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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

続・【沖縄語講座】 「そのまんま西」は北!

2007-01-23 09:17:44 | 沖縄語講座

今朝の各メディアはテレビを筆頭に「そのまんま東」知事の話題でもちきり。

テレビのインタビューで「ひがしこくばる」は言いにくいのでそのまんまは外して「東(ひがし)」一字で行こうかと言っていたが、・・・宮崎県民でさえテレビのコメントで「あずま知事」と発言していた。

東知事なんて陳腐すぎる。

そういえば東京都知事にも「東(あずま)知事」がいた。

「ひがしこくばる知事」という日本一発音しにくい知事の登場はインパクトが強い。

宮崎県の復興にはピッタリだと思うのだが。

                     *

【付記】12:11

「今後は東国原」 そのまんま東氏

 21日の出直し宮崎県知事選で初当選を決めたそのまんま東氏(49)は同夜の記者会見で、公務に携わる際は本名の東国原(ひがしこくばる)英夫を使用する考えを明らかにした。

 東氏は、「『東さん』とニックネームで呼ばれるのはありがたいが、事務的には本名の東国原でいかせてもらおうと思う」と語った。

=2007/01/22付 西日本新聞朝刊=

2007年01月22日02時10分

                  ◇

昨日の「沖縄語講座」で東は上がり、で西は入りだと得意になっていたら友人から「北と南」は何と言うのだと聞かれハタと考え込んだ。

沖縄では太陽の上がりと入りを基準に東と西の付く地名は多いが「北」の付く地名は少ない。

北のことは西(にし)という。

西を北の意味に使う場合は「いり」ではなく、そのまんま「にし」と言うところが面白い。

つまり沖縄語では「そのまんま西」は北の事。
 

※(『おもろさうし』には、「にし」は西の意にも北の意にも用いられている。  参考:図説琉球語辞典05西)

因みに「北枕」の事を沖縄語では「西枕(にしまっくわ」という。

 
それでは「南」は「南風(はえ)」が訛って「ふぇー」、今帰仁方言では「ぺー」という。

良く使う表現で〔風が南にまわること〕は「風(かじ)ぬペーマイ」という。

だが、沖縄では東西の感覚に比べて南北の感覚は余りない。

沖縄の方向感覚について沖縄の歴史を専門に扱っているブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/さんのエントリに興味深い記事を見つけた。

≪面白いのは、古琉球では北方を「上」、南方を「下」とみる観念があったことです。つまり北方(ヤマト?)に何らかの中心性を見出していたことがうかがえるのです。古琉球の歌謡集『おもろさうし』には、日本へ行くこと(やまと旅)を「のぼる」とも表現しています。≫ (同ブログ)

 そういえば大和の旅に出る様子を歌った唄に「上り口説」がある。

「上り口説」は「のぼりくどき」ではなく、「ぬぶいくどぅち」と読む。

この唄は首里を出発して那覇から船に乗り、奄美諸島を通り過ぎて薩摩へと旅をする様子をうたったもの。

◆「上り口説」の歌詞。 カッコ内は沖縄語の発音。

旅ぬ出で立ち観音堂 千手観音伏し拝で 黄金酌とて立ち別る
(たびぬいんじたちくゎんぬんどー しんてぃくゎんぬんふしをぅがでぃ くがにしゃくとぅてぃたちわかる)

袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡 崇元寺
(すでぃにふるつぃゆうしはらゐ うふどーまつぃばらあゆみゆく ゆきばはちまんすーぎーじ)

美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋
(みーぢたかはしうちわたてぃ すでぃをぅつぃらにてぃむるふぃとぅぬ ゆくんかゐるんなかぬはし)

沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露涙
(うちぬすばまでぃうやくちょうでー つぃりてぃわかゆるたびぐるむ すでぃとぅすでぃとぅにつぃゆなみだ)

船のとも綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば 風や真艫に午未
(ふにぬとぅむづぃなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてまふふぃきば かじやまとぅむにうんまふぃつぃじ)

