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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

ネズミ講と「結いまーる社会」

2008-05-15 07:44:44 | ★集団自決

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最近では死語になりつつあるが沖縄語に「ユーレー」という言葉がある。

夜になると「ユーレー」に行くといって家を出る人がいても、幽霊見物に出かけるのではない。

「寄り合い」という本土でいう相互金融の「頼母子講・無尽講」のことである。

最近では模合(もあい)と呼ばれているが、沖縄では、複数の個人や法人がグループを作って一定額の金銭を払い込み、毎月入札やくじ引きにより、1人ずつ順番に受け取る金融相互扶助システムのことである。

友人や同期生の飲み会が主目的の小規模なものから、事業の運転資金調達といった大規模なものまである。

ちなみに筆者の属する高校時代の同期生約10名の「模合」はとっくの昔、僅かな掛け金を踏み倒すヤツが出て、現在は「模合」口実の単なる飲み会に堕落してしまったが(笑)・・・。

沖縄で血縁による「親戚模合」、職域による「会社模合」、「地域模合」等々、何らかの模合組織に属している人が多い。

どこかの会合で誰それと名前を言うと、たちまちソイツは自分の従弟だとか、ヤツは自分の「もあい仲間」だといった声が出てくる。

この沖縄独特の相互扶助の精神が「結(ゆい)まーる」に生きている。http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/top/main/show_dinfo3.php?keyvalue=10055000

だが、中には親睦や「相互扶助」の目的から大きくかけ離れた利殖目的の模合では、親(責任者)が金を集めてドロンする詐欺的模合が現れたり、企業模合で掛け金が払えなくなって破綻する「ゴロゴロ模合」が新聞の社会面を賑わしたこともあった。

このような人間の絆が入り組んだ沖縄社会は、ネズミ講やマルチ商法が全国に先駆けて流行する素地を多く含んでいる。

昨年の「11万人」集会の時は、この濃密な人間の絆がフル回転して、いろんな方面から「県民大会に参加するように」という声が圧力となってかかってきた。

その同じ時期に「マルチ商法の破綻」を大々的に報じる新聞に、沖縄の共同体の特殊性が垣間見れて興味深かった。

以下は昨年「11万人」集会直前のエントリー「ねずみ講」の再掲です。

                     ◇

那覇日経、「集団自決」45人学ぶ 事前学習で生徒に怒り

県民大会を前に「集団自決」などについて学ぶ生徒ら=20日、那覇日経ビジネス工学院

 9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に特別授業の一環で1200人の生徒、教師が参加する那覇日経ビジネス工学院(島袋永伸学校長)は20日、「集団自決」などに関する事前学習を行った。事前学習には、メディカルスタッフビジネス科の生徒ら45人が参加した。
 同院情報工学科の国井正昭講師が沖縄戦の概要や新聞記事を基に「集団自決」について説明した。その後、高校歴史教科書検定の修正前と修正後を比較し「日本軍の関与があったことを削除しようとしている。『集団自決』した人々は自発的だったととらえられかねない。高校生が読んでどう思うか」と指摘した。
 生徒は「本当に隠そうとしているからむかつく」などと疑問視。大城舞子さん(19)=南城市=は「授業を受けて沖縄の真実からかけ離れていることに怒りを感じた。東京にも声を届けたい」と話した。事前学習は28日までに22クラスすべてで行われる。

(琉球新報 9/21 10:04)

                     ◇

今沖縄では「集団自決」関連なら何をやっても新聞は記事にしてくれる。
 
職業学校の授業が写真入で記事になっらり。
 
巨大葉書を作っても、記事になるし、(巨大はがきで撤回アピール/浦添市職労

ドサクサ紛れに過去の曲を発表してもも記事になる。(「白玉の塔」県民大会で歌唱 歌通し後世へ

マスコミは直前に迫った「県民大会」への参加動員にはなりふり構わず手段も選ばない様相だが、

20日の琉球新報社会面トップを飾った記事で、動員人数を増やすにはネズミ講が一番だと妙な連想に走った。

「高利配当」2月停止 L&G全国に被害拡大か

出資した協力金の預かり領収書

 高利配当をうたい、沖縄を含めた全国各地で多額の出資金を募っていた健康関連商品販売会社「L&G」(波和二代表、本社・東京都)がことし2月ごろから、現金の配当を停止していたことが20日、出資者らの話で分かった。L&Gを相手に元金返還などを求める訴訟も全国各地で相次いで起こされており、那覇地裁でも同日、浦添市の女性を原告とした訴訟の判決でL&G側に300万円の支払い命令が出された。別の被害者を支援する東京の弁護士は「1500億円の出資金を募り倒産した全国八葉物流に匹敵する被害が予想される」と指摘しており、同社をめぐる問題は今後一層表面化しそうだ。
 L&Gは宜野湾市に沖縄営業所を置き、県内出資者を募っていた。沖縄営業所は琉球新報の取材に対し「本社に問い合わせてほしい」と話し、本社は「代表がいないので解答できない。代表が戻り次第、確認して折り返し連絡する」と話していたが回答はなかった。
 県内出資関係者の話によると、会員は全国に約5万人いるというが、詳しい出資金の総額や県内出資者数、出資額などは不明な点が多いという。
 L&Gは3、4年前か「協力金」名目で一口100万円が1年後には136万円(年率36%)になると説明し、不特定多数から集金していた。2007年2月以降に現金による配当は停止し、事実上、破たん状態に陥っているとみられる。
 静岡県でも女性2人が総額3千万円の元本返還を求めた提訴を起こしている。今年、東京で開催された全国大会で波代表は「66人の被害者による元本返還などの訴訟が起き(会社の)口座が差し押さえられ、配当できない状況にある」と話していたという。
 提訴した浦添市の女性は06年12月、300万円を出資した。しかし翌年2月に解約の意思を示すとL&G側は「捏造(ねつぞう)報道により当社の資金環境は非常に厳しい」として一方的に支払延期を通知し、現在も返還に応じていない。
 原告の女性は「盲目的に信じている人たちがいる。これ以上犠牲者を出さないために提訴に踏み切った」と話した。
 東京で訴訟を起こした内藤満弁護士は「明らかに出資法に抵触している。倒産しないためには永遠に新規会員が増え続けなければいけない。いずれ必ず破たんする」と指摘した。(宮城征彦)

(琉球新報 9/21 9:54)

                     ◇

今から三十数年ほど前、アメリカ生まれの大型ネズミ講が初めて日本に上陸し日本中を騒がした。

その名は「ホリデイマジック」と称して化粧品販売を「マルチ商法」で販売すると標榜していた。

当時、化粧品の販売方法には資生堂に代表される店頭販売法とポーラに代表される訪問販売があったが、ホリデイマジックは第三の商法と称する「マルチ商法」でこれを販売すると宣伝していた。

今ではマルチ商法というと詐欺まがい商法の代表と思われているが、その頃はアメリカで生まれた新しい商法という触れ込みで、勿論現在のようにこれを規制する法律もなかったので、マルチ商法という名に詐欺的意味を感じる人はほとんどいなかった。

結局は化粧品の販売というのは目くらましで、実際は「販売権」という架空の権利を売買するのが目的で、その説明会に顧客を勧誘すれば専門のアジテーターが「このシステムがいかに儲かるか」と言葉巧みに扇動し、顧客に投資させその顧客を会場に動員した会員に配当金が配られるという仕組みだった。

いわば化粧品を餌にした巨大ネズミ講だった。

このアメリカネズミ講は全国に先駆けて沖縄で異常に拡大した。

ホリデイマジック以外にも沖縄で異常増殖したマルチ商法は数多くある。

いずれも目くらましの商品の販売を宣伝するが実態はネズミ講そのものである。

では何故沖縄でネズミ講が増殖しやすいのか。

それは沖縄は「結いマール」社会といわれ「むえー(模合)」と呼ばれる無尽講が社会のいたるところで行われているという事実である。

無尽とは金融の一形態であり、複数の個人や法人等が講等の組織に加盟して、通常は一定の金額を講等に払い込み、入札や抽選によってその払い込み合計金額を受けるシステムである。

友人同士の親睦のための「模合」は別として、金融のための「模合」への勧誘は信用のある人を主催者に立てると、続々と参加者が増えるというのが一般的である。

ところが信用があると見えた人が実際は借金だらけで「模合」が崩れる話は沖縄では決して珍しくはない。

このような沖縄の社会環境では人間の楯横のつながりが重要で、そのため結婚式や葬式に集まる人数の多さは他県の人を驚かす。

上記記事の健康関連商品販売会社「L&G」も結局は「ホリディマジック」の変容したネズミ講なのだろう。

石川五右衛門は「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」と辞世の歌を歌ったが、

沖縄では時代が変ってもネズミ講の種は尽きないようだ。

ところで、昨日のエントリーで新聞社の扇動に煽られて沖縄中が「県民大会」に動員される様子を評して「ネズミ講」を連想すると書いたら、読者の「鴨川」さんから次のようなコメントを頂いた。

ネズミ講 (鴨川)
2007-09-21 16:32:30

ネズミ講とは言い得て妙、です。
ある方のブログに「『大会に参加しろ、ついでに5人集めて来い』と普段お世話になっている人から言われた」という内容の日記がありました。
単に数を集めればいいのだという意図が見え見えですね。
数日前の新報には北海道大学の先生のインタビューが掲載されており、「検定は自由と民主主義に反する」といった内容でした。やはり検定反対派は、歴史は世論で自由に修正できると思ってるんでしょうね。

「県民大会に5人勧誘したら○○円配当」といった巨大ネズミ講が県民大会への動員に行われる。・・・悪夢だ。

三十数年前の若き日、『マルチ商法を斬る アメリカ版大型ネズミ講の上陸,』(コスモス出版)という本を出して当時のベストセラーになったことを想いだした。

コメント (2)

安倍前首相の遺産とシーヌガレの福田首相

2008-05-14 16:39:52 | 県知事選

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 「相手の嫌がることはしない」を外交の信条とする福田首相は、

レンタル・パンダでシーヌガレて、腰砕け外交に終始した。

二年前の2006年、小泉元首相は靖国参拝を公言し、首相最後の参拝は8月15日に行い、日本が中国の属国ではないこと内外に示した。

結果的には「相手(中国)の嫌がることをしたわけだが、靖国参拝は日本人の心の問題であり、中国がとやかく言う方がおかしいとした小泉首相の毅然とした態度は、国民の圧倒的支持を得た。

つまり、小泉元首相は「相手の嫌がることをした」が、国民の圧倒的支持を得たのである。

8月15日の参拝直後、小泉首相は記者の問いに、次のように答えた。

(8月15日に参拝した理由を問われて)
 ≪15日だろうが、13日だろうが、4月だろうが、10月だろうが、1月だろうが、いつ行っても批判してるじゃないですか。いつ行っても同じです。

1つの問題で首脳会談を行えないのはいいのかどうか。

私は日中友好論者ですよ、今まで。話し合いをしてきましたよ。≫

更に首相官邸で改めて記者会見を持ち、中国が首脳会談を拒否していることに対して、次のように批判した。

≪日本の首相は民主的に選ばれている。 その日本の首相が日本国内の如何なる設備を参拝しようとも中・韓にとやかく言われる筋合いはない。

中・韓は日本の国連安保常任理事国入りに反対しているが、だからと言って私が両国の首脳と会うことを拒否したらどっちを批判しますか? 私は意見が違う国の首脳とでもいつでも会います。≫

 

 

胡・中国主席:歴代首相と朝食会 安倍氏「チベット」指摘
http://mainichi.jp/select/world/news/20080508dde00703005
8000c.html

 来日中の中国の胡錦濤国家主席は8日午前、東京都内のホテルで、中曽根康弘元首相ら首相経験者との朝食会に出席した。胡主席はあいさつで「中日関係は両国にとって最も重要な2国間関係の一つ」と強調したが、安倍晋三前首相は「チベットの人権状況を憂慮している。ダライ・ラマ14世側と中国政府の対話は評価するが、五輪を行うことでチベットの人権状況が改善されることが重要ではないか」と述べた。

 指摘に胡主席は特に答えなかったという。安倍氏は首相当時の06年10月に訪中し、両国の首脳往来の再開につながった。一方、靖国神社参拝を続け首脳往来が途絶えるきっかけになった小泉純一郎元首相はこの日の朝食会を欠席。安倍氏が「参加して苦言を呈する」手法をとったことで、小泉氏との違いが目立った。朝食会には中曽根、安倍氏のほか、海部俊樹、森喜朗元首相も出席した。

 その後胡主席は国会内で、河野洋平衆院議長、江田五月参院議長とそれぞれ会談。両氏ともチベット問題に直接言及しなかったが、河野氏は「中国国内の問題は中国の主権で合理的に処理すると思う」と間接的に解決を促した。江田氏も「中国にも国際社会の厳しい目があるが、五輪を成功させてほしい」と述べた。【須藤孝】

毎日新聞 2008年5月8日 東京夕刊

                     ◇

安倍晋三前首相は「チベットの人権状況を憂慮している。ダライ・ラマ14世側と中国政府の対話は評価するが、五輪を行うことでチベットの人権状況が改善されることが重要ではないか

>指摘に胡主席は特に答えなかったという。

安倍前首相の発言で会場の雰囲気が一変した。

その発言の要旨は次のようであった。

<戦略的互恵関係の構築に向け、相互訪問を途絶えさせない関係をつくっていくことが重要だ。国が違えば利益がぶつかることがあるが、お互いの安定的関係が両国に利益をもたらすのが戦略的互恵関係だ。問題があるからこそ、首脳が会わなければならない。

