狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

表現侵害か教育配慮か

2009-04-15 18:22:14 | ★米兵事件

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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沖縄タイムス 2009年04月15日 社会 

表現侵害か教育配慮か 県立美術館・非展示/識者「県民に理由説明を」【04月15日】
 県立博物館・美術館で開催中の「アトミックサンシャインin沖縄 日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(主催・文化の杜共同企業体、同館)の展示から、県や主催者が、昭和天皇をモチーフにした作品を非展示としたことが県内外で波紋を広げている。「表現の自由の侵害」との批判のほか、「沖縄で展示する意味を理解してほしい」など美術関係者から懸念の声が出ている。一方、同館の牧野浩隆館長は「作家の表現の自由を否定するものではなく、教育的な配慮だ」としている。

 「美術は誰かが代用できるものではない。制限を加えないでほしい」と語るのは同展示会の出品者の一人で県出身のアーティスト照屋勇賢さん。今回は「私のひいお婆ちゃん、名前はウサ」と題した空間展示を出品。生活者を意識して憲法9条を考えたという。「作家は自分の切り口から表現を最大限に生かす。作家や企画者を行政はもっと信頼すべきだ」と語った。

 同じく出品した画家の真喜志勉さんは「天皇モチーフの作品展示により、右翼の街宣行動を恐れて非展示にしたようだ」とし、「かつて日教組の会場使用を拒否した東京のホテルと同じ。表現の自由を守る、という公立美術館の機能を果たしていない」と憤った。

 一方、別の美術関係者は「一部の作品が拒否されるなら企画者は開催そのものに同意せず闘うべきだった。いったん合意したのに問題視するのではかえって表現行為を狭めかねない」とした。

 県の美術行政のあり方を疑問視するのは熊本市現代美術館の前館長・南嶌宏女子美術大学教授。「非展示の理由を県民につまびらかにする必要がある」と話す。県立美術館の運営には税金が投入されている。「館で展示する作品は選定から展示まで公開が原則。密室で決め『総合的な判断』では説明責任を果たしたことにはならない」と批判した。

牧野浩隆氏(県立博物館・美術館長)
県立の趣旨に合わず

 ―作品を外した理由。

 「県立美術館は教育行政の一環。公明正大さが要求され、総合的に判断してふさわしくないと思った。教育的配慮だ」

 ―総合的な判断、教育的配慮の内容を具体的に。

 「言えない。主催者が展示のあり方を選択するのは当然。館と文化の杜との協議の結果ふさわしくないと思い、県教育庁に判断をあおいだ。また館長が独自で判断するケースもある

 ―基準は。

 「県、美術館、文化の杜が総合的に判断する。個別の理由を言う必要はない」

 ―展示会の責任者が納得していない。

 「事前に合意を得ている。合意できなければ展示会の開催を取りやめることもできたはずだ」

 ―表現の自由への介入では。

 「県立の趣旨に合わないということで、表現を否定したものではない」

大浦信行氏(美術家・映画監督)
行政権力からの検閲

 ―今回、作品が展示されなかったことについてどう感じたか。

 「表現の自由に対する挑戦、行政権力からの検閲。この2点に尽きる。二十数年前の富山県立近代美術館でのこととまさに同じ図式、というのが正直な感想だ。表現の中での『天皇タブー』が、戦後もずっと続いている。戦前と何も変わってはなく、日本人の中には天皇制に対する忌まわしい記憶が永遠にあると感じた」

 ―主催者側に対して。

 「沖縄は複雑な問題を抱えている場所。その沖縄でアートを通して表現することの意味を、文化行政のトップは考えてないように感じる。沖縄で憲法9条をテーマにした同展を開催することは、沖縄の現在進行形の問題とつながっていく。単純に前例(富山県立近代美術館)のことだけ取り上げるのではなく、沖縄で展示することの意味まで含めて考えてほしい」

