浦から窓場にスイッチしましたが振り切った窓場が優勝。荒井が4分の3車輪差で2着。大外から捲り追い込んだ深谷が2車身差で3着。
優勝した京都の窓場千加頼選手は4月の向日町のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは松浦と深谷の実績が上位でしたが,窓場は脚力では遜色ないところまできているので,チャンスはあるとみていました。先行になっては苦しいと思っていたのですが,捲る展開になって力を出すことができたという印象。記念競輪はこれが初優勝なのですが,ビッグを獲得してもおかしくない選手だと思っています。
この部分は吉田の記述,正確にいえば講義の内容もどことなく不確かなものとなっています。吉田によれば,ステノ Nicola Stenoは,上申書を書いている間,バチカン写本 が含んでいる毒に,たとえ偶然にでもだれかが触れてしまうことがないように,バチカン写本を肌身離さず持ち歩いていたと語っているそうです。もしステノのこのことばが,上申書を提出してからバチカン写本を提出するまでのおよそ3週間の期間を含んでいるのであれば,辻褄は合うことになります。しかしそうであるなら,ステノがどこでそのように語っているかということを問題としなければなりません。発見されたバチカン写本は発刊され,それに解説とステノの上申書が付せられているのですから,普通に考えればこれは上申書の中でステノが語っていることばだと思われます。実際にこの文章は,上申書を提出するまでの間はバチカン写本を肌身離さず持っていたというように読解できますから,上申書に書かれている内容であると解する方が自然でしょう。とすると,上申書を提出してからバチカン写本を提出するまでの3週間の期間のことはここには含まれていないということになるでしょう。もちろんその3週間の間も,ステノがバチカン写本を肌身離さず所持していたということは間違いないと僕は思いますが,なぜ上申書とバチカン写本の提出の間に3週間の期間があったのかということは謎として残ります。上申書はバチカン写本に関する説明なのですから,上申書の内容を審査するためには,資料としてバチカン写本が必要だったと僕には思えるからです。
遺稿集Opera Posthuma は同年の暮れになってからオランダで発刊されました。ローマカトリックはその遺稿集に対して異例の早さで禁書指定に動き,実際に禁書となりました。これはステノのカトリックに対する大きな功績といえるでしょう。もちろんそれはカトリックに対するという前提なのであって,自由思想家にとってはステノの動きは迷惑なものでしかなかったことは間違いありません。
吉田によれば,ステノが科学の研究から完全に身を引いたのは,この上申書およびバチカン写本を異端審問の機関に提出した1677年のことであったそうです。
グランプリの第69回有馬記念 。ドウデュースは右前脚の痛みのために歩行のバランスを欠いたので出走取消となり15頭。
発馬後に押していったべラジオオペラが前に出ましたが,内から追い抜いたダノンデサイルの逃げになり,控えたべラジオオペラは2番手に。2馬身差でスターズオンアース。4番手にディープボンド。その後ろはレガレイラとスタニングローズの併走となり,7番手にアーバンシック。その後ろはブローザホーンとジャスティンパレスとシャフリヤール。11番手にローシャムパーク。その後ろがシュトルーヴェとハヤヤッコ。14番手がプログノーシスで最後尾にダノンベルーガ。前2頭の隊列が決まったので1周目の正面に入るところで2番手と3番手の差は詰まりました。コーナーから向正面にかけてハヤヤッコが上昇していったので,3番手がディープボンド,4番手にスターズオンアースとハヤヤッコとなりました。超スローペース。
3コーナーではダノンデサイル,べラジオオペラ,ディープボンド,ハヤヤッコの4頭が雁行となり,その後ろがレガレイラとスタニングローズとシャフリヤールで併走。ディープボンドとハヤヤッコはコーナーで苦しくなり,内を回ったレガレイラが直線の入口でべラジオオペラの外に出て単独の3番手。外から捲り上げてきたシャフリヤールがレガレイラと並んで伸び,ダノンデサイルを差して競り合ったままフィニッシュ。写真判定となり優勝はレガレイラ。シャフリヤールがハナ差で2着。ダノンデサイルが1馬身半差の3着でべラジオオペラが半馬身差で4着。
優勝したレガレイラ はホープフルステークス 以来の勝利で大レース2勝目。今春は皐月賞,ダービーと牡馬のクラシック路線を走り,秋はローズステークスからエリザベス女王杯と牝馬路線に転戦。いずれもそこまで大きくは負けなかったのですが,勝ち負けというところまではいきませんでした。ここで復活ということになったのですが,昨年も暮れに大レースを制しているように,時期的なものも関係したかもしれません。父は古馬になってから活躍した馬ですから,これから大成するということもあるでしょう。父はスワーヴリチャード 。祖母の父がダンスインザダーク 。3代母がウインドインハーヘア 。従兄が今年のセントライト記念と菊花賞 を勝っている現役のアーバンシック で従姉が今年の桜花賞 を勝っている現役のステレンボッシュ 。Regaleiraはポルトガルのシントラにある宮殿。
