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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

閉ざされた沖縄の言語空間

2008-03-17 06:55:58 | ★集団自決

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沖縄の二紙が自分に都合の良いニュースのみを取捨選択肢し、不都合な真実は闇に葬ってしまうことは再三書いた。

昨年来の「集団自決」に関する証言は、それこそ掃いて棄てる程次から次へと地元紙の紙面を飾った。

その一方人知れず闇に葬られた証言も多い。

語られる証言の全てが記事となった訳ではない。

多くの証言がその重要度の大小にかかわらず黙殺され、県民がその証言を知ることは困難である。

だが、マスコミの情報封殺の隙間から漏れてくる金城武徳三の証言などはネット動画や、各ブログによって一般に知られるようになった。

宮平秀幸氏の衝撃的証言も沖縄紙は徹底的黙殺でこれに対処している。

記者会見を実施しても二紙は一行たりともこれを報じることはなかった。

不都合な真実は徹底的に封殺するその一方、

数年前に教科書から既に削除されている「従軍慰安婦」に同情的な学生達が来県すると沖縄タイムスはこのように大々的に報じる。⇒「孤児院で子の世話」/沖縄戦当時の従軍慰安婦(3/16)

師匠の朝日新聞さえ最近では「従軍」を外しているというのに、

「タイムス史観」には関係ねぇ・・・か。

似たもの同志の琉球新報も負けてはいないが、

「従軍」と書かないだけまだましなのだろう。⇒「慰安婦の無念知って」 学生らイベントで訴え カメラ  (3/16 10:41)

さて、読者の「物言うサラリーマン」さんから次のようなコメントを頂いた。

当日記が昨年来主張してきた要点を産経新聞がまとめて書いている。

沖縄マスコミが「集団自決」で示した言論封殺を復習する意味で引用した。

Unknown (物言うサラリーマン)
 
2008-03-15 20:41:42
 
産経新聞3/15版には「閉ざされた沖縄の言論空間」と題して論説委員の石川氏が寄稿しています。内容は狼魔神さんのブログを読んでいる人は既知のものばかりでしたが、「鉄の暴風」の初版本には「米軍の高いヒューマニズム」を称える前書きが書いてあったそうです(失笑)。「国境と民族を超えた人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことをできた」と書いてあるそうです。もしそれが正しいならば、沖縄の皆さんは米軍に未来永劫忠誠を誓わないと、「鉄の暴風」は単なるプパガンタ作品になるでしょうね。今こそウソの暴風を吹き飛ばす時期に来たのではないでしょうか。

 土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 ... http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080315/
acd0803150347001-n1.htm

閉ざされた沖縄の言語空間
2008.3.15 03:44
  ◆地元紙は新証言を無視

 先月、集団自決を日本軍の隊長が戒めた事実を本紙などに証言した沖縄県座間味村の宮平秀幸氏(78)が今月10日、沖縄県庁で記者会見を行った。

 宮平氏は、集団自決前日の昭和20年3月25日夜、村の三役らが同島に駐屯する海上挺進(ていしん)隊第1戦隊長の梅沢裕少佐のもとへ、自決用の弾薬類をもらいにいったものの断られ、自決を戒められた状況などを改めて語った。

 だが、この会見は地元の有力2紙、沖縄タイムスと琉球新報には報じられなかった。宮平氏は以前、両紙に「集団自決について真実を話したいから、取材に来てほしい」と申し入れたが、どちらも取材に来なかったという。

 宮平氏の証言は、教科書などで誤り伝えられてきた集団自決をめぐる「日本軍強制説」を否定する決定的なものだった。しかも、宮平氏は当時、15歳の防衛隊員として梅沢少佐の伝令を務め、梅沢少佐や村の幹部の話をじかに聞いている。これだけの重要な証言がなぜ、地元紙の取材網に引っかからなかったのか、不思議である。

 今回の宮平氏の証言は、今年1月下旬に東京の旅行会社が企画した「座間味・渡嘉敷ツアー」の一行との偶然の出会いがきっかけだった。一行は、歴史学者の秦郁彦氏▽自由主義史観研究会代表、藤岡信勝・拓殖大教授▽昭和史研究所代表、中村粲氏ら約40人で、座間味・渡嘉敷両島で起きた集団自決の調査を目的としていた。

 一行が、座間味島で日本軍が米軍に斬(き)り込みを行って玉砕したことを記した「昭和白鯱隊之碑」を訪れたとき、宮平氏はたまたま、玉砕した将校の遺族が近く碑を訪れるというので、碑の周囲の草刈りをしていた。宮平氏の回想はそこで語られ始めた。産経は翌2月中旬の補強調査に同行し、宮平証言を2月23日付朝刊で報じた。

 ◆異論を認めない雰囲気

 座間味島と渡嘉敷島での集団自決が両島に駐屯する日本軍の隊長命令によって行われたと最初に書いたのは、沖縄タイムス社編「鉄の暴風」(昭和25年、初版は朝日新聞社刊)だ。この記述が大江健三郎氏の「沖縄ノート」や家永三郎氏の「太平洋戦争」などに引用され、梅沢元少佐らは大江氏らを相手取り、名誉回復を求める訴訟を大阪地裁に起こしている。

 沖縄のメディアには、集団自決「軍命令」説に対する異論を認めようとしない雰囲気が、いまだに残っているように思われる。

 平成17年6月上旬、都内で自由主義史観研究会による集団自決に関する現地調査報告会が行われ、戦後、渡嘉敷島の村長が同島に駐屯していた海上挺進隊第3戦隊長の赤松嘉次元大尉を訪ね、「集団自決は軍命令だったことにしてほしい」と頼んだとする沖縄県の元援護担当者、照屋昇雄氏(当時は匿名)の証言が明らかにされた。集団自決した住民の遺族が援護法に基づく年金を受けられるようにするための措置で、赤松元大尉はこれを承諾したという。

 渡嘉敷島での集団自決については、作家の曽野綾子氏が昭和40年代に同島などを取材した結果をまとめたノンフィクション「ある神話の背景」で、「鉄の暴風」が記述する「軍命令説」への疑問が提起されており、これを補強する有力な証言だった。

 この報告会に沖縄の地元紙記者も来ていたが、その証言は産経が報じただけで、地元紙には載らなかった。

 照屋氏はその後、実名での取材に応じ、産経は18年8月27日付朝刊で「軍命令は創作」とする照屋証言を改めて詳しく報じたが、地元紙は取り上げていない。

 「鉄の暴風」で、赤松大尉の自決命令を聞いた副官として実名で登場する知念朝睦元少尉は、曽野綾子氏の取材に対し、自決命令がなかったことを証言し、「鉄の暴風」の記述を明確に否定した。知念氏は「沖縄タイムスの記者が私に取材を申し込んだり、話を聞きに来たりしたことはない。知らんぷりしている方が都合よかったということだろう」と本紙記者に語っている。

 ◆検閲下の記述正す時期

 鉄の暴風」の初版本は前書きで「米軍の高いヒューマニズム」をたたえ、「国境と民族を越えた人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた」と書いている。米軍の検閲を受けなければならなかった当時の事情がうかがえる。本文では、旧日本軍の“悪”をことさら強調した記述も少なくない。同じような検閲は本土でも行われた。

 それから半世紀以上が過ぎ、沖縄のメディアも、当時の「閉された言語空間」(江藤淳氏)から脱すべき時期に来ているのではないか。(いしかわ みずほ)

                                            ◇

同じような検閲は本土でも行われた。

アメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』でさえも、米軍の沖縄戦での米兵の住民に対する残虐行為に触れたため、検閲に」ひっかって日本語訳の出版を禁じられた。

一方、沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、『鉄の暴風』の欺瞞性がことさら目立ってくる。

【付記】

『鉄の暴風』の二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』を書いた、ヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年、ようやく出版されることとなった。

アメリカ人が書いた本が発禁で、沖縄人が書いた『鉄の暴風』が米軍の推薦を受ける。

これも歴史の皮肉である。

続々『鉄の暴風』のいかがわしさ◆渡嘉敷女子青年団 匿名座談会

参考エントリー:
宮平秀幸氏の記者会見★沖縄タイムスが最も恐れていた男

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抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21)
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続・戦艦大和の特別任務★それは沖縄県民の虐殺であった!

2008-03-16 06:52:51 | 未分類
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沖縄に住むに人にとって新聞購読に選択の自由はない。
 
二つしかない地方紙の沖縄タイムスと琉球新報は双子の兄弟のように左に偏向しているのでどちらを読んでも同じだということだ。
 
沖縄タイムスを親の代から続けて購読していたが、十数前から琉球新報に変えた。
 
双子の兄弟なら何もわざわざ変える必要も無いとも思ったが、、同級生で琉球新報の記者だった友人の1人がその頃論説委員になり 購読を頼まれたことと、双子の兄弟でもまだ琉球新報の方がいくらかはましだと思ったのが購読変更の理由である。
 
従って沖縄タイムスのウェブ記事以外の記事に目を通す機会は少ない。
 
■戦艦大和の特別任務は沖縄県民の虐殺だった■
 
一昨日のエントリーで「戦艦大和の特別任務」として、沖縄戦の援護の他に「救援物資の輸送」もあったという記事を書いたら多くの反響があり読者コメントのやり取りの中から去年の沖縄タイムスの戦艦大和記事を紹介して頂いた。
 
当日記は、沖縄タイムスの偏向ぶりや記事歪曲について、これまでも幾度となく指摘かつ糾弾してきた。
 
沖縄タイムスの異常なまでの偏向ぶりは充分承知しているつもりの筆者にして紹介された記事のデタラメさには暫し言葉を失った。
 
しかも書いた人物は「有識者」として沖縄の新聞で頻繁にその名前を見る人物だ。
 
呆れて言葉を失った口からため息が漏れた。
 
何と言う無知蒙昧で恥知らずの記事だ!
 
 
 
沖縄タイムスの記事によると戦艦大和の「特別任務」は沖縄住民の虐殺であったというのだ
 
記事を書いた「いれいたかし」という人物はその歳(1935年生)にしてこのような破廉恥な駄文を書くくらいだから今更批判しても蛙の面に小便だろう。
 
だが、それを承知で紙面を提供した沖縄タイムスは、もはや報道機関としての末期症状を呈してきたとしか思えない。
 
日本では言論・思想の自由を保障されているとはいえ、事実誤認を下敷きにこのようなこのような「反日」、いや、「嫌日・憎日」記事で県民を扇動するならくらいなら中国にでも亡命することを勧めたい。
 
沖縄県人として以下に地元紙の噴飯モノの記事を晒すの恥ずべきだが、反吐をこらえて以下にその一部を抜粋引用する。
 
 
 まず、明治以来、日本国の琉球島嶼群に対する差別政策は、人頭税をはじめとする旧慣温存による苛斂誅求(かれんちょうきゅう)と、伝統文化や言語の廃絶強制など多岐にわたるが、そのいきつくところとして、太平洋戦争における皇土防衛の為の捨石とされた事もあるが、もっともあくどい仕打ちは、戦艦大和の沖縄海上特攻作戦だったのではないかと私は思う。
 
さて、そこへ大和が攻め込んできて、世界最大最強といわれたその主砲四十六㌢砲塔九門が一斉に火を吹くと沖縄はどうなっただろうか。想像しただけで瞑目するばかりであるおそらく、大和は偵察機による誘導もないので、沖縄中南部の平地に巨大な砲弾をところかまわずに打ち込んだであろう。その弾は日米軍ばかりではなく、住民をも打ち砕いたであろう。 住民の犠牲者は、更に多数に上り、三十万人(当時の人口の半分)にも達したのではないかと、恐れる。
 
だが、大和は、米空母群から発艦したヘルダイバー急降下爆撃機による空からの攻撃と潜水艦による魚雷攻撃で、沖縄本島には一発の砲弾も放つことなく、四月七日に、三千人の乗組員とともに撃沈された。
あっ、よかった。戦艦大和が、沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった。そう言えば、日本国民の多くは激怒するだろうし、やはり琉球人は日本人ではないと、その従来の差別感の正当性を再認識するに違いない。
 
沖縄人が、戦艦大和によりさらに多数を殺され、島の集落のことごとくが破壊されたであろうことを思えば、それはまさに明治以来の差別のいきつくところであった
 
沖縄タイムス 2007年3月20日 特集記事
「復帰35年 揺れた島 揺れる島 19回 “踏みしだかれた島(上)” いれい たかし記」より抜粋>
 
いやはや、まことに畏れ入る珍説・チン論だ。
 
先ほどは事実誤認と遠慮がちに書いたが、読み返してみるとこれは事実誤認なんて生易しいものではない。
 
嘘八百と妄想で塗り固めた悪意あるデマゴギーそのものだ。
 
沖縄援護の途中、雄図むなしく敵機の標的となり深海に沈んだ3000人の英霊を、まるで沖縄住民を虐殺に向かった悪鬼集団であるかのように貶め冒涜している。
 
沖縄タイムス発刊の『鉄の暴風』が「嘘の暴風」と呼ばれるほどウソまみれの記事に満ちた空想読み物だと言われて久しいが、
 
戦後63年経過してなおこのようなデタラメを平気で記事にする沖縄タイムスの事実歪曲体質は『鉄の暴風』出版当時と何ら変わっていない。
 
昨年来の「集団自決」にかかわる一連の歪曲記事、そして今年になってからの「米兵女史中学生暴行事件」の捏造報道。
 
一事が万事の例えどおりである。
  
全文をお読みになりたい方は以下のリンクで。
 
くれぐれも血圧の上がらないように・・・。
 
2007年04月20日
 
上記ブログに多くのコメントが書き込まれているが沖縄県人のSさんがタイムスの記事に憤慨して書き込んだコメントを以下に引用紹介します。
 
くっそ!!
言わせろ!!私は沖縄出身の沖縄在住沖縄人だ!
私は沖縄にずっと住んでる。
正直、大和の話も特攻隊の話授業でもならわなかったし、友達も家族や親戚近所もだれも話してない。
だから私はなんの先入観も無く、大和のことについて調べた(いや、十分に反戦教育を受けていたが)それでも私は、大和に感謝したいと思ってる。
結局は沖縄までこれなかったけど、でも、死ぬと分かっていても沖縄まで来てくれようとしてくれた大和と乗組員にすごく感謝してる。
沖縄で特攻隊と大和の慰霊祭をやるべきだとも思ってる。
沖縄タイムスも琉球新報も左翼新聞、そして、沖縄には左翼以外の報道機関が存在しない。
でも、私や、私の周りのように、ちゃんと知ってる人がいると言いたい。
沖縄人=左翼、ではない。沖縄の若い世代も気付き始めている。
こんな新聞で沖縄の意志を読み取らないでくれ。
ってか読み取ってる人もいないが^^;
とにかく、沖縄の報道を信じるな。
政治的な話は大体嘘だったり偏向報道だから。
沖縄人でも、大和に感謝してる。何度も言うけど、大和と大和の乗組員に私はとても感謝している。

