『正論』2009・12月号掲載
「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった -沖縄集団自決の真実と謎
星 雅彦 (沖縄文化協会会長)
■米兵の犯罪王国
一九四六年の沖縄。戦争の後遺症を引きずりながら、人々は大いなる開放感を抱いて元気を取り戻しつつあった。戦前からの指導者十五人が住民の福祉増進を図るために設立された沖縄諮絢会の委員として選定され、四月には執行機関として沖縄民政府が誕生した。その一年後には、県外疎開者や軍人の帰還が続き、沖縄はようやく活気を取り戻し始め、本当の意味での戦後生活が始まった。
他方、米軍は行政面で秩序を保持しているように見えたものの、米軍兵士たちはキャンプの外に出るとやりたい放題。暴力犯罪と性犯罪が頻発した。そこで米軍政府は住民には自己防衛を強化するように呼びかけ、他方、米兵には住民の地域への立ち入りを禁止した。だがその効果はほどんどなかった。
住民たちは自已防衛のために村落の入りロや街角のガジュマルの枝に、鉄のガスボンべの廃品筒を吊り下げた。それは緊急の場合に打ち鳴らす災難除けの鉦代わりなのだ。近年まであっちまっちで見かけることができた。
四八年八月十九日の深夜にある夢件が起こった。白人と黒人の米兵二人が、民家をのぞき見しながらある村を徘徊していた。それを見つけた住民がガスボンべを打ち鳴らすと、自警団の青年たちが飛び出してきて米兵を追いかけ、逃げ遅れた一人ともみ合った挙句、相手が拳銃を取り出す直前にナイフで胸を突き刺して死亡させてしまったのだ。その後の軍事法廷で弁護人側は「正当防衛」を主張したが、受け入れられず戦時刑法を適用してその青年は絞首刑に処せられた。自警団には自衛心とある種の怨念が入り混じった闘争意識があっての事件であったが、この判決が正当だとは言い難い。逆に米兵が自警団員を射殺するという事件も何件か発生した。ほとんどの場合、犯人は本国へ強制送還という形で処理された。
一九四九年九月までの六ヵ月間の警察調査では、米兵の強姦一八、殺人二九、強盗一六、傷害三三という犯罪数が計上されている。この状況に対して、県民が抗議したりデモ行進したりすることはなかったが、「ヤンキ一・ゴーホーム」という思いは日毎に強くなっていた。そこで米軍政府はあの手この手で懐柔政策を練り、宣撫工策班が動きはじめたという。
日本本土でも戦後の混乱期には、同様な犯罪が頻発しており、GHQ(連合国軍総司令部)は、いち早く日本人をマインド・コントロ一ルする計画に着手した。
■マインド・トロール
今次大戦の終戦直後、アメリカという産業と科学と軍事の発達した大国と対戦して、無残に敗北したという思いから、多くの日本人は絶望感と虚脱感に襲われたが、そこから立ち上がる過程で贖罪意識なるものはなかったようだ。ところが、アメリカは日本が二度ととアメリカには刃向かえないように、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)を実施、あらゆるものに検閲という言論統制をしくなど「マインド・コントロ一ル」を巧妙に行い、日本人に贖罪意識を植えつけていった。その一例がGHQの民間情報教育局企画課のブラッドフォード・スミス課長が全国の新聞各紙に昭和二十年十二月八日から十日間にわたって連載した『太平洋戦争史』である。そして十二月十五日には、GHQが公文書において「大東亜戦争」や「八紘一宇」なる用語の使用を禁止するという指令を出した。
『太平洋戦争史』の主な内容は「戦争を開始した罪、それ以降日本人に対して歴史の真相を隠蔽した罪、日本人の残虐行為、とりわけ南京とマニラでの残虐行為に関する事実を強調したもの」であった。少し長文だが同書の序言の冒頭部分を引用したい。