                     ◇

表現の自由に対する挑戦、行政権力からの検閲。この2点に尽きる。二十数年前の富山県立近代美術館でのこととまさに同じ図式、というのが正直な感想だ。

だとしたら沖縄県立美術館を「表現の自由に対する挑戦」「行政権力の検閲」で訴えたらどうだ。

富山県立近代美術館の訴訟の場合は大浦信行側が、最高裁までもつれ込んだ結果全面敗訴しているではないか。

それとも最高裁の判例を無視しても、「ウチナーンビケーン」(沖縄は特別)とゴリ押しを通すつもりなのか。

沖縄は判例も及ばぬ無法地帯とでもいうのか。

護憲派というなら天皇が国民の象徴であることに異論はなかろう。

にもかかわらず国民の象徴を確信犯的に愚弄するのが沖縄だけでは許されるとでも言うのか。

だったら憲法を廃棄せよ。

 

沖縄タイムス社が特殊な思想の新聞社であることは、つとに知れわたった事実であるが、その子会社である沖縄文化の杜が主催する展示会も特殊な思想を普及する美術展と見るのが普通だろう。

「沖縄文化の杜」

美術展と名を騙って県立美術館を利用するから「教育的配慮」が必要になるのであり、

堂々と「憲法九条普及講演会」でも開催すれば思想・信条の自由で特殊な思想の人が集まるわけだから何の問題もない。

当然「教育的配慮」も必要なかったはずはず。

美術展と称するするから学校の団体見学もあったりして、「教育的配慮」が必要になるわけだ。

ゴルフのマスターズで日本の片山 晋呉は日の丸を背負って4位に入賞したし、侍ジャパンも日の丸を背負って世界一になり国民の感動を誘った。

君が代だってそうだ。

大相撲の千秋楽では全員起立して君が代斉唱するし、各種スポーツの国際試合で君が代を歌うのは恒例だし、先日の高校野球の選抜大会では女子高生が君が代を独唱した。

今時、日の丸や君が代そして天皇陛下に嫌悪感を示す人物は特殊な思想の持ち主と思うが、

そんな特殊な方々が教育関連行事に介入するのは迷惑な話。

牧野館長よ、断固拒否を貫いて欲しい。


 

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天皇を愚弄する美術展ー「天皇モチーフ作品」外す 沖縄県立美術館の快挙!

2009-04-15 08:00:23 | 未分類

 

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沖縄タイムス 2009年04月14日 社会 

天皇題材の作品外す 県立美術館「九条」展【社会】

開催前 館長ら要望/識者問題視「表現を制限」


 県立博物館・美術館(牧野浩隆館長)で開催中の「アトミックサンシャインの中へin沖縄 日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(主催・文化の杜共同企業体、同館)の展示から同館などの事前の要望で、昭和天皇をモチーフにした作品が外されていることがわかった。識者からは「公権力が、表現の自由を制限することになる」と問題視する声が上がっている。

 これまで米ニューヨークや東京でも開かれた「アトミックサンシャイン」展は昭和天皇の写真をコラージュにしたアーティストの大浦信行さんの作品が含まれていた。関係者によると、2008年11月ごろから、企画したインディペンデント・キュレーター(フリー学芸員)の渡辺真也さんと同館を運営する文化の杜が交渉していた。しかし大浦さんの作品について、同館や県教育委員会が問題視、2月上旬、最終的に作品を外した内容で開催に合意した。

 牧野館長は、「(大浦作品は)県立美術館で、県の予算を使って展示するのは、総合的にみて、ふさわしくないと判断した。事前に交渉しており、先方が合意したから開催することになった。検閲ではない」と説明。判断基準は「総合的としか言えない」とした。牧野館長と協議し、決定した県教育委員会の金武正八郎教育長は「教育的観点から配慮をお願いした」とだけ述べた。

