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沖縄戦「集団自決」の謎と真実 秦 郁彦 PHP研究所 このアイテムの詳細を見る |
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本日9月25日は、筆者の○○回目の誕生日。
東京で働く娘よりお祝い金が送られてきたので、今夜はかみさんと二人で、寿司でも食いにいこうかと、朝から年甲斐もなくわくわくしているが、・・・
そんなことはどうでもよく、後4日で「9・29県民集会」だということで、しばらく静かだった沖縄タイムスが今朝の三面トップで「9.29県民大会2年 『検定撤回』今年こそ」のワッペン記事で、またぞろ大騒ぎを始めた。
沖縄紙は記事のウェブアップが遅い(10時過ぎ)なので、例によって見出しのみを紹介する。
史実回復へ再点検
<流れが変わる。 壁に穴をあけるなら今だ。>
問われる沖縄の行動
高嶺県議長参加へ
9.29県民集会
記事では、民主党圧勝の報道を見た玉寄哲永氏(75歳ーちょん髷ジーさん)が、政権が変わる機会に「壁に穴をあけるなら今だ」と感じたことに始まり、
現在空席になっている実行委員長に高嶺県議長が、議員各派の了承の上就任するとのこと。
前回の実行委員長は「毒おむすび」で有名な仲里利信県議会議長だったが、今回の高嶺議長は「毒牛乳」でも言い出して話題を取るつもりだろうか。
周知の通り、2年前の同じ日におこなわれた「11万人集会」のテーマである「教科書検定意見撤回を求める」を再確認する集会で、会の名称は「9・29県民大会決議を実現させる県民集会」という長ったらしいもの。
記事の解説部分で
「文部科学省が検定意見の根拠の一つとした元戦隊長の側の主張は、昨年10月の「集団自決」訴訟高裁判決で退けられ、最高裁の判断を待つ段階だ。」とあるが、
事情を知らない読者は高裁判決で元戦隊長の主張が退けられたのなら、なにも今さら「壁に穴をあける」必要も無いだろうと考えるだろう。
ところがタイムス記事は一昨年の「11万人集会」の参加人数を「11万6000人」と「主催者発表」の但し書きを省略するくらいだから、不都合な事実は読者に知らせようとしない。
「元戦隊長の主張は退けられた」と報じられると、
一般の読者は「集団自決に軍命はなかった」という主張が退けられたとの印象を受けるが、高裁判決で退けられたのは『沖縄ノート』の出版差し止めと大江、岩波両被告の謝罪などである。
問題の核心である「集団自決は軍の命令であった」ということは高裁判決でも証明できず、
事実上文部科学省の検定意見は』正しかったことを裏付ける結果となったのである。
一方検定意見では「軍の命令あるいは強制」は削除されたが、「軍の関与」という極めて曖昧な文言は削除されなかった。
だが、今朝の沖縄タイムスによると、「沖縄県民は『軍関与』だけでは許せない。検定意見を撤回させ、事実を伝えなければいけない」ということらしい。
一部の左翼集団が「沖縄県民」の代表であるかのように報道するタイムスの報道姿勢はさておくとして、
この機会に、戦時中に、よく言えば「利用」悪く言えば「悪用」された「軍の命令」について考えてみる。
実際には命令は発せられていなくとも、また、軍が命令する権限がない場合でも、戦時中の社会風潮から「軍命」と言った方が万事敏速に行動に移す傾向にあった。
例えば「○○へ集合」という場合でも迅速を期す場合「軍命」という言葉が頻繁に悪用された。
特に、万事約束ごとには「テーゲー主義」の沖縄では行政が住民に何か告知する場合も「軍命」にしたほうが効果的だったことは容易に想像できる。
県外疎開も実際に住民に命令出来る立場にあったのは軍ではなく行政側であったので、
県外疎開を緊急課題と考えた軍は行政に協力を依頼した。
当初県外疎開に反対の風潮にあった県民に対して行政側は「軍命」を利用した。
だが「軍命」も頻繁に利用(悪用?)されると住民側もこれに従わないようになってくる。
オオカミ少年の例えというより、そもそも軍命なんて軍が民間に下すものではないということは一部には知れ渡っていたのだ。
『沖縄県史』第四巻には「集団疎開に対する県民の心境」として次のような記述がある。
当時の戦局からして、国家の至上命令としてどうしても疎開しなければならなかったのである。 刻々に迫ってくる戦火への不安、その中で県民は島を守るべき義務を軍部と共に負わされ、生活を軍部の専権にゆだねさせられた。
しかし、このような状況にあって、一家の中堅である男子壮年者は沖縄に留まり、老幼婦女子のみを未知の土地に送るという生活の不安や、肉親の絶ちがたい愛情に加うる、海上の潜水艦の脅威などから、住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった。(略)
かくして昭和19年7月中旬垂範の意味で県庁、警察の職員家族が疎開し、同8月16日1回目の学童疎開を送り出すまで、学校、、隣組などにおける勧奨が燃え上がるなかで隣組の集会などに持ち込まれる流言、戦況に対する信頼と不安の錯そうなどから家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。(『沖縄県史』第四巻)
沖縄県史の記述の中にも「命令」を「利用」した当時の緊迫した状況が読み取れる。
学童疎開も「従わなければならない」という意味では軍どころか「国家の至上命令」としておきながらも、「住民は疎開の○○に容易に応じようとはしなかった」というくだりでは、命令ではなく勧奨と言葉の使い分けをしている。
一部には県外疎開は一部の本土出身役人が先に本土疎開で逃亡し、県民は疎開できなかったという説もあるが、これは大きな間違いであることが県史や他の文献から容易に分かる。
上記でも(軍命だとした)県の勧奨にも従わない県民のため、「垂範の意味で県庁、警察の職員家族が疎開した」と当時の実情を記録している。
家族間は「疎開すべきか」で賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。
「軍の命令」が親兄弟の命を奪わねばならないほど厳格なものだったら、賛否の論議の余地はなかっただろうし、疎開命令に対しても絶対服従であり、荷物をまとめたりほぐしたりする余裕などなかったはずだ。
むしろ米軍来襲におびえて、荷物をまとめたりほぐしたりする住民の様子は、
米軍上陸を目前にしてパニックになり、「自決すべきか生き延びるべきか」と迷ったあげく、結局グループのリーダーの決断に委ねた座間味、渡嘉敷両村の住民の心境に相通ずるものがあるのではないか。(この様子は宮城晴美氏の論文にも記されている)
どちらの場合も一家の主が拒否しようと思えば出来た。
学童疎開を拒否した家族は結局戦火に巻き込まれ多くの被害者をだし、集団自決を拒否した家族は戦火を生き延びた。
軍命という言葉は、戦時中は行政側や一部民間団体に利用され、
戦後は左翼勢力によって悪用され、「残虐非道な日本軍が住民に自決命令を下した」と教科書に記述せよという。
これが、「9.29県民大会決議を実現させる集会」の目的である。
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