又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て
(またんみぐりおーぐゐんとぅてぃ まにくおうじやみーぐすぃく ざんぱみさちんあとぅにみて)

伊平屋渡立つ波押し添へて 道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く
(いひゃどぅたつなみうしすゐてぃ みちぬしまじまみわたしば しちととぅなかんなだやすぃく)

燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島
(むゆるちむりやゆをがしま さだぬみさちにはゐならでぃエーヰ ありにみゆるわうかゐむん ふじにみまごーさくらじま)

漢字綴りの歌詞を見れば自ずと意味も分かると思うが、より詳しくは下記サイトで。

島唄まじめな研究:上り口説 別ウィンドウで表示

 


 

 

 

 

 

 

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続・「集団自決」と沖縄タイムス 地元メディアの異常反応

2007-01-23 07:59:18 | ★集団自決

                       
 
渡嘉敷島における集団自決の問題も、情報はどこから出たのか。

「軍命令による集団自決」という神話を、初めて活字にした『鉄の暴風』(沖縄タイムス社、昭和二十五年初版発行)は、

隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明したと書いた。 

ところが、現在もなおご健在の梅澤氏は、メディアのバッシングを受けて、その後職も転々とし、またご家庭も崩壊状態になったという。

何よりも今回の「岩波・大江訴訟」原告の一人は「鉄の暴風」で『不明死を遂げたことが判明した』と死亡宣告をされた梅沢氏その人なのだ。

「鉄の暴風」の杜撰な取材手法はこの一点(最重要人物の生死を間違える)だけでも自明である。

幸い梅沢氏の場合は、昭和六十年代に入って座間味村の関係者が真相を公表し、謝罪して身の潔白が証明された。

赤松大尉(渡嘉敷島駐屯第三戦隊隊長)の場合は、真実を語れば村民の「戦後補償」のからくりを暴露することになるのをおそれて沈黙を守った。

そして冤罪を晴らせぬまま他界し、今回の訴訟では弟さんが遺族として原告になっている。

『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の
著者
曽野綾子氏は次のように記している。

「あの多くの沖縄関係の書物が赤松氏の行為を断定し、断罪した証拠はどこからきたか。」

赤松隊長の命令によって集団自決が行われたと断定した第一の資料は沖縄タイムズ社によって刊行された『沖縄戦記・鉄の暴風』であり、初版は昭和25年8月15日である。」

それを原典と考える根拠を曽野さんは記しているが、驚いたことに取材源となった証言者二人の聴取は、現地でなく那覇で行われ、

二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった。しかし当時の状況では、その程度でも、事件に近い人を探し出すのがやっとだった。太田氏は僅か三人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を三カ月で執筆したのである。」

いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者でない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった。」



曽野氏は、「鉄の暴風」の執筆者、その二人の証人、赤松隊長・隊員、現地の生存者に綿密な取材をし、「神話の背景」を記している。

曽野さんは渡嘉敷島で現実にあった集団自決の詳細を直接当事者から聴取し冷酷とも思える文体で描写している。

=以下、曽野綾子氏の「司法制度改革審議会」における発言=

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
第34回司法制度改革審議会議事次第
日 時:平成12年10月16日(月) 9:29 ~12:10
場 所:司法制度改革審議会審議室

【曽野委員】

  ここに持参いたしましたのは『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』という本です。(略) 
3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。(略)

  私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するなら、作家として会ってみておきたいという無責任な興味からでした。私は赤松氏と知己でもなく、いかなる姻戚関係にもなかったので、気楽にそう思えたのです。もちろんこの事件は裁判ではありません。しかし裁判以上にこの事件は終戦後25年目ころの日本のジャーナリズムを賑わし、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。

 もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。

 当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。

 途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです

 第二に、資料です。

 先に述べました資料のうち、1~3までを丁寧に調べていくと、実に多くの文章上の類似箇所が出てきました。今で言うと盗作です。ということは一つが原本であり、他の資料はそれを調べずに引き写したということになります。それをさらに端的に現しているのは、これほどの惨劇のあった事件発生の日時を、この三つの資料は揃って3月26日と記載しているのですが、戦史によると、それは3月27日であります。人は他の日時は勘違いをすることがありましょうが、親しい人、愛する者の命日を偶然揃って間違えるということはあり得ません。

 つまり「沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです

 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。

 
 
 
 
 

 
 
 
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「集団自決」と沖縄タイムス 地元メディアの言論封鎖

2007-01-23 07:45:16 | ★集団自決

沖縄タイムス 2007年1月20日  
 
「集団自決」訴訟/「軍命」で双方反論

 沖縄戦時の慶良間列島で起きた住民の「集団自決」をめぐり、命令を出したという記述で名誉を傷つけられているとして、当時の戦隊長らが作家の大江健三郎さんや著作出版元の岩波書店に損害賠償などを求めている訴訟の第七回口頭弁論が十九日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。
 岩波側は、米公文書館で見つかった当時の米軍の作戦報告書や援護業務を担当した元厚生事務官の記録を基に、「座間味や渡嘉敷の『集団自決』は当初から援護法の対象で、適用を受けるために隊長命令が創作された事実はなかった」と述べた。
 また戦隊長側が渡嘉敷での命令を否定する根拠の一つにしている★沖縄の作家の新聞連載について、隊長が住民を虐殺した事実を抜きに一方的な人物評価をしていると指摘、信用性を否定した。
 戦隊長側は、名誉棄損の対象にしている家永三郎氏の「太平洋戦争」が、第二版から渡嘉敷での隊長命令部分を削除しているのは、曽野綾子氏の「ある神話の背景」の刊行で「歴史家である家永氏が自ら、命令がなかったことを認めているのは明らか」と主張した。
 渡嘉敷の戦跡碑に「『集団自決』は命令によるものではなく(親兄弟の)愛によって行われた」などとする曽野氏の碑文が記されているのを村教委が郷土資料にしており、「村民の真実の声はここにある」などと述べた。
 座間味で隊長命令がなかったことについても生存者の手記や証言で明らかだとしている。

(★筆者注:琉球新報に連載中の沖縄の作家上原正稔氏の「沖縄ショウウダウン」のこと。)

                      ◇

沖縄戦の「集団自決」をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。

この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

『鉄の暴風』は初版は1950年に沖縄タイムス編著、朝日新聞社で出版された。

因みに当時、朝日新聞の沖縄事務所は沖縄タイムスの社屋内にあり、その後初版の内容のままで第8版まで沖縄タイムス社が出版した。

又「鉄の暴風」の共著者の一人で、後に沖縄タイムスの専務になった故牧港篤三氏は戦前は「沖縄朝日新聞」の記者だった。http://www.okinawatimes.co.jp/jin/20040415_1.html

その「鉄の暴風」の中、で慶良間諸島の座間味島、渡嘉敷島の守備隊長であった「赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きた」と書かれたことが戦後60年に渡り様様な問題を残していく。

この記述は、その後沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

「鉄の暴風」では「集団自決」を次のように表現している。

≪恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた≫

≪住民には自決用として、三十二発の手榴(しゅりゅう)弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。…阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた≫

≪座間味島駐屯の将兵は約一千余、…隊長は梅沢少佐…。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。…村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した≫

疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。

座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。

初版より30年後の1980年、沖縄タイムスは「鉄の暴風」の「明らかな事実の誤り(改訂版の序文)」の部分を削除した改訂版を発行した。

「軍命令による集団自決」と言う誤報を元本の「沖縄タイムスが削除訂正したにも関わらず、誤報はどんどん一人歩きを始める。

「強制連行された従軍慰安婦」と全く同じパターンで教科書にまで載るようになり、沖縄では「日本軍の住民虐殺」のシンボルになっている。

この本をネタ本にして、その頃数多くの「沖縄戦モノ」が出版された。

その中にノーベル文学賞作家大江健三郎の「沖縄ノート」(岩波新書)があった。

だが、「沖縄ノート」はタネ本の「鉄の暴風」の「明らかな事実の誤り」を削除したにもかかわらず、その「明らかな事実の誤り」を訂正する事無く依然として現在でも販売されている。