 渡辺さんは「県が、固執するなら開催は認められないとしたため、やむなく出品を取りやめた。本意ではなかった」と説明した。作者の大浦さんは「日本全体が天皇表現に関してタブー視するようになったという体質そのものが大きな問題だ」と渡辺さんを通じてコメントを寄せた。

人々の鑑賞機会奪う

 奥平康弘東大名誉教授(憲法) 専門家が展示すべきだと判断したものを、芸術に詳しくない公権力者が政治的判断で公開しなかったとすれば、表現の自由の重大な侵害だ。美術館側は事前交渉の段階だったため問題ないと主張するかもしれないが、問題が表面化する前に人々の鑑賞の機会を奪った点でむしろ悪質ともいえる。美術館が「裁量」の名の下に成すべきことをしていないのではないか、しっかりチェックする必要がある。

写真展でも一部非展示
館長の判断で

 県立美術館で2月17日から開催中の「石川文洋写真展 戦争と人間」(主催・同館)でも作品の一部が「人間の尊厳や倫理にかかわる問題がある」との理由で非展示となっていることが13日、分かった。

 同写真展は報道カメラマンの石川文洋さんが、ベトナム戦争を撮影した50枚を展示。そのうち、米兵がバラバラの遺体を手にしてたたずむ作品「飛び散った体」が展示されなかった。本来同作品が展示されるはずだったスペースに「館長の判断により非展示」とする内容の張り紙が張られている。

 石川さんが非展示を知ったのは写真展初日。学芸員から「館長の意向で同作品は倫理上の観点から展示しないことになった」と電話連絡を受けたという。

 石川さんは「公開した50枚は戦争の残酷さを表現している。戦争は人間の尊厳が破壊される行為であり、非展示になった作品もその一つ」と疑問視する。県には非展示の理由を文書にしてほしいと申し入れた。現在までに返答はない。

 非展示となった作品を含む同写真展は、過去にも沖縄市役所ロビーや読谷村立の文化ホールなどで開催されたが、問題はなかった。

                                            ◇

「天皇モチーフ作品」外す 憲法9条企...(2009.4.14) カメラ

大浦信行さんの作品「遠近を抱えて」から

 県立博物館・美術館で開催中の憲法9条を主題とした展覧会で、昭和天皇の写真を用いた作品が、県教育委員会や県立博物館・美術館などから「教育的観点から配慮してほしい」と要請され、展示されなかったことが13日、分かった。同作品を制作した作家は「表現の自由を否定するもの」と批判。同館は「公正中立なものを扱うなどの観点から、適切でないと判断した」と話している。
 展示されなかったのは、大浦信行さん(神奈川県)が自画像として昭和天皇の写真やキノコ雲、女体などをコラージュした連作版画作品「遠近を抱えて」14点。展覧会は昨年1月に米ニューヨーク、同年8月に東京で開催し、今月11日から「アトミックサンシャインの中へin沖縄-日本国平和憲法第9条下における戦後美術」(文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館主催)として始まった。
 同展を企画した外部キュレーターの渡辺真也さんによると、1月末に主催者側から大浦さんの作品を取り下げてほしいと言われ、協議を重ねた結果、2月末に同作品の出品を取りやめることで開催合意に至ったという。
 同館の牧野浩隆館長は「作家の自由な活動を否定する立場にはないが、沖縄の教育施設であり、公正中立なものを扱うなどの観点から総合的に見て(展示は)適切でないと判断した」と説明。金武正八郎県教育長は「(主催者側には)教育的観点から配慮をお願いした」と述べ、具体的な理由については言及しなかった。
 同作品は1986年に富山県立近代美術館で展示され、県議会議員や右翼から批判を受けた美術館が作品を非公開にし、後に売却、図録470冊を焼却処分したことでも知られる。
 今回の件について大浦さんは「展示前だったとはいえ、富山県と同様、表現の自由の否定だ。米軍基地が集中するなど戦後日本の縮図である沖縄で起きたことが問題だ」と話している。
 同館の指定管理者である文化の杜共同企業体は「わたしたちは展示のスポンサーであり、美術館に沿った展示を求めるのは当然。契約以前の交渉段階の話であり、渡辺さん自身の判断で大浦さんの作品を外しただけだ」とコメントしている。

