前に「沖縄イニシアティブ」方式という、沖縄紙独特の言論封殺法を紹介した。(雑誌『WILLL』でも紹介してある)
だが、実際はその十数年前の1980年代に、曽野綾子著『ある神話の背景』の評価を巡って、沖縄の知識人の間で行われた「論争」に「沖縄イニシアティブ」方式の先駆けを垣間見ることが出来る。
琉球大学助教授(当時)仲程昌徳氏が『沖縄の戦記』で、『鉄の暴風』の杜撰な取材方法を批判し『ある神話の背景』を評価した。
そのあとがきで仲程氏は次のように文を結んでいる。
「新聞連載中、あたたかい励ましと『琉球新報』文化部の三木健氏、出版するにあたってお世話になった朝日新聞出版局の赤藤了勇氏に心からお礼の言葉を申し上げたい。>
ナ・ナ・なんと、 『鉄の暴風』を批判し、『ある神話の背景』を評価する文を、あの「琉球新報」が連載させていた!?
そして、新報の三木記者に励まされていた!?
何より驚きは出版社が朝日新聞出版社であったことだ。(朝日選書208)
「集団自決訴訟」が提訴される、20数年前は記事を連載させた琉球新報も、出版をした朝日新聞もまだまともな部分が残っていたことが分かる。
だが、その数年後から沖縄の論壇は一変してくる。
沖縄のサヨク知識人が、一斉に徒党を組んで仲程氏に噛み付いてくる。
代表を決めての論争ならフェアーといえる。
だが、沖縄サヨクは数を頼んで袋叩きにするという卑劣な手段を使ったのだ。 数が少なければ当然発言の機会も制限され、いつしか仲程氏の名前は沖縄紙に紙面から見えなくなってしまった。
で、仲程氏を袋叩きにしたサヨク知識人たちとは?
太田良博氏石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、宮城晴美、新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載され、さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の仲程氏批判文が・・・。
反対派は、いずれもお馴染みの面々だが、沖縄紙というアンフェアの土俵で一人の良識ある学者が紙面から放逐される構図をあらわす例である。
彼らの常套手段は理屈もヘッタクレもなく、ひたすらイデオロギー論争に引きずり込む魂胆で、まともに相手をした仲程氏こそお気の毒としか言いようがない。
ちなみに、反対論者のいれいたかし氏は、
「戦艦大和が沖縄に向かった任務は、沖縄県民の虐殺であった。 途中で撃沈されてよかった」
といった趣旨のトンでも論を沖縄タイムスに掲載する極左知識人である。(掲載する新聞も新聞だが)
詳細⇒続・戦艦大和の特別任務★それは沖縄県民の虐殺であった!
仲程氏を囲む「論争」の相手は、サヨク知識人連合にとどまらず「読者の声」も巧妙に「仲程バッシング」に利用するという徹底ぶりである。
ここに地元のサヨク雑誌「EDGE」に掲載された当時の「論争」についての様子を述べた文があるので引用する。
論点に関係ない部分を、ことさら情緒的形容詞を多用してのべるあたり典型的なサヨク支持者の文である。
【「集団自決」論争】
『ある神話の背景』の背景 〈神話〉を作る身振りと〈事実〉へ向かう姿勢
石川為丸
曽野綾子の『ある神話の背景』は、いささか挑発的な、右よりの論調を特徴とする雑誌『諸君』に1971年10月から1972年8月まで11ヶ月にわたって連載された後、1973年に、単行本として文芸春秋社から刊行された。この『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図はあまりにも明白であると言ってよい。「神話」とは、言うまでもなく、古くから人々の間に語り継がれている神を中心にした物語のことである。が、普通は、「客観的根拠なしに人々によって広く信じられていることがら」といった意味で使われている。曽野はかつての沖縄戦における日本軍のなした悪業の事実を、客観的根拠のない「神話」という水準のものにしたかったのだ。沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を、軽い「神話」にしてしまおうとする意図。慶良間列島の島々の名前を覚えにくいという人のために、曽野はこんなザレ歌をわざわざつくったりしているのだ。
「慶良間(けらま)ケラケラ、阿嘉(あか)んべ、座間味(ざまみ)やがれ、ま渡嘉敷(かしとき)」。最後の「渡嘉敷」に無理があるへたくそなザレ歌ではあるにせよ、曾野のこういう軽いノリが、暗黙のうちにそのことを物語ってもいるのだろう。