これは、冒頭に述べた小泉元首相の靖国参拝をめぐり中国側が首脳交流を 途絶えさせたことを暗に批判したもの

安倍前首相は、チベット問題に言及した後、会場には緊張感が走り、出席者はみな一様に黙り込んだ。 

他の首相経験者が揃っておべんちゃらを言う中で、「相手の嫌がるここと」に触れた安倍発言で、会場が凍りついたのだろう。

だが、安倍氏はこれにひるむことなく、さらにウイグル問題にも言及してこう続けた。


<これはチベットではなくウイグルの件だが、日本の東大に留学していたトフティ・テュニヤズさんが、研究のため 中国に一時帰国した際に逮捕され、11年が経過している。彼の奥さん、家族は日本にいる。無事釈放され、日本に帰ってくることを希望する。>JOG Wing 国際派日本人のための情報ファイル

>、日本の東大に留学していたトフティ・テュニヤズさんが、研究のため 中国に一時帰国した際に逮捕され、11年が経過している。

日本のマスコミが報じないことを、安倍氏は敢て問いただした。

これには胡主席は調査すると答えたが、マスコミのフォロー記事を期待したい。

安倍ぇん首相の突込みを、KYで空気の読めないお坊ちゃま発言と批判するブログがあったが、

そんな空気なら読まずに凍らした方が効果はてきめんだ。

空気どころか、風ばかり読んでいた「風見鶏」よりよっぽどましだろう。

安倍前首相の正論に拍手を送りたい。

安倍氏の功績を「日中共同声明」はほとんど安倍内閣の遺産 より引用。

≪日中間でこれまでに取り交わされた合意文書をめぐっては、双方の国益と主張がぶつかり合い、激しい議論の応酬と駆け引きが繰り返されてきた。そうした中でつくられた今回の日中共同声明は、比較的に日本側の意向が反映されたものだと評価できる。ただ、それは福田康夫首相の成果というよりも、安倍政権の「遺産」という側面が大きい。

 「安倍内閣時代の一昨年10月と昨年4月の日中共同プレス発表で表明した立場を確認し、塗り固めた」

 外務省筋もこう文書の性格を解説する。共同プレス発表で示された日中関係の道筋を、中国の胡錦濤国家主席来日のタイミングでより拘束力の強い政治文書に格上げしたというわけだ。 そもそも、共同声明の題名に盛り込まれた「戦略的互恵関係」という言葉自体が、目指すべき両国関係のキーワードとして「互恵関係」を考えていた安倍晋三前首相と、それに「戦略的」と冠した外務省の合作だ。福田首相は就任当初、「安倍氏の政策イメージが残るこの言葉を使用することに抵抗を示した」(政府筋)というほどだ。≫

 

>安倍氏は首相当時の06年10月に訪中し、両国の首脳往来の再開につながった。

>一方、靖国神社参拝を続け首脳往来が途絶えるきっかけになった小泉純一郎元首相はこの日の朝食会を欠席。

>安倍氏が「参加して苦言を呈する」手法をとったことで、小泉氏との違いが目立った。

 

小泉氏は、首相の靖国参拝への中国の理不尽な干渉に毅然とした態度で「正論」を貫いたが、相手に非があるとはいえ、首脳会談中断という負の遺産を作った。

一方、安倍氏は「靖国を参拝するとも、しないとも言及せず」、首脳会談を復活させ小泉の「負の遺産」を精算した。

そして、安倍氏の「正の遺産」でシーヌガレて、腰砕けになった福田首相に成り代わって「相手が嫌がっても、言うべきことこと」を、ビシッといった。

「(両国に)問題があるからこそ、首脳が会わなければならない。」

これは小泉元首相⇒安倍前首相、と受け継がれたバトンのはずだが、福田首相はこのバトンを取り違えた。

「首脳が会ってもオベンチャラで済ます」といった有様だ。

ちなみに「シーヌガレル」とは、沖縄語で「腑抜けになる」を意味し、「精を抜かれる」という極めて直截な表現。

なるほど、精を抜かれては腰砕けもむべなるかな、である。

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続・悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

2008-05-12 06:39:16 | ★集団自決

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「集団自決」に登場する人物の血縁、地縁、職縁等による濃密な人間関係を、5月9日のエントリー悲劇を呼ぶ濃密な人間関係で考察したら、多くの方から反響があった。

その中には、「吉川嘉勝氏と吉川勇助氏は実の兄弟である」、という貴重な事実のご教示もあった。

同エントリーで、「軍命派」の先頭に立って、証言の収集、発刊そして各地の講演会と、八面六臂の大活躍の謝花直美・沖縄タイムス論説委員と、

同じく「軍命派」として証言や講演で活躍する吉川嘉勝・元渡嘉敷中学校長は、師弟関係にあると述べた。  そして吉川元校長と同じく謝花氏の特集記事に登場する吉川勇助氏とは親族だと推測した。

二人が兄弟だと想像はできたが、確認出来なかったので、あえて親族としたが、

事情を知る知人から「吉川勇助氏は、吉川嘉勝氏の兄で元防衛隊員です」との情報を得た。

また、吉川勇助氏は、後に手榴弾配布の証言をする村役場職員の新城眞順氏と同じく、戦時中は防衛隊員として赤松隊長とはかなり身近な立場であった。(富山眞順手記)

富山氏の「手榴弾配布証言」が「軍命あり説」の根拠とされているが、富山氏は生前、渡嘉敷島の後輩・源哲彦氏に、
 
「真相は墓場の中まで持って行く」と話している。(沖縄タイムス「論壇」源哲彦)

ということは、流布している「手榴弾配布証言」は、富山氏が墓場に持ち込まず、この世に残した虚偽証言ということになる。

富山氏は渡嘉敷島での「集団自決」の後の、3月29から30日にかけての島の状況を次のように記している。

この記述からは、住民を自決に追い込んだ「鬼の赤松」の暴状を汲み取ることはとても出来ない。

≪赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵勇助君とともに掘らされていた。壕にもどると赤松部隊長が起きたので、私は斥候の状況報告と拾った煙草やお菓子等を差し上げた。敵は退却したのかと喜んだ。
 暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。赤松部隊では村の先輩達が日夜奮闘しているのに自分は楽な立場でいいのかと思いました。赤松部隊長に部隊入隊編入を申告して隊員になったのに、部隊長より除隊命令された事は生涯の思い出として消えることはありません。≫⇒富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」渡嘉敷漁協創立90周年記念誌(平成5年4月発行)から 

新城眞順氏も戦後は富山眞順と改名するのであるが、配られた手榴弾で村民を死へと誘導したのが、同じ村民である地元防衛隊員だとしたら、他の村民の(無言の)責めを負わなければならない生き残りこそ富山眞順、吉川勇助両氏等であろう。

この文脈で考えると、戦後、隊長命令説を必死に主張し続けた彼らの心情も理解できる。
 
集団自決の生き残りとは、単に死にきれなかった人を指すのではなく、同じ村民を死へ誘導したり、金城重明氏に代表されるように、村民の死に「手を貸した」人達が多数を占めるということを考慮の上、その証言を検証すべきである。
 
自分で自分の命を絶つということが容易でないことは誰でも想像できる。
 
それが手榴弾等の武器でもあればまだしも、それも無い状況での自殺は鍬や鎌、カミソリやコンボウといった本来人の命を絶つ目的ではない農具等での自殺は更なる困難を伴う。
 
武士の切腹にも介錯(かいしゃく)で自殺者の首を刎ね、苦しみから救う作法があるくらいだ。
 
老人と子供たちが多かったといわれる「集団自決」では、死に切れなかった実行者を介錯(手助け)をした人が数多くいた。
 
それは読谷村の「チビチリガマ」での「集団自決」でも見られたが、同じ読谷村の大湾でも村の長老が子供たちを次々と絞め殺す証言があった。

■「集団自決」に手を貸した人々

5月2日のNHK総合ローカル放送(沖縄のみ)で、「ドキュメント沖縄『米軍上陸の衝撃』」 が放映された。

沖縄戦をアメリカ軍が撮影した120本の記録フィルムの内、未発表の読谷地域に米軍が上陸した状況を撮影したもの。

怯えてパニック状態の老婆を米兵が抱きかかえて救出したり、担架に乗せて運ぶ様子が映し出されている。

収容所らしき場所に集められた中年女性がが久しぶりの再会らしく、お互いの無事を知り感涙に咽びながら抱き合うシーンもカメラは克明に映し出している。

特に注目されたのは小連れの若い(後に27歳と分かる)母親が、カメラに向かってハッキリ映っている映像。

これを見た現在の読谷村民の皆さんが、この方は現在も村にご健在ととの情報を得る。

NHKスタッフが情報を基に現在90歳になるフィルムに映っている母親を訪ねると、元気なオバーちゃんが玄関まで迎えてくれた。

家の中に招き入れられて「元子連れの若い母親」に問題のフィルムを再生して見てもらった。

顔に刻まれた皺はさすがに歳を隠せなかったが、60数年前の若かりし頃の自分の動画フィルムを見てオバーちゃんは小娘のように恥じらい、懐かしみ、そして喜びを表わした。

その後、とてもご高齢とは思えないかくしゃくとした態度で当時の様子をスタッフに語ってくれた。

以下は要旨。

≪昭和20年の4月2日?、米軍の上陸で近隣の住民は大湾の壕に非難した。 壕の外は爆音と米兵上陸の気配で壕の中はパニック状態になり、村のオジー(名前は言わなかった)が「こうなったら死んだ方がましだ」と子供たちを次々と「締めていった」(絞め殺していった)。

親達はなす術がなかったようだが「子連れの若い母」は自分の可愛い子供が、何であのオジーに殺されるのか」と、子供を抱いてその壕を飛び出して、何とか近くの壕にたどり着き親子は死を免れた。≫

その時日本軍は南部に退却しており、大湾の壕には勿論日本軍はいなかったが、村の長老が恐怖によるパニックで誤った判断をしたわけだが、当時の状況でこの長老の行為を一概に責めることは出来ないだろう。

同じ読谷村のチビチリガマの集団自決も日本軍はいなかったが、当時は地域のインテリであった大陸帰りの看護婦が集団のリーダーとして、毒注射による「集団自決」という悲しい判断をした。

同じように「自決の手伝い」は他の「集団自決」で見られる。

大城将保・沖縄県立博物館館長の著書『沖縄戦 民衆のの眼でとらえる[戦争]』にも住民同士が殺しあう凄惨な情景が述べられている。 

座間味島では敵上陸直前に役場の職員が各住民を廻って、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人と子供は忠魂碑前に集合、全員自決せよ」という通達を伝えてあったが、忠魂碑前は砲弾が激しくて集合がかなわず、めいめいの家族で手榴弾、カミソリ、鎌などで自殺を遂げた者が多かった。 ヤマト馬という横穴壕では、住民約20名が1本のロープで絞め殺された。 締めたのは体力のある男性で、ロープの端を杭に結びつけ、1人1人の首にロープを結びつけて一方の端を強く引っ張って絶命させた。 もちろん、自分も死ぬ覚悟ではあったが、20名を始末して最後にのこった自分はどうしても死ぬことができず、放心状態で濠から逃げていった。 また、裏の高月山の中腹にある組合濠には村長、助役以下の村の幹部が避難していたが、敵上陸直後に一斉に自決が行われた。 この濠からは1人の生存者もないので明らかでないが、遺骨の状態から見て防衛隊長持っていた小銃でとどめをさしたものと推測されている。 現場には「村長、助役以下59名集団自決之地」の碑が建っている。 自決者177名。

向かいの渡嘉敷島では隊長西山に終結した渡嘉敷、阿波連(あはれん)の住民が日米両軍の狭間においこまれて、恩納(おんな)河原で一斉に自決した。 家族ごとに手榴弾が、くばられていたが、不発弾が多く死にそびれた者たちはコンボウや鍬などで頭を割って凄惨な最後を遂げた。 自決者329人。≫(『沖縄戦 民衆のの眼でとらえる[戦争]』 大城将保著)

読谷村の大湾濠で子供たちを絞め殺して廻った村の長老、座間味島のヤマト馬濠で二十人の一本のロープで絞め殺し本人は死にきれなかった男等々・・・これら多くの住民が自決の「手助け」をした。

これらの体験者は、金城重明氏の例に見られるように、戦後、軍の命令による集団自決だったと主張している。

沖縄在住の作家星雅彦氏によって渡嘉敷島の金城重明氏の「手助け」は次のように記されている。

修羅場と化した西山盆地

一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。 (略)

ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。 
 
その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。 
何時間かたって、ウシも長女も意識を取り戻した。夕方間近くなっていた。周囲は死者ぱかりだった。首つり自殺をとげた死体が、十五、六人、潅木にぶらさがっていた。二女は痴呆状態になってすわっていた。ウシが抱いていた子供は、口がほおのところへ移って顔がゆがんでいた。ウシの額に振りおろされた棍棒は勢いあまって子供の顔にもあたったようである。
ウシは急にわれに返って、娘に、「水をくんできて」と叫んだ。娘はふらふら立ち上がり、ころがっている薬カンを拾って、水をくみに行った。 (雑誌「潮」1971年11月号  星雅彦) 

