スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

KEIRINグランプリ&出発点

2025-01-04 11:28:54 | 競輪
 12月30日に静岡競輪場で行われたKEIRINグランプリ2024。並びは真杉‐平原の関東,北井‐郡司‐岩本の南関東,脇本‐古性の近畿で新山と清水は単騎。
 牽制の発走から平原が誘導の後ろに入って真杉の前受け。3番手に脇本,5番手に清水,6番手に北井,最後尾に新山で周回。残り3周のバックで真杉が誘導との車間を開け始めました。バックを通過したコーナーから北井が上昇を開始。残り2周のホームで北井が真杉を叩くと真杉は岩本の内で粘りました。北井がペースを落としたのでバックに入って脇本が発進。北井を叩いて打鐘。このラインに続いていた清水まで続きました。北井が叩かれたのでホームで郡司がこのラインを追った新山の後ろにスイッチし,さらに新山の内から清水の後ろに。脇本のスピードがよかったので,この4人が勝負圏内。直線に入って踏み出した古性が脇本を差して優勝。古性マークのレースになった清水が4分の3車身差で2着。脇本が半車輪差の3着で郡司が4分の3車輪差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は10月の寛仁親王牌以来の優勝でビッグ10勝目。グランプリはやはり静岡で開催された2021年に優勝していて3年ぶりの2勝目。ほかに静岡では2018年2019年に記念競輪を制しています。このレースは北井が楽に先行して無風で番手を回れた郡司が番手捲りに出るというような展開にでもならない限りは近畿勢が優勢で,番手の古性が最有力候補だろうとみていました。真杉を叩いた後で北井があまりスピードを上げなかったのがどういう理由だったのかは分かりませんが,このために脇本の先行となり,僕が予想していたような結果となりました。単騎のふたりのうち,新山は単騎戦が不得手ですが清水は得意としているタイプなので,こういう結果も十分に予測でき,配当は意外なほどついたという印象です。

 「我思うゆえにわれありcogito, ergo sum」は,デカルトRené Descartesが確実なものを求めた結果effectusとして得ることができた結論ですが,吉田がいっているようにあくまでもこれは第一の結論です。哲学を開始するためには確実なことが必要であるから確実なものが求められたのですから,この結論は最終的なものというより,哲学を開始するための出発点であったという方が正しいのです。
                            
 デカルトが確実であるとしたのは考えるconcipere自分自身でした。説明しておいたようにこれは精神mensとしての自分自身,思考作用としての自分自身であって,人間が精神と身体corpusをもってこの世界に生きているとしたら,精神としての自分自身に限られるのであり,かつすべての精神というより,すべてを疑うというある特定の思惟作用をなしている限りでの自分自身です。スピノザの哲学に照らし合わせていえば,人間の精神mens humanaが何かを表象するimaginariというのは思惟作用を意味しますが,こうした表象作用についてはデカルトは疑い得ると考えていたのですから,表象する限りでの精神というのはデカルトにとっては確実ではないのであって,哲学の出発点にはなり得なかったと解しておくのがよいでしょう。よって吉田のいい方に倣えば,自覚的かつ反省的な思考活動を繰り広げているときの我は確実であっても,そうした活動を繰り広げていないときの我は存在しているかいないか分からないことになりますし,身体としての我というのも,考えている我の存在existentiaからは直接的に何か確実なことを導き出すことはできないのです。
 そこでデカルトは神Deusをもち出すことになります。そのためにまず神が存在するということを証明します。その証明方法はおおよそ次のようなものとなっています。
 まず第一の基礎となるのは,僕たちが完全なものについてそれを考えることができるという点です。いい換えれば,僕たちの精神のうちに完全なものの観念ideaがあるということです。僕たち自身は錯覚したり推論を誤ったりありもしないことを夢見たりするように,完全であるということは到底できません。いい換えれば人間は不完全です。あるいはもっと限定していえば,人間の精神は不完全です。このゆえに,完全なものの観念が重視されます。
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ブログ

