● 内山 節 「現代日本の閉塞をつきくずす『地方』の価値と力」
は面白い の 一 『世界』5月号 須山敦行
◎ 《 戦争は終わっていたのか 》
筆者の戦後論は、私たちは「戦争を終わらせることができていない」という主張である。
「敗戦国にとっては、なぜ戦争が起こったのかを検証し、戦争責任を社会として共有し、二度と戦争を起こさない社会をつくりだすことが戦後のはじまりである。」
こういうことをやろうとしない。そのことを避けてきた。どころか、居直って、戦前体制を懐かしがるありさまだ。
「日本として戦争の時代に決着をつけることであり、戦争の時代の延長線上に未来を描こうとする勢力とは異なる社会創造をすすめることである。」
私たちは、「戦争の時代の延長線上に生きている」というのだ。
筆者は、
戦後、日本の人々は、
「国家」と「公」を混同して、同一視し、「国家」を否定することから、「公」を欠落させた「むき出しの個人主義」というような、「戦後の個人主義」の時代をつくりだしてきた。 と言う。
戦争の反省の中に、戦争体制に協力してきてしまったことを、
それが「自分を守るため」だった、「個人主義的な動機」だったことが、見つめられ反省されずに、生き残った
それは、今度は、「企業に雇用されさえすれば、個人主義的に生きていける」とし、企業のために働くという時代精神を成立させてきた。
日本人は集団主義的だという説は誤りだ。そうではなく、日本的な個人主義が、あたかも集団主義であるかのようにみえる状況を作り出しているのだ。
※ 私の言い方で言い換えれば、他との関係の中で自主的な主体である、民主社会の主人公としての自己を形成しえないで、私利私欲に、自己保身にとらわれた「個人主義」が、戦争や企業競争を可能にしているのだ。他との関係や、「公」との関係で、主体的な存在としての「個」の確立が出来ないでいる、ということになる。
それは、当然、資本主義社会での、何かを失った個人である。
そして、筆者は、「都市」ではなく、「ローカル」な地域に、戦後の超克をなしとげる動きが生じているとして、若い年代層での脱都会の動きに注目して紹介する。
(「むしろ「創生」しなければならないのは、市場経済以外の何者も存在しないかのごとく展開している東京のような場所なのである。」)
それは、他者への視点をもつ、動きである。
例えば、農業は、自然という他者との共同作業であり、同時に地域社会という他者との結びつきの上に成り立っている。
そこでは、自分をふくむ他者の存在が必要だという視点がはっきり見えている。
そこには、
個人主義的な自己防衛と自己実現をめざし、しかし現実には、市場経済や国家のもとに吸収されながら出口を失った戦中、戦後という連続した時代とは異なる新しい生き方の時代を切り開く可能性がある。
それらの動きは、新しい戦後をつくりだしていくことになるだろう。
と言う。
※ 私なりに言い換えると、
最近の農村回帰などの若い世代の動きには、自然や人間達、他者との深い交わりの中で、民主主義社会を作る主体としての自己を実現するような可能性が見られる。戦争を可能にし、戦後の経済成長中心の資本主義がもたらした、「自己保身」のために、他人は考えない「個人主義」を克服していく、ものが芽生えているのだ。
このように、戦争を真に終わらせていくこと、日本の社会を真に変えていくことが、私たちの課題である。
ということになる。