「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に暇がないほどであるが、……次々に動かすことのできぬような明瞭な資料によって発表されていくことになろう。これによって初めて日本の戦争犯罪史は検閲の鋏を受けることもなく、また戦争犯罪者たちに気兼ねすることもなく詳細に、かつ完全に暴露されるであろう。これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取り扱い等であるが、これらのうち何といっても彼ちの非道なる行為で最も重大な結果をもたらしたものは『真実の隠蔽』であろう」
同書の狙いは、国民と軍部を明確に分離してその対立を作り出し、東京裁判をサポートすることであった。そしてGHQの強力な宣撫工作を後押しするように、朝日新聞は「奪う『侵略』の基地―国民の対米憎悪を煽る」、読売報知新聞は「恥づべし南京の大悪逆暴行沙汰」などと、大々的に同書に追随する記事を掲戴した。
■米軍政府と沖縄タイムス社
沖縄においても事情は同様だ。一九四八年七月一日にガリ版刷りの新聞が創刊された。沖縄タイムス社の「沖縄タイムス」である。その創刊号一面トップには沖縄軍政府副長官のW・H・クレイグ大佐と軍政府情報部長R・E・ハウトン大尉の短い祝辞が掲載されている。その間に「沖縄再建の重大使命 軍民両政府の命令政策を傳達 国際及地方の情報を報道せよ」という大きく力強い文字が躍っていた。このこと一つをとっても、同紙が沖縄の米軍政府のバックアップを受けていただろうことが分かる。
そして四九年五月、同紙では常務の豊平良顕と常務の座安盛徳が中心になって沖縄戦記の編纂計画を立案する。そこで生まれたものこそ本稿で論じる『鉄の暴風』である。
同社の歴史を回顧した高嶺朝光著『新聞五十年』を見ると、「市町村や一般にも協力を呼びかけて手記、日記類などの資料収集に三ヶ月を費やし、牧港篤三、太田良博の両君が取材、執筆に当たって同年十一月には脱稿した」「『鉄の暴風』のタイトルも豊平君らが考えた」とある。
企画を立ててから取材三ヵ月、執筆三ヵ月。つまりわずか半年で『鉄の暴風』は誕生したのである。紙不足の時代である。協力を求めるガリ版刷りのチラシを作って配布するとしても限度があるし、交通機関や通信機器はないに等しい。そんな不便な時代によくぞと思う。
それが可能になったのは、やはり米軍政府のバッグアップがあったからではないか。新聞発行の許認可は米軍政府情報部長のハウトン大尉が握っていた。彼は四八年六月二十八日に、沖縄夕イムス社に発行許可を出している。それは、「うるま新報」の瀬長亀次郎が政治運動を始めたのを警戒して対抗紙を育てようという意図からであった。
■出版の背後にちらつくGHQの影
『鉄の暴風』の執筆者は、記者で詩人の牧港篤三と記者で小説家の太田良博の二人。牧港は日本の戦記出版類は大抵読んだという戦争通で、太田は米国民政府(ユースカー)に勤めていた経験があった。太田は米国民政府から沖縄戦に関する資料を提供してもらっていたと思われるが、漏洩防止の密約をしていたのだろう、米軍資料について口外することはなかった。私は三十年ほど前に、米軍情報に関連したことを太田に訊いたことがあったが、彼は薄笑いを浮かべて「憶えてないなあ」と言うだけであった。ニ人は本島内に数回出かけた程度でほとんど現地取材をしておらず、伝聞や手記や日記、そして米軍資料をもとに戦記物語を書きまくったらしい。
書き上がった原稿は豊平の監修をへて、翁長敏郎(のち琉球大学教授)が英訳を担当、十二月で作業は終了した。
その頃、軍政長官としてJ・R・シーツ陸軍少将が着任した。シーツ長官は『鉄の暴風』の英文原稿を受け取ってはいたが、その内容については明確な説明は何も受けていなかったようだ。そうしているうちに五〇年三月二十九日、座安盛徳は『鉄の暴風』の原稿を抱えて上京する。沖縄に本の印刷機がなかったため、朝日新聞社に発行を依頼しようとしたのだ。ところが朝日新聞者は座安に対し、「戦記ものはもう流行遅れだ」といってけんもほろろに断る。戦記物の人気は峠を越していて、売れてもせいぜい二、三千部程度だったのだ。