騎乗した戸崎圭太騎手は皐月賞 以来の大レース22勝目。第59回 以来となる10年ぶりの有馬記念2勝目。管理している木村哲也調教師は秋華賞 以来の大レース12勝目。第67回 以来となる2年ぶりの有馬記念2勝目。
ステノ Nicola Stenoがバチカン写本 の一部をチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausから読ませてもらったのだとしても,その全部を最初から入手したのだとしても,難点が残ることになってしまいます。なのでその部分については僕は推測しきれません。ただ,どちらの場合にしても,バチカン写本をステノに見せてしまった後に,チルンハウスはステノはそれに値する人物ではなかったということに気付いたのだと思います。これは要するに,ステノがカトリックの熱心な信者であるということを知ったという意味です。だからチルンハウスは,スピノザの遺稿集Opera Posthuma の発刊が準備されているということについてはステノには語らなかったのだし,ましてその具体的な内容,つまり編集者がだれでありまた編集者たちがどこで作業をしているのかなどということは教えなかったのです。バチカン写本を異端審問の機関に提出したくらいですから,それが発行されるのかどうかということにもステノは関心をもった筈ですし,関心をもったならばそのことをチルンハウスに訊いた可能性が圧倒的に高いと僕は思います。それに対してチルンハウスは素知らぬふりをしたというのが僕の推測です。実際にかつてホイヘンス Christiaan Huygensから,『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』以外にスピノザが書いたものを知らないのかと尋ねられたチルンハウスは,バチカン写本を所持していたにもかかわらず『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』以外には知らないと答えたということが書簡七十 には書かれているということはすでに指摘しておいた通りですが,最初はライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizに対して抱いたのと同じような思いをステノに対して抱いていたチルンハウスは,後にはホイヘンスに対して抱いた思いを抱くようになったということです。
ステノは9月4日に上申書を異端審問所に提出したのですが,バチカン写本を提出したのは9月23日であったとされています。なぜ同日でなかったのかははっきりとした理由が分かりません。バチカン写本に関してはさらに内容の精査が必要であったとしても,すでに提出した上申書の中に,その中に含まれている思想は感染性が高い疾病のようなものであると書かれている以上,精査すること自体に何か意味があったというようには思えないからです。
第147回中山大障害 。
レースの前半はジューンベロシティの逃げ。マイネルグロン,テイエムタツマキ,ニシノデイジーの3頭がその後ろの集団。中団がダイシンクローバーとネビーイームで後方がエコロデュエルとロードトゥフェイムとヴェイルネビュラ。最初の大障害コースを各馬が飛越した後に前の4頭とその後ろに5馬身ほどの差が開きました。ここからテイエムタツマキがジューンベロシティの前に出ると,マイネルグロンが抑えきれないように追いかけていき,この2頭と3番手の差が4馬身くらいに。2度目の大障害コースを通過した後でマイネルグロンが前に出て,2番手にジューンベロシティとテイエムタツマキ,その後ろにネビーイームとニシノデイジーとエコロデュエル。
向正面に戻ってニシノデイジーが外から上がっていくとジューンベロシティが応戦。ここからマイネルグロン,ジューンベロシティ,ニシノデイジーの3頭が雁行。最終障害を前にニシノデイジーが前に。最終障害でマイネルグロンが落馬。内から追い上げてきたネビーイームが走り続けたマイネルグロンに絡まれましたが,直線の手前でうまく外に弾いてニシノデイジーの外の進路を確保。抜け出していたニシノデイジーは後ろの追い上げを許さずに優勝。大外から伸びてきたエコロデュエルが5馬身差で2着。ネビーイームが1馬身差の3着でジューンベロシティは3馬身半差で4着。
