安田浩一さんのことばをふたたび考えてみました
吉田 等
「私たちの社会はなぜ被害者が矢面に立たないと問題が解決できないのか。」という安田さんの言葉について、どういうことか再度考えてみました。
たとえばいじめを受けている子が加害者に「いじめをやめてくれ」と言うことができればいいけれど、そんなことができないからいじめられているのでしょう。その時、周りの多くのこどもたちが、そんなことはやめなよと言えたら大きな力になることはまちがいない。しかし、周りのこどもたちがそれを言えない状況が多く存在することが問題なんだと思います。そして、いじめでいえば「被害者は矢面に立」つこともできず、多くの場合、「自殺に追い込まれ」た後で初めて…という悲痛なことになっています。安田さんの言葉は、「私たちのクラスはこういうクラスでいいのか」ということばと同じだと思います。
11月10日の日中首脳会談の折に習主席は「歴史問題は13億人の中国人民の感情に関わる」と述べました。「また言ってる…」とか「まだ言ってる…」、「大げさだ」と受け止めてしまう日本人も少なくないでしょう。やはり、被害者の心情を深く受け止めることは難しいことですが、しかし、それを受け止めようとすることが私たちの側がしなければならないことだと思います。日中国交回復が実現できたときに、また村山談話が出されたときに、やっと少しは軽くなった心は、何回もの首相の靖国参拝によって逆戻りしてしまうのだと思います。言葉が行為によって裏切られ、信頼できないものになってくる、その失望や幻滅や怒りは、かえって前より強まるかもしれません。ヘイトスピーチは「心臓を抉るような」と捉えた安田さんのこころを私たちのものにしたい。
秋季例大祭に靖国参拝をした有村治子大臣は、他国からとやかく言われるような問題なのではないという意味の発言をしました。日本が、東京裁判に従い、サンフランシスコ条約で国際社会に復帰する前提の言わば国際公約に違反する行為だから、関係国が「とやかく」言うのは当然のことで、日本の大臣がそういう発言をするというのは「なんにも分かってない」ということになります。
しかし、靖国参拝を自粛せよという理由の中には、中国や韓国の面子をつぶすからとか、観光や貿易に影響が出て経済的損失が大きいから、というものもかなりありますが、それは「被害者を矢面に立」てるということでしょう。被害者の心情を自分の損得に利用していると言ってもよい。平和に生きようとする日本人だからこそ、戦中は戦意高揚、戦後も戦争賛美、侵略戦争正当化をする靖国神社への参拝は許せないのだと、日本国民として言うべきだと思います。