しかし、座安はある所からの頼もしい庄力を感じており、落胆することなく、東京に滞在してさまざまな案件をこなしていた。すると数日後、座安のもとに朝日新聞社から『鉄の暴風』の出版について「相談したい」と知らせてきた。朝日新聞社は座安に対し丁寧に出版への意欲を示し、いきなり発行部数はついて、朝日新聞社が一万部、沖縄タイムス社が一万部、両社折半ではどうかと切りだした。座安は驚きながらも快諾した。
朝日新聞出版部長は『鉄の暴風』について、沖縄住民の苦しみを中核にしてこれだけ日本軍の残虐性を打ち出し、米軍のヒュ一マニズムを謳った本はどこにもない。と意気込むような感想をもらしたという。
この東京滞在期間中、座安は北海タイムスからマリノ二式輪転機を購入するメドをつけ、さらにある朗報を待っていた。そしてその朗報は届く。それはマッカ一サ一元帥との面会である。座安は奄美大島の副知事らとともに、マッカーサー元帥への面会を申し込んでいた。どんな高官であろうと簡単には会えない元師が、座安たちの面会を受諾したのである。短い時間であったが、マッカーサー元帥は微笑みを浮かべながら沖縄の現状をたずねた。座安たちは握手を交わしていとまごいした。
このとき一緒に撮った写真が後日、新聞に掲載されると沖縄の米軍政府は騒然となった。なぜならマッカーサーに何か告げ口でもされたのではないかと訝ったからだ。米軍政府はすぐさま沖縄タイムス社の社長を呼び出したが、たまたま印刷業の視察に行って運良くマ元帥との会見に恵まれたという社長の説明でこの騒ぎは収束したという。
■秘められたGHQの底意
一九五〇年六月十五日、シーツ長官は『鉄の暴風』の発行を許可し、ニヵ月後の八月十五日、ついに朝日新聞社から刊行される。それは挿し絵の入った四百数十ぺージの大著であった。沖縄復興計画、いわゆるシ一ツ政策」の指揮人者であったシ一ツ長官は、にあたって推薦文を書いてはいるが、英訳を受け取って発行の許可を与えるのに半年もの時間をかけていた。その理由は、彼が発行を許可する数ヵ月も前に、印刷にかかっていたことや、豊平が「"鉄の暴風"と記録文学―沖縄戦記脱稿記」を沖縄タイムス社が発行する『月刊タイムス』一九五〇年一月号に発表していたことに不満を抱いていたからではなかろうか。豊平の論文の内容は『鉄の暴風』の紹介であるが、発刊に至るまでの説明や記録文学の意議などにもふれた四百字詰め原稿用紙十枚ほどのものだ。ここには「苛烈な戦争の実相を世の人々に報告すべき」「非戦闘員の動きに重点を置いた」「住民側から見た沖縄戦の全般的な様相を…」といった説明の中に「米軍の高いヒューマニズム」という言葉が五、六回も登場するなど、米軍礼賛に終始する内容であったのではあるが。
また興味深いことに、豊平は論文の末尾に次のような一文をしたためているのである。「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承ったことは、あるいは、最適任者を得たものではあるまいかと思う」
タイムス社はいったい誰からこの仕事を「承った」のだろう。
発行許可を与えたシーツ長官は同年七月二十七日、病気を理由に突然退任することになる。マッカーサーによって更迭されたという噂もあたなが、帰米にあたってシ一ツ長官は「世にシーツ政策なるものがあったといわれるが、それは私個人の政策ではなく、マッカーサ一元帥の政策である……」と挨拶した。
『鉄の暴風』は初めて書かれた沖縄戦の記録であり、その後の沖縄戦を描いた戦記の原点となっている。これまでに沖縄戦はついては夥しい数の著作が刊行されているが、一部を除いてほとんどが同書を種本にしているといっても過言ではない。一九六〇年代後半に初版を読んだ私は、引き込まれるように読んだ記憶がある。
私が同書に疑問を持つようになったのは、県資料編集所が刊行する『沖縄県史第九巻 沖縄戦記録Ⅰ』の執筆のため、北谷村から中部。南部一帯の各集落を回って聞き取り調査をしたことがきっかけだった。あれは確か一九七〇年の暮れのことだった。私は県資料編集所職員のAとBの訪問を受けた。Aは私の書いた原稿について「なぜ日本兵の善行などを書き入れたのか」と詰問してきたのである。