Posted by S at 2007年04月21日 23:27:50
 
沖縄県民の中には、Sさんのようにタイムス記事に憤慨し、特攻隊や戦艦大和で戦死した若者達に感謝している人が多数いることを記しておく。
 
 
沖縄タイムスといれいたかし氏は戦艦大和と運命を共にした3000柱の英霊に己の犯した無礼を深く謝罪すべきである。
 
沖縄タイムスよ、恥を知りなさい!
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コメント (2)

県民大会に自民は不参加★地位協定改定の道遠し

2008-03-15 07:42:51 | 未分類

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自民は県民大会に不参加 沖縄、知事出席も困難に (3月14日 17:08)

  自民党沖縄県連は14日、県議団による議員総会を開き、女子中学生暴行事件を契機に県婦人連合会などが23日に開催を予定している県民大会に組織としては参加しない方針を再確認した。

 県議会与党の公明党は大会参加の方針で、自民党所属の議員個人が参加することは妨げないが、自民党として参加を見送ったことで、超党派での開催を条件としている仲井真弘多知事の大会出席も難しい情勢となった。

 自民党県連の新垣哲司幹事長は総会後、記者団に、日米地位協定の見直しを求める大会趣旨には賛同する考えを表明。一方で「協定見直しは日米安保にもかかわる大きな改正で、しっかり準備をしなければいけない」として、党内調整の不足などが不参加の理由だと説明。仲井真知事が今秋にも検討している訪米前に、自民党を中心に協定見直しを求める県民大会を開く可能性も指摘した。

(共同)

                                             ◇

産経新聞那覇支局長小山さんのブログによると県民大会への自民党の不参加決定は遅くとも昨日の午後1時半頃は正式発表されている。

県民大会、自民は参加見送り 2008/03/14 13:51

その日の地元二紙夕刊に自民不参加のニュースは報じられなかったが、実際は自民不参加は7日の時点でほぼ決定していた。

自民、県民大会に不参加=米兵事件抗議、超党派開催実現せず-沖縄(03/07 )

昨日の夕刊には間に合わなくとも今日の朝刊はどうかと手元の琉球新報朝刊を見ると・・・うーん、何と未練がましい見出しだ!

自民に再度参加要請  県民大会実行委

何と涙の出るような作文だ。

上記共同配信の中日新聞の見出しと比べて欲しい。

「おじや強奪証言」の玉寄会長(沖子連)と「メチル禍死証言」の小渡会長(沖婦連)、お二人のオジー、オバーが「それでも参加を要請する」とゴネている。

「毒おにぎり」・「おじや強奪」・「メチル禍」 三人組の悲惨な体験

どうやらこのお二人の暇つぶしに「セカンドレイプ大会」を開きたいらしい。

それを新聞が見出しで後押しして自民党にプレッシャーをかけるという仕掛け・・・左巻きオジーと赤いオバーの暇つぶし「セカンドレイプ大会」が県民大会とは県民にとっては迷惑な話だ。

自民が不参加だと超党派を参加の前提にしている県知事は不参加決定なのだが、沖縄タイムスも知事にプレッシャーをかけたつもりらしい。

柳の下にドジョウはもういないと思うのだが、去年嫌がる知事を「11万人」大会参加に追い込んだ沖縄タイムスとしては夢よもう一度ということだろう。

同じくタイムスの祈りのような見出しには笑ってしまう。

⇒ 知事、参加に意欲/米兵事件・県民大会(沖縄タイム夕刊14日)

いや、むしろ冒頭引用の共同配信の見出しと比べても沖縄タイムスの執念には拍手を送るべきだろうか。 

【追記】

琉球新報はウェブ記事では、ついに諦めたのか見出しを変えているようだ。

自民「個人の参加自由」 県民大会 カメラ  (3/15 10:03)

ちょんまげのオジーと厚化粧のオバーのしつこさに、これ以上付き合っておれなかったのでしょう。 ご苦労さま。 ふー!(ため息)


                     ◇

米軍責任者への人的処分要求を 米兵暴行緊急集会  (3/14 9:45)  【東京】沖縄での米兵による少女・女性性暴力事件に抗議し、地位協定の抜本改正を求める緊急集会(主催・平和フォーラム)が13日夜、東京都千代田区の星陵会館で開かれ、米軍犯罪の被害者らが事件根絶を訴えた。集会の最後に(1)被害女性への謝罪と補償(2)米軍責任者への人的処分(3)兵による女性への性暴力に抗議する国会決議(4)日米地位協定の抜本的改正(5)基地の整理縮小―の5項目を求める決議をした。
 米兵から暴行被害を受けたオーストラリア人女性は、被害当日に着ていた服を手に持ち「こうやって人前で話せるようになるまで6年かかった。被害者の声を無視しないでほしい」と訴えた。
 米軍人・軍属による事件被害者の会の服部良一さんは、日本で発生する米軍人等による事件事故は沖縄が6割を占めると報告。「被害者は一生を棒に振るのに、日本にはそれに対する補償がない。泣き寝入りせざるを得ない現実を変えなければならない」と強調した。
 続けて琉球新報の松元剛記者が日米地位協定の不平等性について講演。欧州諸国の地位協定を説明し「日本とは歴然たる差がある。諸外国がどのように対応、改善しているのかを追究する視点が大切だ」と指摘した。

 (琉球新報3/14 9:45)

                      ◇

告訴取り下げで不起訴となり容疑者が釈放されたので「強姦事件」は存在しない。

存在しない「強姦事件」で大騒ぎして、こんなことを要求するなど法治国家で行われることではない。

(1)被害女性への謝罪と補償

(2)米軍責任者への人的処分

(3)兵による女性への性暴力に抗議する国会決議

(4)日米地位協定の抜本的改正

(5)基地の整理縮小―の5項目を求める決議をした。

 

特に(1)と(2)の要求は判事の判決を不服として縛り首を要求する西部劇の無法地帯と同じではないか。

数を頼んでこのような理不尽な要求をすることは人民裁判そのものだ。

そこまで件の米兵が許せないのなら、何故親告罪ではない「淫行条例」で徹底的に取り調べなかったのか。

証拠も無ければ、容疑者の否認も崩せない。

起訴に持ち込んだら少女の狂言が露見するのを恐れての苦渋の決断が告訴取り下げでの理由ではなかったのか。

告訴取り下げの真相、検事正会見から読む

 

>(4)日米地位協定の抜本的改正

前もって断っておくが筆者は「日米地位協定の抜本的改正」には賛成である。

従って今回の「米兵女子中学生事件」でマスコミに扇動された大騒動が「地位協定改正」の逆風になっていることを危惧する。

左翼集団は「事件」を利用して一気に改正に持ち込もうとしているが、むしろ米側に「やはり日本は完全な法治国家と呼ぶには早すぎる」といった言質をマスコミが与えてしまったのだ。

罪状が決まっていない「事件」を婦女暴行事件として号外を出す国が文明国といえるか。

しかもその号外には県知事が「人権蹂躙だ!」と写真入のコメント。

米側は口にこそ出さないが内心では、

「人権蹂躙はどっちの方だ! 地位協定改正なんて100年早い!」

とでも叫んでいるだろう。

「船乗り結び」で縛られるともがけばもがくほどロープは己を締め上げていくという。

左翼勢力が「不良米兵と不良中学生のトラブル」を「強姦事件」として騒げば騒ぐほど地位協定改定の道は遠くなる。 

迷惑な話だ。

 

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コメント (4)

戦艦大和の特別任務

2008-03-14 08:33:52 | ★集団自決

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「ひめゆりの塔」、「神風特攻隊」、「戦艦大和」を題材にした戦争映画は子どもの頃から良く見た。

だが、これら三つをテーマの映画が全て沖縄戦に絡む映画だったとは恥ずかしながらある時期まで知らなかった。

「軍は住民を守らない」

「沖縄は日本の捨石となった」

「日本は沖縄を見捨てた」

沖縄の新聞に良く出てくるこのような反日論調は子ども達の心を知らず知らずに蝕んで行く。

沖縄を取り囲んだ米艦隊に一矢を報いるべく片道燃料で飛び立った特攻隊の若者達。

沖縄戦援護と沖縄への救援物資輸送の途中撃沈された戦艦大和の若者達。

これらの若者達の命をかけた戦いは、

沖縄戦とは全く無縁の別の空間での戦いだと思っていた。

いや、これは遠い昔話ではない。

現在でもこの三つの戦争テーマが沖縄戦と結びつくと考える子ども達は少ない。

新聞の反日教育の恐ろしさである。

ちなみに今問題の「集団自決」のあった渡嘉敷、座間味両島の赤松元大尉、梅沢元少佐のことを両島の守備隊長と呼ぶ人がいるが、彼らが受けた正式の任務は島の守備ではない。

その理由は沖縄守備軍の32軍は、山間部の多い両島に米軍が上陸するとは夢想もしていなかった。

爆弾積載の小型ベニヤ艇で夜陰に紛れて敵艦に体当たりする決死攻撃が正式な任務であった。

当然のことながら、島の軍基地は守備・迎撃用の武器弾薬の配備はされていなかった。

小銃の弾薬も数十発しか具備されていなかったという。

従って両隊長のことは守備隊長ではなく厳密にいえば特攻隊長若しくは戦隊長が正しい。

両島の基地の目的を米軍に察知され、雲霞のような米艦隊は本島上陸の前にこの小さな島に襲い掛かった。

まるで巨大な獅子の群れが無防備な子羊を襲うように。

山の形も変形したと言われる米艦隊の「鉄の暴風」の前に若き両戦隊長はカラの鉄砲を抱えて右往左往する隊員たちや助けを求める住民達になす術を知らなかった。

上陸前の米軍の攻撃は艦砲射撃だけではなかった。

谷間の湿地帯で逃げ惑う住民達に低空飛行の絨毯爆撃で襲い掛かった。(宮平秀幸さんの証言)

特攻隊は本来の任務の敵艦に激突による撃沈どころか自艇を自爆させるのが精一杯であった。

そんな袋のネズミのパニック状態の中で、

「軍は住民を守らない」はまだしも

「軍が住民を強制死させた」とは、

その時の島の状況をつぶさに検証したものならとても口には出せないはずだ。

 

さて、本文中戦艦大和の任務の一つに沖縄への救援物資輸送もあったというくだりに異論を唱える人もいるだろう。

今まで流布する「軍は住民を守らなかった」という論に真っ向から矛盾する戦艦大和の特別任務は、なるほど異論があって当然であろう。

だが、これまで封印されていた戦艦大和の任務に関して新資料の発見があった。

以下の引用文が「戦艦大和の特別任務」に触れている。

                     ◇

 

沖縄にもいた「日本人」

          平井 修一

靖国神社の「やすくに」3月号に惠隆之介氏(元海自士官・作家)の「堂
々たる日本人の復活を祈願する!」という論文が紹介されている。

小生、浅学なために、戦艦大和は特攻機のように撃沈覚悟で沖縄に向かったと思っていたが、大和はなんとしてでも沖縄に着き、沖縄県民に大量の生活物資を届けようとしていたという。

<実は「大和」を旗艦とする第二艦隊には、高級士官しか把握できない崇高な使命があったのだ。

昭和20年4月1日、沖縄本島に上陸した米英軍に対抗する県民への救援物資の輸送も作戦の一つにあった。このため巨艦「大和」の船倉には、多量の民需物資が極秘裏に積載されていたのである。

この物資一つに関し、こういう証言が残されている。

昭和58年8月20日発行中央公論増刊「歴史と人物」(太平洋戦争終戦秘話)に、海軍大尉待遇嘱託でシオノギ製薬元原料課農水産係長兼特需原料係長だった市橋立彦氏が「大和」出撃前、海軍から受けた特命を詳細に記録発表しておられる。

「歯磨、歯ブラシ各50万人分、美顔クリーム25万人分」さらに驚くべきことに、「メンスバンド(月経帯)15万人分」の調達指示である。当時のそれは生ゴム布が使用されていたが、国内では軍需用の生ゴムさえ欠乏している時期であった。

しかし、市橋氏は帝国海軍からの特命とあって、ある海軍大尉とともに大阪の中小零細企業をまわって何とかかき集めた。この物資は昭和20年3月下旬の深夜、大阪梅田貨物駅から十数輛の貨車に積載されて呉停泊中の「大和」に積載されたと言う。

残念ながら「大和」は昭和20年4月7日、呉出港後5日目、午後2時23分、米軍艦載機の攻撃を受けて東シナ海沖縄北方400キロの地点で沈没した。

私はこれを知ったとき、沖縄県民の一人として感謝の気持で涙が滂沱するのを禁じ得なかった。>

小生は偏向マスコミに支配されていそうな沖縄県民に不信感を持っているが、上記の文章に触れて、「きちんとした日本人が沖縄にもいるんだ」と感激した。惠氏は文章をこう結んでいる。

<ひるがえって我が国は戦後63年にわたって奇跡的な平和を享受して来た。結果、戦後世代にはGHQが実施した賎軍思想が定着し、「軍を持たない方が平和を維持できる」という錯覚が生じている。

勿論、戦後長きにわたる平和の原因は、日米安保条約が根底にあった事は事実である。しかし、もう1つの要因がある。

大東亜戦争中の帝国陸海軍軍人の勇猛果敢な戦闘ぶりに、「日本を攻めると、とんでもない反撃を受ける」という恐れが近隣諸国国民に醸成されたことである。

しかし、近隣諸国の世代交代も着実に進んでおり、また、米国国内でも防衛努力を真剣に行なわない日本への不信は拡大しつつある。要するに、もはや我が国の未来は戦後の延長線上にはないのだ。

日本国民、とりわけ戦後世代はそろそろ目覚めなければならない時期に来ている。教育界を含め、「堂々たる日本人の育成」が求められていると確信される。>

「堂々たる日本人の育成」に小生の情報発信が少しでもお役に立てばと念じている。(「頂門の一針」 1121号平成20(2008)年3月11日(火))

                     ◇

沖縄マスコミの反日論調を表す記事に関するエントリー:

歪んだ眼鏡の沖縄タイムス 日中友好協会が聞き取り調査?

