狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

渡嘉敷島の狂死する老女 昭和45年3月26日、那覇空港での出来事

2009-09-02 07:27:41 | ★集団自決

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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この数日のエントリーで、1970年3月27日の沖縄タイムス記事を重複を厭わずに繰り返し書いた。 同記事が沖縄戦史を歪曲するマイル・ストーン的役割りを果たしたからだ。

那覇空港で赤松元隊長を待ち受けていた左翼団体が、「赤松帰れ!」の罵声を浴びせたことを沖縄タイムスは、あたかも「渡嘉敷住民が鬼の赤松隊長を追い返した」かのような歪曲記事を書いてて県民を騙した。

そして、その悪意に満ちた沖縄タイムスの歪曲記事を読んだ大江健三郎氏は、作家としての空想力を刺激され、更なる悪意を込めた『沖縄ノート』を書いて国民を騙したのだ。

同書で大江氏は空港のシーンを次のように描写してる。

《那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭(ふとう)では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである

空港で待ち受けた40人(タイムス報道)の「左翼集団」は作家の想像力により「沖縄の青年たち」と変化し、穏やかに渡嘉敷島で赤松隊長の来島を待ちわびていた渡嘉敷住民は、大江氏の筆にかかると「永年にわたって怒りを持続した沖縄の人々」と見事に変貌を遂げている。

さらに大江氏の想像力は止め処もなく飛翔する。

赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」 と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノ ート』にこう書いている。

人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の 巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねが う。かは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に たすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の 余地をこじあけるたに、過去の事実の改変に力を尽くす。 ・・・  このようなエゴサントリックな希 求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、 かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのお りがきたとみなしたのだ。[『沖縄ノート』,p210]  ≫

さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりが きたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事 実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として 赤松・元大尉を描いて見せたのだった。

しかし、「幻想にはと どめがない」のは大江氏自身である。  

現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見 てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴 風』と、

沖縄タイムスの捏造記事をネタに書いた『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾 することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようと した「悪意の幻想」の産物なのである。  

■二人の作家の良心■

大江氏は「空港での事件」を報じる悪意ある記事を見て、自らは現地に行くこともなく憎悪に満ちた『沖縄ノート』を書いたが、

その空港での「事件」を目撃した沖縄の作家の星雅彦氏は、自ら渡嘉敷島の慰霊祭に参加し、慰霊祭の終了後、港で別れを惜しんで涙する住民と赤松隊員の惜別の情景を見た。

そしてあまりにも事実とかけ離れたタイムス報道を見て、流布する「隊長命令説」に疑念を抱き、遂には確信に至った。

大江氏は、作家としての知名度において、格段に星氏に勝るかもしれないが、

作家としての良心においては、星氏のそれには遠く足元にも及ばない。

いや、それどころか、その後の開き直りを見ると、大江氏に良心の欠片さえ見出すのは困難である。

『沖縄ノート』はデタラメ記事で国民を騙したという点でその罪は大きいが、その『沖縄ノート』の発火点となった1970年3月27日付沖縄タイムスの捏造記事も限りなくその罪は大きい。

                    ◇

大江氏のほかにも上記沖縄スタイムス記事をネタに本を書いた人物がいる。

「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社)には、次のような過激な表現がある。http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/48129761.html

《「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社=P150ーP153)

赤松元隊長は、住民329人が死んだ集団「自決」の下命人として、遺族がまとめた 戦記にその名をとどめてきた元大尉である。
その男が、戦後25年たった春ひょっこり沖縄にやってきた。
渡嘉敷島で行われる「自決」者たちの慰霊祭参列のためだという。
ところが、彼は那覇空港でたいそう手荒な出迎えを受けることになった。

「何しに来たか!帰れ」

「お前は沖縄人を何人殺したんだ!」

渡嘉敷島のあるおばあさんは赤松がきたら発狂するから来てくれるな、と言って いるんだ

「帰ってくれ。慰霊祭にでてもらいたくないし、あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」

男を取り巻いたのは教員、歴史家、キリスト教牧師、平和運動家ら50人。
「虐殺者、帰れ!」
と書いたのぼりが立ち、抗議のシュプレキコールが夕闇迫る空港 ターミナルに響いた。

