旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

2010年沖縄見聞記⑦ … 心に残ったM家の夕食(つづき)

2010-12-11 12:36:19 | 

 

 美味しい泡盛の古酒(クース)を飲みながら、ご両親の話を聞く。
 
お父様は昭和11(1936)年生まれというから私より一歳若いが、全く同世代と言っていい。終戦を迎えたのが9歳、激しい沖縄地上戦の中を北部に逃れ、山原(やんばる)の中を逃げまどうが、やがて米軍の捕虜となる。
 我々には想像もつかない苦しみを味わってきたに相違ない。私が住んでいた大分県の臼杵市は焼夷弾攻撃を一度受けただけで、殆ど戦火の記憶はない。日本は終戦の方途を決めきれず、時間稼ぎに沖縄を防波堤にして本土を守ってきたのだ。そのようなことをおぼろげながら感じてきてはいたが、その「防波堤の真ん中にいた人」を目の前にして話を聴くと、今もなお基地の苦しみを押し付けていることに心が痛む。
 基地は単に国土を奪われているという問題だけではない。先年の米軍による女学生暴行事件などが起こる。「あんなことは許されない。あの抗議デモには私も参加しました。二度とあってはならない」と強調した。長く高校教師を勤められたお父様の子どもを思う心も強いのであろう。

 お母様は宮崎県に疎開されていたそうで、終戦を沖縄で迎えることはなかったのであるが、戦後を長く沖縄に生きて、基地に対する怒りは強い。その夜はちょうど県知事選挙の前夜であったが、「明日の選挙は非常に重要だ。沖縄県民の意思をはっきり示す日で、それを全国民に知ってもらわねばならない」と何度も強調された。そして、「普天間もさることながら問題は嘉手納だ」と言っていた。この基地をなくさない限り基地問題は終わらない、と言うのであろう。
 私は、その日の観光バスで車窓に見続けた金網に囲まれた広大な嘉手納基地を思い起こし、ギクリとする思いでお母様の発言を聞いた。そしてその翌日、普天間、嘉手納の二つの基地めぐりをして、「嘉手納撤去の難しさ」をイヤと言うほど聞かされるのである。お母様はそれを知り抜いているからこそ「普天はまだしも、問題は嘉手納だ」と思うのであろう。

    
         国道に長く続く嘉手納基地を囲む金網

            
                           嘉手納基地内遠望

 


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