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「屁理屈ジャンケン」

2008-03-13 07:06:03 | 大江健三郎のいかがわしさ

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後だしジャンケン■

後だしジャンケンとは、相手が出したタイミングに一瞬のタイムラグを設けて、相手の手を読みそれに勝つ卑劣な手段のことをいう。

『母の遺したもの』の著者宮城晴美氏は、自著が「集団自決裁判」の原告側の証拠として提出され、「梅沢隊長が軍命を出した」という被告側の主張が否定されると、「一ヶ月前に立場を変えた」として自著を改定し『新版 母の遺したもの』を出版した。

筆者はこれを後出しジャンケンだと批判した。

「集団自決」 宮城晴美氏が新版で「後出しジャンケン」

宮城晴美氏らが弁護しようとする大江健三郎氏は法廷の証言台で自著『沖縄ノート』をテキストに、後出しジャンケンどころかとんでもない「屁理屈」を披露して世間を驚かした。

■屁理屈ジャンケン■

大江健三郎氏は、宮城晴美氏が批判に動揺して後だしジャンケンを出したような分かり易いような手法は取らなかった。

一旦出した自分の手はそのままにして、それを屁理屈で煙に巻いて勝を主張するというから、さすがはノーベル賞作家。

「屁理屈ジャンケン」とは、負けた場合でも、負けを認めず屁理屈で何とか勝とうという破廉恥な手段のこと。

例を挙げよう

チョキをだしたのに相手がグーなら普通は負けを認める。

だが、「屁理屈ジャンケン」はこれからが勝負。

「私はパーを出したつもりだ。 この指をチョキと見るのは君の誤読、いや、誤視だ」

「指は5本伸ばしたつもりだ」

「私の手の指は子どもの頃から曲がり気味なので、パーでもこうしか出せない」

大江健三郎氏は証言台でcorpus delictiなる一般読者には聞きなれない言葉まで引っ張り出して、

「罪の巨塊とは死体である」と、まともな人間なら赤面するような屁理屈を披露した。

法廷で証言台に立った後の11月20日の朝日新聞朝刊で、大江氏は「『罪の巨塊』に込めた思い」と題する更なる「屁理屈」をこねた。

 ≪私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。≫

一般の読者は著者自らの解説を聞く幸運には遭遇しないし、例え解説を聞いても理解できる人は少ない。

ならばと今度は朝日新聞の紙面でその「屁理屈」に上塗りの解説という念の入れようだ。

問題の箇所を『沖縄ノート』より抜粋するとこうなる。

《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、ゆがめられる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。》(210ページ)

一般の読者に上記文で国語の問題を出したら、「罪の巨塊」が「死体」のことだ理解できる人が果たして何人いるか。

ちなみに辞書を引くとcorpus de・lic・ti は次のような二つの意味がある。

 [<L.] 犯罪の事実[主体];

(他殺)死体.⇒corpus  [さらに]

大江氏は敢て二番目の意味の死体(他殺体)は訳語に当てたという。

『沖縄ノート』が出版されてから30年以上経って初めて、こういう「新解釈」が出てくる・・・

これを称して「屁理屈ジャンケン」という。

■「逆ヘリクツ・・」?■

追いつめられるといろんな人が出てくるもの。

物故した方の書いた文、しかも「相手方」の勝を証明する文をひねくり回してトンデモ解釈する人物がいるが、

これは相手が出したチョキをパーに見えると屁理屈をこねる「屁理屈ジャンケン」の逆バージョンで「逆へリクツ」・・・うーん、疲れるわ。

いろんなブログが大江氏の屁理屈を「詭弁」、或いは「変な説明」として批判しているが日々是好日さんが「大江氏による「罪の巨塊」の変な説明 」で詳細に検証しているのでご覧下さい。 ノーベル賞作家も形無しです。

他にも大江氏の「屁理屈ジャンケン」を批判するブログの紹介。

大江健三郎という「嘘の巨塊」

 

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宮平秀幸氏の記者会見★沖縄タイムスが最も恐れていた男

2008-03-12 07:08:11 | ★集団自決

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沖縄タイムス 2008年1月26日 朝刊 26面(社会面

藤岡氏の訪問に座間味村民抗議
「軍命の強制は事実」

 沖縄戦時、慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)について、「日本軍による命令・強制はなく、米軍の猛爆で追い詰められた住民の尊厳死だった」などと主張する「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長らが二十五日、座間味村を訪れた。反発する村民が抗議文を手渡した。藤岡氏らは二泊三日で、座間味、渡嘉敷両島を訪れる予定だという。
 
村民は、抗議文で体験者の証言や村史の記述を引用して、「集団自決」への日本軍の命令や強制があったことを示し、「(座間味島・海上挺進第一戦隊の元隊長の)梅澤裕氏を絶対に許さない」「座間味村民はあなた方を歓迎しません」と伝えた。
 抗議した宮里芳和さんは「私は二十年以上、体験者から聞き取り調査をしたが、『集団自決』に軍命、強制があったことは間違いない事実だ」と話した。(写真はない)

                     ◇

同じ記事を三度も引用するには訳がある。

この目立たぬベタ記事がひょっとしたら沖縄タイムスの社史に恥ずべき大汚点を刻みかねないからである。

「座間味埠頭のトラブル」が沖縄タイムスによって仕掛けられたことは容易に推測できるが、沖縄タイムスの目論みも虚しくその後「調査団」はタイムスが最も恐れる男・宮平秀幸氏の証言を得ることになる。

結局沖縄タイムスの卑劣な調査妨害工作は無に帰して、最も恐れる男の記者会見となる。

                       *

一昨日(3月10日)、宮平証言を検証した藤岡拓大教授と宮平氏の記者会見が県庁記者クラブで約1時間にわたって行われた。

会見終了後も宮平氏を記者が取り囲んで関連質問や連絡先などを聞いていたと聞く。

熱心な取材にもかかわらず、会見が記事として新聞を飾ることはなかった。

翌日の朝刊では新報、タイムスとも完全スルーで、地元テレビ三局も夕方のローカルニュースでは完全黙殺。

今朝(12日)の琉球新報でも一行も報じられていない。

予想していたとはいえ地元マスコミの徹底した「報道談合」には今更ながらあきれ果てた。

報道するか、しないかは各社の編集権という。

昨年来「毒おにぎり」だの「メチル禍も軍のせい」といった「残虐な日本軍」を語る証言なら大見出しで何の検証もなく掲載していた節操のない沖縄の新聞。

それが何をいまさら編集権か。

笑止千万な話だ。

ただNHKがその日の7時40分頃のローカルニュースで短く報じたが、「アリバイ造り」の感を否めない。

さすがに国営放送ともなると、県庁記者クラブを通しての記者会見をも黙殺してはまずいと思ったのだろうか。

放送は短かったが「新証言では、梅沢隊長は自決するなといっていた」とのアナウンスがあり、一応要点だけは伝えていた。

昨年末も藤岡教授は沖縄で記者会見を開き「11万人」集会のいかがわしさを訴えたが、その時は地元テレビ各社はこれを放映し、地元紙もベタ記事ながらこれを報じる余裕はあった。

ところが今回は地元紙がもっとも関心を抱く「集団自決の新証言」であるにもかかわらず、このように「報道談合」までしてこれを封殺する理由は何なのか。

その理由は二つある。

一つは宮平証言がこれまで沖縄マスコミが封殺してきた「不都合な真実」であるということである。

これが大々的に公表されたら沖縄マスコミがこれまで営々として築いてきた「集団自決の虚構」が一瞬にした瓦解してしまうからである。

もう一つの大きな理由は、3月28日に迫った大阪地裁の判決を前にして、宮平証言が裁判官の心証に与える大きな影響を恐れてである。

沖縄マスコミは、恥も外聞もなく、元々なかった報道機関としての矜持の欠片さえもかなぐり捨て、判決の日まではただひたすらに、「不都合な真実」を黙殺し続けるだろう。

                      *

 

沖縄マスコミがもっとも恐れていた男、宮平秀幸さん。

歌舞伎の世界で言えば、

「とんだところに北村大善」

といったところか。

札付きの悪、お数寄屋坊主の河内山宗俊が、首尾よく悪事を完遂する寸前に、「不都合な真実」を知る北村大膳が突然現れて悪事が露見する、・・・その場面の有名なセリフである。

そう、札付きの悪、沖縄マスコミはこの男・宮平さんを判決日まで座間味島に封じ込んでおきたかった。

そして出来ることなら黙したままこの世を去って欲しかったのかもしれない。

宮平さんは、これまでも新聞が報じるデタラメな記事に憤慨して何度も真実を伝えるために連絡していた。

だが、沖縄紙は一度も取材にさえすることもなくただ黙殺でこれに答えてきた。

唯一度、8年前の2000年12月、全国紙の毎日新聞が座間味島を訪れ宮平さんに取材して「梅沢隊長は自決するなと命令した」という証言が毎日新聞に掲載された。 ところが当時この記事に興味を持つものは少なく宮平証言は時の彼方に忘れ去られてしまった。

あれから8年。

宮平さんが再び証言する決意をしたのは昨年のマスコミ主導による「教科書騒動」以来だという。

家族の反対や多くの圧力に抗して証言する気になった。

それは孫や子に「ウソの歴史を残してはいけない」という思いからだという。

更に戦後生まれで地元マスコミを鵜呑みにした島の住民達が「アレがこう言った、コレがこう言った」とまるで「井戸端会議のように」隊長軍命説を流布するのにも我慢が出来なかったという。

その経緯を世界日報那覇支局竹林記者のインタビューに答えて次のように語っている。

真実ゆがめる証言報道に怒り

沖縄戦「集団自決」の真相 元座間味村防衛隊員宮平秀幸氏に聞く(那覇支局・竹林治夫)

(前略)

証言をしようとしたきっかけは。

座間味島で戦後生まれの知り合いが、観光客に向けて、梅沢隊長の命令によって村民が自決に追い込まれたと説明しているのを聞いて、「お前どんな証拠があってそのようなことを言うのか」と聞いたら、「もうみんな軍の命令で自決に追い込まれているよ」との返事。「おまえ、その場にいたのか。 私はその場にいたんだ」と言ったら、黙ってしまった。 昨年の教科書問題で、地元のマスコミなどの報道にあまりにも作り話が多いので、もう真実を語るしかないと思った。(略)(世界日報 2008年3月8日)                   

これまでも沖縄タイムスは「軍命なし派」と見られる調査団が現地調査に来沖する度に、彼らが最も恐れるこの男に調査団が遭遇するの恐れ、あらゆる妨害工作をしてきた。

それでは何故沖縄タイムスがこれほどに宮平さんを恐れるのか。

1945年3月25日の夜、座間味本部基地での村のリーダーと梅沢隊長のやり取りで村人側の生き残りは宮城初枝(故人)一人だとされていた。

彼女の証言だけが「軍命あり派」にとっても「なし派」にとっても重要な意味を持った。 彼女の証言が戦後生まれの娘晴美氏に引き継がれ二転三転したことは周知の通りなのでここでは触れない。

■本部基地前に村長は居たのか■

宮城初枝氏の証言の中で、

思い違いなのか、それとも故意になのか梅沢隊長と談判した村のリーダーの中に野村村長の名が出てきていない。

宮平さんの証言によると、隊長に談判に来た村のリーダーとは、村の3役の村長、助役、収入役と村職員宮平恵達氏、校長そして姉にあたる初枝氏の6人である。

その約30分のやり取りの一部始終を目撃していたのが当時15歳で伝令をしていた宮平さんである。

「集団自決」を実行した人のほとんどが「年寄りと子ども」だったため、老人の証言者は、思い違いや記憶があやふやな点も多い。 

一方、当時子どもだった証言者は記憶自体が薄く、証言者としての正確な記憶に欠ける点が多い。

ところが宮平さんは当時15歳で、人間の記憶力が最も活力のある年頃で、いわば証言者として最も適した年齢で「その場」を目撃していたのだ。

野村村長が「その場にいたかどうか」については、藤岡教授が『正論』4月号で詳細に宮平証言を検証し「野村村長はその場にいた」という結論をだしている。

藤岡氏は2月、3月と宮平証言の裏づけ調査のため現地を訪問しており、同時に過去の証言者達の証言を沖縄タイムスの証言集等から取り出して照合した結果、裏づけが取れたという。

■忠魂碑広場での村長「訓示」■

これも詳しくは『正論』の論文を読んでいただくとして、

百歩譲って野村村長がその場(本部基地前)にいなかったとしても、村長が忠魂碑前の広場で「訓示」をしたことは事実である。(多くの証言あり)

とすると次に問題になるのは村長が広場に集まった住民に何を「訓示」したかかが重要ポイントになってくる。

宮平証言によると村長「訓示」の内容は「隊長が『自決するな』の命令をだした。各自解散せよ」というものだ。

沖縄タイムスが飛び上がって驚くような衝撃の証言である。

これも藤岡教授が、その時、遅れて広場に向かう途中の宮里米子氏(当時15歳)と村長の解散命令で孫の手を取り泣きながら解散途中の知念久次郎オジー(当時61歳)との会話証言から「村長の解散命令」を立証している。(「正論」同論文)

三日三晩の米軍の猛爆でパニックに陥り、忠魂碑前で自決のための手りゅう弾を待ちわびていた住民達。

敵の手で残酷な死に方をするより一気に手りゅう弾での死を望む住民達に対して、野村村長は手りゅう弾を配るどころか、「自決するな。解散しろ」との「隊長命令を」を「訓示」していた。