大江氏が沖縄戦に於ける日本軍の責任の象徴として取り上げたのが、「鉄の暴風」の中で述べられている 『渡嘉敷島の集団自決』だった。

この話を概略説明しよう。

終戦の年の3月、沖縄本島上陸を前に、その南西の沖合にある慶良間列島の中の渡嘉敷島で集団自決が行われた、という事件だ。

当時島には陸軍の海上挺進第三戦隊の130 人が、ベニヤ板の船に120 キロの爆弾をつけて夜陰に乗じて、敵の艦艇に突っ込む特攻舟艇部隊としていた。

3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものだ。

自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊だったから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。

また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっておる。

10数冊余のこれら沖縄戦の著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現した。

                                            *

◆「集団自決」のイデオロギー化
                  
30年間も一人歩きをした「誤報」はその歩みを止めることは無い。

沖縄戦で「アメリカ軍は解放軍で日本軍は住民虐殺軍」というスタンスで論調を展開する地元メディアにとって「軍命令による集団自決」は何が何でも死守しなければならない大命題である。

地元学者を総動員して論点をぼかして沖縄の「世論」の押さえ込みに必死だ。

事実、それが教科書にまで載ってしまうと、地元沖縄在住の人達でさえ「軍命令による集団自決」が誤報であったことを知っている人は少数派であろうし、それを声高に主張する「勇気」のある人は更に少数派か皆無に近い。

沖縄で地元メディアと反対の意見を述べる場所は皆無に等しいし、あってもそれを発表することは勇気がいる。

昨年8月27日、長年の沈黙を破って実名による証言をした照屋昇雄さんも6月の時点では「名前をばらしたら沖縄では袋叩きにあう」と地元のバッシングを恐れて実名を隠して証言していた。(文末の音声参照)

地元紙に掲載される「集団自決」関連の記事は地元大学の教授や歴史学者による「日本軍による住民虐殺」が主題となる。

これに対する反論は殆ど掲載されず、当ブログのように個人で意見を述べても「沖縄人のくせに」、とか「仲間を裏切るのか」と言った感情的コメントが書き込まれたりする。

産経新聞の現役記者で沖縄支局員の小山さんのブログ「今夜もさーふーふー」http://koyamay.iza.ne.jp/blog/entry/31333/で沖縄で地元新聞と異なる意見を述べるのが如何に困難な出来事かを次のように述べている。

以下引用。

(平成18年)8月29日

沖縄の「集団自決」を巡る地元の過剰反応

 昨年5月のことです。県政記者クラブで、琉球大学教授らによる記者会見がありました。
 
内容は、近く藤岡信勝・拓大教授らのグループが沖縄戦の「集団自決」の現地調査にやってくる、というものでした。「とんでもない連中が歴史を捏造しようとしている」とのニュアンスです。

 自分たちと立場の違う研究者が、フィールドワークで沖縄入りするらしい、というだけで記者会見をするというのも異常ですが、さらに驚いたのは、翌日の琉球新報、沖縄タイムスが大々的に「沖縄戦の実相をゆがめる意図がある」と警戒する記事を、藤岡教授への取材もなく、一方的に掲載していたことです。

 「これだけでも記事になるのか」と同業者としてあぜんとしました。それこそ「オウム」のような扱いです。

 このとき当方、記者としてではなく、先輩記者からの個人的な依頼として、一行の出迎えと見送りをしました。まずびっくりしたのは、那覇空港で、記者会見したグループの一人がカメラを持って、張り込みをしていたことです。

 さらに戦争の資料館に行ったところ、やはり先回りして、一行の数メートルあとをつけてくるのです。

 また、地元紙の記者が近寄ってきて、突撃インタビューを申し込むのですが、一行はタイトなスケジュールを組んでいるため、困惑して断るしかありません。

 集団自決の現地調査には同行しませんでしたが、最終日、一行から、「まるで犯罪者のように逃げ回っていると思われるのも嫌なので、場所を用意してくれれば、記者会見を開いてもいい」という相談を受けました。
 
