梅屋庄吉と孫文の展覧会が東京国立博物館で開かれます。
展覧会の詳細はこちら。
以前の日記にこのことを追加し、タイムスタンプを新しくしました。
いすみ市の三門駅にまつわる話を何回か書きましたね。
三門駅と放浪記。そしてその途中にある森鴎外の鴎荘。三門駅とは関係がないけど、葵の話では大多喜の城主本多忠勝の立ち葵の紋、、、
みんなちょっと触れただけでしたけど。
鴎外の鴎荘の話のときに、このそばに梅屋の別荘があるんだけど、何も書くきっかけがないな~って思っておりました。
そうしたら、神様の思し召し、、、、今朝、長崎県のHPを見ておりましたら、孫文の写真が出てきまして、あら、そうか、、、梅屋は長崎の出身だったって改めて気がつきました。ほんと耄碌したくないですね。
まず、一つ目の蛇の足;
上の長崎県のHPで写真をご覧になった方。
写真の右に小柄な男性が写っているのを見られたと思いますが、この人が西郷四郎。なにか覚えがある? そうでしょう、富田常雄の小説、姿三四郎。「山嵐」で有名になった柔道家、姿三四郎のモデルになった人。
孫文の隣にいる鈴木天眼が「東洋日の出新聞」を創刊したときに、呼ばれて、編集長をしていて、中国にも行き、軍部に批判的な記事も書いている人。
長崎では「長崎游泳協会」の創設者の一人。今の競技水泳ではないのですけど、古流の水泳を長崎に根付かせた張本人。
おかげさまで、私の友人達の中には今でも、ドーバーを渡ろうとしている人がたくさん。
私も長崎湾の郊外の島を泳いで一周できなかったって、夏休みに水泳の特訓をさせられた。
私の実家の長崎の家は今の県庁と市役所の並びにあり、彼の実家であった梅屋商店は家から1キロも離れていない長崎の繁華街にあったのです。
たぶん、家の資料が残っていれば、梅屋との関係なんかが出てくるかもしれませんね。ほんとうに、あらら、、、です。
長崎の郷土史を研究しているグループに長崎楽会というのがあって、東京と長崎で自分たちが研究した成果を月例で発表したりしていますけど、こちらでも長崎人の旦那気質っていうのが時々出てきます。長崎の人に言わせると、幕府のキリシタン防止策の一環で仏教のお祭りを盛んにした(これには中国の葬祭の賑やかさも一役買ったのでしょうね)ということと、長崎を通じての貿易の利益の一部が竈金として市民に振舞われたからというのもあって、長崎人はお祭りが好き、そして旦那気質。
梅屋庄吉もその一人。借金を取り立てに行って、相手の窮状に涙して、借金を棒引きにして帰ってきたり、、あげくに相場に手をだして中国に逃げていきます。
中国に逃げるというのが長崎人らしいですね。
戦前の長崎にとっては大阪や東京は遠い町。でも上海は隣町だったんです。
それに長崎に住み着いて何百年も立つような中国人でも、本国との絆はちゃんと持っているので、中国のことはよく分かる。
私の母親(中国人ではありませんけど)が東京に来て、日暮里のことを「ヒグレサト」なんて読んで笑われていましたけど、その母親に上海の事を聞けば、あそこの交差点の三軒目のお菓子屋さんの何が美味しいなんてことは手に取るが如く分かってしまったかもしれません。
長崎ってそんな町だったんです。
その庄吉が上海から、香港に移り、そこで映画の仕事に手を出します。
そこで知り合ったのが孫文。孫中山です。
またまた蛇の足。
中山というのは孫文が日本に来ていて、そのときに近くに中山ってお屋敷があって、それが気に入って自分の名前にしたらしいのです。
その中山って、、実は明治天皇の母親の実家の名前だったそうです。
孫文の業績は本土の中華人民共和国でも、中華民国でも評価されていて、たとえば両国を代表する大学、中山大学(共和国) 国立中山大学(民国)も孫文の名前から取られていますけど、それが実は明治天皇の母方の名前だったってのを知っていて使ったんでしょうかね~ なんて心配しても仕方がないですよね。
庄吉は孫文の資金面を援助していました。
そして帰国してからは日活(の前身ですけど)を興し、映画人として活躍しました。日比谷公園の中にある松本楼も庄吉が創立したお店ですね。(松本楼のHPで左側に孫文と松本楼というのもありますよ、興味がある方はクリックしてみてください)
彼は、孫文の夫人(宋慶齢)や、蒋介石の夫人(宋美齢、慶齢の妹)との結婚も仲立ちしています。
これまた蛇の足。