この驚くべき事実の前に、戦後生まれの宮城晴美氏がいかに『母の遺したもの』を書き変えても「隊長軍命説」は木っ端微塵に砕け散ってしまう。

■「手りゅう弾配布=軍命」説の愚かさ■

「軍命あり派」の屁理屈の一つに「集団自決」は手りゅう弾で行われたのだから軍命であるというのがある。

宮平証言の中で驚くべきことは、「集団自決」は解散後、各自の壕で行われたが多くの犠牲者の中で手りゅう弾で死亡した人はたったの二人であるということである。 

しかも手りゅう弾の操作を知らない人が不発弾と勘違いし後ろに放り投げたのが偶然後方にいた二人を爆死させたという。

他の大多数はかみそりや、鍬やカマそして首吊りで自決をしている。

これを見ても「手りゅう弾=軍命」説が苦し紛れの屁理屈の結果であることが分かる。

ちなみに現在厳密な意味での「軍の命令」を主張する人は左翼勢力の中ででもよっぽど無知な人以外には皆無である。

■嘘の巨魁の崩壊■

彼らは「軍の命令で自決した」⇒「軍の命令の有無は問題でない」⇒「強制された」⇒「関与した」と論点をスライドさせて屁理屈を言い続けたが、遂には、大江健三郎氏の「タテの構造」という屁理屈の極地にいたる。

さらには「隊長が自決するなと命令しなかったのは、事実上の自決命令であり、これは時が来れば自動的に爆発する時限爆弾のようなものだ」とまで言い出す始末。(晴美証言・大江証言)

これらの屁理屈の巨塊や、嘘の巨塊を宮平証言がまとめて一気に吹っ飛ばしてしまった。

宮平証言こそ長い63年間の時を経て、裁判の判決直前で爆発した時限爆弾そのものである。

 

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本土風の姓について★軍民関係を知る鍵

2008-03-11 06:33:44 | ★集団自決

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沖縄の苗字は独特で名前を見ただけで沖縄出身と分かる名前が多い。

めったに改姓が行われない沖縄で、「集団自決」のあった島の住民に戦後改姓した人が多く、それも沖縄独特の名を本土風の名前に変えた人が多い。

前エントリーで書いた、「元軍人と島の住民の関係」を知る鍵を本土風の名前に求めてみた。

               

力み抜けた!新垣に安定感、緩急自在でズレほんろう(08.02.29)写真付き
 ソフトバンク 3―3 ロッテ

 久々に踏みしめたヤフードームのマウンド。感触を確かめるようにソフトバンクの新垣が投じた67球は、昨年にはなかった安定感が光った。

 初回の3番ズレータとの勝負が象徴的だった。カウント0―2から118キロのカーブと、この日最速となる150キロの直球で追い込むと、最後は149キロの外角低めの直球。逆球だったが、約30キロの緩急をつけた組み立てで完全にタイミングを崩し、一ゴロに仕留めた。

                     

                                    ◇       

ガッキー(新垣結衣)の登場ですっかり影が薄くなったが新垣渚は紛れもなく沖縄の野球小僧ののヒーローだ。 プロ野球選手に沖縄出身者は多い。広島カープの安仁屋宗八も昔の野球小僧のヒーローだったし、悪童・伊良部も沖縄にルーツを持つ。 

野球だけではない。 サッカー日本代表選手となった、川崎フロンターレの我那覇和樹 も沖縄のサッカー少年のヒーローである。 ボクシングでは具志堅用高、渡嘉敷勝男その他枚挙に暇なしとはこのこと。

芸能関係に目を転じてみるとまさに多士済々、仲間由起江、安室奈美恵、知念里奈、面倒なので男は省くがミスユニバース2位の知花くららも沖縄出身。

くどいのでこの辺で止めるが、何れも名前を見ただけで出身地が沖縄と分かる独特の苗字である。

一時、読みにくい苗字を改姓する人もいたが、筆者の知る限り、非常に数が限られており知人にもそれらしき人はいない。

仲村渠(なかんだかり)が読みづらいので「仲村」に改姓する人がいたが現在でも依然として仲村渠のままで通している人の方がが多い。  

それに改姓した人も「中村」ではなく人偏を残して「仲村」なので沖縄出身のナカムラは容易に分かる。

元々沖縄人は自分の姓名には保守的だった。

昔ほどではないが今でも一部には自分の祖先の名前を子孫に引き継ぐ風習もある。

地元紙で読者が誰でも必ず目を通すといわれる「死亡広告」欄には時々不謹慎ながら笑ってしまうような名前に出くわすことがある。

物故された方の名前に「喜」が付いておりそのご子息や男の親戚が揃って名前のどこかに「喜」を付けているのは良くある事なので驚かないが、喪主の長男の名前が「喜トク」なのには思わず吹いてしまった。

父君が亡くなられて長男が「喜トク」では・・・・。(同名の方に失礼なので敢てトクは変換していません)

よっぽどでないと苗字を変えることのない沖縄で何らかの理由で改姓する場合でも元の苗字の痕跡を残すのが普通である。

 

さて、本土風の名前についてである。

「集団自決」のあった島の住民が戦後改姓した人が多く、しかも本土風の名前に換えた人が多いことは何を意味するのか。

沖縄タイムスを筆頭に左翼勢力が構築する「残虐な日本軍を憎む村民」という構図が正しいのなら、憎むべき日本風の苗字にわざわざ改姓するとは考えにくい。

島に駐留した日本軍は島の民家に民宿しており軍人と住民が憎みあっていたという証言はほとんどない。

本土風の姓について、渡嘉敷で例を挙げると次のようになる。

古波蔵→米田(当時の村長)、新城→富山(手りゅう弾証言)
古波蔵→源
古波蔵→古賀
古波蔵→吉川(嘉勝)
古波蔵→田村
古波蔵→田中
古波蔵→玉井(喜八)⇒戦後の村長
与那嶺→杉原
与那嶺→新崎
与那嶺→吉本
鈴川、秋山、平井、吉原

ここで特筆しておきたいのは「集団自決」を行った住民は村の指導者達を除いてほとんどが「年寄りと子ども」だったこと。

沖縄では一家の年寄りが重要事項を決める。

「集団自決」を免れて生き残って戦後改姓した年寄りたちは、

現在はほとんどが物故しており、当時の子ども達や戦後生まれの子孫は一家の主の年寄り達が本土風に改姓した理由は聞かされていない人が多いという。

本土風改姓に着目する戦後生まれの住民は「もし、日本兵に自決させられたんだったら、絶対本土風に改姓はしない」と軍の自決強制に疑問を呈している。

「集団自決」を取材するジャーナリストなら、この「本土風の改姓」の理由に興味を持つはずだが地元記者でこれについて触れるものはいない。

おそらく「本土風改姓」に住民と日本兵の関係が良好だった理由が潜んでおり、これも沖縄マスコミにとっては隠蔽すべき「不都合な真実」なのかも知れない。

 

【おまけ】

ところで左翼運動を商売の種にして高校教師が気がつけば国立大学教授に駆け上がり、

沖縄の反日運動のカリスマとなったこのお方、今後は何処の大学に寄生するのでしょう。↓

 「沖縄に育てられた」 高嶋教授が最終講義 カメラ  (2/24 10:21)

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沖縄米兵暴行事件のその後 

2008-03-10 12:12:57 | ★米兵事件

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沖縄で起きた「米兵女史中学生暴行事件」は結局次のような結末となった。

一犬虚に咆えて万犬これに習ったその結果、泰山鳴動してネズミが一匹しか出てこなかった

だがこの一匹のネズミを糾弾するために「県民大会」を開くというからとんだ大恥晒しだ。

件の少女、ボロボロ出て来ましたね。

沖縄の高校教師トラネコさんがこの恥ずべき大騒動について書いておられるので下記に引用します。 

                        ◇


    沖縄米兵暴行事件のその後   
                            トラネコ

 先日の米兵による少女暴行事件ですが、少女側の告訴取り下げで米兵は不起訴になり釈放されました。この件で人権団体や反米団体は困惑しながらも抗議大会を来る23日(日)に北谷公園(ちゃたんこうえん)で開催することが決まりました。そのときは私はこの近所に住んでいましたのでレポートします。

 さてこの告訴取り下げについて疑問があります。

1.警察は強姦罪は親告罪なので告訴が取り下げられた以上米兵の罪は問えないという。しかし、未成年に対する淫行条例がありますし、米兵は少女の体に触ったことは認めているわけだから、強制わいせつ罪でも罪は問えるはずです。しかし警察や検察は検挙しないのはなぜだろう?。
 
2.マスコミは当初強姦容疑と報道していたが、後に暴行容疑にかわっている。
  米兵は最初から強姦を否定していた。しかし人権団体やマスコミはそれでも強姦罪にもって行こうという意図があったのではないか。しかし実際は少女の体に触れただけで沖縄事件のその後騒がれたために強姦には至らなかった。
  そして彼女も強姦までされたとは言っていないのではないか。しかしこれでも強姦未遂が成立すると思うが、もしかしたら何か裏取引のようなものが米兵と警察と少女側にあったのかも・・・。

3.週刊新潮によれば、この少女は昨年売春防止法で補導歴があり、今回の事件も米兵よりも彼女の方が「援助交際」目的に誘ったような観方もある。つまりもし裁判になればこの少女側が、かなり不利な状況に立たされる可能性があったのではないか。現在でもこの少女の周辺では多くのマスコミ関係者が彼女の生活や家族関係、交友関係を聞きまわっているという。またあまりに事件が大きくなりすぎ、全国報道から国際問題にまで発展していることに、彼女側があわてて告訴を取り下げたのではないか。

4.告訴取り下げがあったのに米軍側は、この事件の詳しい調査を続けると言っているのはなぜか?米軍側にも納得のいかない事情があったのではないか。

 思いついたことを書いてみましたが、沖縄女性団体は「少女には何の落ち度もない、彼女を批判するのは間違いだ。」などと戯言をほざいていますし、沖縄市長で前参議院議員の東門美津子氏は「少女を批難する人のほうがどうかしている。」とも言っています。

 これがこの人たちの常識なのでしょう。しかし沖縄県民はこの少女の生活態度や「尻の軽さ」を批判している人のほうが普通です。決して人権団体や沖縄市長の感覚が沖縄県民の感覚や常識ではありません。(縄文塾通信 <3月-2(295号)>縄文暦12008年3月10日)  

                      ◇ 

いやー、ぶったたまげたね。

被害者の前歴に売春防止法の補導歴があったとはね。

「県民大会」で東門沖縄市市長は、

「それでも少女は悪くない」

「売春防止法を撤廃しろ!」

とでも叫んで拳を突き上げるのですかね。

                    ◇

【再掲】

お知らせ

本日(3月10日)午後1時30分より、沖縄県庁記者クラブ室にて、藤岡信勝拓殖大学教授が「集団自決」についての記者会見を行います。

「座間味島の隊長命令」に関して「重要証言」をした座間味村民が同席します。

さて、「不都合な真実」を黙殺してきた地元マスコミがこれにどのように対処するか。

注目しましょう!

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藤岡教授が沖縄で記者会見★全世界、米兵性犯罪24%増 取り下げも倍増

2008-03-10 07:58:47 | ★米兵事件

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お知らせ

本日(3月10日)午後1時30分より、沖縄県庁記者クラブ室にて、藤岡信勝拓殖大学教授が「集団自決」についての記者会見を行います。

「座間味島の隊長命令」に関して「重要証言」をした座間味村民が同席します。

さて、「不都合な真実」を黙殺してきた地元マスコミがこれにどのように対処するか。

注目しましょう!

                   ◆

全世界、米兵性犯罪24%増 取り下げも倍増 カメラ  (3/6 9:35)

世界における米軍人の性犯罪

 全世界の米軍人に関係する性犯罪が、2006年に前年比24%増と急増していることが、米国防総省がこのほどまとめた報告書で分かった。06年に報告のあった件数(強姦(ごうかん)罪、未遂含む)は2947件で、05年(2374件)に比べ573件増加した。今回の沖縄での女子中学生暴行事件と同様に訴えた後に被害者が申し立てを取り下げる事例も増えており、06年は取り下げ件数は670件と前年(327件)に比べ倍増した。
 報告書は米国防次官が2007年3月に米連邦上院・下院の軍事委員会に提出した。陸軍、空軍、海軍、海兵隊でまとめた性犯罪報告を国防総省がまとめた。米国内外の内訳などはない。
 米国内ではアフガン戦争後に米兵に性的暴行を受けたという女性らの告発が相次ぎ、問題が表面化。米連邦議会が国防総省に実態調査を勧告。同省は04年から米軍全体を対象に性犯罪のデータ収集を始め、議会への報告が義務付けられている。
 性犯罪報告総数から被害者が訴えを取り下げた件数を除いた事件(申立件数)で見ると、04年は1700件、05年は2047件、06年は2277件と右肩上がりに急増している。
 06年の申立件数の内訳は、加害者と被害者が米軍人の事件が1167件(51%)、加害者が米軍人で被害者が民間人が658件(29%)、加害者が民間人で米軍人が被害者は82件(3・6%)、被害者が米軍人で加害者が特定できない事件が370件(16%)となっている。
 申し立て事件について発生場所別に見ると、軍事施設内が1208件(53%)、施設外が953件(42%)、未特定が116件(5%)だった。
 06年の申し立て事件(2277件)で06年末までに米軍捜査機関が捜査を完了したのは1402件(62%)、1500人。1500人のうち各司令官は、容疑者が統一軍事裁判法の対象でない民間人や外国籍などの理由で765人(51%)について直接処分できなかった。
 処分対象の735人のうち、446人が処分保留。処分者の289人のうち、72人が軍法会議、114人が処罰を受けた。米メディアの間では処分件数の信頼性に疑問の声も上がっている。
 (平安名純代・本紙ロサンゼルス通信員)

(3/6 9:35)

                                              ◇

前のエントリーで沖縄の新聞の異常な報道姿勢は沖縄に住んでみないと理解困難だと書いた。

ネットの普及で沖縄に住まなくともその日の内に、各地方紙のウェブサイトから記事は読める。

だがオーバーな見出しや記事の配置構成まではネットでも知ることは出来ない。

ちなみに冒頭に引用の記事はその日の朝刊で次のように扱われている。

一面トップで8段を使った見た記事で

見出しは四段ぶち抜きの白抜き

米兵性犯罪24%増2947件

そして、社会面もトップの5段ぶち抜きの白抜き大見出しで、

4米兵、軍法会議に

・・・が目に飛び込む。

この大見出しは否応なしに「沖縄では今でも連日米兵犯罪が続発している」といった印象に読む者に与える。

だが注意深く読む読者なら一面記事は「全世界」の事件だし、社会面の記事は「広島」の事件だということに気がつく。

しかし、忙しさに紛れて大見出しだけを拾い読みする読者は記事の印象操作に見事にひっかってしまうだろう。

特に活字離れの激しい若者層の脳裏に間違った情報がそれとは知らぬ間に蓄積されていく。

強姦事件も交通事故も、米兵というだけでミソもクソも一緒くたにする報道姿勢にも呆れるが、

米兵というだけで他の地域の事件まで一面や社会面のトップを使って過剰反応する地元紙に・・・あー、疲れるわ!

