一瞬、迷った。ひろゆき(西村博之)氏が主宰するインターネット番組から、7日の配信当日に出演依頼の電話があった。

 「論破王」のホームグラウンドで新聞記者が話術の勝負を挑んでも、結果は見えている。過去にこの番組に出て話を遮られ、沖縄の現状をしっかり説明できなかった苦い経験もあった。

 頭をよぎった疑問で一番大きかったのは、記者が取材対象者と番組で共演、論戦して、「当事者」になっていいのかどうか。メディア業界では、記者は「傍観者」であるべきだとの考えも根強い。

 迷った時は原点に帰る。ジャーナリズムは何のためにあるのか。権力が暴走しないように監視する、戦争を止める。いろいろあるが、突き詰めれば人権を守るのが仕事ということになる。

 辺野古新基地建設に対する抗議行動は、人権を守りたい、というごく当然の願いがかなわない沖縄の長い苦闘を象徴している。一方、「0日にした方がよくない?」というツイートに始まるひろゆき氏の嘲笑は、数の力で沖縄に犠牲を強いて恥じない日本の姿を象徴していた。

 記者が傍観者として記事を書き続けて、人権が守れるのならいい。現実にはひろゆき氏のツイートに何十万もの「いいね」が集まり、嘲笑や開き直りで沖縄差別が固定化されていく。

 ならば身をさらす当事者としてのジャーナリズムの試みがあってもいいのではないか。人権を守る立場を明確にし、差別を批判する。そういうつもりで、出演を引き受けた。

 もともと、記者が透明人間でない限り完全な傍観者であることは難しい。現場に立ち、質問し、カメラを向けることで、状況を変えている。

 メディアがこれまで掲げてきた「中間中立」も弊害が大きい。差別が目の前にある時、批判しない態度は中立ではなく、加害への加担になる。なぜ中立ではいられないのか、進んで意図を説明する方が、積み重なったメディア不信をほぐせるのではないか、とも考える。

 ひろゆき氏に対しては、記事や番組で批判する一方、ツイッターで誰でも見られる形で反論コメントを求めた。返答があれば、記事に盛り込んだ。その経過は公開され、評価は見た人に委ねられている。

 ジャーナリズムに何ができるか。きょうも試行錯誤を続けている。(編集委員・阿部岳)=おわり

(写図説明)ひろゆき氏や本紙記者が出演した7日のインターネット番組「ABEMA Prime」

 

>「0日にした方がよくない?」というツイートに始まるひろゆき氏の嘲笑は、数の力で沖縄に犠牲を強いて恥じない日本の姿を象徴していた。

>人権を守る立場を明確にし、差別を批判する。そういうつもりで、出演を引き受けた。

これを「論点摩り替え」という。

ひろゆき氏は「人権を踏みにじれ」とは一言も言っていない。

「ウソを吐く活動家を擁護してはいけない」と言っただけ。

論点摩り替えるな!バカヤロウ!

 お前はすでに死んでいる!

 

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