優勝したニシノデイジー は一昨年の中山大障害 以来の勝利で大レース2勝目。そのときが鮮やかな勝ち方でしたからその後も期待されたのですが,思ったような成績はあげられずにいました。ただこのレースは昨年も2着に入っていて,得意とするレース。今日はマイネルグロン,エコロデュエル,ジューンベロシティ,ニシノデイジーの4強で,展開が結果に大きく左右しそうだとみていました。マイネルグロンは明らかに折り合いを欠いていたようにみえましたので,道中は前の馬にとっては不利。そこで追いかけずに待機し,2周目の向正面に入るあたりから追っていったのがよかったのではないでしょうか。母の父はアグネスタキオン 。祖母の父はセイウンスカイ 。3代母がニシノフラワー で4代母がデュプリシト 。
騎乗した五十嵐雄祐騎手は一昨年の中山大障害以来の大レース4勝目。第136回 も制していて2年ぶりの中山大障害3勝目。管理している高木登調教師は昨年の東京大賞典 以来の大レース12勝目。第145回以来となる2年ぶりの中山大障害2勝目。
チルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausはステノ Nicola Stenoのおとり捜査に引っ掛かって,ステノが信頼に値する人物であると錯覚しました。たぶんこの時点で,チルンハウスはステノがカトリックの熱心な信者であると分かっていなかったのだと僕は推定します。というのも,おとり捜査というのは,ステノが自身の立場を秘匿することを前提とした調査であると推定されるからです。
チルンハウスはかつてライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizに対して抱いたのと同様の信頼感をステノに対してもったので,ステノのに対してバチカン写本 を読ませてもよいのではないかと思いました。ライプニッツに対してそう思ったときはスピノザがまだ生きていましたから,その許可をスピノザから得るためにシュラー Georg Hermann Schullerを通して書簡七十 でその許可を求めたのですが,この時点ではスピノザはすでに死んでいましたから許可を求めることはできません。なのでチルンハウスは自身の判断でステノにバチカン写本を読ませたのだと思います。
この部分は二通りの見方が可能だと思います。ひとつは,バチカン写本の一部をチルンハウスがステノに読ませ,その一部分を読んだステノが,これはスピノザの手によるものだと思ったのでチルンハウスを問い詰めたら,チルンハウスがそう告白したというものです。吉田が書いているところからすると,このストーリーの蓋然性が高くなります。ただこのストーリーの難点は,ステノがバチカン写本の全体を入手した経緯が分からなくなってしまうところです。ステノはバチカン写本の全体を異端審問所に資料として提出しているので,ステノがそのすべてをチルンハウスから巻き上げたことは間違いないのです。
なのでもうひとつの見方は,最初からチルンハウスはステノにバチカン写本の全体を渡してそれを読ませたのであって,それを読んだステノがこれはスピノザが書いたものだと思ったのでチルンハウスを問い詰めたところ,チルンハウスがそれを認めたので,入手したバチカン写本をチルンハウスに返却せず,そのまま異端審問所に提出したというものです。ただこちらにも難点はあり,これだとステノはバチカン写本を入手した後,その内容を精査する時間を必要としなかったと思えるのです。
⑲-15 の下図は先手が金を取っていますので,☗7二金から後手玉は簡単に詰みます。受けても7四の飛車が取られる形ですから後手玉に受けはありません。したがって後手が勝とうとするならこのまま先手玉を詰ますほかありません。
まず⑲-13 の変化を確認しておきましょう。⑲-15の下図から☖7八角です。
ここから☗5九玉☖7九龍☗4八玉☖3六桂。
ここで☗3七玉は☖3九龍で先手玉が詰むのは同じ。なので☗5七玉と逃げます。
ここでの☖6六金は☗同馬があり,それ以上の王手が先手玉にはありません。なのでこの変化は明快に先手の勝ちです。
ただし⑲-15の下図にはさらに別の変化があり,そちらの方がずっと難解なのです。次回からはそれを順に検討していきます。
ステノ Nicola Stenoはチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausからバチカン写本 を巻き上げました。そのチルンハウスは,スピノザの遺稿集Opera Posthuma の編集者がだれで,どこでそれが編集されているのかということをおそらく知っていました。しかしステノが異端審問所に提出した上申書の内容に,その情報は書かれていませませんでした。もしステノがそれを知っていたら,努力しすぎてしすぎるということはないとまで書いているのですから,それを秘匿する理由はまったくありません。ということはステノはその情報を知らなかったと確定してよいでしょう。つまりチルンハウスはおそらく知っていたであろうその情報を,ステノには伝えなかったということになります。つまりチルンハウスはバチカン写本を巻き上げられるという,そういってしまってよければ失態を犯してしまったわけですが,スピノザの遺稿集に関連する重要な情報については,ステノに対して秘匿していたのです。