前にも書いたメディアリテラシーの生きた教材としてなら沖縄の新聞は絶好なのだが・・・。

試しに同日(6日)のオピニオン面を見ると依然として釈放された「米兵事件」が読者欄で未だにくすぶっている。

「声」の見出しと一部抜粋で紹介すると、

県民の憤りと怒りを示そう  北中城村 T・M(女性 71歳)
<女子中学生に対する暴行事件に、人々の憤りは1月たっても噴出して収まらない。・・・>

米軍上官にも罰を  浦添市 T・O(男性 会社員、66歳)
<・・・沖縄駐留の米軍の四軍調整官にも部下の罪を自ら償わせ責任を負わせるべきだ。>

このようなバカ馬鹿しい「声」を釈放後も依然として掲載し続ける琉球新報にもはや新聞の良識は微塵もない。

そして米兵糾弾の「県民大会」を開くという。

県民大会の行方 2008/03/05 17:08

 

結局自民党が不参加を決めたので、超党派が崩れ県知事も晴れて不参加を声明できるだろう。↓
 
自民、不参加を決定/米兵暴行事件・県民大会

  
 で、「毒おにぎり」の仲里議長はどうするのだろうと思っていたら、こんなことになってしまった。⇒米兵事件県民大会 県議会参加見送りへ  (3/6 9:43)

それでも県議の個人参加はОKとのことだから仲里議長もおにぎり持参で参加せざるを得ないのかも。

しかし、「11万人」に比べて動員目標を一桁下げたようだが(13年前の少女暴行事件抗議県民大会は主催者発表8万5千人)、

今回の大会ほど全国の目が「主催者発表」に興味を持って注がれる大会は過去にないだろう。↓

県民大会、1万人以上大会に 実行委の結成集会 カメラ  (3/9 10:12)

くれぐれも桁違いのカウント違いだけはしないように。

 

【おまけ】


━━━━━━━━━━
報道に欠けていること
━━━━━━━━━━


          花岡 信昭

]このサイトの基本テーマは「安心」「安全」だ。まさにそのテーマに合致
すると思われるのが、沖縄で起きた「米兵による少女暴行事件」とイージス艦「あたご」の漁船との衝突事故だ。改めて、この2つのケースが何を問いかけたのか、総括しておきたい。

双方のケースに共通していたのが、大方のメディア報道のスタンスだ。
「沖縄」では米兵・米軍側を一方的に断罪し、「あたご」では自衛隊側が全面的に悪いという報道ラッシュであった。とくにテレビのワイドショーはその傾向が一段と強かったように思う。

断罪された側はいずれも、反論、言い訳ができない立場にある。とかくメディアはそういう「逆襲が絶対にない相手」に対して居丈高になる。メディアの世界に長年いた者としても、いま必要なのは、常識的判断と沈着冷静な報道スタンスではないかと痛切に感じる。

「沖縄」のケースから見よう。こういう言い方は注意しないといけないの
だが、米兵による事件、不祥事、不始末はいまに始まったことではない。
再発防止には全力をあげてほしいが、「軍隊」というのは、あすは自分の生命をかけなくてはいけないという心理が働く特殊な組織である。そうした面での専門家による兵士の管理、ケアーが重要になる。

そのことを前提として、あえていえば、今回の事件は14歳少女が夜の8時半に繁華街で遊んでいなければ、そして、米兵のバイクに乗るという軽率な行為をしていなければ、起きなかったケースである。

「子どものしつけ」の徹底を家庭や地域、学校に求めることが、この事件が残した教訓だろう。重ねていうが、普通に道を歩いていて拉致されたというケースではなかった。

少女側は「強姦」で逮捕された米兵に対し、告訴を取り下げ、米兵は結果的に不起訴となった。米兵は「強姦」の事実を否認、警察当局による証拠収集や捜査も難航していた。

少女の将来を考えれば、これ以上の言及は避けたほうがいいのだろう。地元では「極悪な米兵による被害少女」として知られてしまっている。不起訴となった以上、「強姦事件はなかった」のだから、周辺は少女の今後を温かく見守ってほしいものだ。

だが、「反米・反基地」勢力はこの事件によって勢いづいた。地元の首長や議会は、普天間返還、代替基地建設の調整を「さぼる」理由ができた。これが政治の世界の「いやらしさ」である。

不起訴となったからには、この事件によってぎくしゃくしてしまった日米
関係の修復に努めることが急務だ。政府関係当局には周到かつタフな事後処理を求めたい。関係修復にどれだけの時間を要するか、そこに日米同盟の強靭さがかかっている。

「あたご」のケースも複雑だ。漁船の父子が行方不明という痛ましい事故だが、横須賀に向かって直進していた「あたご」と漁船の船団が鉢合わせしてしまった。

メディア報道は「あたご」側の過失を一方的に責め立てている。防衛省、自衛隊の対応の遅れも集中砲火を浴びた。そこはプロ中のプロである以上、迅速、適確な対応が求められたのは当然だ。だが、今後の海難審判の結果は予断を許さないものがある。

海上衝突予防法では、船舶同士の衝突を回避するため、「行会い船」「横切り船」などの状況別に細かな規定を設けている。

「行会い船」はほぼ真向かいに行き会う場合で、互いに相手の船の左舷側を通過する、つまり、右側通航を義務付けている。「横切り船」は互いに進路を横切る場合で、相手を右舷側に見る船は相手の進路を避けなければならないとし、さらに、相手の船首方向を横切ってはならない、としている。

つまり、互いの位置関係によって、回避行動が違ってくるのだ。今回のケースでは、僚船の1隻は右左に蛇行して衝突を避け、1隻は「あたご」の直前を横切った。海上保安本部が捜査に全力をあげているが、その結果によっては、これまで言われてきた構図が変わる可能性もある。

それにつけても思い出すのは、「なだしお」と「雫石」である。いずれも
発生当時は自衛隊側が全面的に指弾された。新聞社にいて、あのときの興奮状態をいまだに覚えている。だが、最終的な判決は違ったのである。

1988年7月23日、横須賀沖で海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が衝突、「第一富士丸」が沈没して30人が犠牲となった。
事故当時は「なだしお」側を責める報道があふれ返ったが、海難審判庁は「なだしお」の回避の遅れを指摘する一方で、「第一富士丸」にも直前での左転に問題があったと判断した。

刑事裁判では、「なだしお」艦長、「第一富士丸」船長の双方に執行猶予付きの禁固刑が下されている。

1971年7月30日、岩手県雫石町の上空で航空自衛隊の戦闘機と全日空機が衝突、双方とも墜落した。全日空機の162人が犠牲となり、戦闘機の訓練生はパラシュートで脱出、生還した。このときも、自衛隊側に全面的な非があると報道されたが、最終的な構図は違うものとなった。

当時、別の戦闘機で飛んでいた教官と訓練生が業務上過失致死などで逮捕、起訴されたが、訓練生は無罪、教官は執行猶予付きの禁固刑となった。

裁判の過程では全日空機側の過失も認定された。戦闘機は時速840キロ、全日空機は900キロ。全日空機が下側から追突、水平尾翼で戦闘機の右主翼を引っ掛けたというものであった。

戦闘機よりも全日空機のほうが速かったという事実に驚いたのをいまだに覚えている。民事裁判は20年近くかかったが、最終的に過失割合は「国2、全日空1」と認定されている。

昔の資料を改めて点検してみると、メディアの報道姿勢に基本的な変化が見られないことを指摘しないわけにはいかない。「沖縄」では米兵・米軍が、「あたご」では自衛隊側が「全面的悪玉」として報じられた。「なだしお」「雫石」とまったく同様の構図である。

これも集団的過熱取材(メディア・スクラム)のなせる弊害なのだろうか。
一時的にカーッと血が上ってしまうような報道スタンスでは、事実が見えてこない。再発防止の方向性も危うくなる。相次いだ2つの事件、事故はメディアにも痛烈な反省を迫るものだ。

【日経BP社サイト「SAFETY JAPAN」連載コラム「我々の国
家はどこに向かっているのか」弟100回・3月6日更新】再掲
★★花岡信昭メールマガジン★★541号[2008・3・8から転載

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マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

2008-03-09 07:41:45 | ★集団自決

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■村民と元軍人の交流・・・全く異なる二つの情景」■

集団自決のあった悲劇の島渡嘉敷と座間味。

この二つの島の住民達は戦後慰霊のため島を訪れた元軍人達にどのように接したか。

それを象徴する一つの情景がある。

島の慰霊祭に訪れた元軍人を島の住人が港で取り囲み、「何しに来た、帰れ!」と面罵するシーン。 

つい最近では1月25日、同じ情景が座間味埠頭で藤岡教授の調査団に対して行われた。(沖縄タイムス記事)

この調査団には元軍人の皆川氏や知念氏が加わっており、「憎悪に燃える住民VS残虐非道の元軍人」の構図がマスコミが期待する通りに展開された。 

残虐非道の“者”ともいえる元軍人がおめおめと島を訪れるという象徴的な「物語」は大江健三郎の『沖縄ノート』で作られた。

島の慰霊祭に訪れた赤松元隊長を空港で待ちうけ「何しに来た! 帰れ!」と面罵する「村人」の物語である。

「座間味埠頭のトラブル」でもそうだが、何故純朴な村人たちが元軍人の行動日程を正確に把握してマスコミ同伴で待ち受けていたかについてはさて置こう。

その一方全く異なる元軍人と村人たちの交流シーンがある。

戦後何回と無く島をを訪れた元軍人グループと住民が再開を喜び和やかに交流する全く別の情景である。

ただ、前者の「帰れ!」の抗議文を突きつけるシーンは必ず多くのマスコミの影が付き纏い逐一というよりむしろ誇大に報道されるのに対して、後者の住民と元軍人との和やかな交流シーンを報道するマスコミは皆無である。

『沖縄ノート』が伝えた住民による「赤松帰れ!」の情景の4年後の昭和59年に撮影された一枚の記念写真がある。

そこに写っているのは憎んでいるはずの元軍人と村人の約70名の和やかな姿と笑顔である。

渡嘉敷の港を背景に村民や地元の婦人たちに囲まれて、にこやかに記念撮影に収まるのは紛れも無く「憎むべき日本軍」のはずの元赤松隊一行である。(昭和59年撮影)

この「不都合な真実」を物語る記念写真はここで見れる。(写真は最後の部分)⇒ 日本軍は命がけで沖縄県民を守った!Ⅱ

地元マスコミが決して報じることの無い「住民と日本軍の関係」は再度引用する宮平さんの証言でも語られている。

『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』
藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授 (08/2/25
 

◆住民と日本軍との関係は「最高」

(略)座間味が特攻の秘密基地になったこと、10・10空襲で那覇がやられて武器弾薬の補給も途絶えたこと、3月23日に空襲が始まり激しい攻撃を受けたこと、などの話が続いた後、井上キャスターが尋ねた。

井上:今日、いろいろな所を見て参りましたが、住民の方とここに駐留しておりました日本軍の兵隊さんとの関係は非常に良かったと…  

宮平:ああ、もう最高ですよ。年寄りが古座間味という山を越したところにイモやイモの葉っぱを担いで運んでいるとき、隊長と兵隊さんがそれを見まして、(梅澤隊長が)「手伝ってあげないとかわいそうだよ。あんなに働いているのも、みんな国のためだよ。私たちと同じだよ。担いであげなさい」と言いました。それで兵隊さんが鉄砲を同僚に預けて重い物を担いでやったんです。それからまた、兵隊さんは全部民宿ですから、朝晩の食事一緒なんです。おいしい物があればあげて、まずいものでも一緒に食べて、家族同様の生活をしていました 。  

                      ◇

■本土風の名前■

沖縄タイムスを先頭に左翼勢力が必死に作り上げようとする一つの「物語」はこうだ・・・日本軍は残虐非道だった・・・、村人は今でも彼ら日本人を憎んでいる・・・彼らの来島に反対する!。

だがこの物語を覆す証言や証拠の発掘が、偏向したマスコミ主導ではなく村人主導で行われつつあると聞く。

そのきっかけにもなると思われるのが村人たちの戦後頻繁に行われた「改姓」についての考察である。

初めて「集団自決」問題に触れる人を理解困難にさせるのは集団自決実行に際して重要な立場にあった村のリーダー(村長、助役、兵事主任等)が戦後ほとんど改姓していることである。

沖縄の戸籍制度は戦前から沖縄県として日本の戸籍制度で行われており、米軍占領下でも日本の戸籍制度を引き継いでいた。

従って」現在でもそうであるが、よっぽどの理由がなければ改姓は出来なかった。

ところが「集団自決」のあった渡嘉敷島、座間味島に限ってやたらと改姓が多い。

これは米軍の猛爆を受けてほとんどの戸籍が消失してしまい、新しい戸籍を作るときについでに改姓したと考えるのが一般的である。

ところがここにもう一つの大きな謎が残る。

左翼勢力の喧伝するように村人が「憎むべき日本軍」と考えているのが事実なら、何故改姓の際に「本土風の姓」に改姓したのか。

例えば渡嘉敷村長・古波蔵⇒戦後、米田に改姓

渡嘉敷村職員・新城⇒戦後、富山に改姓(手りゅう弾を配ったとされる)

他にも戦後本土風に改姓した島人は大勢いるし、当日記も過去にこれに触れた。

詳しい論考は次回に続く。

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続々!不都合な真実に怯える沖縄タイムス 断末魔の様相!

