メディアで、あなたは一人ではない。
絆
心は見えないけれど、心遣いはみえる
など 3月11日 大震災発生前とではうってかわった構成になっている。
人の温かさが、喪失感を癒やすには必要だ。
地震直後に気になっtことは、近くにいられなかった、体力的に衰えてきた恩師のこと
(両親は、すでに他界していたのは幸せなことであったと思った)
次に、病院、患者のこと。
とりあえず戻ることと先を急いだ
(震災後、戻るべき場所を失った人の気持ちを考えるとつらい。
涙が浮かんでくる。 私自身の36年前に受けたPTSDのためだと思う。)
後は、病院を経営している側としての責務を果たすための24時間の連続であった。
医療者すべてが、一丸となって邁進したわけではなく、そのことに驚き、傷ついた。
中学の同級生からの救援
戦後、幼き日をすごした神奈川県の知人からの救援、
本籍、墓のある秋田の知人からは、困窮していたガソリンが届けられた。
傷つくこと以上に、見守り、支えてくれる存在を感じた。
医局からの応援が復活した4月の第1週は、
目を開け続けるのもつらい疲労が噴出してきた。
当直に訪れる、若手も医師も、シャワー浴びれますか?とか、食事がおいしいとか
それ以前とは異なる、コメントが寄せられた。
それまでは、そそくさと大学に戻っていたが。
被災地への応援部隊も、後方支援部隊も、ともに過酷な勤務条件であった。
のんびりと、自己の健康管理にのみ終始したDrSS。
どさくさ慌ただしいときに退職を申し出てきた。
震災時、病院を身の安全が保たれないからと忌避した常勤の病院をないがしろにして、
次の勤務先を、探したことは、功利的なエリートの性格、自己保身の塊だったのね。
目の小手術をうけ、5ヶ月が経過しても診療行為に無関心であったDrSSに、この非常時こそ医師としての自覚に目覚めてもらうチャンスと、支援を申し出たが、裏目に出て、状況が落ち着ちつくまでは自宅待機とさせてくださいとの言葉を残し、帰宅した。数日後戻ってきたのだが、病院に泊まった翌朝には、目の不調を切々と訴え帰宅。疲労している身には、irritable。
次に戻ってきたのは、食糧不足の折、病院の食事を期待してのことで、しかも低血糖にならないための特別メニューを要請してきた。主食と、少ないながらもタンパク質を加えた汁物を出すために買い出しに奔走している最中に。日頃は、医師に対する節度ある態度を維持してきた管理栄養士、栄養士ともに無理ですと、周囲にも聞こえる声を出さざるを得なかった。
病院経営の一環として、医師の定員は確保しなければならないので、精神の不安定が復活しないように努めていた。自主的に出かけていた遠方の病院に出かけられなくなり、収入が減少したためか、近隣の病院の短期バイト口をさがし、常勤となれば、当院より高額の月給が出ることを確認し、退職を申し出てきた。功利的に動いて、ぬくぬくとできることに違和感を感じている。
震災後の何となく不安定な時期に、病院の存在自体も不安定にされることが起きて、
36年前へのフラッシュバックが起きて不安定になってしまった。
こういうときほど、日常性を維持するように努力しようと
滞っていた研究をまとめないと、時間がなくなるかもしれない。
快く協力してくれながらも早世してしまった友に、
世に成果を問うてから来たんだよ。と言って迎えてほしい。
完成するまでは、この世にとどまる時間をくださいと、
35年前にまだ来るのは早いと、とどめてくれた天上の声の主にお願いしている。
今年は、1月から常とは異なった時間が流れ、
大事にされて、過ごしてきたということも実感している。