こうした事情から,ステノのおとり捜査というものの実態が,より明らかになってくると僕には思えます。そこで僕は,現時点ではこの一件の最も大きな可能性は,次のようなものであったと推定しておきます。
イタリア,たぶんローマでステノとチルンハウスは知り合いました。そのとき,事前の情報として,チルンハウスがスピノザの晩年のよき文通相手であったということをステノが知っていたか知らなかったかは定かではありません。もしも知っていたなら,ステノは最初からおとり捜査を目的としてチルンハウスに近づいたのでしょう。そうでなく,知り合ってからそのことを知ったのであれば,おとり捜査はその後にステノによって企てられたということになります。この点は僕はどちらの可能性も同等に評価します。
チルンハウスに接近したステノは,自身が信頼に値する人物であるということをステノに思い込ませることに成功しました。つまり,パリでチルンハウスがライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizに対して抱いたのと同じような思いを,チルンハウスに思わせることに成功しました。元は科学者であり,かつスピノザとも親しく交際していてスピノザの思想をよく知っていたステノにとっては,それは難しいことではなかったと思います。
第47回名古屋大賞典 。
一旦はヤマニンウルスが前に出ましたが,外からノットゥルノが追い上げてノットゥルノの逃げに。勢い良く追い上げたこともありすぐに3馬身くらいのリードになりました。ミッキーファイトが2番手になって控えたヤマニンウルスは3番手。4番手にベルピット。5番手にアウトレンジ。6番手にシンメデージー。発馬後の向正面ではこの後ろにやや差がつきましたが,正面に入ると差は詰まり,アルバーシャが7番手,8番手にアナザートゥルース,9番手にサンマルパトロール,10番手にラジカルバローズで11番手にメルト。最後尾のファルコンウィングだけが離されました。ミドルペース。
ノットゥルノは快調に飛ばしていき,2周目の向正面に入ったあたりでリードは4馬身くらいに。ミッキーファイト,ヤマニンウルスは続いていきましたがベルピットは苦しくなり,アウトレンジが外から4番手に。3コーナーにかけてミッキーファイトがノットゥルノとの差を詰めていくとヤマニンウルスはやや離され,最終コーナーで外から追い上げてきたアウトレンジと併走。ただ前の2頭とは水が開いてしまいました。直線に入ってもノットゥルノはよく粘りましたが,外からミッキーファイトが差して優勝。逃げ粘ったノットゥルノがクビ差で2着。3着はヤマニンウルスとアウトレンジの競り合いに,内からシンメデージー,外からアナザートゥルース,さらに大外からサンマルパトロールも並んでいって接戦。内を回ったシンメデージーが4分の3馬身差で3着。大外のサンマルパトロールがクビ差の4着でアナザートゥルースがクビ差で5着。ヤマニンウルスがクビ差の6着でアウトレンジは4分の3馬身差で7着。
優勝したミッキーファイト はレパードステークス以来の勝利で重賞2勝目。これまで大きく崩れたことはなく,ジャパンダートクラシックでもフォーエバーヤングから1馬身4分の1差の2着に食い込んでいました。ここは5戦全勝のヤマニンウルスがいたために2番人気の評価でしたが,シンメデージーが3着に入っていることからも分かるように今年の3歳馬はレベルが高く,能力はこちらの方が上だったということでしょう。斤量差があるのに着差が僅かだった点はやや不満ですが,ここが古馬との初対戦でしたから仕方ないかもしれません。これまでの戦績から考えても,もっと上を目指せる馬だと思います。母の父はスペシャルウィーク 。4代母がエアグルーヴ で7代母がパロクサイド 。5つ上の半兄が2019年の中京記念を勝ったグルーヴィット で4つ上の半兄が2022年にシリウスステークスとチャンピオンズカップ を勝ったジュンライトボルト 。
騎乗した戸崎圭太騎手と管理している田中博康調教師は名古屋大賞典初勝利。
ステノ Nicola Stenoの上申書の内容については,吉田は概ね次のように説明しています。
バチカン写本 に含まれている思想は感染力が強い疾病のようなものであって,これ以上の感染をできる限り防ぐためには,また,すでにその疾病に毒されてしまっている人びとの治癒を推進するためには,この疾病の感染源とでもいうべきものを発見し,しかるべき対抗措置をとるために,努力してしすぎるということはないと思われる,というものです。