2008-03-08 09:18:33 | ★集団自決

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かねがね沖縄の二紙はメディア・リテラシーの生きた教材だと書いてきた。

数日前その最適な見本を見つけ、それを題材にエントリーする予定だった。

ところが座間味島の調査団と沖縄タイムスとの「トラブル」のエントリーが続いてしばらく中断した。

そして今日こそはとエントリーを予定していた。

今朝起きてコメント欄を見たら読者のヒロシさんから興味深い関連動画を頂いた。

急きょ、「断末魔の沖縄タイムス」に予定変更です。

 

『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』
藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授 (08/2/25
 

◆宮平さんはなぜ証言を決意したか
 (略)
25日、ツアーの一行が高速艇で座間味港に着いた時、二人の島民が私に抗議文めいたものを突きつけた。それを同じ高速艇に乗り込んでいた沖縄タイムスの吉田啓記者が横から写真に撮った。島民の一人は宮里芳和という人で、夜、彼の経営するパブに行って真意を聞いた。私達の到着時刻は沖縄タイムスの編集委員・謝花直美からの連絡で知った。彼は昭和23年生まれで、隊長命令のことはわからないと弁解した。ところが、翌日の沖縄タイムスの記事には、座間味島民が藤岡に抗議文を突きつけ、隊長命令があったと彼が語ったことになっていた。地元紙による歴史偽造の現場に立ち会った私は、彼等が最も恐れていた人物にめぐりあったことになる。

                      ◇

再三同じ文の引用で恐縮ですが・・・、これを読んだ後次の動画を先ずご覧下さい。

【動画】議論に負けた沖縄タイムス某記者、コソコソ船に乗り逃げ http://www.youtube.com/watch?v=lFrV5rkY6-8&feature=related

座間味港埠頭で口論する二人のうち、左側はチャンネル桜の井上和彦キャスターで、

右側の人物は藤岡教授の引用文から判断して沖縄タイムス吉田啓記者だと思われる。

現場に立ち会っていない筆者としては船の便はネットで調べるしかない。⇒★クイーンざまみ 1便 泊発9:00 座間味発10:00 阿嘉発10:20 泊着11:10 2便 泊発15:00 阿嘉発16:00 座間味発16:20 泊着17:10

この時刻表から推察すると調査団一行は1月25日の15:00に那覇の泊港を出発して、午後の4時過ぎに座間味港に着いて、同じ舟に密かに乗船していた沖縄タイムス記者と午後4時半前後にトラブルを起こしたことになる。

その後吉田記者は16:20座間味発の同じ船に「コソコソと」乗って帰ったと思われる。

帰社後翌日の記事を書いたものと見られるが、座間味島民が抗議のビラを藤岡教授に突きつけた一番美味しい場面はシャッター切ったはずなのに記事には何故か写真はなかった。

もっとも探すのに苦労するようなベタ記事なのでこれに写真が付いたらかえっておかしなもの。

再三言うが筆者は「座間味埠頭のトラブル」の目撃者ではない。

だが与えられた資料から次の情景を想像することはさほど困難ではない。

①2008年1月25日15:00、藤岡教授他の調査団一行が那覇の泊港を出発。(沖縄タイムス吉田記者が密かに乗船)

②16時過ぎ、座間味港到着 

<事前に沖縄タイムス謝花女史より、座間味の宮里芳和氏らの島民に「歴史を歪曲する右翼集団が座間味に行くので追い返せ」といった指示と到着時刻が連絡される。>

③タイムス謝花女史の指示により、待ち受けていた宮里芳和氏らの島民に抗議文を突きつけられ「座間味村民はあなた方を歓迎しません」といわれる。

④その抗議の瞬間を吉田記者が写真撮影し、調査団一行の井上キャスターと口論。(動画のシーン)

⑤16:20座間味発で、吉田記者那覇に戻る。

【追記】動画を見直したら、上記③と④が入れ替わっているようです。つまり井上キャスターと吉田記者の口論の後村人から抗議文を渡されたもよう。

(茶色の部分は筆者の想像です)

煩雑を承知で吉田記者が書いたと思われる翌日の沖縄タイムス記事を再度引用する。(ウェブサイトには掲載されていない)

沖縄タイムス 2008年1月26日 朝刊 26面(社会面

藤岡氏の訪問に座間味村民抗議
「軍命の強制は事実」

 沖縄戦時、慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)について、「日本軍による命令・強制はなく、米軍の猛爆で追い詰められた住民の尊厳死だった」などと主張する「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長らが二十五日、座間味村を訪れた。反発する村民が抗議文を手渡した。藤岡氏らは二泊三日で、座間味、渡嘉敷両島を訪れる予定だという。
 
村民は、抗議文で体験者の証言や村史の記述を引用して、「集団自決」への日本軍の命令や強制があったことを示し、「(座間味島・海上挺進第一戦隊の元隊長の)梅澤裕氏を絶対に許さない」「座間味村民はあなた方を歓迎しません」と伝えた。
 抗議した宮里芳和さんは「私は二十年以上、体験者から聞き取り調査をしたが、『集団自決』に軍命、強制があったことは間違いない事実だ」と話した。(写真はない)

                     ◇

反発する村民が抗議文を手渡した。

座間味埠頭で調査団一行の到着を待ち受けて、「抗議文」を手渡した村民は一行の到着予定時刻を沖縄タイムスの謝花直美編集委員から連絡受けたという。

謝花直美氏は「集団自決は軍命」という沖縄タイムス論調のリーダで「反日、残酷な日本軍」といった論旨で多くの署名記事を書いており本土各地の講演会でも引っ張りだこの女史である。

⇒★高知での講演会http://www.haruna-naoaki.jp/index.php?ID=346(謝花女史の写真が見れる)
★赤旗の講演会http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-11-25/2007112504_01_0.html

■22万の瞳■

さらに彼女は昨年の「11万人」集会では、11万人どころかこれを「22万の瞳」にして情緒たっぷりの文を書いた有名人でもある。

座間味埠頭で口論した吉田記者の上司に当たるので、上司の「22万の瞳」がある以上、どうしてもその基数となる「11万人」だけは後に引けなかったのだろう。

 

22万の瞳にこたえよ/視点‘(07/09/30 沖縄タイムス)

 強い日差しの中、時折心地よい風が吹いた。会場に入りきれない人々は、公園や隣の建物、小道、雑木林の中に座り、遠くで聞こえるマイクの声にじっと聞き入った。ステージが遠くても、見えなくても、そこに集まった二十二万の瞳は、検定撤回を求めるスピーチが続く舞台を静かに見詰め続けていた。
 (中略) 沖縄戦を胸に刻んできた体験者、沖縄戦を考えることが心に芽吹いた若者たち。「集団自決」で死んで行ったあなたを、残された人々を、決して一人では立たせないとの思いで結集した。
 十一万六千人もの人々が共に立ち、誓った。私たちの生きてきた歴史を奪うことは許さない。「集団自決」の事実を、沖縄戦の歴史を歪めることは許さない。舞台を静かに見据えた瞳はそう語っていた。
 政府は、この二十二万の瞳にこたえよ。(編集委員・謝花直美

                     ◇ 

謝花氏は新聞や講演会で論陣を張るに留まらず「集団自決裁判」の被告である「岩波書店」から「集団自決」の証言集を発刊している。

沖縄タイムス 2008年2月20日(水) 朝刊 26面   
 
証言「集団自決」を発刊/岩波新書

 沖縄戦中に慶良間諸島で起こった「集団自決(強制集団死)」の生存者三十七人の証言を、本紙の謝花直美編集委員がまとめた「証言 沖縄『集団自決』―慶良間諸島で何が起きたか」が二十日、岩波新書から発刊される。二百二十二ページ、定価七百四十円(税抜き)。
 二〇〇七年五―十二月に本紙で連載した「命語い」を大幅に再構成。沖縄戦の概況や、高校の日本史教科書から「集団自決」への軍の強制を削除させた文部科学省の教科書検定を受け、昨年九月二十九日に開かれた県民大会に向けての県内外の動きも加筆している。(略)

                      ◇
  
 
>二〇〇七年五―十二月に本紙で連載した「命語い」を大幅に再構成。 ⇒ >>連載「命語い」一覧

連載特集「命語い」の証言集には「不都合な真実」は含まれていない。

 

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証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書 新赤版 1114)
謝花 直美
岩波書店

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続・「不都合な真実」に怯える沖縄タイムス どっちが大嘘つきか

2008-03-07 07:39:38 | ★集団自決

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どんなに重要な歴史的場面に立ち会っても、それを文字に残すこともなく、それを語ることがなかったら歴史に残ることはない。

たとえ語ることがあっても、それが黙殺されたら歴史のページを飾ることはない。

その意味で歴史の証言はどんなに大声を上げても、新聞記事等の活字メディアに取り上げなければ沈黙に等しい。

結局新聞の見出しが1人歩きしてそれが歴史を作ることにもなる。

歴史は「見出し」が作る

座間味島の隊長命令に関して、衝撃的証言をした宮平秀幸さんは戦後一貫して真実を語り続けた。

だが、宮平さんの語る真実は地元紙にとって「不都合な真実」だったことは宮平さんにとって不幸であった。

地元に在住しているにもかかわらず、宮平さんの証言を記事として取り上げる地元新聞はなかった。

8年前の12月、全国紙の毎日新聞が宮平さんに現地材してこれを特集連載記事でこれを掲載した。

だが、全国的には当時「座間味島の集団自決」への関心はほとんどなく、宮平さんの証言は8年間の時の流れに忘れ去られていった。

だが、「集団自決」問題の当事者として深くかかわってきた沖縄タイムスが毎日の記事に気がつかないはずはなかった。

沖縄タイムスは卑劣にも毎日新聞の読者が沖縄では少数であることをいいことに徹底的にこれを黙殺し続けた。

双子の兄弟のように同じ論調で沖縄タイムスとタッグを組む琉球新報もこれに見習った。

かくして宮平証言は沖縄という「情報閉鎖空間」で歴史の一ページから削除された。

今年の1月26日、宮平秀幸さんと調査団が出会うまでは・・・。

 

『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』
藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授 (08/2/25
 

◆宮平さんはなぜ証言を決意したか
 (略)
秀幸さんが14歳の昭和20年1月1日、座間味で郷土防衛隊が組織され、秀幸さんもその一員となった。同月10日には15歳になる。彼はいつしか梅澤隊長の本部付きの伝令員をつとめるようになった。といっても、防衛隊は法的根拠のないもので正規の日本軍の一部ではないから、伝令員としての正式の辞令が出たわけではない。ただ、機敏で現地の地理に詳しい少年が重宝がられたことは確かであろう。

こういう立場の伝令員の少年は秀幸さんの他にも数名いた。同年配の村の少年たちにとって日本軍はあこがれの存在であり、軍の壕に出入りし、軍から与えられた任務を張り切って果たすべく村中をはだしで飛び回っていた。梅澤隊長は秀幸さんを「あんちゃん」と呼んでいた。戦後30数年ぶりに二人は再会したが、当時那覇泊港と座間味島を結ぶ連絡船の機関長をしていた秀幸さんをすぐに認めて、梅澤さんは「あんちゃん」と呼びかけたという。  

初枝の証言をもとに晴美が書いた著書には、秀幸さんの証言と矛盾する箇所がたくさんある。秀幸さんは初枝に、「姉さん、本当のことを言わなければ駄目だよ」と繰り返し意見していた。

宮平さんは、大阪の名誉毀損訴訟の証人になることを2年前には固辞していた。なぜ、心境が変わったのか。それは昨年の教科書騒動で、嘘が歴史になることに耐えられなかったからだという。

25日、ツアーの一行が高速艇で座間味港に着いた時、二人の島民が私に抗議文めいたものを突きつけた。それを同じ高速艇に乗り込んでいた沖縄タイムスの吉田啓記者が横から写真に撮った。島民の一人は宮里芳和という人で、夜、彼の経営するパブに行って真意を聞いた。私達の到着時刻は沖縄タイムスの編集委員・謝花直美からの連絡で知った。彼は昭和23年生まれで、隊長命令のことはわからないと弁解した。ところが、翌日の沖縄タイムスの記事には、座間味島民が藤岡に抗議文を突きつけ、隊長命令があったと彼が語ったことになっていた。地元紙による歴史偽造の現場に立ち会った私は、彼等が最も恐れていた人物にめぐりあったことになる。

                    ◇

引用文最後の太字部分は昨日のエントリーでも引用してあるのを失念したわけではない。

昨日の続編になるので敢て再度同じ部分を引用した。

昨日のエントリーで、東京時代の複数の友人からメールが入り、件の沖縄タイムス記事を地元に居ながら何故紹介しないのかとの叱責を受けた。

なるほど友人がいう記事はいつものように引用していない。

沖縄タイムスは購読していないし、ウェブサイトに掲載されていないので紹介のしようがなかったからだ。

沖縄タイムスの「集団自決」に関する熱意の入れようは凄まじいものがあり、通常だったら関連記事は下記のように特別カテゴリーを設けてHPに保存してあるはず。

沖縄戦「集団自決」問題 縄戦「集団自決」問題
「島ぐるみ」で抗議の声を上げる県民の動きを伝えるキャンペーン。 http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html