座間味でも多くの村民が同じ村民の「自決」を手伝った様子を、大城将保・沖縄県立博物館館長がその著書で記述しているが、毎日新聞にも次のような記述がある。

≪僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)≫ 毎日新聞 2001.7.5 )                                                 


  

 
大城将保・沖縄県立博物館館長とはこんな人↓


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女優黒田福美、「恨の文化」で恥さらし 特攻隊の碑を撤去

2008-05-11 08:13:19 | 未分類

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沖縄というと中国の関係が取りざたされるが、沖縄サヨクにとって「反日」さえ唱えれば組む相手は中国も韓国も北朝鮮も同じなのだろう。

沖縄は韓国が開拓した   朝鮮人が沖縄集結中

                    ◇

特攻隊員の碑 序幕中止
韓国で反発

【●川市(韓国南部)9日共同】韓国通で知られる女優、黒田福美さんは9日、韓国慶尚南道、●川市で10日に予定されていた、太平洋戦争で旧日本軍の特攻隊員として戦死した朝鮮人男性を悼む「帰郷祈念碑」の除幕式が、地元市民団体などからの批判を受け、中止になったと明らかにした。 同氏を訪問中の黒田さんによると、記念碑の栃を提供している●川市が、9日になって突然、「市民団体の批判が思いのほか強く、理解を得るのは難しいと判断した」などとして受け入れの撤回を伝えてきた。 金守英市長が黒田さんら関係者に謝罪したという。(●はサンズイに四)
市民団体の関係者は「旧日本軍に協力し、日本人の名前で特攻隊員の碑を建立することはふさわしくない」と話し、祈念碑の撤去も求めていく方針を示した。 
突然の除幕式中止と受け入れ撤回に、黒田さんは「哀悼の意を込めて、一貫して民間レベルの友好交流としてやってきた。 こうした対応はとても残念」と話した。(琉球新報 2008年年月10日

                   ◇

日本の幽霊は決まり文句に「うらめしや」という。 

子供の頃、これを「裏にめし屋でもあるのか」なんて考えたこともあるが「恨めしい」と漢字を当ててくれば誤解もしなかったものを。

幽霊が「恨めしい」という割りには、日本人はすぐ恨みを水に流す民族だ。

何しろ防衛大臣が、原爆投下を「しょうがない」という国柄だ。

一方、韓国は「恨の文化」と言われるくらいで、なかなか恨みを忘れてくれない。

韓国に媚びる沖縄の新聞が、良くこんなことを書く。

「韓国の“恨”という言葉は日本語の恨みとは意味が違う」

この言葉に便乗した沖縄サヨクが沖縄の読谷村にに「恨之碑」を建てた。

朝鮮軍夫  「恨之碑」

碑に書かれた碑文やレリーフは、意味が違うどころか日本へ対する恨みつらみに満ちている。

韓国人が日本への恨みつらみを述べ、自国に「恨之碑」を建てるのは勝手だ。

だが、一握りのサヨク沖縄人が彼らと一緒になって県内で基金を集め「恨みの碑」を沖縄県内に建てるなんて、沖縄県民としては。はなはだ迷惑な話だ。

更に調子に乗って、今度は宮古島に「慰安婦の碑」を立てるという。

これを黙認していたら沖縄中に、「恨之碑」が群立してしまうのではないか。

宮古に「慰安婦の碑」 日韓で実行委、8月建立へ
琉球新報    2008年1月12日
作成中の証言集を伊志嶺亮市長に手渡す高里鈴代さんら調査団=11日、宮古島市役所(写真省略)

 【宮古島】2006年から07年にかけて宮古島市を訪れ、戦時中の「朝鮮人慰安婦」の目撃情報などの聞き取り調査を実施した韓国と日本の研究者や証言者らが、「慰安婦」のような女性への暴力が二度と起こらないことを願って、同市上野に「祈念碑」の建立計画を進めていることが11日、分かった。
 宮古島など日韓の4カ所で実行委員会を発足させ、終戦記念日の8月15日までの建立を目指す。調査団の「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」元共同代表の尹貞玉(ユンジョンオク)さん(83)ら9人が同日、宮古島市役所に伊志嶺亮市長を訪ね、建立へ理解を求めた。伊志嶺市長も賛同した。
 調査団によると宮古島を中心に沖縄本島、東京、韓国の計4カ所で建立の実行委を発足する予定。
 建立計画は、小学5年のころに「慰安婦」を目撃し調査団にも証言した与那覇博敏さん(74)が、自ら所有する土地で建立したいと申し出たことがきっかけ。建立予定地は、与那覇さんが「慰安婦」を目撃した場所の一つ。
 11日に市役所を訪れた尹貞玉さん、同協議会共同代表の尹美香(ユンミヒャン)さんらは同日夜、郷土史研究家の仲宗根將二さんら建立に賛同する住民と会合を開いた。計17人が集まって近日中にも実行委を発足させることを確認。寄付金を募り、祈念碑の文面作成を進める。
 調査団は06年10月、同年12月、07年5月の3回にわたって計19人に聞き取り調査をした結果をまとめる「宮古島における『慰安所』証言集―『慰安婦』を見た人々」も作成中で、3月末までに完成予定。

                    ◇

さて、冒頭の特攻隊員の碑の記事だが、韓国に関する並々ならぬ知識と理解を誇る女優黒田福美さんも,韓国の「恨の文化」だけは理解していなかったようだ。

「恨の文化」は「恨みつらみの文化」と書き直せば分かりやすい。

韓国人スターにうつつを抜かすだけなら愛嬌ですまされるが、本気で韓国への謝罪活動をする黒田福美という女優、韓国の筋金入りの「恨の文化」に直面してとんだ大恥を晒してしまった。

恥晒し女優の「日韓交流」について、朝日新聞は去年の8月、次のような美談仕立てで報道していたが、これも恥さらしの記事だね。

「朝鮮人特攻兵の石碑を故郷に 女優の黒田福美さんら計画」朝日新聞2007年8月18日
 特攻隊員として死んだ朝鮮人青年の名を、故郷の石碑に刻みたい――。女優の黒田福美さんが、長年の念願を果たそうとしている。きっかけは小さな出来事だったが、「両国の人に戦争の悲劇を考えてもらえれば」と黒田さんは語る。
 その特攻隊員は、卓庚鉉(タク・キョンヒョン)さん。日本名は「光山文博」。鹿児島の知覧特攻平和会館の記録では、1945年5月、沖縄周辺の洋上で戦死した。当時24歳。特攻を描いた映画「ホタル」で、出撃前夜に「アリラン」を歌う隊員のモデルとされる。
 黒田さんが卓さんを知るきっかけは、16年前に宿泊先で見た「夢」だった青年が現れ、「死んだことに悔いはないが、朝鮮人なのに日本人の名前で死んだことが残念だ」と告げる意味が分からないが、頭から離れなかった
 やがて「特攻兵では」と思い始める。ソウル五輪のころから韓国通で知られ、韓国ブームの中でテレビのコメンテーターとしても活躍していたが、特攻隊に朝鮮出身者がいたことは、それまで知らなかった。
 95年に新聞のコラムに夢の話を書いたことで、靖国神社から連絡があり、卓さんの遺影を初めて見た。知覧基地近くの食堂の娘だった赤羽礼子さんと知り合い、韓国の親族とも交流するうちに「夢の青年」と信じるようになる。
 00年夏、沖縄県糸満市の「平和の礎(いしじ)」を訪ねた。沖縄戦の犠牲者らの名を刻む石碑に卓さんの名も刻まれていた。
 沖縄で犠牲になった朝鮮人には強制連行された軍属が多いが、日本への協力を知られることをいやがる親族から刻銘の同意を得るのは簡単ではない。黒田さんは、犠牲者の調査を続ける韓国・明知大学教授の洪鍾●(●はにんべんに必、ホン・ジョンピル)さん(71)と出会う。
 洪さんの兄は海軍兵だった。各地を歩いて遺族を探し、礎への刻銘の許諾を得るという地道な作業の中で、洪さんは卓さんの本家に当たる親族を探し当てていた。
 昨年、二人で卓さんの故郷、韓国南部の西浦(ソッポ)を訪ねた。黒田さんによると、卓さんの墓はないという。「石碑を故郷に建てたい」という黒田さんに村の人が問いかけた。「戦争で大勢が死んだのに、なぜその人だけ?」
 洪さんによると、その町でも多くの人が戦争で犠牲になったとみられるという。「卓さんへの思いを通して、多くの人が巻き込まれた戦争の悲劇に思いをいたす」――それが黒田さんがたどり着いた結論だった。
 年内にも建立したいという碑の表には、卓さんへの追悼、裏面は戦争の犠牲者を悼む言葉を刻む。
 黒田さんは「日本から訪ねてくれる人がいたらうれしい」。洪さんは「日韓の過去の歴史を学ぶ場になったらいい」と語る。(朝日新聞 2007年8月18日)

                       ◇                  

日韓友好の甘言にたぶらかされ、テレビの発言でも韓国へ媚びる一方の反日発言をする黒田福美を、Wikipedia は次のように紹介している。

≪黒田 福美(くろだ ふくみ、1956年7月21日 - )は、日本の女優。所属事務所はアミューズ。東京都板橋区出身。東京都立豊多摩高等学校、桐朋学園大学演劇学科卒業。趣味は三味線、華道、茶道、韓国語など。

 韓国通として知られ、また韓国と深い関係にある。もともとはバレーボール韓国代表選手の熱烈なファンになったことが韓国語を勉強するきっかけだった。ソウルオリンピック、2002 FIFAワールドカップなどでも中心となって活動を行った。韓国の盧泰愚大統領の来日時に開かれた、海部俊樹首相主催の晩餐会に招かれた事もある。韓国のテレビドラマや映画にも多く出演し、好意的に受け入れられている。韓国に関する本も多数出版している。
 在日韓国人と思われるから活動を控えるようにと事務所から忠告を受けたとのことであるが、現在も積極的に韓国のPR活動を行っている。
 しかしながら、その活動は日本蔑視的な姿勢を伴うことが多い。代表的なテレビの発言においても、以下のようなものがある。

・「韓流は(日本に対する)原爆ドカーン」(「原爆」は韓国人が日本人へ嫌がらせをするときに良く使う言葉)(出典:日本テレビ「ザ!情報ツウ」2004年12月27日)なお、この発言の後に「原爆という言葉を使った不適切な表現がありました。訂正して、お詫び申し上げます。」とのアナウンサーがお詫びの言葉を発する事態になった。
・「日本の運命はこの方(金正日)の決断にかかっている」(出典:テレビ朝日「ワイドスクランブル」2005年4月12日)
竹島のことを、司会者の訂正を無視し「独島」と言い続ける。(出典:テレビ朝日「ワイドスクランブル」2005年4月12日)
韓国でレイプ未遂にあい、そのことを話した後「その時、私思ったんですね。私達も慰安婦のおばあさんにこういう事をしてたんだなって……。」※なお、その"おばあさん"の証言で裏づけが取れたものは一つもなく、また今の価値観で推し量っているも問題である。(出典:テレビ朝日「徹子の部屋」2002年5月28日)≫

沖縄のサヨク新聞を根城にする沖縄サヨク、も韓国と同じく「恨の文化」が好きなようで、戦後60数年経っても日本軍が憎くてしょうがない。

その恨みを韓国人と一緒になって晴らすべく、沖縄中に「慰安婦の碑」や「恨の碑」を建てられたのではたまったものではない。

韓国人の「恨」の文化については東海日報のコラムも呆れている。

「☆★☆★2007年05月06日付

坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」というが、韓国の盧武鉉政権が打ち出した「親日派子孫」の財産没収という報復措置はまさに袈裟まで呪うに等しい。戦後六十年経ってもまだ恨み続ける執念には恐れ入る▼その名もおどろおどろしい「親日・反民族行為者財産調査委員会」とはまぎれもない大統領の直属機関だが、その調査結果によって日本統治時代に日本に協力した九人の子孫が所有する財産、日本円にして約四億七千万円を没収することになったというニュースに接し、「そこまでやるか」と「恨(はん)」の根深さを知らされた▼「恨」は仏教が教える煩悩の一つだが、韓国においては日帝統治時代に対する恨みを決して忘れないという民族的精神の源泉ともなっている。日韓関係は何度も離合を繰り返しつつ近所付き合いを保っているが、現政権になってからは恨の揺り戻しがひどくなり、その証拠がこの遺恨措置である。本来なら独立直後、協力者探しが始まるのが普通だが、今ごろになって墓をあばくのは現政権の恨み節がそれだけ強烈だということであろう▼しかし六十年という歳月は恩讐の彼方にあるべきもので、法理からいってもすでに時効に達している。さらに国際法、国内法いずれに照らしてもこのような遡及行為は認められるべきでない性質のものであろう。同じ事を日本でやれば、世界の恥と直ちに糾弾されるはずである▼民族感情は法に優先するというのであれば、それはそれとしても、露骨なみせしめ、いやがらせの類は、両国の今後にマイナスにこそなれ、決してプラスに働かないことは明らかだ。

恨みつらみの国・韓国  沖縄にある「恨之碑」

 