だが、この書『ある神話の背景』はそれなりの説得力を持ってはいたようである。琉大の仲程昌徳先生でさえ、こんなことを書いて、曽野の「神話」説に寄り添ったほどなのだから。仲程先生は、「公平な視点というストイックなありようが、曽野の沖縄戦をあつかった三作目『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』にもつらぬかれるのはごく当然であったといえる。」(「本土の作家の沖縄戦記」)などと曽野を持ち上げていたのだ。だが、もし、曽野の語り口に惑わされずに、冷静に『ある神話の背景』を読んでいさえすれば、それが、戦後になってまとめられた赤松隊の「私製陣中日誌」や、赤松や赤松隊の兵士らの証言等をもとに構成された加害者の側に立ったものでしかなかったということがわかるだろう。いったいそんなもののどこに、「公平な視点というストイックなありよう」などが貫かれていようか。だが、仲程先生はさらに、〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつきくずしていくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。すわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられたのである。〉とまで述べて、曽野の「神話」説を全面肯定したのだ。
こうした論調の存在を踏まえて、1985年になって、『鉄の暴風』で渡嘉敷島の集団自決の項を執筆した太田良博氏から「沖縄戦に“神話”はない」と題された曽野綾子の「神話」説への丁寧な反論が「沖縄タイムス」紙上(1985年4月8日~4月18日)でなされた。これに対する曽野綾子からの「お答え」があり、更にそれに対して太田氏からの反論があった。この太田―曽野論争を受けて、タイムス紙上で、石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、仲程昌徳氏、宮城晴美氏らが発言した。その後、『ある神話の背景』をめぐる論争等に関連して、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」が、沖大で催された。その際の、新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、大城将保氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載された。さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」が掲載された。さらに、新聞の投書欄やコラムを通して活発な発言がなされた。
「太田氏は、伝聞証拠で信用できないと(曽野らに)決めつけられた『鉄の暴風』の記述を戦後四十年にしてさらに補完したことでジャーナリストとしての責任を果たしたことになり、そのことに敬意を表したい。」といれい氏が述べている通り、この論争では太田良博氏は一貫して事実に向かおうとする真摯な姿勢を貫いた。それに比べて、曽野綾子の不真面目さが際立っていた。曽野は、「つい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである」ことをまず述べて、太田氏の主張も、それに反駁することも、自分の著作も、「現在の地球的な状況の中では共にとるに足りない小さなことになりかけていると感じる」などと言って、まともに対応しなかったのだ。また、「第二次世界大戦が終わってから四十年が経った」ので「いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない」などと説教までたれていたのだ。こういう無責任なずらしに対しては、石原氏がピシリといいことを言っている。「歴史始まって以来の大きなできごとである沖縄戦の全事実の一部たりとも、闇に葬り去らずに記録し、そこから再び惨劇を繰り返さない歴史の教訓を学ぶことが、体験者と同時代に生きるものの責務であり、体験を語ることが戦没者の死を無駄にしない生存者の使命となっている」と。『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図は、住民虐殺を始めとする、沖縄における日本軍のなした悪業の数々を免罪しようということであった。もともとそんなことは無理なことなので、曽野はまともに論争することができなかったのだと言えよう。客観的な事実に正面からぶつかったら、当然にもボロが出てしまうような質のものだった。だから曽野は、『鉄の暴風』の中の太田氏の記述を、「こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。」とけなしてみたり、「太田氏という人は分裂症なのだろうか。」などと病む者への配慮を欠いた、けなし文句で対応することしかできなかったのだ。挙句の果ては、沖縄は「閉鎖社会」だとか、学校教育の場では「日の丸」を掲揚し、「君が代」をきちんと歌わせろ、などと述べる始末であった。太田氏の反論に対して、曽野は、結局何一つまともに対応できなかったのだ。