取材は、各区長の家に集まってもらった人たちに座談会形式で話をしてもらい、これを記録するという形で行った。取材は私一人ではなく資料編集所長の名嘉正八郎も一緒であった。この取材で日本兵が住民を助ける話も幾つか出たので、「そういうものも記録すべきだと思った」とだけ答えた。Aたちは私を糾弾する気配であった。因みにAはマルクス主議者で、一つのイデオロギーにすべての物事をはめて判断しようとする傾向があったのだ。
この取材を通して私は『鉄の暴風』は、日本軍を『悪』とするために創作された、ノンフィクションを巧みに交えた推理小説風読み物ではないかと考えるようになった。そこには日本軍と国民、また日本軍と沖縄住民を二極に分離させ対立させる仕掛けが巧みに織り込まれているのである。まさしく江藤淳が『閉ざされた言語空間』で指摘したように、日本と米国との戦いを、日本の「軍国主義者」と「国民」との戦いにすり替えようとする米軍の底意が秘められていたのである。
■集団自決をめぐる虚偽記載
最後に『鉄の暴風』の虚偽を「集団自決」に限定して指摘しておきたい。もちろんこれは最終的なものではなく、まだまだ研鑽の余地があることを断っておく。矢印の上が『鉄の暴風」の虚偽記載、下がこれを糺したものである。ちなみに虚偽を裏付ける証拠は実際には複数存在するのだが、代表的なものを記号で表すことにする。M=皆本義博中尉、T=谷本小次郎軍曹、C=知念朝睦少尉、J=陣中日誌、S=その他
【渡嘉敷島】
《海上特攻隊》一三〇人 → 一〇四人 ―J
《整備兵》一二〇人 → 隊長木林明中尉以下五五人(最多時八〇人) ―MとT
《防衛隊員》七〇人 → 屋比久孟祥以下六〇~七〇人 ―MとT
《朝鮮人軍夫》約二〇〇〇人 → 斉田童雄少尉以下一三人、軍夫二一〇人 ―M
《通信部隊》若干名 → 基地隊・西村市五郎大尉以下約六〇人、通信隊約二〇人(整備兵を合わせて最多時一六一人) ―MとT
《特攻艇》米軍の斥候がみとめられた日の朝まだき(三月十五日)赤松隊は渡嘉敷五〇隻、阿波連三〇隻にエンジンを取り付ける → 渡嘉敷に特攻艇は無い。渡嘉志久に六九雙、阿波連三〇隻が出撃準備を整えたが、エンジンは取り外しするものではなく、もともと設置されていた ―MとT
《赤松隊長》隊長は陣地の壕深く潜み動かず → 赤松隊長は第三二軍司令部から出撃許可を受けていたが、途中で大町大佐が海上から来島して出撃をめぐり議論となる。大町大佐は危険をかいくぐって座間味経由で来島、海上は封鎖されているから出撃は不可能と主張。舟艇の自沈を命じた ―S
《米軍上陸》三月二十六日午前六時頃、渡嘉志久、阿波連、渡嘉敷より米軍上陸 → 米軍は二十七日午前九時ごろ、渡嘉志久、阿波連、留利加波より上陸 ―MとT
《将校会議》三月二十七日地下壕において将校会議 → ニ十七日には舟艇用の壕以外には無く、二十八日から構築を開始した構築壕は横穴であり地下壕ではない。赤松隊の壕は全て個人用として掘ったもの。本部壕と呼べるものはない。一番大きい隊長の壕は幅が一・八メートル、高さ一・六メートル、奥行き四メートルほどである。(舟艇壕は高さ二メ一トル、幅三メートル、奥行き十二メ一トルである。舟艇の幅一・ハメ一トル、長さ六メ一トル) ―M
《知念少尉》悲憤のあまり慟哭 → 本人が全面否定している ―S
《自決命令》赤松隊長が自決命令を出す → 自決命令は赤松隊長からも、軍からも出ていない ―S
《手榴弾》用意された手榴弾三二発、追加二〇発、合計五二発 → すべて不明 ―S
《自決者人数》三二九人 → ①渡嘉敷村の慰霊碑の記録では三一五人 ―MとT ②渡嘉敷村役場の記録によると一般住民二八六人。防衛隊員二〇人、計三〇六人 ―S
《迫撃砲による死者》三二人 → 不明 ―S
《生存者》渡嘉敷民一二六人、阿波連民二〇三人、前島民七人(計三三六人) → ①渡嘉敷村役場にも記録無し ②一九七三年三月三十一円発行(手書き)沖縄戦被災者補慣期成連盟の沖縄生存者対する慰籍料要請調査資料によると四九四人 ③当時の戸籍では一三七七人あるものの。当時島に残っていた住民は半数前後で約七00人 ―S
《住民投降説得》古波蔵村長が米軍の指示で住民を投降させる → 郵便局長の徳平秀雄が米軍の指示で住民を投降させようとした。(八月十二日) ―S