沖縄サヨクも韓国の「恨の文化」を知ってか知らずか、韓国と連帯して県内各地に次々と「恨之碑」や「慰安婦の碑」(売春婦の碑)建立を企んでいる。

自国の戦没者を追悼する「特攻隊員の碑」さえも、日本に関わっただけで撤去を要求する国が、よその国に「恨之碑」や「慰安婦の碑」を建てるなんて言語道断だ。

沖縄県内に既設の「碑」は即刻撤去すべきである。

よその国に「恨之碑」や「慰安婦の碑」を併記で建てる韓国人や、

これに連帯して「反日」を叫ぶ沖縄サヨクは、

「恨」は知っていても、

「恥」を知らない、と思う方、

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胡主席の早大講演はヤラセだった

2008-05-10 07:57:51 | 県知事選

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安倍政権の時は朝日を先頭にした日本のマスコミは、どうでも良いことを連日重箱の隅をつつくように批判していた。

いわく「子供を生む機械は怪しからん!」、「バンソウコウは怪しからん!」、「タウンミーティングのヤラセが怪しからん!」・・・。

だが、こんなつまらないことを真に受けて辞任してしまった安倍首相の方が怪しからんとも思うのだが。

日本では株主総会を始めとする各種会議では、多少の「ヤラセ」はよくあることなのだが、

何故か安倍首相が絡むと微塵の「ヤラセ」もまかりならんというマスコミの姿勢だった。

ところが首相が福田首相に替わり、相手が中国様となるとマスコミを挙げて「ヤラセ」の片棒を担ぐというのだかから、

今更ながらマスコミのダブスタには呆れかえる。

胡主席の強烈スマッシュ、福田首相「なかなか油断できない」 

 来日中の胡錦濤・中国国家主席は8日、都内の早稲田大学で日中青少年との交流活動に参加、北京五輪日本代表の福原愛選手と卓球を楽しみ、「ピンポン外交」を繰り広げた。

 胡主席は、上着を脱ぎ、眼鏡を外して臨み、強烈なスマッシュを披露。

 観戦した福田首相は「戦略的な卓球でなかなか油断できない。一緒にプレーしないでよかった」と話していた。

(2008年5月8日23時42分  読売新聞)

                                             ◇

この記事に代表される胡錦濤主席と福原愛ちゃんのピンポン試合のシーンは繰り返しテレビワイドショーで報じられ、概ね次のような「町の声」を付けて流された。

「(胡錦濤主席は)怖い印象を持っていたが意外と庶民的で好感持てた」(中年女性)

「眼鏡を外して一生懸命なのは可愛い」(若い女性)

ピンポンに先立って行われた、講演はNHKで全国に同時中継されたほか、中国でも中国中央テレビを通し全土に生放送された。

中国側は両国国民に直接、「最も重要な2国間関係の一つ」(胡主席)の日中関係を訴える場として、訪日のクライマックスと位置付けた。

「レンタル・パンダ」と「ピンポン外交」で、全てがメデタシ、メデタシとマスコミは報じるが、

日本国民をたぶらかす胡錦濤主席の「ヤラセ」を、日本のマスコミは批判するどころか、恥知らずにも、その片棒を担いだ。

安倍政権の時の「タウンミーティング」でのヤラセ行為をマスコミは、連日ヒステリックに追求したが。

今回の早稲田大学での「ピンポン外交」と「講演」で行われた壮大なヤラセについて報じるマスコミはない。

テレビで愛ちゃんと会話する胡錦濤主席をにこやかに取り囲んで見守る学生達は、江沢民の時のような一般公募の学生ではなく、

40人前後の「身元の確かな」中国留学経験者だけだったという。

しかも彼らには、事前に「政治的な質問はしないように」という趣旨のことが伝えられた。

◆NHK報道⇒福原愛ちゃん VS 胡錦濤主席    http://www.youtube.com/watch?v=kAnjTOhyXR8

◆中国側報道⇒胡錦濤球技都不錯(8-5-0 8)

◆【追記動画】⇒学内で警察に強制排除される早 稲田の学生とOBたち

これでは日中共犯の壮大なヤラセではないか。

その前に行われた講演で、大隈講堂の一階前よりの座席を埋め尽くしのは、胡錦濤主席と一緒に来日した中国共産主義青年団の精鋭200人だという。

福田首相を先頭にした国際的「ヤラセ」を告発したのは、他ならぬ当の早稲田大学の教授。

見損なっていたが、まだワセダにも骨のある教授がいたようだ。


早稲田大学法学学術院(法学部、大学院法学研究科)教授の水島朝穂氏のHP

一般に、外国の賓客が来学し、講演を行うときは、事前に教職員に対して参加を募る案内が届く。限られた範囲の人々を集めるような講演会でも、関連科目の担当教員には招待状が来る。学生の参加を募ることもある。しかし、今回は、講演会があることすら伏せられ、前日になっても公式ホームページに情報提供は一切ない。少なくとも私の所属する法学部の中国語関係の教員に対して講演会への参加案内はなかった。法学部がそうなのだから、全学的に中国関係の教員・研究者に参加を呼びかけるということはなされなかったとみてよい。全学に中国語を履修する学生はたくさんいるが、そういう学生たちに講演会への参加がアナウンスされることもなかった。大隈講堂に入れる早大生は、1998年11月の江沢民主席来学時のような、一般公募の学生たち(その個人情報の扱いをめぐって訴訟にまで発展したところの)ではなく、40人前後の「身元の確かな」中国留学経験者だけである。彼らには、事前に「政治的な質問はしないように」という趣旨のことが伝えられたようである。
   そして、明日、大隈講堂の一階前よりの座席を埋め尽くすのは、胡錦濤主席と一緒に来日した中国共産主義青年団の精鋭200人とみられている。
昨日、軽井沢で静養した彼らは、元気いっぱいで「警護任務」につく。胡錦濤氏はこの青年団の出身で、1984年にその第一書記(最高指導者)に登りつめた人物である。中国共産党のエリート養成機関であり、まさに彼らは胡錦濤氏の「親衛隊」といってよいだろう。この親衛隊があたかも学生の聴衆のように拍手を送る。明日の夕方のニュース映像には、早大生が拍手しているように映るのだろうが、中国製の「サクラ」である。
   このように、 早大の教職員も学生もあずかり知らないところで、「早稲田大学は、胡錦濤主席を歓迎する」という行事がとりおこなわれる。
 

                    ◇

日本のマスコミでは「抗議の嵐」を伝えるのが精一杯だった模様だが、一般紙よりスポーツ紙の方が事実を良く伝えているのも皮肉だ。

 

騒然ワセダ抗議の嵐 胡錦濤主席はピンポン外交で友好演出 flag photo サンケイ・スポーツ 2008年05月09日 更新

胡錦濤主席早稲田で講演 胡主席が到着するまえに、チベット解放を訴える人ら 警官隊と衝突した  =東京・早稲田大学大隈講堂前、8日午後1時半【鈴木健児撮影】

胡錦濤主席早稲田で講演 胡主席が到着するまえに、チベット解放を訴える人ら 警官隊と衝突した  =東京・早稲田大学大隈講堂前、8日午後1時半【鈴木健児撮影】

華麗なラケットさばきで、福原愛選手とラリーを繰り広げる中国の胡錦濤国家主席。愛ちゃんの表情も真剣?=8日午後、東京都新宿区の早稲田大学(代表撮影)

華麗なラケットさばきで、福原愛選手とラリーを繰り広げる中国の胡錦濤国家主席。愛ちゃんの表情も真剣?=8日午後、東京都新宿区の早稲田大学(代表撮影)

対戦を終え、笑顔で愛ちゃんの肩を抱く胡主席(代表撮影)

対戦を終え、笑顔で愛ちゃんの肩を抱く胡主席(代表撮影)

 来日中の胡錦濤中国国家主席(65)が8日、早稲田大学(東京都新宿区)で講演した。会場の大隈講堂前にはチベットの旗や中国国旗を掲げた学生ら数百人が集結。両グループが機動隊を挟んで怒声を上げ、一部の学生らが警察官ともみ合うなど騒然とした雰囲気に。しかし胡主席はリラックスした表情で、講演後は北京五輪代表で早大2年の福原愛選手(19)らとの“卓球対決”に臨んだ。

 飛び交う怒号や小競り合い…。“都の西北”が、中国のチベット政策の抗議行動に揺れた。

 午後3時20分からの胡主席の講演を前に、正午ごろから会場の大隈講堂前には、チベットの旗を持った支援団体ら数百人が集結。学生らしき人は少なく、「フリーチベット」と大合唱。一方、機動隊を挟んで中国人留学生約100人が、中国国旗を掲げ「ワンチャイナ」(中国はひとつ)などと大声を上げた。

 この日の警備態勢は約500人と胡主席が来日して以来最大規模。授業は通常通り行われたが、一部のチベット支援団体を封じ込めようと、早大の創設者、大隈重信銅像付近にバリケードが敷かれるなど、構内は異様な緊迫感が漂った。周辺では警官と学生らとのもみ合いがあったが、逮捕者はなかった。

 荒れる早大で胡主席は約35分の講演。約200人の学生らを前に緊張した表情が目立ち、学生らの質問は受け付けなかった。しかし、続いて行われた早大構内での交流イベントでは、「パンダ外交」につぐ「ピンポン外交」を披露した。

 「ちょっとやってみましょう」とおもむろに上着を脱ぎ、眼鏡を外す胡主席。同席した北京五輪・卓球の日中両国代表である福原愛、王楠両選手らに、勝負を挑んだ。

 早大OBの福田康夫首相(71)が見守る中、愛ちゃんとの注目の対戦。胡主席は、甘い球を見逃さず、右腕から強烈なスマッシュをたたき込むなど果敢に攻め、8度のラリーを5対3で制した。先月26日の長野聖火リレーで走行中、乱入者に見舞われ「怖かった」と表情をこわばらせた愛ちゃんも、この日は笑顔が弾けた。

 一方、昨年12月に訪中した際、温家宝首相とのキャッチボールを披露した福田氏。愛ちゃんにプレーを誘われたが「(福原、王両選手の)2人を見たら尻込みしますよ」と辞退。プレー後の愛ちゃんに「タジタジだったね」と声をかけていた。

 “不参加”の理由について「やらなくてよかった。(胡主席は)戦略的な卓球で、油断してはならない相手ですよ。フッフッフッ」と、意味深?な感想を述べ、場内の笑いを誘っていた。

★「パンダでごまかすな」

 中国製ギョーザ中毒事件で、2家族計7人の被害者が出た千葉県の堂本暁子知事(75)は8日の会見で、来日中の胡主席がパンダ2頭の貸与を表明したことについて「パンダでごまかされては困る」と苦言を呈した。知事は「ギョーザ事件にしろ、油田問題にしろ、政治的にアジアでリーダーシップを取っている国同士できちんと話して良い方向を出していくことが求められている。パンダに惑わされない方が良い」と述べた。

★w-inds.会場盛り上げる

 人気ユニット、w-inds.が8日、早大・大隈講堂で行われた「日中青少年友好交流年」開幕式に出演。ヒット曲「キレイだ」のサビの部分を中国語で歌ったり、中国人歌手のジェーン・チャン(23)と「明日があるさ」を“デュエット”したりして、会場を盛り上げた。

 「客席に福田首相や胡錦濤国家主席を見つけたとき、あらためてすごい場所で歌っているんだなぁと、ますます緊張しました」とボーカルの橘慶太(22)。w-inds.は昨年3月と11月、北京で行われた「日中文化・スポーツ交流年」のイベントに出演するなどアジア各国で人気があり、今回の“大役”が決まった。

■ピンポン外交

 朝鮮戦争以後、敵対関係にあった米国と中国が卓球をきっかけに外交関係を改善させた。1971年、卓球の世界選手権名古屋大会で、会場に向かう中国チームのバスに米国チームが間違えて乗車。これがきっかけで両国選手団幹部や政府関係者らが動き、同年4月7日に中国が「米国選手団を招待する」と発表した。72年2月にはニクソン米大統領の訪中が実現。米国の姿勢の変化は他国にも影響し、日本も田中角栄首相が訪中し中国との国交を回復した。

 痛いニュース(ノ∀`)2008年05月08日
「中国はチベットを弾圧するな」 早大生と警官もみ合う…チベット旗掲げ中国に抗議行動

                      ◇

安倍政権時代の「ヤラセ」にはヒステリックに批判して、相手が中国となると見てみぬ振りのマスコミよ、

恥を知れ!