「軍命なし派」のリーダーとも言うべき藤岡教授の座間味島訪問に抗議して抗議文を突きつけたのが事実なら沖縄タイムスとしてはこんな美味しいネタはないはずだ。

その抗議の情景を写真でも撮ってあるなら、一面はともかく社会面のトップを飾ってもおかしくない特ダネのはず。

通常なら当然ウェブサイトにも掲載してしかるべきだと思うのだがHPの何処にも掲載されていない。

「集団自決」に特別の関心を持ち続けている当日記にして件の記事の存在を知ったのは上記藤岡教授の文によってである。

早速沖縄在住の沖縄タイムス購読の友人達に同記事を調べてもらうよう依頼したのだが何しろ一月以上前のこと。

同期日の新聞を保管している殊勝な者は1人も居なかった。

やむなく昨日(6日)図書館で同記事を確認してきた。

ところが大見出しの派手な記事を期待したのは見事に裏切られた。

最初は探しきれずに何かの間違いかとも思ったくらいだ。

見逃すのも当然で社会面の下のベタ記事でひっそりと、まるで人目を憚るかのように潜んでいた。 

以下同記事の引用です。

沖縄タイムス 2008年1月26日 朝刊 26面(社会面

藤岡氏の訪問に座間味村民抗議
「軍命の強制は事実」

 沖縄戦時、慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)について、「日本軍による命令・強制はなく、米軍の猛爆で追い詰められた住民の尊厳死だった」などと主張する「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長らが二十五日、座間味村を訪れた。反発する村民が抗議文を手渡した。藤岡氏らは二泊三日で、座間味、渡嘉敷両島を訪れる予定だという。
 
村民は、抗議文で体験者の証言や村史の記述を引用して、「集団自決」への日本軍の命令や強制があったことを示し、「(座間味島・海上挺進第一戦隊の元隊長の)梅澤裕氏を絶対に許さない」「座間味村民はあなた方を歓迎しません」と伝えた。
 抗議した宮里芳和さんは「私は二十年以上、体験者から聞き取り調査をしたが、『集団自決』に軍命、強制があったことは間違いない事実だ」と話した。(写真はない)

                     ◇

藤岡教授の引用文の後半部分と上記沖縄タイムスとを付き合わせて見ると大変な事が分かる。

藤岡教授は、抗議文を手渡した島民の宮里芳和氏から「隊長命令のことはわからない」という言質を取っている様子。

こうなると沖縄タイムスか藤岡教授のどちらかが大嘘を付いたということになる。

これまでの沖縄タイムスの度重なる捏造記事の実績から言って、

「沖縄タイムスよ、よくも又やってくれたか」と思うのだが。

沖縄タイムスの「大きな捏造記事」と「小さな訂正記事」

タイムスの論調から言って誇らしげに社会面トップを飾りそうな記事内容なのだが、この小さな自信なげなベタ記事は何を意味するのか。

おそらくは己が記事内容のいかがわしさに赤面して人目に付かぬ記事になったと推察する。

厳密に言うと、現場に立ち合っていない筆者はどちらが黒か白か断言出来る立場にない。

大嘘つきはどっちだ!

沖縄タイムスか藤岡拓大教授か!

ここは問題提起に留めて、推量による断言を避け、今後の推移を見守りたい。

ちなみに時系列的に言うと、沖縄タイムスの吉田記者が目撃した「島民の抗議」シーンの時点で藤岡教授は未だ宮平秀幸さんの証言に遭遇していない。

 

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「不都合な真実」に怯える沖縄タイムス

2008-03-06 08:17:05 | ★集団自決

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ヨーロッパ中世のカトリック教会は自分らにとって「不都合な真実」が一般に知れ渡ることを恐れて徹底的言論封殺をした。

真実を叫ぶガリレオはデマを流布する不逞の輩と断罪され獄に囚われた。

教会側が真実を封じ込めるため築いた強大なダムも、活版印刷の発明という蟻の一穴により崩壊し、怒涛のように流れ出した情報の波に「 ガリレオの真実」は世間に認知された。

当日記の読者のきんじょうさんが沖縄の二紙とインターネットの関係を、中世のカトリック教会と活版印刷に例えるコメントを書いて下さった。

まさに言い得て妙。

この数年、特に二年前の「集団自決訴訟」以来の一連の報道で、沖縄二紙は依然として「不都合な真実」を隠し続けて中世カトリック教会顔負けの独善ぶりを晒した。

地元二紙の偏向というより、異常ともいえる言論封殺は地元に住んで見なければ肌身では感じられない。

最近の「米兵女子中学生暴行事件」でも遺憾なくその本性を晒してくれた。

二ヶ月前にボツにした米兵の交通事故まで引っ張り出してきて大見出しで騒ぐ有様には社会の木鐸としての良識の欠片もうかがいしることは出来ない。

1月北中城で当て逃げ事故 車両は米軍属所有  (3/3 16:03)

■琉球新報の言論封殺■

自社の紙面で連載中の特集記事でさえ、不都合な記事があれば読者に一言の断りもなく連載を途中で中断させるほど言論封殺は徹底している。

琉球新報に連載中の地元ドキュメンタリー作家の沖縄戦史の連載が、「慶良間諸島(座間味。渡嘉敷)で何が起きたか」が掲載される寸前に突然中断されたことは記憶に新しい。

同連載記事は半年以上の長い中断の後、突然(読者に一言の説明もなく)復活して現在も連載中だが予告していた「慶良間諸島(座間味。渡嘉敷)で何が起きたか」は完全に削除された状態で現在も連載中である。

琉球新報には新聞としての矜持は微塵もない。

詳しい経緯については下記のエントリーに詳しい。

以下は【再掲です】

【再掲】琉球新報の言論封殺に抗議します (2007年10月4日) 

琉球新報の言論封殺が続いて今日で107日目です。

琉球新報の夕刊で火曜から土曜にかけての長期連載特集、

上原正稔著「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」が

掲載予定日の2007年6月19日より

読者に何の断りも無く一方的に中止になりました。

上原さんは掲載前に知人に次のように言っていました。

≪19日付からは第2話「慶良間で何が起きたのか」が始まります。
集団自決」をテーマにしたもので、作者の上原正稔氏は圧力に屈することなく執筆する≫と。

同氏の話によると、

≪沖縄で現在展開されている運動に水をかけることになる内容になるためか≫

≪担当編集者の態度に変化があり、今回の事態に至ったらしい≫とも言っているそうです。

どんな大きな圧力が働いたのでしょうか。

琉球新報は読者に連載中止の理由を一言も言っておりません。

問い合わせても「調整中」の一言で済ましています。

読者は一方的に「知る権利」を奪われています。

沖縄では今メディアの意見と違う考えは封殺される異常な事態になっています。

これでは戦前の言論弾圧と変りません。

琉球新報が連載を再開するまでこの記事を掲載し続けます。

                              狼魔人

◆参考エントリー:

「パンドラの箱」  カギを握る上原正稔氏

沖縄のマスコミは大政翼賛会か

琉球新報によって削除された「沖縄戦記」

 

                      *

■沖縄タイムスの異常行動■

今回「宮平証言」を得た調査団に同行した藤岡信勝拓大教授は、2005年にも慶良間の「集団自決」の現地調査を行っていたが、地元新聞の警戒した過剰反応は異常だったらしい。

「らしい」というのは、地元紙は自分の論調に対立するグループの行動は一切封殺するので県民はこれらの経緯を知ることは出来ない。

産経新聞の那覇支局長小山氏のブログ今夜も、さ~ふ~ふ~は地元紙が報じない地元のニュースを知らせてくれるが、今日までのアクセスが「アクセス120万件 」というから沖縄県民の人口とほぼ同人数がアクセスしたことになる。

読者はよっぽど地元紙が掲載しない記事に飢えているのだろう。

同ブログは、地元紙が報じなかった藤岡教授一行の当時の様子を次のように伝えている。(太字強調は引用者)

沖縄の「集団自決」を巡る地元の過剰反応  2006/08/29 15:59

昨年5月のことです。県政記者クラブで、琉球大学教授らによる記者会見がありました。


 内容は、近く藤岡信勝・拓大教授らのグループが沖縄戦の「集団自決」の現地調査にやってくる、というものでした。「とんでもない連中が歴史を捏造しようとしている」とのニュアンスです。


 自分たちと立場の違う研究者が、フィールドワークで沖縄入りするらしい、というだけで記者会見をするというのも異常ですが、さらに驚いたのは、翌日の琉球新報、沖縄タイムスが大々的に「沖縄戦の実相をゆがめる意図がある」と警戒する記事を、藤岡教授への取材もなく、一方的に掲載していたことです。


 「これだけでも記事になるのか」と同業者としてあぜんとしました。それこそ「オウム」のような扱いです。


 このとき当方、記者としてではなく、先輩記者からの個人的な依頼として、一行の出迎えと見送りをしました。まずびっくりしたのは、那覇空港で、記者会見したグループの一人がカメラを持って、張り込みをしていたことです


 さらに戦争の資料館に行ったところ、やはり先回りして、一行の数メートルあとをつけてくるのです。


 また、地元紙の記者が近寄ってきて、突撃インタビューを申し込むのですが、一行はタイトなスケジュールを組んでいるため、困惑して断るしかありません。


 集団自決の現地調査には同行しませんでしたが、最終日、一行から、「まるで犯罪者のように逃げ回っていると思われるのも嫌なので、場所を用意してくれれば、記者会見を開いてもいい」という相談を受けました。


 ただし、日曜なので県庁の記者クラブが使えず、かといってホテルなどの会議室を借りるにも、急なことの上、費用の問題もあり、結局会見はできませんでした。


 フィールドワークの調査結果の発表会を聞いたうえで、それに「異議有り」と反論するというのであれば、結構なことだと思いますが、危険人物がやってくるとばかりに、訪問の数日前から「警報」を発する過剰な反応ぶりには、ショックを受けたものです。

                      *

今回も調査団のことも想定どおり地元紙には報じられなかったが沖縄タイムス記者に尾行されて一寸したトラブルがあったらしいということが、藤岡教授の報告文の次のくだりに伺われる。

<25日、ツアーの一行が高速艇で座間味港に着いた時、二人の島民が私に抗議文めいたものを突きつけた。それを同じ高速艇に乗り込んでいた沖縄タイムスの吉田啓記者が横から写真に撮った島民の一人は宮里芳和という人で、夜、彼の経営するパブに行って真意を聞いた。私達の到着時刻は沖縄タイムスの編集委員・謝花直美からの連絡で知った。彼は昭和23年生まれで、隊長命令のことはわからないと弁解した。ところが、翌日の沖縄タイムスの記事には、座間味島民が藤岡に抗議文を突きつけ、隊長命令があったと彼が語ったことになっていた。地元紙による歴史偽造の現場に立ち会った私は、彼等が最も恐れていた人物にめぐりあったことになる。『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』

この僅か数行の藤岡教授の文と二年前の産経小山氏のブログをつき合わすと沖縄タイムスの取った異常な行動の意味は自ずと想像が付く。

沖縄タイムスが通常の新聞なら例え自社の論調とは異なっても沖縄戦史の現地調査に研究者の一行が来県しても、

小山氏が言うようにフィールドワークの調査結果の発表会を聞いたうえで、それに『異議有り』と反論すこれば良い。

自説に自信があるのなら掲載記事が増えて結構な話のはずだ。

それに彼らには多くの「証言者」やそれを支援する多くの学者が付いており反論には事欠かないはず。

だが、藤岡教授らに現地取材に行かれては、彼らが封印してきた「不都合な真実」が暴露されるおそれがある。

それではとても「異議あり」なんて簡単なことでは済まされないことを彼ら自身が誰よりも承知しているのだ。

その焦りと恐怖が彼らの異常ともいえる過剰反応に伺える。

二人の島民が私に抗議文めいたものを突きつけた。

現場に居合わせたわけではないので「抗議文めいた」ものの中身は窺い知れないが

二年前に沖縄タイムスが調査団一向に示した「とんでもない連中が歴史を捏造しようとしている」とのニュアンスであることは容易に想像できる。

>島民の1人は宮里芳和という人で、夜、彼の経営するパブに行って真意を聞いた。私達の到着時刻は沖縄タイムスの編集委員・謝花直美からの連絡で知った。彼は昭和23年生まれで、隊長命令のことはわからないと弁解した。

「抗議文らしきもの」を渡した島民の1人宮里氏は戦後生まれであり、隊長命令を直接証言できる立場にはない。

「隊長命令のことは直接分からない」と弁解したのは当然である。

>翌日の沖縄タイムスの記事には、座間味島民が藤岡に抗議文を突きつけ、隊長命令があったと彼が語ったことになっていた。

ちなみに沖縄タイムスのくだんの記事は、ネットを恐れたのかウェブサイトには掲載されていない

 >地元紙による歴史偽造の現場に立ち会った私は、彼等が最も恐れていた人物にめぐりあったことになる。

藤岡教授もご指摘の通り、宮平秀幸さんは沖縄タイムスが最も封じ込めておきたい人物であった。

沖縄タイムスが有するのは新聞としての矜持どころか恥を知らない鉄面皮のみである。
 
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宮平証言の衝撃 『正論』に藤岡教授が論文

2008-03-05 06:03:29 | ★集団自決

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  • 座間味島「集団自決」で新証言/梅澤隊長「自決するな!」 住民救った“命令”
  • 座間味島「集団自決」で新証言
    梅澤隊長「自決するな!」 住民救った“命令”
     沖縄戦の座間味島における集団自決で、梅澤裕・海上挺進隊第一戦隊長(当時)が自決用の武器の供与を求めた村幹部に対して「決して自決してはならぬ」と厳しく自決を思いとどまるよう説得したという新たな証言が出た。この証言を裏付ける手記も発掘された。これまでの「日本軍命令・強制」説を根本的に覆すもので、教科書の記述や名誉毀損(きそん)裁判にも影響を及ぼすものとみられる。
    (編集委員・鴨野守、写真も)

    (略)

    宮平証言 梅澤氏の「潔白」裏付け

    「軍命」肯定派に致命的打撃

    picture 1220柱の英霊が眠る座間味島の「平和の塔」(昭和32年3月建立)
     梅澤裕氏は、故赤松嘉次(よしつぐ)陸軍海上挺進第三戦隊長の弟、赤松秀一氏とともに、岩波書店と大江健三郎氏を相手取って名誉毀損(きそん)訴訟を大阪地裁に起こしている。

     梅澤氏は陳述書で、村の幹部と交わしたやりとりは「決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕(ごう)を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。弾薬、爆薬は渡せない」と述べている。