厳しい追及に男は終始口をつぐんでいたが、抗議の人たちの口から「軍国主義」「日本の右翼化」という言葉が飛び出すと、

「わたしのところは平和だし、、、、わたしが来島したからといって、、、、」と切 り出した。

この一言が、取り巻いた人たちをいっそう刺激した。沖縄は戦後このかた他国の軍事 基地に圧迫され、事件・事故の絶える事がない,「平和」とはおよそ無縁の島である。
その人たちを前にして「私のところは平和だし、、、」と言ってのけるヤマトンチュ とは何だろう。

・・・・・・

「彼が島に来たら発狂する」老女さえいる渡嘉敷島の人たちがこの元守備隊長に求め ているのは、「以前のままの赤松」からの脱皮であり、久米島の人たち同様、真摯な 反省と謝罪、そして軍の論理の放棄である。(P150ーP153)》

何と、赤松元大尉が渡嘉敷島を訪問したら島の老女が発狂するというのだ。

ウソの記事の連鎖はこのようにして新たなるウソを捏造していく。

渡嘉敷島の老女が赤松氏の来島の知らせを受けて、発狂したというニュースは寡聞にして知らない。

あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」

空港で待機した左翼集団が「県民」を代表していないことは同行の沖縄タイムスは百も承知のはずだがそれは伏せて、敢えて県民の遺族代表のように報じた。

抗議団=平和を守る沖縄キリスト者の会、歴史・社会科教育者協議会、日本原水爆禁止協議会沖縄県支部、日本平和委員会沖縄県支部、日本科学者協議会沖縄県支部

このような捏造された「物語」が次々と一人歩きして島の住人たちは赤松元大尉を「発狂するほど憎悪している」という神話が地元新聞を通じて沖縄地元の人々さえ「鬼の赤松」を信じるようになっているのである。

慰霊祭の行われた現地渡嘉敷島の様子を琉球新報は次のように伝えている。

この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。

赤松元隊長が本島まで来ていることを知らされても、『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない

と言った言葉が返ってくるだけ。本島でくり広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二五回忌の慰霊祭-」

新報はウソのようなと書いているが、「空港の事件」を報じる記事はウソだったのだ。 

この新聞記事は、実に正直に、島民達が抗議団体の人達よりも冷静に、赤松隊の慰霊祭出席を受け入れていることを報道している。それはそうであろう。

命令はなかったのだから。そして、関係者は皆、放っておいて欲しかったのだ。

しかし『沖縄タイムス』は、こう書く。

・・・赤松氏の来島によって戦争の傷跡が鋭くえぐり出された。『いまさら傷にふれても仕方がない』と遺族の人達は言う。しかし筆者は、遺族にとっては酷な言い方であろうが、あえて言う。

傷痕から目をそらせず凝視してほしい。血を吐くような苦痛を伴うだろうが、その痛みに耐えてほしい。身悶えするような苦悩をするだろうが、それと真剣に戦ってほしい。

なぜなら、そこからしか真の反戦平和の思想は生まれてこない。戦争の傷痕こそ反戦闘争の原点であるから。(後略)」

あの日、赤松氏が那覇空港に到着したとき、果たして何人の県民が「血を吐くような苦痛で、身悶え、苦悩した」だろうか。

記事を書いた記者は、『鉄の暴風』の執筆者太田良博氏と同じように自分の描く「文学作品」に酔い痴れ、このようなクサイ筆致の記事を書いたのであろう。

真実より何より、反戦闘争ありきなのがよくわかる。

このような「反戦」活動に熱心な、抗議団体やジャーナリスト、作家達が、赤松元大尉だけでなく、真実を知りながら口にできない島民の方々のことも苦しませてきたのだ。

                ◇

巷間流布する「神話」が、いかにデタラメであるかを知る上で、「昭和45年3月26日の那覇空港での出来事」は後世、メディアリテラシーの絶好の教材として永遠に語り継がれるだろう。

発狂しそうになった老女は「赤松夫人や赤松元大尉の部下が大挙島を訪れた」のを知って、

「たたりじゃ!」

とでも叫んで、狂死したのだろうか。

 

以上は過去のエントリー「狂死する老女 昭和45年3月26日、那覇空港での出来事」編集・加筆したものです。

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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