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悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

2008-05-09 07:39:19 | ★集団自決

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高校の歴史教科書に、沖縄戦の「集団自決」に軍命が有ったと記述するか否かで昨年は日本中が大きく揺れた。

ところが、肝心の沖縄の高校に関する限り教科書記述なんて「そんなの関係ねぇ」で、既に地元新聞等を教材にして「軍命はあった」との授業を行っている。⇒授業前10分 教科書検定問題学ぶ/南風原高

教える教師がサヨク教師だったら、教科書の記述など実務上は何の関係もないのだろう。

高校教師の中には、湾岸署の織田裕二刑事よろしく、

「事件は教室ではなく現場で起きた」とばかり、

生徒を「集団自決」の現場まで引きつれて「残忍な日本軍」を吹き込むという熱心な教師もいる。

5月6日の琉球新報の「市町村面」には米田英明琉球新報通信員のレポートとして、沖縄本島の豊見城南高校の新一年生と担任教諭ら258人が渡嘉敷島を訪れて、日本軍に強制された「集団自決」の現場で地元講師の話に熱心に耳を傾けたという記事がある。

「集団自決」は証言するいろんな立場の人の濃密な人間関係が、お互いの証言に呪縛を掛け合い問題を分かり難くしている。

「集団自決」を学習するため、渡嘉敷島を訪れる学生達を教育する「語り部」の中でも、

渡嘉敷中学校の校長を務めた島の名士である吉川嘉勝(69歳)は最も有名な証言者の1人である。

吉川氏は島を訪れる修学旅行生に「平和学習」を指導する語り部をするに留まらず、本島や本土各地を講演して廻り遠く北海道までも講演旅行をする。

参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 カメラ  (7/5 16:05)

語り継ぐ沖縄の悲劇 札幌 吉川さん講演(12/10) 
≪沖縄戦集団自決の生き残りで、沖縄県渡嘉敷村教育委員長を務める吉川嘉勝さん(69)を招いた講演会「沖縄戦-集団自決の真実」が七日夜、札幌市中央区北三西一九の西本願寺札幌別院で開かれた。当時六歳だった吉川さんの体験証言に約百二十人が耳を傾けた。≫

札幌で「集団自決」の講演会  証言者達の人間の絆

     

吉川氏は島を訪れた人達への証言、講演会で「軍命はあった」と語っているが、改まった場所での証言とは必ずも一致していない。

吉川氏は、昨年7月6日の「県議団現地聞き取り調査」でも証言しているがそのときは「軍の命令があった、或いは強制があった」とは証言していない。(沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】

調査団に対し、証言者・吉川嘉勝氏(68)は

自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」(沖縄タイムス)としか語っていない。

吉川氏は本土各紙にも証言者として登場するが、中でも沖縄タイムスの「集団自決」取材チームの中心人物・謝花直美氏が自ら署名記事を書いた連載特集『命語い(ぬちがたい)』(07年5月28日~12月1日)の中でも重要な証言者として登場する。

(12)「地獄だった」子どもらに歴史伝え (6月17日)
(13)母「生きよう」脳裏に鮮明 (6月21日)
(14)自決と向き合い継承模索 (6月22日)

同じ特集で証言している同姓の吉川勇助(78歳)は当時渡嘉敷村の職員をしており、生き残り証言者の米田惟好村長が亡くなった後、村長への「耳打ち」を軍命令だったとする証言者である。

(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」 (6月14日) <不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。>

砲弾の激しい爆音で通常会話が聞き取れない状況の中、防衛隊員が村長に耳打ちしたのを「目撃」し、「それが軍命だった」と断定する人も人だがこれを何の検証もなく特集に「軍命証言」として掲載する謝花編集委員の執念、いや、妄執にも驚く。

二人の吉川氏は親族と思われるが、二人とも戦後に改姓しており、旧姓は古波蔵である。

ということは「集団自決」生き残りの米田惟好村長も旧姓は古波蔵なので渡嘉敷島の同じ一族だと考えられる。

証言者は体験者だけではない。

渡嘉敷島には戦後生まれでも、物故した体験者から聞いた話を新聞に投稿する人もいる。

源哲彦氏は沖縄両紙の「論壇」に頻繁に登場するその道の有名人である。

 

さて、突然だが、ここまでに登場した人物を整理してみる。

★米田長惟好元渡嘉敷島村長

★渡嘉敷島の語り部⇒吉川嘉勝元渡嘉敷中学校校長

★元渡嘉敷村職員⇒吉川勇助氏

★米田英明・琉球新報渡嘉敷島通信員

★謝花直美・沖縄タイムス編集委員

★源哲彦氏(渡嘉敷村民)

①米田長惟好元渡嘉敷村長、吉川嘉勝元渡嘉敷中学校校長、吉川勇助元渡嘉敷村職員、米田英明・琉球新報渡嘉敷島通信員、米田英明・琉球新報渡嘉敷島通信員⇒旧姓は皆同じ古波蔵

謝花直美・沖縄タイムス編集委員は吉川嘉勝元渡嘉敷中学校校長の教え子であり、両者は師弟関係にある。

③これは推測の域を出ないが、「源」に改姓した理由は、戦時中島民の家に民宿等をして島民と親しかった日本兵の名前をもじってつけた。
係争中の裁判で原告側の証人である皆本義博元中隊長は戦後も何度も渡嘉敷島を訪問しており島民との交流もあるが、「皆下」も「源」も同じく「ミナモト」と発音する。⇒皆本義博氏 証人尋問2007年07月27日

「集団自決」の関係者の中には「本土風」の苗字に改姓した人が異常に多いと前に書いた。

本土風の姓について★軍民関係を知る鍵

多くの人が平凡な「本土風」の苗字に改姓した中でも、源という現在の日本ではあまり目にしない古風な苗字に改姓したのは何故かという疑問にミナモトという音声が答えを出した。 

改姓した人は殆どは親の代で改名されており、現在の当主は改名の理由は聞かされていないと聞く。

以上のべた「集団自決」の複雑な人間関係は、渡嘉敷島に限定したが、

座間味島の場合にも同じことが言える。

一つだけ座間味の例を挙げると、昨年の「11万人」集会のクライマックスで生き残り証言者宮平春子氏の証言文を本人に代わって代読した宮里芳和氏は、琉球新報の座間味通信員であり、宮平春子氏の親族でもある。

宮平春子氏の証言で、宮城晴美氏は母の遺言とは逆の証言をした。 更に法廷証言の後、『母の遺したもの』をいとも簡単に書き換えた新版の出版という恥知らずなことを行った。

ちなみに問題の宮平春子氏は宮里盛秀元座間味村助役の実の妹であるが、マスコミはこの入り組んだ人間関係については一切触れていない。

宮平春子証言は去年の「11万人」集会直前に唐突に飛び出してきたものであり、事実上「集団自決」を誘導したといわれる実兄の「無実」を証明した形になっている。

 

参考⇒マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

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レンタル・パンダで騙された日中首脳会談

2008-05-08 06:47:09 | 県知事選
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戦略的互恵関係の発展で一致…日中首脳会談写真付き (5月7日 13:08)

共同記者会見に臨む福田首相(右)と胡錦濤国家主席(首相官邸で)

 福田首相は7日午前、国賓として6日来日した中国の胡錦濤国家主席と首相官邸で会談した。

 両首脳は、両国の利益を拡大し、国際社会での協調を目指す「戦略的互恵関係」を一層強化することで一致した。

 両首脳は会談後、「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」と題した政治文書に署名した。この中で、歴史問題については、「歴史を直視し、未来に向かう」との表現で、未来志向の関係を確認した。日中間の懸案となってきた東シナ海のガス田開発問題については、日中が共同開発する海域について大筋合意した。

 中国の元首である国家主席の来日は約10年ぶり。

 首脳会談は午前10時26分から約1時間半行われた。日本側からは、高村外相、町村官房長官、額賀財務相ら5閣僚が同席。中国側からは楊潔チ外相らが同席した。(「チ」は竹かんむりに「褫」のつくり)

 焦点のガス田問題について、福田首相は会談後の共同記者会見で、「大きな進展があり、解決のめどが立ったことを確認した」と述べ、政府間の正式合意に近付いたことを明らかにした。胡主席も、「問題解決の前景(展望)が見えてきた。うれしく思う」と前進があったことを強調した。

 関係筋はこの内容について、「日中共同開発の大まかな海域について、合意に達した」と語った。

 今回の「日中共同声明」は、1972年の共同声明、78年の平和友好条約、98年の共同宣言に続く、両国関係の基礎となる「第4の政治文書」となる。

 声明は、新たな両国関係について「歴史を直視し、未来に向かい、世界の良き未来を共に創くり上げる」と明記。中国側が「歴史をに」と繰り返し、摩擦が起きた98年11月の江沢民国家主席(当時)来日時に比べ、未来志向を強調した。

 また、両国首脳の年1回の訪問を確認し、政府の安全保障分野でのハイレベル相互訪問など、幅広い交流の推進も盛り込んだ。互いに協力する分野として、冷凍ギョーザ中毒事件で問題になった「食品・製品の安全」や、エネルギーや環境分野などを列挙した。

 また、チベット問題について、福田首相は会談で、4日に行われた中国側とチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世側との対話について、「本格的対話の第一歩で、評価する」としたうえで、引き続き「国際社会の懸念を解消するように」と求めた。声明では、両国が「普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力する」と言及し、国際社会が注目するチベット問題を念頭においた文言を盛り込んだ。

 一方、地球温暖化対策では、中国の積極姿勢を盛り込んだ「気候変動に関する共同声明」を発表し、中国が2013年以降の「京都議定書」後の枠組み交渉に積極参加する姿勢を示した。

 ◆日中共同声明骨子◆

 ▽歴史を直視し、未来に向かい、「戦略的互恵関係」の新局面を切り開く

 ▽日中は互いに協力のパートナーで、互いに脅威とならないことを確認

 ▽両国首脳の定期的相互訪問のメカニズムを構築。原則毎年一方の首脳が他方の国を訪問

 ▽貿易、投資、食の安全での互恵協力を推進

 ▽東シナ海を平和・協力・友好の海とする

 ▽2013年以降の気候変動の国際枠組み構築に積極参加

 ▽中国側は日朝が諸懸案を解決し、国交正常化を実現することを支持

2008年5月7日13時08分  読売新聞)
 
                                               ◇
首脳会談の実体は「戦略的互恵関係」という分かりにくい文言で誤魔化しているが、パンダによる目くらましの友好ムードを引っ剥がしてみると、宗主国中国と属国日本との関係が銘菓になっただけ。
 
互恵とは名ばかりで中国が日本に与える恵はパンダのみ。
 
それもレンタル方式で借り賃を払うというから宗主国の格も地に落ちたものだ。 
 
毒ギョーザにしろ、尖閣ガス田のガス抜き取りにしろ恵ではなく、害毒ではないか。
 
「地球温暖化対策」だって、毒をまき散らしながら金儲けに猛進する中国の後始末を日本に尻拭いせよということではないのか。
 
ケツの穴の小さい宗主国が、腑抜けな属国に対して、
 
毒ギョーザは黙って食って自分で毒消しでも飲め!
 
尖閣のガスは黙って見ていろ!
 
(現在進行中のガス田開発は中国の主張する境界線内から日本に跨る海底ガスを勝手に吸入しているので問題ない。日の共同開発の提案にも、それをするなら境界線の日本側から汲み上げる工事に限り共同開発する、というまことに身勝手な言い分である)
 
チベット問題は見てみぬ振りせよ!
 
公害の尻拭いはお前がやれ!
 
その代わりにパンダは貸してやる。
 
但し代金は忘れるな!
 
 
これで日中の、「戦略的互恵関係」メデタシメデタシ、
 
友好関係メデタシメデタシ。
 
 
「相手の嫌がることをしない」を公言する首相の外交の実体はこんなモノだ。
 
毒ギョーザは食べなきゃ済むし、パンダも見なければ恩に着ることもない。
 
ガス田も、チベットも当面見て見ぬ振りでごまかしが効く。
 
だが、マスコミが触れない大きな問題を忘れては困る。
 
日本国民の生命と財産を脅かす中国の態度には断固抗議すべきだ。
 
日中友好を謳うなら福田首相は自国民の安全保障だけは譲ってはいけないはずだ。
 
福田首相は、日本に照準を合わした核兵器の照準は即刻外すように要求せよ。
 
日本は核どころかミサイルさえも持っていない国で、核に関しては丸腰の国だ。
 
> ▽東シナ海を平和・協力・友好の海とする
 
何だって? 笑わしちゃいけないよ。
 
相手ののど元に匕首を突きつけて友好も、平和も協力もないだろう。
 

▽日中は互いに協力のパートナーで、互いに脅威とならないことを確認

核」ミサイルで脅しながら「パンダのレンタル」で友好を迫る国の存在そのものが脅威なのだよ。

 

小泉首相の補佐官をを務めた岡本行夫元外交官によると、
 
クリントン前大統領も当初は中国を戦略的パートナーとしたが騙されたことに気が付いた。
 
自国に照準を合わしたミサイルの存在を知り、訪中してアメリカ向けミサイルの照準を外させたという。(2008年5月4日テレに朝日『サンデー・プロジェクト』)

2005年7月20日 水曜日

◆中国は長期的な脅威 米報告、軍拡を警戒 7月20日 共同ニュース
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20050720/20050720a
3720.html

【ワシントン19日共同】米国防総省は19日、中国の軍事動向をまとめた年次報告を発表、国防予算が公表されている額の2-3倍と推定されると指摘、急速な軍近代化が継続すれば長期的には周辺地域の確実な脅威となると警告した。

報告書は、急激な成長を続け地域大国として台頭しつつある中国に関し、議会などを中心に高まる軍拡への警戒感を反映した内容となっている。

報告書は、中国がエネルギー資源確保に向けて中南米や中東、ロシアへの急速な接近を図っていると指摘。エネルギー資源の確保問題が中国の戦略決定上の大きな要素となっていると述べている。

さらに中国の軍拡が周辺地域の軍事バランスを危険にさらし始めていると警告した。

                      ◇

元首相補佐官も指摘しているのに、日本の新聞は日本に照準を合わせた中国の核ミサイルについては何故か触れない。

日本のマスコミも既に中国工作員によって篭絡されてしまったのか。

【写真】これが日本に照準を定めているミサイル【支那】

【動画】やりたい放題の中国、日本に核 弾頭24発照準!!! (明海大学教授杉山徹宗氏に聞く)

 

「戦略的互恵関係」や「日中友好」を言う前に、

中国は日本に照準を合わせた核ミサイルを即刻撤去せよ!