     今回の宮平証言は、この発言を裏付けるものである。

     また、本部壕そばの通信隊にいた長島義男氏(昭和六十一年死去)の手記にも、この村長と梅澤隊長が面談した場面が記録されていた。

     「この時、国民学校の校長と村三役が青年有志二、三名と連れだって本部に来た。眼が血走り、顔はそう白にまで変わっていた。悲壮というか、壮絶というか、その研ぎ澄まされた人間の真剣味に我我兵隊さえりつ然とさせられた。やむを得ないことである。祖国のこの土を、自己の住むこの土地が有史以来最初に敵の醜足に踏みにじられようとしているのだ、この小島で、この防備で無限のあり余る敵の物量に抗し得るとはだれが信じられよう。(中略)

     玉砕を玉砕の文字のとおりに解釈しようというのである。然し部隊には渡すべき手りゅう弾も、ダイナマイトも、劇薬もないのである。また、義勇兵を結成しようという有志の言葉にも与えるべき武器もないという実状であった」(アンピス会編『思い出の東部第十部隊』昭和六十一年発行)

     この場面に立ち会った宮城初枝さんは手記で、梅澤氏が「今晩は一応お帰りください」とだけ発言したことになっている。そのため初枝さんの娘、宮城晴美氏や林博史・関東学院大学教授、沖縄戦研究家の大城将保氏、大江健三郎氏は、梅澤氏が「自決するな」と厳しく命じなかったことを非難。大江氏に至っては、「自決するな」と命じなかったことが隊長の「自決命令」に当たるという強引な解釈を昨年十一月九日、法廷で披露した。

     また宮城氏は昨年七月二十七日の証人尋問で、これまでの取材の中で誰かから「死なないで」と言われたために自決を思いとどまったケースがたくさんあると述べ、連隊長だった梅澤氏が「死なないで」という一言を発していれば「住民は救われたというふうに私は考えております」と発言している。

     この宮城発言と宮平証言を合わせれば、村の幹部を厳しく諫(いさ)めた梅澤発言のおかげで、自決を思いとどまった住民が数多くいたことを立証するものとなる。長く定説として流布された「軍の命令・強制・関与」は明確に否定された。

     さらに、軍命肯定派で論客の一人、安仁屋政昭・沖縄国際大学名誉教授が主張する「合囲地境」(ごういちきょう)理論との関係で見ると「これまでとは全く違った光景が見えてくる」と指摘するのは藤岡信勝・拓殖大学教授である。

     安仁屋氏によれば、「合囲地境」とは「空も海も陸もすべて敵に囲まれている」状況を指す。そのような状況にあった座間味島では梅澤隊長が全権を握り、民政は存在しなかった。例えば兵事主任の役場職員が住民に「もう最後ですから死にましょう」と伝えたとしても、その伝えは軍命と受け取るべきだという論旨を展開して、安仁屋氏は最高責任者である梅澤隊長を批判してきた。

     「しかし実際は、野村村長が隊長の命を受けて村民に『自決するな』と伝えて、解散を指示しています。安仁屋氏の『合囲地境』論でいけば、『自決するな』こそが、軍の意思であり“命令”だったことになり、梅澤隊長を批判することは一切できなくなります」と藤岡氏。

     梅澤隊長の「自決するな」発言が確定したことで、宮城晴美発言も安仁屋「合囲地境」理論も、梅澤氏が座間味島の恩人であることを浮き彫りにする結果となった。

     宮平証言により、軍命肯定派の学者・文化人、メディアは「軍命」の根拠を失う致命的な打撃を受けることとなる。(略)(世界日報2008年 3月3日)

                      

    >安仁屋氏によれば、「合囲地境」とは・・・

    「合囲地境」という耳慣れない言葉を安仁屋教授が軍命令の根拠として主張し始めたのが何時頃からかは定かではない。

    私の知る限り、少なくともこの数年間、ご本人が主張するだけで、

    「軍命あり派」の論客でさえ、これを引用する人を知らない。

    元々「軍命」を証明する客観的証拠は皆無で、頼みの綱は「証言」のみであったが、これも伝聞と類推証言のみで

    客観的証言も皆無である。

    「証拠」もなければ「証言」もない。

    刀折れ矢尽きた状況の「軍命派」。

    そんな状況で、出てきたこじ付け論が「合囲地境」である。

    この言葉と一対になって出てくる言葉が「直接の軍命がなくても問題でない」という言葉。

    つまり「誰の言葉でも全て軍の命令」というまことに驚くべきこじ付け論である。

    当時の島民は15歳以上は全て何らかの形で村役場か青年団体等に所属していた。

    この理屈で言えば村民の誰かがパニックに陥って「米兵に虐殺されるより、潔く死のう」といったら、これも「軍の命令」になるというあきれ返った屁理屈である。

    そもそも肝心の「戒厳令」さえ2・26事件以来日本の歴史では発令された事実はない。

    「合囲地境」がそれに近いといっても発令はされておらず、安仁屋教授が後付で自分の「軍命あり論」に勝手にこじつけて「合囲地境と看做される」としただけの話である。

    安仁屋教授の「思い込み」をもっともらしくするため引っ張り出した独断による「看做し論」でもある。

    以下は過去エントリー

    「今晩の話題」 重要証言者を「捏造証言元職員」と断定する破廉恥な新聞

    の一部抜粋の再掲です。

    <「軍命令だった」という客観的証言が一つも出てこないのが沖縄タイムスの悩みの種。

    全てを承知の確信犯で自社沖縄タイムスとともに自爆して果てるおつもりなのでしょう。

    確かに「証言」は次々現れているが、「軍命令があった」という証言はないのでは、と問われたらこの記者さん、きっと次のように答えるでしょう。

    「直接の軍命令の有無は問題ではない」

    そして頼みの綱の安仁屋国際大学名誉教授の『合囲地境』論に逃げ込んでしまうでしょう。

    この魔法のような言葉にかかると「直接の軍命令がなくとも命令と同じ」となるから便利な言葉だ。

    同教授は沖縄タイムス(2005年7月2日)の[戦後60年]/[「集団自決」を考える](18) /識者に聞く(1)/安仁屋政昭沖国大名誉教授・・・と言う特集記事で記者の質問に答えた次のように語っている。
     
    http://www.okinawatimes.co.jp/sengo60/tokushu/jiketu
    20050702.html

      -どのような状況下で起きたのか。

     「『集団自決』は日本軍と住民が混在していた極限状態で起きている。沖縄戦は、南西諸島が米軍によって制海権も制空権も完全に握られ、民政の機能しない戒厳令に似た『合囲地境』だった。その状況下では、駐留する日本軍の上官が全権を握り、すべてが軍の統制下にあった。地域住民への命令や指示は、たとえ市町村職員が伝えたとしてもすべて『軍命』として住民が受け取るような状況があった」 ・・・

    引用終了。

    当日記も過去にこんなバカばかしい屁理屈でも何度か付き合ってきたが、今回の宮平証言で軍命は軍命でも、「死ぬな」という軍命の証言があった以上、以後これには触れない。

    冒頭引用の記事は一部引用であり、全文は以下で是非お読み下さい。

  • 座間味島「集団自決」で新証言/梅澤隊長「自決するな!」 住民救った“命令”
  • 鴨野氏守の『諸君』掲載の論文の広告↓http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/

                         *

    宮平証言に立ち会った藤岡信勝拓大教授が『正論』4月号に「集団自決「解散命令」の深層」と題して論文を寄稿している。http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0803/mokji.html

    なお、その取材旅行中に沖縄タイムス記者に尾行されて「偽造記事」を書かれた経緯が興味深くここで書かれている。↓

    『座間味島集団自決の証言者・宮平秀幸さんとの出会い』
    藤岡信勝/自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授 (08/2/25
     

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    上陸前夜の出来事 座間味の宮平さん、8年前にも証言していた!

    2008-03-04 07:54:05 | ★集団自決

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    座間味島の宮平秀幸さんの証言は「軍命あり派」、「軍命なし派」両陣営に衝撃を与えた。

    1月26日、27日の二日に渡って「集団自決の真実の探求」で、秦郁彦、藤岡信勝、中村粲、皆本儀博、知念朝睦、鴨野守氏ら学者、ジャーナリスト、関係者の40余名が、「集団自決」の現地調査のため座間味、渡嘉敷両島を訪問した。

    その成果が当時15歳で伝令をしていた宮平秀幸(78歳)さんの証言である。

    調査団に同行したジャーナリストの鴨野守氏が雑誌『諸君』の4月号にその取材の成果を寄稿しているという。(沖縄では未着)

    タイトルは、次の通り。

    特集●沖縄戦・集団自決 語られざる「真実」
    目撃証言
    「住民よ、自決するな」と隊長は厳命した
    少年兵が見た決定的場面。深い霧に包まれた座間味島集団自決の真実が、いま明らかになる   鴨野 守(ジャーナリスト)

    以下に広告が掲載されております。http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/

    沖縄では未だ発売されていないが(5日予定)、特に「軍命あり派」にとっては衝撃だったようで、早速これにイチャモンをつけるブログも登場している。

    いわく、「今まで黙っていたものを、今頃になって」とか

    「突然、証言を始めた新証言者」とか、唐突に現れた証言者の告白なんて「眉に唾をつけて聞くべき」と。

    まぁ、こうでも言わなきゃ批判の術が無いのだろう。

    ところがこの宮平さんの証言は唐突でもなんでもない。

    戦後終始一貫して同じ証言を続けていた。

    動画の証言でも分かるように、何度連絡しても地元の新聞は「不都合な真実」は取材もしなければ当然記事にもしなかっただけの話。

    地元紙の記事にならない証言者は今でも多数ご存命である。

    宮平さんの姪の晴美氏が地元で脚光を浴びる前の2000年12月15日(『母の遺したもの』の出版は同じ年の12月)、

    毎日新聞の取材班が座間味島に集団自決の取材に訪問して、当時71歳の宮平秀幸さんに取材していた。

    取材したのが朝日でなく、毎日だったことが幸いして宮平さんの証言は地元紙がしたように握りつぶされること無く記事になった。

    翌年の連載戦記特集の一環として、5月から6月にかけて座間味の取材記事が毎日新聞に掲載された。

    その時も、宮城初江氏を含む村長一行と、梅沢隊長のやり取りをそばで聞いていた宮平氏は次のように証言していた。

    夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。>(毎日新聞 2001年5月10日)

    当時は「集団自決訴訟」が起きる5年前で沖縄集団自決の問題は一部研究者を除いて現在ほど注目を浴びてはいなかった。

    毎日新聞には「軍の命令はなかった」という取材結果が掲載されたが、地元紙が一度も取材さえしない宮平さんの証言はほとんど省みられることは無かった。

    訴訟の前だったので一般には「集団自決」の存在のみに関心は集まり、「軍命があったかどうか」にはあまり関心を持たれていなかった。

    その後、宮平さんは地元新聞のデタラメな報道に、何度も沖縄タイムス、琉球新報に証言すると連絡しても黙殺されたという。

    宮平さんの悲憤の言葉は動画の中で語られている。

     【動画】集団自決の衝撃の新証言

    「悲の序幕」~ 記憶に激戦の光景
    戦争悲劇の語り部、宮平秀幸さん=座間味で
     現在の座間味島は冬に回遊してくるザトウクジラ、初夏の海亀産卵、夏は遊泳やダイビングに釣りなどの観光客で賑わう。
     いつ戦いがあったのか、どこで住民集団惨死があったのか、その気配すら感じさせぬ豊かな自然と穏やかな時間がある。
     民宿「高月」の主人、宮平秀幸さん(71)は船の機関士だったと言うがっしりした体格。だが、その背中と大腿部には砲弾破片による傷痕、記憶には激戦と住民惨死の光景が焼き付いといる。「僕が初めてグラマン戦闘機を見たのは1944年10月10日。島に来ていた陸軍の特攻舟艇部隊慰問会準備のため島民や兵隊が浜にいた。
    10時すぎだったか、向かいの渡嘉敷島上空から3機の飛行機が飛んできた。皆は日本軍だと思ってバンザイしたり手を振っていたが、松の木に登った僕の目の前には翼の星のマ―ク。「アメリカーだ」の叫んだら[何を言うか、引きずりおろせ]と兵隊が走って来た。
    とたんにダダダダと機銃掃射。皆はクモの子を散らすように逃げたが、港にいた船数隻は炎上したり沈没。沖縄本島との連絡船も・・・」。
     米空軍1600機による沖縄初空襲の余波である。孤立した特攻秘密基地の島は軍の厳重な支配下におかれた。
     だが、生活の自由を奪われた島民たちのの思惑はどうであれ、これらの出来事は地獄への悲劇の序幕にすぎなかったのだ。かっていた。
     
                                        写真~戦争悲劇の語り部、宮平秀幸さん=座間味で                                          
    毎日新聞 2001.5.10

     

     

    上陸前夜」~ 自決の手助けを頼む

    忠魂碑前広場
    集団自決の場とした忠魂碑前広場
     山々を焦がす猛炎、家々を焼き尽くす業火、耳膜を破る炸裂音、地軸をゆるがす爆発、なぎ倒す爆風、なぎ払う灼熱の破片、着弾予測不能の恐怖・・・。「艦砲射撃ほど恐ろしいものはない」とは旧海軍で聞いた体験談だが、80隻余りの艦船が間断なく打ち込む砲弾の下でなすすべもない光景は、生々しい臨場感を伴って僕の脳裏に展開する。
     3月25日早朝から座間味島は戦争のもっとも苛烈なルツボに投げ込まれた。
     戦争という悲劇のクライマックスの幕が一挙に開いたのだ。夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。
     「僕は少佐らの近くに居た」と宮平さん。軍命令のよる住民集団惨死ではなかったとの証言である。
     夜中近く、「忠魂碑前の広場で自決するので集合」と役場から各避難壕に通報。だが集合は少なく、集まった人々も砲弾飛来で逃げ散ったという。死装束として晴れ着を着た住民たちもいたが、「殺される事」への本能的恐怖心が強かったのだろう。
     この通報は座間味集落のみで阿真、阿佐の集落へは届いていない。宮平さんが家族を連れて整備中隊壕へ向かったのは26日未明。自決の手助けを頼むためであった。   
                    
                   
                                   写真~集団自決の場とした忠魂碑前広場
                                                          
    毎日新聞 2001.6.28

    http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/133/index.html
    http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta_bak/back02.html

    宮平秀幸さんの講演会が次の日曜日(9日)に開催されます

    詳しくは⇒沖縄県民へ講演会のお知らせ

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