この上申書が提出されたのはすでに述べたように1677年9月4日です。スピノザの遺稿集Opera Posthuma が発刊されたのは同年の暮れになってからですから,この時点ではまだ未発刊でした。『宮廷人と異端者 The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World 』では,遺稿集の発刊を阻止しようと躍起になっていたのは,オランダのカルヴァン派だけではなくカトリックも同様であったとされていますが,このステノの上申書の内容からすると,その部分には信憑性があると解してよいようです。
一方でこのことは,次のようなことを推測させます。
カトリック陣営がスピノザの遺稿集の発刊を阻止したかったのであれば,それを阻止するためには全力を尽くしたと思われます。努力しすぎてしすぎるということはないというのは,上申書にみられるステノの意見というより,カトリック陣営の総意であったと思われるからです。そうであれば,それをだれが編集し,またどこで編集されているのかということは,きわめて重要な情報であった筈です。そしてその情報がステノにあるいはカトリックの上層部に齎されていたら,遺稿集が発刊されるということは困難だったと思われます。これらの情報があれば,遺稿集の発刊の前に編集者たちの発刊の準備を阻止することができたと推測できるからです。そしてその情報を,たぶんチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausは知っていたと思われます。チルンハウスはシュラー Georg Hermann Schullerと知り合うことによってスピノザとも知己になったのであり,そのシュラーと定期的に書簡で連絡を取っていたのはすでに述べた通りです。そしてそのシュラーは遺稿集の編集者のひとりなのですから,そのことをチルンハウスが知らなかったという方がむしろ不自然であるといわなければならないでしょう。
昨日の第50期棋王戦 挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は増田康宏八段が1勝,斎藤明日斗五段が1勝。
振駒 で増田八段の先手。後手の斎藤五段が横歩取りを志向したと思われますが先手が早々に拒否したため,相居飛車の力戦形に進みました。
この局面が最も重要な分岐だったようです。
後手は☖2八銀不成として駒を取りにいきました。先手は☗2四歩で攻め合いに。これは☗2三歩成☖同玉☗2八飛と王手で銀を取る手を狙いとしているので受ける必要があり,☖2九銀成としました。ただそれでも☗2三歩成以下の攻めが厳しく,後手が非勢に陥りました。
ここでは☖6五歩と突く手があり,そう指されると先手は☗5八歩と受ける予定だったようです。これだと上述の変化のうち☗2八飛という手がなくなります。よって後手は実戦とは別の手順を模索することができ,それならまだ大変だったようです。
勝者組の増田八段が勝って挑戦者に 。プロ入りから10年2か月で初のタイトル戦出場を決めました。第一局は来年2月2日に指される予定です。
吉田が想定しているのは,ステノ Nicola Stenoはおとり捜査のような仕方でチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausからバチカン写本 を読ませてもらい,それがスピノザが書いたものだと思ったから,チルンハウスを問い詰め,チルンハウスがそうであると告白したということです。この想定は,おとり捜査という部分,すなわち吉田が発刊されたバチカン写本の解説から読み取っているところが正しいなら,見当外れの想定とはいえないと思われます。ですからたぶん読ませてもらったその部分だけで,ステノはその内容が危険思想,これはカトリックの立場からみたときの危険思想ですが,そうしたものが含まれていたということは分かったと思うのです。そうでないとそれがスピノザの手によるものだということに感づくことがあり得ないように思えますし,著者がだれであるかチルンハウスに問い詰める根拠にも欠けると思われるからです。
なのでステノは,その内容を精査するまでもなく,これは危険な書物であるというように異端審問機関に伝達することができたと僕は思います。それでもその内容を精査した上で提出したのは,ステノの性格を表しているのではないかと僕には思えます。つまりステノは,バチカン写本の全体の内容を精査しなければ,それを資料として異端審問所に届けることができないような人物だったのではないでしょうか。このことはもしかしたら,ステノが以前は科学者として実績をあげていたことと関係するかもしれません。いい換えれればステノはそれがカトリックにとって危険であるか否かということを精査するときにも,科学的思考をするようなタイプの人だったと思うのです。つまりそれくらいの理知性がステノにはあったのであって,精査した内容がどのようなものであるのかということ,つまりバチカン写本に書かれている内容を,完全にとはいわないまでも一定程度は理解することができたろうと思います。ステノがその内容を精査した上で異端審問所にバチカン写本を提出したということのうちから,僕はこうしたことが読み取れると考えています。