と思う方、クリックお願いします。

 

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戦争映画に歴史を見る★「暁の脱走」と「きけわだつみのこえ」

2008-05-06 08:43:37 | ★集団自決

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一昨日の日曜日終戦直後の昭和25年製作の戦争映画を見た。

古い映画を見ると物語の内容とは別にその映画が製作された時代の雰囲気が画面に垣間見れて興味深い。

ストーリー展開がスローで現代の感覚でいえば退屈する場面も多いが、テレビのない時代に動く画面を見るだけで映画そのものが面白い時代だったそこは我慢せねばならぬ。

見た映画は池部良、山口淑子主演の「暁の脱走」(1950)で、重要な役割で小沢栄(後に栄太郎)が出演している。

物語は北支派遣の日本軍で副官(小沢)付きの上等兵(池部)が戦地慰問中に戦況悪化で帰国できなくなった歌手山口淑子と恋に陥る。 
 
敵の攻撃で負傷した池部と山口は捕虜となるが何とか脱走に成功する。
 
ところが上官の小沢が山口に横恋慕して、池部を軍法会議で死刑にするように報告書を捏造する。
 
それで同僚兵士の援助を受けて池部と山口の二人で部隊を脱走をする。

タイトルにもなっているラストの脱走シーンが見せ場なのだが、砂漠のような平野を必死で逃げる二人を悪鬼の形相の小沢上官が南京城のような城壁の上から逃げる二人を機銃掃射する。

傷を負いながらも何とか逃亡を試みるが結局二人とも射殺される。

ハッピーエンドには終わらないのだが、憎憎しい悪役の小沢隊長が日本軍を象徴しており池部、山口のラブロマンスを中心にした「反戦」が映画のテーマでである。

小沢隊長は映画の中で本人の出ない場面では「けだもの」とか「毛虫のような嫌われ者」と罵倒され、徹底的な悪役に徹していて別の興味を引いた。 何しろ暗闇の物音に懐中電灯を持った小沢隊長が

「誰だ!」と怒鳴って懐中電灯で自分の顔を下から照らすシーンには爆笑した。

フツー、暗闇では物音に向かって電灯を照らすだろう。 

怪談話のように闇の中で自分の顔を下から照らした時には、
画面の小沢に向かって、思わず

「稲川淳二かよ!」

と突っ込みを入れてしまった。⇒http://tutinoko.org/blog/?p=759


ちなみに当時(昭和25年製作)の時代を反映して映画は中国兵は非常に紳士的且人道的に描かれており、『鉄の暴風』が描くヒューマニズム溢れる米兵を髣髴させるような描き方をしている。

一方の日本軍は悪役小沢副官が「渡嘉敷島の悪鬼赤松」を連想させるような徹底的な悪役に描かれていて興味深い。

映画制作(昭和25年)の二年前には東条元首相を始めとするA級戦犯の処刑が執行されており、米軍占領下の日本では連合国の一員として東京裁判にも裁く立場で参加した中国には並々ならぬ配慮をしたことが伺える。

池部の恋人役の山口淑子が得意の中国語で中国兵と交わす会話を聞くと当時の中国は現在の中国よりよっぽど民主的で紳士的に描かれており思わず苦笑させられた。
 
同じ昭和25年に製作の戦争映画「きけ、わだつみのこえ」は「暁の脱走」のような娯楽性は排除し徹底的に「日本軍の悪」の部分に焦点をあてた反戦映画である。

やはり、製作者の脳裏にGHQや中国の視線を感じていることが画面に伺える。

きけ、わだつみのこえ」にも登場する隊長は、空腹でやせ細った部下を尻目に、自分だけたらふく食べて慰安婦を従えて安全な壕に潜んでいる・・・まるで『鉄の暴風』に登場する「悪鬼のような隊長」そのままである。

ちなみに『鉄の暴風』も昭和25年の発刊であり、著者の大田記者が当時の戦争映画を見た可能性は充分あるが(当時沖縄でも上記2映画は上映された)、まさかそのイメージで『鉄の暴風』の「悪鬼のような部隊長」を創作したのでは無いと思うのだが・・・。

映画が作られた当時、日本は敗戦直後の荒廃から立ち直ったばかりで、朝鮮半島では、米ソの冷戦が激しくなっていた。

再び戦争の陰がたち込め、実際に1950年6 月には朝鮮戦争が勃発した。

そうした世相のなかで、『暁の脱走』や『きけわだつみのこえ』といった戦争映画に込められた「反戦」思想が共感を呼んだのだろう。

映画制作の二年後の昭和27年、GHQは日本占領を終結し日本は晴れて独立国家となる。

だが米軍占領下の沖縄は『鉄の暴風』の発刊から27年を経過してやっと悲願の「祖国復帰」を果たすことになる。

 

きけ、わだつみの声(1995)は織田裕二主演でリメイクされています。

◆昭和25年版:
1950.06.15 日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声  東横

 

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なりすまし弁護士と裸の王様

2008-05-05 05:57:59 | 県知事選

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憲法集会:「9条」変えるか、否か “改憲弁護士”と“護憲学生”模擬討論 /福岡

 ◇ムーブで「僕らの未来は赤信号?」
 憲法記念日の3日、小倉北区大手町のムーブで「僕らの未来は赤信号? もしも、この国が9条を失ったら」と題した憲法集会があり、約500人が集まった。弁護士や労組などの実行委(委員長・多加喜悦男弁護士)の主催。若い人たちに憲法について考えてもらおうと実行委を地元大学生からも募った。若者に身近な問題を取り上げた朗読劇やディベートで護憲を訴えた。

 ディベート「ガチンコ対決!護憲学生対改憲弁護士」は「9条を変えるべきか否か」などをテーマに、北九州市立大と九州国際大の学生3人が護憲派、弁護士2人が改憲派の役どころで討論した。

 “改憲弁護士”は現憲法について「形がい化している」「自衛隊を海外派遣する以上は自衛隊の行動範囲を明確にした方がいい」などと意見を展開。“護憲学生”は「力で力に対抗すると戦争になる。9条を変えるとかえって戦争の危機が高まる」「9条は形がい化していない。政治家が勝手に解釈しているだけ」と論陣を張った。

 弁論をなりわいとする弁護士が相手だけに学生たちは終始押され気味。終了後の質疑応答でも参加者が「改憲派の明快で説得力のある意見に比べ、護憲派の言葉は胸に届かなかった」と指摘。ただ、「だからこそ憲法を守らないと危ないと思った」と話していた。

 本来は護憲派の“改憲弁護士”は「きれいな言葉で議論をすり替えた。敵を知る上で勉強になった」と感想を語り、観衆を沸かせた。【長谷川容子】

〔北九州版〕

                     ◇

こどもの日に憲法の記事って、遅れてんじゃないの?

ハイ、スミマセン。

■なりすまし弁護士■

憲法記念日だから憲法を考えるなんて、年に一度敬老の日に年寄りのことを考えるようなもの。

だが子供の日は我が子の成長を祈願するという意味でちょっとはニュアンスが違うのかもしれない。 

子供が皆成人してしまった我が家では孫の成長が唯一の楽しみ。

で、憲法論だが憲法記念日に決まって紙面を飾る「識者」の神学論争には興味がないので今年は憲法はスルーと決め込んでいたのだが。

活字離れで見出しを舐めるだけで済ます人にとって、

冒頭引用記事は大きな誤解を与える。

先ず小見出しの【◇ムーブで「僕らの未来は赤信号?】だけ見ると朝日放送の人気番組(沖縄では放映していない)「ムーブ! 」が憲法の公開討論番組を企画したかのような錯覚を与える。

斜め読みした改憲派の読者は次のくだりでヤッタと思うだろう。

≪「弁論をなりわいとする弁護士が相手だけに学生たちは終始押され気味。終了後の質疑応答でも参加者が「改憲派の明快で説得力のある意見に比べ、護憲派の言葉は胸に届かなかった」と指摘。≫

ここで読むのを止めたら記事の真意はつかめない。

プロの改憲派と学生の護憲派の討論では当然と思わせておいて、次の文が後に続く。

≪(参加者は)「だからこそ憲法を守らないと危ないと思った」と話していた。≫

つまり改憲弁護士はカッコつきの“改憲弁護士”であり、その実体はバリバリの護憲弁護士の「なりすまし」であった。

そして次の言葉で本音がのぞく。

≪本来は護憲派の“改憲弁護士”は「きれいな言葉で議論をすり替えた。敵を知る上で勉強になった」と感想を語り、観衆を沸かせた≫

記事の言いたいことは「改憲派の論理はきれいな言葉で議論を摩り替えたもの」ということ。

“改憲弁護士”の“論理欺瞞”の名演技に、会場は拍手喝さいという仕掛けだ。

「きれいな言葉で議論をすり替える」のは護憲側の常套手段。

名演技をした“改憲弁護士”も意外と本気で議論してしまい、改憲の方が正しいと身をもって体験した。

これが本音だったのかも知れない。

“論理欺瞞”のつもりが良く考えたら、それが正論だった。

                    ◇

ダライ・ラマ特使と協議 中国の姿勢変わらず(5月5日 朝刊)

2008年5月5日 朝刊

 【北京=新貝憲弘】中国政府代表とチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世の特使との非公式協議が4日、中国広東省深セン市で行われた。新華社電が伝えたもので、中国政府側は「ダライ・ラマ側が言行一致して真に祖国の分裂活動や北京五輪の破壊活動を停止するよう望む」と従来通りの主張を繰り返すにとどまった。

 協議は昨年7月の中断以来で、今年3月のチベット暴動後では初めて。亡命政府側が過去にも代表を務めたロディ・ギャリ特使ら2人、中国側は中国共産党統一戦線工作部の朱維群副部長ら2人が出席した。

 朱副部長らはチベット暴動で取った中国政府の措置が「社会安定や国家法制、民衆の根本利益を保護するために完全に正しかった」と強調しチベット政策の正当性を主張。ギャリ特使らは「協議内容をダライ・ラマに伝える」と答え「適当な時期に再び接触する」ことで合意したという。

 新華社電は「中央政府は最大限の根気と誠意で今回の協議を用意した」「朱副部長らはギャリらが提出した問題に辛抱強く答えた」とも伝え、中国政府がダライ・ラマ側に配慮したことを強くにじませた。ただ、暴動以降の「危機的状況」や平和的解決への提案など亡命政府側の主張には一切触れておらず、実際には平行線のままで終わったとみられる。

 胡錦濤国家主席も、この日行った日本人記者団との会見で「中国の民族自治制度と政策は中国の実情に合ったもので、この政治制度と有効な民族政策を引き続き堅持する」と中国側の姿勢に変化がないことを強調した。

 4日付の中国各紙は独立急進派組織「チベット青年会議」が亡命政府メンバーの8割を占め「ダライ・ラマ14世が暗に示す意向とつながっている」と紹介するなどダライ・ラマ側に対する批判報道が続いている。

                                             ◇

■裸の王様■

この会談ほど事前から中国側のアリバイ工作がミエミエの会談も近年珍しい。 

何しろ在りもしないダライ・ラマの「暴挙」を止めろといったて、

元々やっていないことは止めようがない。

話し合いを持つだけが目的という、始めから合意点のない会談だということは世界は知っている。

知らないのは裸の王様・コキントウだけ。

それにしても、アリバイ工作会談の主催者が「中国共産党統一戦線工作部」だとは、とんだ大笑いだ。

何度話し合っても中国の言うことを一方的に拝聴するだけという点では、福田・コキントウ会談は似たようなものかかも知れない。

何しろ相手のいやがることは言いたくないお人なのだから。

 

参考⇒ダライ・ラマの知恵 「高度の自治」を対話に向け注文

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「日本の名誉」懸けた裁判

2008-05-04 15:11:29 | ★集団自決

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原因不明で記事が消失してしまいましたので書きかけ原稿に残っていた一部を掲載し、後は「月刊ビューポイント」の転載で穴埋めをしておきます。

前にも何度か消失がありましたが原因は分かりません。

どなたかコピペしている方いませんかね。(あせっています)

いないだろうな(笑)。

落胆で、書き直す気力がありません。

                   ◇

集団自決」にからむ3月28日の大阪地裁は原告側敗訴の判決を下した。 敗訴を想定していた岩波側は狂喜乱舞したようだが、この手の裁判は第一審がいずれの勝訴でも最高裁までもつれ込むことは想定済みのことだった。

 ⇒「新証言がなければ勝てなかった」 岩波側の本音

スポーツのルールを当てはめると、一回の試合で勝負を決するのではなく、勝負は三回戦。 ただスポーツルールと大きく違うのは試合の勝数の多さで競うのではなく、 第三試合で勝ちをおさめたものが三試合を通しての勝者になることである。 従って第一、第二試合で連敗しても第三試合で勝てば勝負は勝ちなのである。 いうまでもないが二勝一敗での敗訴決定もありうる

 

◆平成19年5月17日 
沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防
「日本の名誉」懸けた裁判
原告負ければ、勢いづく左翼

 今年一月十九日。大阪の昼の気温は六度。暖冬といわれたこの冬だが、頬(ほお)に当たる風は冷たかった。大阪地裁前では傍聴券を求めて並んだ人が百三、四十人に膨らんでいた。
 その日の午後、彼らが傍聴を求めた202号法廷では、沖縄戦の集団自決をめぐっての言論による激しく容赦のない応酬が展開された。もし「言葉」に殺傷能力があれば、双方の弁護士はいずれも“玉砕”を免れなかったであろう――そのような想像をするほど激しい論戦が交わされた。