宋姉妹に関しては、大分前に、ドラマができていたと思いましたけど、ほんのとびとびにしか思い出せません。(ググって見ました。「宋姉妹~中国を支配した華麗なる一族(宗姉妹)」 NHKと香港、カナダの共同制作で1994年の7月に2回シリーズで放映されていました。同じタイトルの本が角川からもでていますね。それと「宋家の三姉妹」というDVDがポニーキャニオンからもだされています)
1934年、梅屋庄吉は中国問題について広田弘毅外相から意見を求められその会議に出席のためにこの別荘を出て、その途中でなくなっています。
梅屋庄吉と孫文の関係は、NHKの「その時 歴史が動いた」の164回目の放送、秘められた革命工作 ~孫文を支えた日本人~(2004年1月14日)でも放送されたそうです。追加しておきますね。ジャンヌさん情報をお借りしました。ありがとう。
実は、長崎市の委員会のメンバーなどをして、その任期が終わったと思ったら、県からのお話で県と関係したりしていて、いろんなところで、長崎ってスペイン・ポルトガル・オランダだけじゃないでしょうって言い続けているんです。でも、私の場合はどちらかというとそれよりもずっと前に海外との交流があっているのだからって気持ちが強いのですけど、、、長崎の特異性がなくなった明治維新以降にも長崎や、長崎人が世界史の中で影響を与えていることが多々あると思うのですけどね、、、、、
それにしても、いすみ市のHP上では、この梅屋別荘でも、この前の鴎荘でも、放浪記でも、検索をかけてみて何もヒットしないって不思議。
社会教育とか文化課とか、教育委員会などのページで何らかのヒットしてもいいと思うのだけど。
もっともいすみ市のHPって、いつかも大雨が降って、市内で土砂崩れなどがあっても、情報は何も出てこなかったし、千葉県のHPでは回りの町の避難所情報がでていても、いすみの分は出てこなかった。
いすみ市ってテレビが映らないところが結構あるんですよ。何かの折にはHPで情報を見るしかないってことを知っていて欲しいな、、、
だって、あのスピーカーの連絡網は風や雨のときにはまったく聞こえないし、晴れていても山に反射して何を言っているのか分からないから。
もしかしたら市役所って建物だけで人がいないのかもしれないですね。
なんて、田舎に隠遁した隠居がほざいても仕方ありませんね。
展覧会の詳細はこちら。
以前の日記にこのことを追加し、タイムスタンプを新しくしました。
いすみ市の三門駅にまつわる話を何回か書きましたね。
三門駅と放浪記。そしてその途中にある森鴎外の鴎荘。三門駅とは関係がないけど、葵の話では大多喜の城主本多忠勝の立ち葵の紋、、、
みんなちょっと触れただけでしたけど。
鴎外の鴎荘の話のときに、このそばに梅屋の別荘があるんだけど、何も書くきっかけがないな~って思っておりました。
そうしたら、神様の思し召し、、、、今朝、長崎県のHPを見ておりましたら、孫文の写真が出てきまして、あら、そうか、、、梅屋は長崎の出身だったって改めて気がつきました。ほんと耄碌したくないですね。
まず、一つ目の蛇の足;
上の長崎県のHPで写真をご覧になった方。
写真の右に小柄な男性が写っているのを見られたと思いますが、この人が西郷四郎。なにか覚えがある? そうでしょう、富田常雄の小説、姿三四郎。「山嵐」で有名になった柔道家、姿三四郎のモデルになった人。
孫文の隣にいる鈴木天眼が「東洋日の出新聞」を創刊したときに、呼ばれて、編集長をしていて、中国にも行き、軍部に批判的な記事も書いている人。
長崎では「長崎游泳協会」の創設者の一人。今の競技水泳ではないのですけど、古流の水泳を長崎に根付かせた張本人。
おかげさまで、私の友人達の中には今でも、ドーバーを渡ろうとしている人がたくさん。
私も長崎湾の郊外の島を泳いで一周できなかったって、夏休みに水泳の特訓をさせられた。
私の実家の長崎の家は今の県庁と市役所の並びにあり、彼の実家であった梅屋商店は家から1キロも離れていない長崎の繁華街にあったのです。
たぶん、家の資料が残っていれば、梅屋との関係なんかが出てくるかもしれませんね。ほんとうに、あらら、、、です。
長崎の郷土史を研究しているグループに長崎楽会というのがあって、東京と長崎で自分たちが研究した成果を月例で発表したりしていますけど、こちらでも長崎人の旦那気質っていうのが時々出てきます。長崎の人に言わせると、幕府のキリシタン防止策の一環で仏教のお祭りを盛んにした(これには中国の葬祭の賑やかさも一役買ったのでしょうね)ということと、長崎を通じての貿易の利益の一部が竈金として市民に振舞われたからというのもあって、長崎人はお祭りが好き、そして旦那気質。