ステノはバチカン写本と自身で書いた上申書を付して提出したのですが,この上申書の方も同時に発見されています。
人間が神 Deusになってしまうのなら,それは人間にとっての完全性の喪失 にほかならないのであり,このゆえにそれは悪malumであるとスピノザはいっているというようにフロム Erich Seligmann Frommは『人間における自由 Man for Himself 』の中で解釈しています。このことを悪とフロムが結び付けているのは,第四部序言 でスピノザがいっていることと関連します。すなわち,現実的に存在する人間が,人間の本性の型 に近づく手段になるものが善bonumといわれ,それを妨げるものが悪といわれるのであれば,もし何らかのものが人間を神にする,すなわち人間の本性natura humanaを神の本性にするとしたら,それは人間を人間の本性の型に近付けるどころか,神の本性の型に近付けることによって人間の本性の型に近付けるのを妨げるのだから,そのものは悪であるということです。
この部分はこのように理解する限り,スピノザがいっていることと矛盾を来すものではありません。ただし当該部分のフロムの解釈には,いくらかの難点が残っているといえます。つまり上述したような僕の解釈とは異なった要素が組み込まれていると思われます。
まず最初に,スピノザは単に現実的に存在する人間が人間の本性の型に近づくことが人間にとっての善であるといっているわけではなく,その人間が,人間の本性の型に近づくと確知するcerto scimusのであれば,それがその人間にとっての善であるといういい方をしています。これは第四部定理八 でいわれていることに代表されるように,スピノザは善や悪というのはものの本性に属するものではなくて,各個人の認識 cognitioに依存する概念notioであるとみていることと関係します。ここで確知するといわれているのは,十全に認識するcognoscereという意味を含みますから,もし人間が十全に認識するということを前提するなら,そしてたぶんフロムはここではこのことを前提しているのですが,何が善と認識され何が悪と認識されるのかということは各人の間で一致するでしょう。しかし実際には人間は事物を混乱して認識し,しかしそれが確実であると思い込むことはあるのであって,その場合では各人の間で何が善であり何が悪であるのかということの認識が異なります。そしてスピノザはそのこともまた前提しているのです。
カトリックに改宗していたステノ Nicola Stenoに対して自著として『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』を贈ることは危険であると思ったから,スピノザはステノには献本をしなかったものと僕は考えます。ただ,ステノがそれをどういうルートであるかは定かではないですが入手したことは間違いないのであって,それを読んだということ自体は,書簡六十七の二 から明らかだといっていいでしょう。この書簡の冒頭部分は,確かにステノが『神学・政治論』を読んだのでなければ書くことができなかったであろう内容を含んでいるからです。
この『神学・政治論』は発売禁止の処分を受けています。これはその内容に危険な点が含まれていると判断されていたからです。当然ながらその危険な点というのは,キリスト教という宗教に関連する点なのであって,それが危険であるということはプロテスタントであろうとカトリックであろうと同様です。つまり『神学・政治論』はキリスト教にとっての危険な書物なのですから,カトリックにとっても,もちろんステノにとっても,危険な書物であったのは間違いないでしょう。
こうしたことを鑑みれば,たぶんそれを読めばスピノザの手によるものであったと分かっていたであろうし,実際にチルンハウス Ehrenfried Walther von Tschirnhausがステノに対して著者がスピノザであるということを明かしたバチカン写本 は,とくに内容を精査せずとも異端審問所に提出する価値があったであろうと想定されます。しかし吉田が指摘しているように,ステノはその内容を精査した上で提出しているのです。このこと自体ははっきりとそう断定できるわけではないのですが,ステノがバチカン写本を入手した時期と,上申書を異端審問機関に提出した時期の期間を考えると,どうしてもステノはその内容を精査していたとしか考えられません。
書簡六十七の二は,カトリックの立場からステノがスピノザを改心させようとする意図を明らかに含んでいます。だからスピノザが実際に改心したかもしれず,それを確認する必要があったから精査が必要であったということはできないわけではありません。しかしスピノザが改心するということをステノが本気で想定していたわけではないと僕には思えるのです。