曽野の発言に見られるような支配的な潮流は、沖縄戦における日本軍の犯罪を免罪し、「もうあの戦争のことは忘れよう」ということであった。そういう文脈の中で、仲程昌徳氏が、「軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう」という岸田秀の一節を引用して、民衆レベルでの戦争責任を持ち出そうとしたのは、それ自体は大切な問題であったにもかかわらず、住民の側が凄まじい被害を受けた場であるということを考慮にいれていないために、大きく論点を逸らす役割しか果たさなかったと言えよう。それは、「生き残ったものすべての罪である」などといった、沖縄戦における真の加害責任を免罪しようとする曽野の論調に荷担するものでしかなかったのだ。だが、そのような仲程氏の発言を除けば、県史料編集所専門員(当時)の大城将保氏の、「住民虐殺」も「集団自決」も根本的な要因は軍の住民に対する防諜対策、スパイ取締であったという、
客観的な資料に基づく説をはじめとして、総じて沖縄戦を再認識させる真摯なものであった。ただ、残念であったことは、論争が、沖縄という地域限定のものから全国的なものに展開する前に、曽野が逃亡を決め込んでしまったことである。
こうした十四年前に行なわれた論争に、私たちは、今何を付け加えようか。それがあまりにも常識的なことであるためなのか、天皇制への言及がなかったことが、ただ一つ私などの気になっている点ではある。渡嘉敷や座間味にまで慰安婦を連れて蠕動していた日本軍は、そこでいったい何を目的にしていたのかということを、ひとまず再確認しておこう。渡嘉敷では住民を虐殺し、「集団自決」を強制させていたわけであるが、それは、皇軍の使命が沖縄を守るためなどではなく、「国体(天皇制)護持」のためであったからということだ。ポツダム宣言の受諾が遅れたのは、時の権力が国体護持すなわち天皇制の存続に執着したためであることは、今や常識となっている。天皇の命を救い、天皇制を延命させるための策謀のために、沖縄の住民九万四千人が犠牲にされたのだということは、何度でも確認しておく必要があるだろう。天皇(制)による戦争の凄まじい犠牲にあいながらも、それから半世紀以上経てもなお、天皇制は温存され、沖縄が日米両軍の戦争遂行のための中心基地にされているという事態に、私たちはもっと驚くべきなのだ。これは、戦争責任の問題が、「戦後責任」として現在にも持ち越されているということにほかならない。十四年前の「集団自決」論争は、今に温存されてしまった「戦前・戦中」と絡めて、繰り返し想起していくべきはずのものである。〈「EDGE」 NO8 1999 より〉
◇
「おまけ」
人間、自分の痛い所を突かれると取り乱してヒステリックな反応を示すもの。
『WILL』掲載の鴨野記者のレポートに対するネット上の反応(当日記コメント欄を含む)を見ると、「軍命あり派」の動揺振りが吐露されて興味深い。
それにもうひとつの彼らの固定観念も垣間見れて、思わずニヤリとさせられた。
彼らの固定観念とは?
<「狼魔人日記」のような沖縄二紙と反対の論調をしつこく続ける人物は沖縄人であるはずがない>
したがって、狼魔人のニセ沖縄人である。(爆)
彼らの思考範囲では、
「沖縄人とは一丸となって『自決命令(強制)の存在』を信じ、一丸となって『11万人集会』を支持するという金太郎飴のような集団」だ、
という妄想を超える事は出来ないらしい。
その固定観念から導きだされる結論は、「沖縄在住のニセ貴縄人が書いたのが狼魔人日記」でアル。
このように動揺すると彼らは、沖縄人以外に沖縄を批判するのは許さないという公理?を持ち出してくる。
同じようなことは他の分野にも見られる。
かつて(復帰前)沖縄に思い入れのあった竹中労氏が、沖縄の島々を廻り口伝の民謡を収集した。
その体験を基に、当時の沖縄文化の第一人者といわれた某氏(沖縄の有名人の父)と対談した折、
議論が白熱し返答に困った某氏が放った一言が今でも脳裏に残っている。
「やまとぅんちゅんかいぬーぬわかいが!」
「大和人に何が分かるか!」
これでは議論も何もあったものではないと思ったが、
「狼魔人・やまとんちゅ説」にはこれと同じ構図が見て取れる。
終戦直後から現在に至るまで沖縄に在住する筆者は、
かつて一度たりとも自分のことをヤマトンチュだと言った覚えははないのだがね。
つりにひっかったのかな。(笑)
★『WILL』緊急増刊号
特集<狙われる沖縄>の目次
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沖縄の戦記 (1982年) 仲程 昌徳 朝日新聞社 このアイテムの詳細を見る |