2025-01-03 20:36:57 | Weblog
Wi−Fiを切るとスマホからは投稿できるようになっています。
PCから投稿できるようになるまで
いつものような内容のものはお待ちください。
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ヤンググランプリ&第一の結論

2025-01-01 18:50:38 | 競輪
 12月28日に静岡競輪場で行われたヤンググランプリ。並びは中野‐大川の北日本,村田‐纐纈の中部,太田‐真鍋の瀬戸内,後藤‐東矢の九州で山口は単騎。
 スタートを取りにいったのは中野と村田。中野が誘導の後ろに入って前受け。3番手に太田,5番手に後藤,7番手に村田,最後尾に山口で周回。残り2周のホームから村田が一気に動いていき中野を叩きました。その外から後藤が発進。バックで村田を叩いて打鐘。このラインを追ったのが太田でしたが,マークの真鍋が山口に絡まれたために離れてしまい単騎の動きに。太田の動きを追った中野が後藤を叩いた太田の番手に嵌りました。村田が巻き返しにいきましたが,中野が番手から前に出ようとしたため外を回らされて失速。抜きにいった中野に対して太田が頑張ったので直線は競り合い。太田が中野を張るために外に出たため,空いた内を村田の番手から進路を変更した纐纈が突いて優勝。中野が半車身差で2着。中野の外から伸びてきた東矢が半車身差の3着で太田は半車輪差の4着。
 優勝した愛知の纐纈洸翔選手は6月の福井のFⅠ以来の優勝。グレードレースは初優勝。このレースは中野と太田の力がほかの選手より明らかに一枚は上回っていました。ただそのふたりが残り半周ほどを競り合うことになったため互いに力を消耗。その隙を纐纈が突いたという形の優勝。村田の捲りは外をいったものだったのですが,直線の手前でうまく進路を内に切り替えたのが功を奏しました。レース巧者というタイプなのだと思います。

 錯覚をしたり誤謬errorを犯したり夢を見たりすることはあるとしても,そのことを考えているのが自身であることは変わりありません。したがって,自身が何かを考えているということは確かに成立しているとデカルトRené Descartesは気付きました。ということは,その考えている主体subjectumである自分自身が存在しているということもまた成立しているとデカルトは結論しました。したがって,自身が向き合っている世界は不確実で頼りないものとデカルトは疑い得たとしても,その不確実で頼りない世界と向き合っている自分自身が存在しているということは確実である,つまり疑い得ないとデカルトは結論したことになります。これが「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」といわれるデカルトの第一の結論です。
                            
 この吉田の説明は,「我思うゆえに我あり」という結論を導きやすいようになっています。この部分は次のように説明された方が理解は容易だと思います。
 デカルトはどんな事柄もとりあえず疑ってみるという方法を採用しました。この方法を採用すれば,吉田がいっている通り,大概のことは疑い得るのであって,少なくとも自身が向き合っている世界のうちには疑い得ないようなものは何もないのです。ただし,どんな事柄でも疑うという自身の思惟作用は確かに存在するのであって,デカルトがすべてを疑うとすれば,デカルトがすべてを疑っているということはデカルトには否定できない事実だったのです。だから疑っている自分自身が存在しているということについてはデカルトは疑い得なくなったのであり,それは確実なことであるということが第一の結論になったのです。よって,ここで我ありといわれている我というのは,疑っている我という意味にほかなりません。疑うのは思惟作用ですから,その主体を措定するとすればそれはデカルトの精神mensということになるでしょう。つまりデカルトは自身の精神,すべての事柄についてそれを疑っている自身の精神が存在するということは確実で疑い得ないと結論したのであって,身体corpusをもつ物体的存在としてのデカルトが存在するということを確実と結論したのではありません。むしろそれについてはデカルトは疑い得ると考えていたのです。
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