梅屋庄吉もその一人。借金を取り立てに行って、相手の窮状に涙して、借金を棒引きにして帰ってきたり、、あげくに相場に手をだして中国に逃げていきます。
中国に逃げるというのが長崎人らしいですね。
戦前の長崎にとっては大阪や東京は遠い町。でも上海は隣町だったんです。
それに長崎に住み着いて何百年も立つような中国人でも、本国との絆はちゃんと持っているので、中国のことはよく分かる。
私の母親(中国人ではありませんけど)が東京に来て、日暮里のことを「ヒグレサト」なんて読んで笑われていましたけど、その母親に上海の事を聞けば、あそこの交差点の三軒目のお菓子屋さんの何が美味しいなんてことは手に取るが如く分かってしまったかもしれません。
長崎ってそんな町だったんです。
その庄吉が上海から、香港に移り、そこで映画の仕事に手を出します。
そこで知り合ったのが孫文。孫中山です。
またまた蛇の足。
中山というのは孫文が日本に来ていて、そのときに近くに中山ってお屋敷があって、それが気に入って自分の名前にしたらしいのです。
その中山って、、実は明治天皇の母親の実家の名前だったそうです。
孫文の業績は本土の中華人民共和国でも、中華民国でも評価されていて、たとえば両国を代表する大学、中山大学(共和国) 国立中山大学(民国)も孫文の名前から取られていますけど、それが実は明治天皇の母方の名前だったってのを知っていて使ったんでしょうかね~ なんて心配しても仕方がないですよね。
庄吉は孫文の資金面を援助していました。
そして帰国してからは日活(の前身ですけど)を興し、映画人として活躍しました。日比谷公園の中にある松本楼も庄吉が創立したお店ですね。(松本楼のHPで左側に孫文と松本楼というのもありますよ、興味がある方はクリックしてみてください)
彼は、孫文の夫人(宋慶齢)や、蒋介石の夫人(宋美齢、慶齢の妹)との結婚も仲立ちしています。
これまた蛇の足。
宋姉妹に関しては、大分前に、ドラマができていたと思いましたけど、ほんのとびとびにしか思い出せません。(ググって見ました。「宋姉妹~中国を支配した華麗なる一族(宗姉妹)」 NHKと香港、カナダの共同制作で1994年の7月に2回シリーズで放映されていました。同じタイトルの本が角川からもでていますね。それと「宋家の三姉妹」というDVDがポニーキャニオンからもだされています)
1934年、梅屋庄吉は中国問題について広田弘毅外相から意見を求められその会議に出席のためにこの別荘を出て、その途中でなくなっています。
梅屋庄吉と孫文の関係は、NHKの「その時 歴史が動いた」の164回目の放送、秘められた革命工作 ~孫文を支えた日本人~(2004年1月14日)でも放送されたそうです。追加しておきますね。ジャンヌさん情報をお借りしました。ありがとう。
実は、長崎市の委員会のメンバーなどをして、その任期が終わったと思ったら、県からのお話で県と関係したりしていて、いろんなところで、長崎ってスペイン・ポルトガル・オランダだけじゃないでしょうって言い続けているんです。でも、私の場合はどちらかというとそれよりもずっと前に海外との交流があっているのだからって気持ちが強いのですけど、、、長崎の特異性がなくなった明治維新以降にも長崎や、長崎人が世界史の中で影響を与えていることが多々あると思うのですけどね、、、、、
それにしても、いすみ市のHP上では、この梅屋別荘でも、この前の鴎荘でも、放浪記でも、検索をかけてみて何もヒットしないって不思議。
社会教育とか文化課とか、教育委員会などのページで何らかのヒットしてもいいと思うのだけど。
もっともいすみ市のHPって、いつかも大雨が降って、市内で土砂崩れなどがあっても、情報は何も出てこなかったし、千葉県のHPでは回りの町の避難所情報がでていても、いすみの分は出てこなかった。
いすみ市ってテレビが映らないところが結構あるんですよ。何かの折にはHPで情報を見るしかないってことを知っていて欲しいな、、、
だって、あのスピーカーの連絡網は風や雨のときにはまったく聞こえないし、晴れていても山に反射して何を言っているのか分からないから。
もしかしたら市役所って建物だけで人がいないのかもしれないですね。
なんて、田舎に隠遁した隠居がほざいても仕方ありませんね。