ただし、日曜なので県庁の記者クラブが使えず、かといってホテルなどの会議室を借りるにも、急なことの上、費用の問題もあり、結局会見はできませんでした。

 フィールドワークの調査結果の発表会を聞いたうえで、それに「異議有り」と反論するというのであれば、結構なことだと思いますが、危険人物がやってくるとばかりに、訪問の数日前から「警報」を発する過剰な反応ぶりには、ショックを受けたものです。

引用終了

これを読んで「従軍慰安婦問題」での左翼学者や韓国人学者の感情的態度を連想する。

韓国人学者、安秉直ソウル大名誉教授がテレビ番組に出演して、日本軍の慰安婦強制連行の証拠はなかったと言明した。  

≪当初、安教授は軍が強制動員した可能性があると思って韓国挺身隊問題対策協議会と共同で調査をしていた。

だが同会議メンバーとして3年もの間調査活動した結果、同会議をやめた理由をを次のように語っている。

「挺身隊対策協」の目的が慰安婦の本質を把握して今日の悲惨な慰安婦現象を防止することではなく、日本とケンカすることだったからだ」

ソウル大教授が「慰安婦強制動員は無かった」とテレビで証言

地元メディアはすでに「軍命令があったかどうか」は問題でないとか、

「集団自決」ではなく「集団死」だとか、

「沖縄は準戒厳令下」だったから直接軍命令がなくとも、

命令があったのと同じだと主張する学者達の意見を掲載し初めている。

「集団自決」問題は当初の論点からどんどん外れ議論は混迷の様相を呈している。

中には「軍命令が無かった」と言う証拠を示せと言う暴論を吐く人さえいた。

「事件」の発端ともなる「鉄の暴風」の出版元である沖縄タイムスは、ある意味でこの裁判の“準当事者”である。

19日の裁判の前から同紙は裁判についてのキャンペーン記事を書いて被告大江氏と岩波書店への応援をした。

◆沖縄タイムス 2007年1月15日 
 
「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握
座間味村資料で判明/「捏造説」根拠覆す

 沖縄戦時下、慶良間諸島で起きた「集団自決」への遺族補償に関し、一九五七年に申請が始まってから最短で三週間、平均三カ月で補償が認定されていたことが分かった。「集団自決」犠牲者に補償を適用するのは困難だったとされてきたが、沖縄タイムスが入手した座間味村役所資料で、早期認定されていたことが判明した。琉球政府援護課の元職員は「本島に先駆け、慶良間諸島の被害調査を実施した。厚生省(当時)も人々を救おうとの熱意を感じた」と話す。一部マスコミなどによる、補償申請が認定されにくいため「『軍命』が捏造された」という主張の根拠がないことを示している。
 座間味村役所の「戦闘協力該当予定者名簿」および「戦協該当者名簿」、厚生省から返還された県の記録を照合。
 役所がそれぞれの戦没者について戦死状況などをまとめて申請した日から、厚生省が各戦没者が援護法の補償に「該当」すると認定した日までの日数を調べた。要した日数で認定が容易かどうかが分かる。
 (略)
 (編集委員・謝花直美)

                     ◇

戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。(産経新聞 2006年8月27日)

★下記のリンク先で藤岡信勝氏が沖縄戦の真実を音声で解説しています。

2006年6月の時点(この頃地元2紙は地元学者を総動員して「軍による住民虐殺」の大キャンペーンをしていた)で匿名ながら照屋さんは既に全ての証言をしていた様子がよく分ります。「名前をばらしたら沖縄では袋叩きにあうと言う言葉が生々しい。


「照屋証言」報道以前の状況ですが、参考までに聴いて頂きたい。
http://www.voiceblog.jp/okinawa_shinjitu/32568.html


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