6時35分に西側の一部が欠け始めたのを、通勤途中の田んぼの水面で確認した。バス乗り遅れないために速足で通り過ぎた。
宮学のキャンパスでは、観測している群団から安全なメガネを貸していただいて観察。
先人たちはいかにして観察したのか?
メディアは、繰り返し網膜症に注意を呼び掛けていた。繰り返し、2秒に達する凝視は危険と。
医療用の光を要する観察、顕微鏡、内視鏡観察では網膜障害による失明が起きている。
恩師、宇塚善郎先生も、単眼時代の顕微鏡観察で昭和50年代には右目は失明。
先生の目を凝視すると網膜が焼けたのがわかる。
そして、左目も徐々に光を失っている。
両眼で観察可能な時代でも、血液を専攻し診断手技としての顕鏡は欠かせない。
1時間観察を続けた後は、私の目は、調節力が落ち、いつまでも痛く、しみる。
恩師が大学の退官後、休日は、数時間の顕鏡でさらに急激に視力が落ちた。
かって、"self renewal" を確認する幹細胞実験を連日連夜行っていた。
学会、博士号提出のために結果を出すときには、宇塚先生も必ず顕鏡した。
弟子の私たちはすぐgive upするのだが、
恩師は数時間どころか、ときに10時間に及ぶ日もあった。
結果を出す期限が迫れば迫るほど長時間に及んだ。
そのとき”光を失ったら、目の代わりとなって”と言われたことがあった。
弱音をはかない恩師の、目の叫びだったんだと、今思う。
ほとんど視力を失いかけていることに、
くりごとも、絶望もなく日々淡々と過ごされている。