《住民の集団投降》七月十三日、七〇人 → 住民の投降は八月十三日で、古波蔵村長以下約三〇〇人。
《ビラ散布》ポツダム宣言の要旨ビラで、米軍機により撒かれる(七月十五日) → ポツダム会談の合意は基づいて、アメリカ、中華民国および英国の首脳が昭和二〇年(一九四五年)七月二十六日に大日本帝国に対し発したもの。十五日のビラ無し。陣中日誌には、八月十五日に敵飛行機より散布とある ―S
《防衛隊員の投降》七月十七日 → 防衛隊員は住民と共に八月十三日投降 ―S
《赤松隊の投降》七月十九日 → 八月十七日に木村中尉、知念少尉、吉田軍曹、白崎伍長が軍使として出発。八月十八日に赤松隊長以下十一人協定書を米軍に持参する。赤松隊長、知念少尉等が八月二十三日に米軍と協定、無条件降伏の調印。隊長と副官以下ニ名は、他の隊員らの降伏まで人質的な立場で止まる。全ての隊員が投降したのは八月二十六日、宇久校長と数人の教員、女子青年団、少年ら合わせて十数人の住民が共に投降する。
《日米会談》投降に関する日米の会談は国民学校で行われ、宇久校長が民間人で唯一参席 → 国民学校の校庭で行われた会議の参席者は、赤松隊長、知念少尉、太田軍曹(橘一等兵?)の四人であり、字久校長は参席していない ―CとT
【座間味島】
《特攻艇》座間味一二隻、阿嘉七~八隻 → 座間味一00隻、阿嘉一〇〇隻
《自決命令》忠魂碑前に住民を集めて玉砕を命じた → このような証言は村史にも、他の証言集にも無い ―S
《自決の手段》村長はじめ役場官吏、学校教員の一部は各自の壕で手榴弾によって自決した → 産業組合壕は原因不明とされているが、座間味村史の証言(宮里美恵子、宮里米子、長田一彦)から読み取れる状況証拠によれば、盛秀助役の放った銃弾により亡くなっているものと思われる。校長はじめ教員壕は内川の壕であり、手榴弾が一個だけだった ―S
《自決者人数》五ニ人。その他の犠牲者をあわせて約二〇〇人 → 『沖縄戦と平和教育』(一九七八年)と『観光コースでない沖縄』(一九八三年)には座間味島自決者一七一人、『座間味村史通史編』(一九八九年)には、産業組合壕五九人、座間味だけでも二〇〇人近い自決者とある。『秘録 沖縄戦記』(一九六九年)には、自決者二八三人、戦死者約五〇〇人とある。また、二〇〇八年三月二十七日『琉球新報』には約二五〇人とある。
《梅澤少尉》朝鮮人慰安婦らしき二人と不明死をとげた。 → 現在も健在。このくだりは、一九八〇年の九版からは削除されている。
■おわりに
沖縄戦から六十四回目の夏が巡っていった。沖縄戦の体験者は次々と鬼籍に入り、活字として残された記録が検証されることなく真実として流布されていく。その代表が『鉄の暴風』である。
《恩納阿原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。「事、こゝに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」》
こうした記述が、どのような状況の中で生み出されていったのかを、本稿では明らかにしていったつもりである。事実をないがしろにした議論ほど無益で虚しいものはない。それは混乱を生み出すだけだ。解釈はいろいろあってもよい。しかし、事実は一つなのだ。
ところで、『鉄の暴風』は初版発行の二十年後、七〇年に再版された。内容はほとんど初版と同じだが、再版では「まえがき」の最後にあった「この動乱を通じ、われゝ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と国旗を超えた彼らの人類愛によって,生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支緩を与えられて、更生第一歩を踏みだすことができたことを、特筆しておきたい」という部分が削除されている。意地悪く勘繰れば、米軍の宣撫工作や同調圧力に洗脳され、米軍のヒューマニズムを過剰に賛美したことへの反省が働いたのかもしれない。