 先の沖縄戦で起きた集団自決が「軍命令」によるもの、という記述が最初に登場するのは沖縄タイムス編『鉄の暴風』(昭和二十五年、朝日新聞社)である。

 その後、上地一史著『沖縄戦史』(時事通信社)、家永三郎著『太平洋戦争』(岩波書店)、中野好夫・新崎盛暉共著『沖縄問題二十年』(同)、大江健三郎著『沖縄ノート』(同)などによって広く流布され、教科書に記載される「定説」となったのである。

 ノーベル文学賞を受賞した大江氏の『沖縄ノート』は昭和四十五年以来、既に五十版を重ねているが、彼は軍命令を出した隊長について「あまりにも巨きい罪の巨塊」などと断罪し、公開処刑がふさわしいとまで言い切っている。

 これに対して当時の座間味島の守備隊長だった梅澤裕氏(90)と、渡嘉敷島守備隊長だった赤松嘉次(よしつぐ)氏(昭和五十五年死去)の弟、秀一氏(74)が「命令はなく、住民自ら自決した」として一昨年八月、大阪地裁に提訴したのである。

 書籍に綴(つづ)られた文字は彼らの生命を奪うことまではしなかったが、戦後、家庭や職場に波紋を呼び起こし、言い知れぬ苦悩を強いた。原告は「誤った記述で多くの読者に非道な人物と認識される」として版元の岩波書店と『沖縄ノート』の著者、大江氏を相手に出版差し止めと損害賠償合計三千万円を求めたのである。原告、被告双方に「応援団」ができ、支援のブログもある。

 双方の主張についてはおいおい紹介していくが、ここではこの裁判の意味について触れておく。

 「軍命令による集団自決」は、その後、左翼勢力を中心に、沖縄戦の最大の悲劇であり、沖縄戦の特徴と喧伝(けんでん)されてきた。日本軍は沖縄県民を守るどころか犠牲にした、という主張は、その後の反自衛隊、反政府運動、反米運動などの最大・最強の「原点」となった。戦後、「南京大虐殺」と合わせて、日本軍の、ひいては日本人の残虐性の根拠として大いに利用されてきた事件でもある。「南京大虐殺」については、多くの研究者などの努力でその虚構が暴かれたが、沖縄戦の「軍命令による集団自決」には、幾つかの反論も出たが、著作物としては軍命令を肯定するものがあふれている。

 この裁判を通じて、実は「軍命令」なるものは存在せず、それどころか原告側が訴えているように「島民の遺族の補償のために、虚偽の軍命令を容認した」というのが真相であれば、沖縄の左翼運動はその「足場」を喪失し、一方、沖縄の保守派の活動が大きく弾みを付けることは明らかだ。依然として残る自衛隊アレルギーも解消されよう。最近でも自衛隊の音楽演奏会が中止されたり、自衛隊員を父に持つ子供が「お父さんは人殺し」などと教師に言われて、深く傷ついたという話があるほどなのだから。

 故に原告側は「二人の名誉回復だけにとどまらず、日本の名誉を守り、子供たちを自虐的歴史認識から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻す」裁判と位置付けている。もちろん、教科書にある記述も全面的に見直しを求められよう(地裁判決前に、記述修正が行われ、関係者を驚かせたが、これも後述する)。

 これに対して被告は、「軍は住民を守らない」という沖縄戦観を覆す意図を持った、極めて政治的な意味合いのある裁判である、と警戒感を強める。

 裁判で原告側の主張が退けられれば、日本軍の残虐性が証明された、として被告を支援する文化人やメディアが、猛烈に宣伝することは火を見るより明らかだ。

 沖縄の保守派はますます肩身の狭い立場に追いやられよう。双方ともに譲れないこの裁判は、地裁、高裁で決着を見ず、最高裁まで争われるのは必至だ。最高裁がその結論を下すのは三、四年先になるだろうと関係者はみている。

(編集委員・鴨野 守)

                                                ◇

【追記】

冒頭で書きましたように午前中にアップした本日のエントリーがコメント欄のみ残して午後には消失してしまいました。

ちょっと力を入れて書いたつもりで、おまけに控え文を残していなかったために、がっかりと憂鬱が重なって書き直す体勢が取れません。

午前中に一部だけ見ていたテレ朝の「サンデープロジェクト」で岡本行夫氏が珍しく正論を吐いていたのでその部分だけ感想を述べます。

上海で行われた日中識者討論のTV番組VD放送での発言:(要旨)

「かつてクリントンが当地を訪問した際、中国首脳は、アメリカに照準を向けていた核ミサイルを外すと言い、実際その通りにした」

「今回のコキントウの訪日で真の日中友好を望むなら中国は日本に照準を向けた核ミサイルの照準を即刻外すべきだ」

「日本は核もミサイルも無い国なのだ」

 

日中首脳会談の議題としてマスコミが騒ぐ、

①毒ギョーザ問題、

②尖閣ガス田問題、

③チベットの人権問題

・・・に優先させて、福田首相はこちらの方から、(先方から言い出すことは考えにくいので)

「日中友好を望むなら、日本へ照準を向けた核ミサイルを外せ!」と要求すべきだ。

 

福田首相が「相手の嫌がることはしない」という腰抜け外交をすることが予想されるが、

相手の喉元に匕首(あいくち)を突きつけながらの日中友好も無いだろう。

中国に日本を狙った核ミサイはけしからん。

即刻日本向けの照準を外せと思う方、

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「サイパンの悲劇」と「集団自決」

2008-05-03 09:09:52 | ★集団自決

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「鬼畜米英の捕虜になったら男と子供は八つ裂きにされ、女は強姦された後焼き殺される」

戦時中の沖縄でこのような話が住民の間に流布していたことは事実である。

この事実には次のような話がもっともらしく連なる。

「このようなデマで住民をパニックに追い込み「集団自決」を引き起こした責任は日本軍にある」

だがこの説には大きな事実の歪曲がある。

沖縄の住民は単なるデマで「鬼畜米英の残虐行為」に脅えていたわけではない。

彼らは信頼できる情報を得て、米兵の残虐行為に脅えていたのである。

鬼畜と思った米兵が住民に食料を与えたり、けがの手当てをしてくれた事実であるが、

米兵が住民に対して蛮行を行わなかったというのはサヨク勢力が捏造した神話である。

大陸で起きた通州事件等の中国兵の日本寄留民への残虐行為の情報が沖縄出身の大陸帰りの帰還兵や従軍看護婦によって伝えられ、これが敵の捕虜になる恐怖を増幅させた。

通州事件と「集団自決」の重大な関係

これに対して、

「大陸で民間人に残虐行為を行ったのは中国兵であり、沖縄戦での米兵はやはり人道的であった」

このようなイメージは『鉄の暴風』を主とする沖縄マスコミによって作られていくが、

米軍による残虐行為は、恥を知る被害者達が固く口を閉ざし続けたため沖縄側の記録に残っていないだけに過ぎない。

県立沖縄史料編集所専門員・大城将保氏の著書『改訂版 沖縄戦』には次のような記述がある。

≪本部半島のあるでは、米海兵隊が上陸した直後に、じゅうの婦人が手あたりしだいに米兵の毒牙にかかっている≫

≪戦闘中の婦女暴行事件は地域の例外なくいたるところで多発しているが、真相はおそらく永久に秘密の闇に葬りさられることだろう≫

 

恥を知らないどこかの国の元売春婦の婆さんたちは今でも理不尽な補償要求で金をくれと騒いでいるが、

恥を知る沖縄の被害者たちのほとんどが「事実」を墓の中まで持ち込んだ。

だが皮肉なことに「事実」はアメリカ人の書いた戦記に登場する。

アメリカ人ジョージ・ファイファーが書いた『天王山』(早川書房)によると沖縄本島の本部半島の運天界隈では本島上陸の20日後にはもう既に兵士の強姦事件防止のため海兵隊長公認の「売春宿」が設置されていた。

「キャット・ハウス」と呼ばれたその売春宿では13歳くらいの女の子まで三十セントで米兵の相手をさせられていた。(「天王山」(上)258ページ)

さらに同じくアメリカ人のヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』にも沖縄戦で壕から出てくる住民を米兵が焼き殺す残酷な記述があり、GHQによりその日本語訳版の出版が禁じられるというおまけまで付いた。

沖縄人が書いた米軍賛美の『鉄の暴風』が米軍の推薦を受け、

その一方アメリカ人が米軍の残虐性を記述した『アメリカの鏡・日本』がGHGの発禁処分になった。

当日記はこの事実を嘗て「歴史の皮肉」と嘲笑した。

続々『鉄の暴風』のいかがわしさ◆渡嘉敷女子青年団 匿名座談会

沖縄本島での米兵による住民への鬼畜行為は時系列的に言って渡嘉敷、座間味両島の「集団自決」の後の出来事である。

両島の「集団自決」は大陸における中国兵の鬼畜行為より、むしろ前年7月に陥落したサイパン戦での米兵の鬼畜行為の方が迫り来る現実として、帰還したサイパン在住沖縄人によって恐怖をもって語られた。

米軍が撮影した「バンザイクリフ」に身を投じる婦人の記録フィルムは有名だが、

沖縄人ならあのシーンを見て身投げする婦人が沖縄出身者であることは容易に推察できる。

サイパンで米軍に追いつめられて自ら命を断った日本人のほとんどが沖縄出身者であることも戦後あまり語られない事実である。

沖縄戦の前年のサイパン戦を生き残った沖縄出身者が、「サイパンでの米兵の蛮行を沖縄の親戚・知人に怒りと恐怖で伝えた」という記録は確認できないが、

少なくとも「サイパン⇒東京⇒沖縄」という情報経路で、「サイパンの悲劇」が沖縄に伝えられていたことは容易に想像できる。

7月9日に米軍はサイパン島の占領を宣言した。

サイパンで住民を自決に追い込んだのは日本軍の直接的命令でも無ければ、「タテ構造」による間接的 命令でもなかった。

米軍の残虐行為を目の当たりに見た恐怖心によるパニックが、住民達を自決へ追い込んだ。

『我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』(田中徳裕著ー立風書房)から米兵の鬼畜行為の一部を抜粋する。

(「沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防」の孫引き)

≪三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕らわれの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。 婦女子が全員、素っ裸にされた。 そしてむりやりトラックに積み込まれた。≫

≪婦女子が連れ去られたあと、今度は滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。 ガソリンがまかれ火がつけられた。 飛び出してくる老人や子供たち。 その悲鳴・・・。 米軍は虐待しません、命が大切です。 早く出てきなさい・・・。 あの投降勧告は一体なんだったのか。 常夏の大空をこがさんばかりに燃え上がる炎と黒煙。 幼い子供が泣き叫び、絶叫する。 断末魔がある≫

≪残虐な行為は壮絶をきわめた。 日から逃れようとする子供老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ付き返す。 かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛ばしたり、中で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。 二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真っ二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。 「ギャッー!」という悲鳴。 人間がまるで帰るのようにまたさきされて殺されていく・・・。 彼らは、それをやっては大声で笑った。 不気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた≫

 

鬼畜米兵は子供を八つ裂きにこそしなかったが赤ん坊を「真っ二つに引き裂いた」ことは上記記述に生々しい。

渡嘉敷島、座間味島の島中を米艦隊に包囲され、

連日連夜打ち込まれる艦砲射撃から逃げまどう住民はパニックに陥り、自決の誘惑に駆られた。

彼らをパニックに追い込んだのは日本軍の命令ではなく、彼らの脳裏に浮かんだ大陸での中国兵やサイパンの米兵により住民に加えられた蛮行の光景であった。

その光景は単なる噂で形作られた曖昧なものではなく、信頼できる親戚・縁者からの生の情報によって形作られた輪郭のはっきりした光景であった。

「集団自決」を引き起こした原因は日本軍の命令ではなく、中国兵や米兵の残虐行為への恐怖によるパニックであると思う方、

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参考エントリー:米兵蛮行の象徴 「ボンベの鐘」 

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抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21)
ヘレン ミアーズ,Helen Mears,伊藤 延司
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天王山〈上〉―沖縄戦と原子爆弾
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重要証言者の死

2008-05-02 07:39:32 | ★集団自決

 

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三日前の4月29日は国民の祝日で「昭和の日」ということだが、筆者のように昭和の前半に生まれた者にとっては「天皇誕生日」といった方がピンと来る。

大正4年の天皇誕生日に生まれた比嘉喜順さんが、奇しくも三日前の「天皇誕生日」(昭和天皇)に、94歳の天寿をまっとうし永眠された。

比嘉喜順さんといってもご存知のない読者が大部分だろうが、渡嘉敷島の「集団自決」の時、本島から赴任したばかりで不幸な事件に巻き込まれた安里喜順巡査(当時29歳)といえば思い出す人もいるだろう。

安里さんは戦後比嘉家の養子になって比嘉の姓を名乗っていた。

去年の5月、ジャーナリストの鴨野守氏が取材した折、誕生日が昭和天皇と同じ4月29日だとの話題で、うれしげな表情を見せて、

「ただ日本のためにと、生きてきました。 何の心残りもありません。 「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語ったという。(月刊ビューポイント)

昭和天皇と同じ誕生日を嬉しそうに語った安里さんが、一年経って、その同じ4月29日にお亡くなりになったのも何かの巡り合せだったのでしょう。 

合掌。

                      ◇

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受けて信憑性にかける点が指摘され、それが真相解明の大きな妨げになっていた。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに年金支給の問題が絡むと今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、安里(比嘉)さんは信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会にとっては「よそ者」であり、、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。

当時29歳の安里巡査は親族に「集団自決」のいない証言者であり、年齢的にも、村の指導的立場の警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、又戦後沖縄に在住しているのにもかかわらず、不思議なことに地元マスコミで安里さんに取材したものは1人もいないという。

その理由は?

