2022年10月2日 付沖縄タイムスに、次のようなエッセイが掲載された。

[琉球風画 今はいにしえ]絵と文 ローゼル川田(68)

 

渡嘉敷島 あの時の光景

美しい島々 地獄絵図に

 沖縄戦で、慶良間諸島の渡嘉敷島で起きた「集団自決」に関する書を読んだ。大江健三郎著「沖縄ノート」、曽野綾子著「ある神話の背景」、金城重明著「『集団自決』を心に刻んで」、こみねこうきち著「記憶の中の戦争」。その中で金城氏、こみね氏は「集団自決」が起きた際の玉砕場からの生き残りであり、当時を阿鼻(あび)叫喚の光景に例えている。書を読むにつれ、美しい自然に恵まれた島々の「場の時刻の時間」の記憶が沖縄戦の悲惨な惨状の場になった。

 1945年3月、渡嘉敷島に日本軍、赤松大尉を隊長とする陸軍海上挺進隊の第三戦隊が駐屯していた。隊員130名に朝鮮軍夫も数百名、慰安婦、その他も。23日に空襲があり、25日の未明、慶良間海峡に米軍の潜水艦や艦隊が侵入した。島民は艦砲射撃におののいた。島の駐在巡査は「ウンダチ山に集まれと伝令して回った。さらにそこから今度は西山へ行けとなった」(こみね著)。

 第三戦隊は234・2高地へと移動している。村民が移動させられた近い位置にあり、「軍隊の布陣地の近くに移動させることは、住民を最も危険な場所に曝(さら)すことであり、死の道連れとしか考えられず、その疑問が永久に拭い去れない」と金城著は述べている。防衛隊員から住民に渡された手榴(しゅりゅう)弾は、1個は自決用、1個は敵陣に投げ込むための物。わずか数日間での急変の出来事は、この世とは思えず、死を起こすのみとなる。玉砕場となったのは恩納河原の付近の沢の辺り。

 「突然、ドカーンと爆発音、家族らしい4、5人が倒れている。尾根はたちまち騒然、大混乱となり大人も子供も気が狂ったように、玉砕だぁ!殺してくれ!早く、早く!絶叫のなか、次々と爆発音。死体や血にまみれた人たちのうめき声。親族の手榴弾は、木に打ちつけても爆発せず、村の幹部は軍の陣地に機関銃を借りに行くが却下される。鍬、鎌、こん棒で身内を殺し合う地獄絵図となる」(こみね著)。

 渡嘉敷島では315人(330人説あり)、座間味島では177人、慶留間島では53人が残虐な死を遂げた。

(略)

 集団自決の深層には「皇国、同化・差別からの脱却、口減らし」の三つが根底にあると言った。その言葉の奥に言葉を失う。

(水彩画家・エッセイスト)