安里(比嘉)さんが渡嘉敷島で起きた「集団自決」の「不都合な真実」を知っていたからである。

安里巡査はご存命 反対証言は取材しない地元マスコミ

 

さて、地元に在住していたにもかかわらず地元マスコミが徹底して黙殺した安里巡査にジャーナリストの鴨野氏が取材したことを述べたが、その取材レポートを「月刊ビューポイント」から以下に引用する。

安里巡査が故人となってしまった今となっては大変貴重な取材レポートである。

                    ◇



月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防

比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」

「軍の食糧、村民に与えた赤松氏」

戦火の渡嘉敷島で日本軍と住民との連絡役を任されていた駐在巡査、安里喜順氏(後に養子に入り、比嘉と改姓)。彼は赤松嘉次隊長の副官、知念朝睦氏とともに、当時を詳しく語ることのできる人物であり、存命ならば記者(鴨野)はぜひともお会いしたいと考えていた。

だが、知念氏や金城武徳氏からは「既に高齢であり、取材は難しいだろう」と告げられた。

別の関係者からは死亡説も聞かされた。しかし、比嘉氏の身近な人は、まだ元気なはずだと言う。

五月下旬、とりあえず自宅に向かった。家には誰もおらず、豪雨の中、二時間半はど粘ったが、会えなかった。ただ、近所の人から「お元気よ」という言葉を聞くことができた。夜、所在を確認できた。翌日、比嘉氏が入院中の病院を訪ねた。

古くからの友人である垣花恵蔵・わかば保育園理事長の姿を認め、比嘉氏の顔がはころぶ。  古くからの友人である垣花恵蔵氏(左)の見舞いに喜ぶ比嘉喜順氏
(沖縄県内の病院で)=5月30日、敷田耕造撮影(写真省略)

誕生日を聞いた。「大正四年四月二十九日です」。

「昭和天皇と同じ日ですね」と話すと、うれしげな表情を見せた。

二十分余りのインタビューで比嘉氏は、

「ただただ日本のためにと、生きてきました。何の心残りもありません」

「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語った。

比嘉氏が昭和五十八年六月八日付で、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)にあてた手紙の内容を、

比嘉氏の子息の了解を得て、ここに公表する。

その日の沖縄タイムスには、徳嵩氏が赤松大尉直筆の手紙を同社東京支社に届けたという記事が掲載されていた。徳嵩氏は『鉄の暴風』を読み、赤松氏に事実関係を尋ねたところ、昭和四十五年十一月三十日付で返書が届いた。

その中で赤松氏は

「戦時中、現地の方々の献身的な御協力にも拘(かかわ)らず力足らず、あの様な結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と詫(わ)びている。

だが住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。

これに対して徳嵩氏は

「どうも後で理屈付けをした感があり、説得力に乏しい」「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです」

などとコメント。

記事は、「赤松氏がどんな胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な事件が渡嘉敷で起こったことはまた歴史的事実である」と結んでいる。

比嘉氏はすぐさま、徳嵩氏に反論の手紙を書いたのである。

私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。

あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。

責任者として天地神明に誓ひ真実を申し上げます。

……『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されてをったようです。

それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。

沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」

比嘉氏は、捕虜となり収容所に入れられてそこで友軍の行動などを聞くのだが、それを聞いて改めて

「赤松隊長のとった行動は本当に良かった」と振り返る。

敵の海、空よりの抱撃のさ中で、軍の食糧(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さった、あの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。

あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚(はばか)りません」

そして徳嵩氏に、曽野綾子著『ある神話の背景』を読むようにと要望し、次のようにつづる。

「真実と云うのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々はそれを信じるよう(に)なり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います」

その十日後、比嘉氏は徳嵩氏からの手紙を受け取った。

「拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました」で始まる丁寧な返事だ。

彼は『ある神話の背景』を読み、

「如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた

と率直に吐露。

比嘉氏の証言で真相に触れたことが「非常に幸いであり、また救いでもあった」と感謝を述べ、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と告げている。沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防

                       ◇

昭和五十八年当時、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)も、

沖縄戦史のバイブル視されていた『鉄の暴風』の呪縛にとらわれ「赤松の暴状」を真に受けていた。

当時の事情を全て知る安里元巡査の手紙で徳武氏も検証しなおし、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と発言するまでに目が開いた。

だが、「真実を知る男」に取材する沖縄のマスコミは一社も無く、彼の貴重な証言はかろうじて「沖縄県警察史」に記録されている。

参考:

「沖縄県警察史」より安里喜順元巡査の証言抜粋⇒緊急!生き残り警察官の証言  パンドラの箱は開

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生贄の島・沖縄

2008-05-01 10:53:18 | 未分類

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沖縄病とは、沖縄の魅力に取り憑かれ、幾度も旅行を繰り返す人、さらには移住してしまう人の行動を表す比喩で、現在では宮本亜門や島田真助、中尾彬がこれに相当するという。

この語を最初に使用したのは、元東大総長の茅誠司と言われ、1960年に沖縄教育研究中央集会の講演で、「沖縄のことを考え続ける沖縄病」という表現をしたことに端を発する。(ウィキペディア)

曽野綾子氏が例え一時にせよ「沖縄病」になりかかっており、

「作家的好奇心」の気軽な動機で「不都合な真実」に触れなかったらひょっとしたら今頃は沖縄病の沖縄では人気の作家だったかも知れない。

というと、猛然と異論を吐く人々がいることは百も承知である。

何しろ、現在、沖縄マスコミが作った曽野綾子像は「沖縄をばかにしている」であり、マスコミに洗脳された沖縄人の中には曽野曽野氏を「沖縄の敵」と」公言してはばからないもいるくらいだ。

                    * 

『ある神話の背景』(昭和48年5月文芸春秋社刊)が出版される三年前の昭和45年、曽野綾子は沖縄戦のドキュメント『生贄の島』を発刊している。

■曽野綾子の沖縄戦ドキュメント作品

『生贄の島 ある沖縄女性との記録』

昭和44年4月から7月まで「週刊現代」連載

昭和45年3月 講談社刊

『ある神話の背景』

昭和46年10月から47年9月まで『諸君!』連載

昭和48年5月 文芸春秋刊

 

参考:大江健三郎著『沖縄ノート』(昭和45年・1970年、岩波書店)

 

『生贄の島』はひめゆり部隊で知られる、沖縄戦に看護婦として従軍し、多くの犠牲者を出した沖縄師範女子部と沖縄の六つの高等女学校の生き残りの証言を中心に、日米の関係者の証言を加えた沖縄戦ドキュメントである。

曽野綾子選集(読売新聞刊)の解説として前野外吉氏が次のように曽野氏の沖縄への熱の入れようを記している。

「作者が『あとがき』で書いているように、これは、『沖縄から日本各地に散らばっていた』関係者たちを一人一人たずね歩いて記録をとるという膨大な作業を積み上げていかなければならない『大がかりな』仕事だった。 とても作者1人の手に余るため、『週刊現代』の協力で、1968年夏から曽野氏を複数の人たちが日本本土での取材を始め、同年12月には、曽野氏と『四人のベテラン記者』(「あとがき」)が沖縄で三週間の集中的な取材活動を行った。 鶴野伸子氏の『神の木偶ー曽野綾子の魂の世界』(主婦の友社)によれば、沖縄での曽野氏は、時に『三十九度の熱』に悩みながらも、『一日三人の割り』でインタビューを続けた。 こうして集められた証言は200人近くにものぼった。 それらを綿密に再構成した曽野氏の連載は、『週刊現代』1969年4月3日号から、7月31日号まで掲載され、翌70年の3月に講談社から単行本として刊行された。

曽野氏とは高等女学校以来の友人である鶴野伸子氏は、かつてこう書いた。 「曽野氏は泣かない女(ひと)である。 30年にもなる長い付き合いの間、私は彼女の涙を1度も見ずに過ごしてきた。 
だがその『泣かないはず』の曽野氏も、『生贄の島』の執筆では、涙をこらえることが出来なかった。 鶴野氏は書いている。
『(沖縄戦の証言の)資料が整理されて徐々に綾子のところに集まってくると、あまりの過酷さに、綾子は声を上げて泣いたという(『神の木偶』)。
たしかにこれは、読む側にとっても、とても平静には読み進めることができないおそるべき本である。 人々が追いつめられた状況のあまりの悲惨、あまりの苦痛、災禍のあまりの巨大さに圧倒され、私たちは何度となくページを閉じたくなる。  本文にある通り、曽野氏自身、執筆の中で『怒りに脅え』、『眼は泪で霞んで(証言資料の)頁が読みにくくなる』日々を過ごした。 しかし、そのたびに氏に書き続ける勇気をふるいおこさせたのは、この大きな苦難に直面し、しかしその経験を語ることの少ない人々にとって自分はせめて『ひとりの語部(かたりべ)』であらねばならないという思いであったろう。』(曽野綾子選集(読売新聞刊)の解説より抜粋)

                     ◇

曽野綾子の沖縄戦ドキュメンタリーというと、渡嘉敷島の「集団自決」を取材した『ある神話の背景』(『「集団自決の」真実』と改題)が話題になるが著者の作品に注いだ情熱、感情的入れ込みの量を計測できるとしたらおそらく『生贄の島』に使ったエネルギー量は『ある神話の背景の』のそれの数倍も上回ると想像できる。

何しろ「泪を見せたことの無い女」が39度の熱をものともせず集まり来る証言のあまりの過酷さに」嗚咽しながら原稿を書いたというから、氏の『生贄の島』発刊への並々なる使命感は読むものに迫力となって伝わってくる。

一方、『ある神話の背景』の執筆動機は極めて野次馬的なもので、『生贄の島』連載の後に刊行された大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んで、登場する赤松隊長のあまりにも酷い悪党ぶりに「世の中にこのような絵に描いたような悪人が実在する事実」(要旨)を知り、そんな人物に実際会って見たいという「作家的好奇心」が執筆の動機だという。

事実、この二つの沖縄戦ドキュメント発刊の間に曽野氏は慶良間島と想定できる沖縄のある島を舞台に「集団自決」をテーマにした純然たる小説を書いている。

『切りとられた時間』 昭和46年9月 中央公論社

筆者が最初に読んだ曽野氏の沖縄戦記は『生贄の島』であるが、発刊当時の沖縄では沖縄戦記といえば『鉄の暴風』がバイブルのように読まれており、「沖縄がこれだけ悲惨な目にあっているのに、本土の知識人は見てみぬ振りしていえる」といった風潮が蔓延していた。

他の沖縄戦記もほとんどが地元の著者の出版であり、そんな矢先、

当時既に有名作家だった曽野綾子氏が『生贄の島』を発刊したことは当時の沖縄にとっては歓迎すべきことだった。

『生贄の島』で情熱を使い果たした感のある曽野氏が、これで沖縄戦記は打ち止めにしていたら、曽野氏は「沖縄戦史の証言を掘り起こしてくれた恩人」として沖縄でも人気のある作家であった可能性もある。

ところが「作家的好奇心」で調査、出版した『ある神話の背景が』が触れてはならない「不都合な真実」に触れた瞬間、曽野氏は沖縄マスコミによって「沖縄の敵」にされてしまう。

特に『鉄の暴風』を発刊した沖縄タイムスは著者の杜撰な記述を指摘されて曽野氏を不倶戴天の敵として扱うようになる。

かくして、沖縄に情熱を傾け「沖縄病候補者」だった曽野氏は沖縄マスコミに洗脳された沖縄人により激しいバッシングを受けるようになり、「剃刀の刃を郵送さられた」事もあったという。

ネット時代になっても曽野氏へ沖縄人よりの罵倒は続いており、「曽野氏を心から憎む」といった理屈を超えた怨念に取り付かれたようなコメントも飛び交う有様である。

ちなみに曽野氏が『沖縄ノート』の引用を誤記・誤読したという神話が今でもまことしやかにネット上を流布しているが、まことにもって失笑ものである。

これは「論議」の問題ではなく「確認」の問題であり、確認という初歩的手続きを怠った琉球新報が,「売れない評論家」の「曽野綾子誤記論」に飛びついて三回に渡り連載記事を掲載して大恥を晒した経緯は過去に当日記でも触れた。

琉球新報の大失態!幻の「曽野綾子誤字・誤読事件」

某評論家は評論の続編掲載を琉球新報に内諾を得たのか、自ブログで長い間掲載予告をしていたが、ついに以後琉球新報に同氏の評論を見る事はなかった。 勿論、現在では(琉球新報掲載の)「予告」も削除されている。

琉球新報も目が覚めたのか、それとも遅ればせながら「事実確認」をしたのだろうか(嘲笑)。

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生贄の島―沖縄女生徒の記録 (文春文庫)
曽野 綾子
文芸春秋

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