                    ◇
 

>公権力者が政治的判断で公開しなかったとすれば、表現の自由の重大な侵害だ

今朝の沖縄タイムスは社会面トップを、「表現侵害か教育配慮か」と大見出しで飾り、牧野浩氏(県立博物館・美術館長)と大浦信行(美術家・映画監督)を対立させ、記者がインタビューしている。 

例によって沖縄紙のウェブ記事更新は午前10時過ぎなので、詳細は更新後に譲るとして、

沖縄といえば「お約束」の「大文字言葉」が県民の総意であるかのように印象付られている読者には、

牧野館長や、同じ意見の金武教育長の正論に戸惑いを隠せないようだ。

「大文字言葉」とは今沖縄でベストセラーの佐野眞一著『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』の引用で、沖縄のマスコミや数多くの沖縄本に書かれている大江健三郎氏や筑紫哲也氏に代表される「お約束」の「沖縄の良心」を知ったかぶりにいう言葉のこと。

佐野氏が皮肉なタッチで指摘する大江、筑紫両氏のような本土識者の他にも沖縄紙のトップを飾る沖縄識者の「大文字言葉」である。

だが、佐野氏が著書の主題にした生の沖縄を語る「小文字言葉」の好例を牧野館長や金武教育長が示してくれた。

 

そもそも美術とか芸術を自称すれば何をやっても表現の自由という「識者」が可笑しいし、仮に百歩譲って美術と認めたとしても個人的に一切の反論も弁明も出来ない人物を公に愚弄するものが表現の自由といえるはずもない。

そのように表現の自由を大上段に構えるのなら、お笑いの北野誠氏が「何か」を発言し、業界から追放された事件をマスコミが一斉に沈黙で追認している件を糾弾してみたらどうだ。

相手の報復が怖くて「表現の自由」棚上げするくせに、既に物故され仮にご存命でも反論を許されないお方を愚弄しておいて何が「表現の自由」だ。

で、問題の大浦信行氏とはいかなる人物か。 

普通の美術家が今回たまたま天皇陛下を自作のモチーフに使ったというわけではなくい。

これまでも陛下を愚弄する多くの作品で問題を起こし、訴訟沙汰まで至った確信犯である。

県民の税金で運営する美術館をこのような特殊な思想の持ち主に蹂躙させてはならない。

教育長のいう「教育的配慮」から絶対許してはいけないことである。

美術展の主催は九条関係の左翼団代のようだが、一旦これを許可してしまったら、県立美術館も県立平和祈念資料館のような「反日の巣窟」に変わり果ててしまう。

ちなみに富山県で起きた大浦信行氏の天皇侮辱画の訴訟騒動は最高裁までもつれ込んだが、結局大浦氏の全面敗訴に終わっている。

 富山県立近代美術館事件Toyama Modern Art Museum Affair

富山県立近代美術館にて開催された「86富山の美術」展に端を発する事件。同展の出品作家大浦信行の版画連作「遠近を抱えて」をめぐる事件であることから「大浦コラージュ事件」とも呼ばれる。同展は平穏無事に終了したが、会期終了後しばらくして、県議会で美術館の大浦作品購入に対する不満の声が挙がった。この横槍は、大浦作品が昭和天皇の肖像をコラージュに用いていたことに起因し、美術館側は結局議会の圧力に屈したかたちで作品の公開を中止、さらに1993年には作品の売却(買い手は非公表)と展覧会カタログの消却にまで発展、この事態に憤慨した大浦とその支援者は「表現の自由」「鑑賞する権利」を主張して県と美術館を相手取り訴訟へと及んだ。富山地裁にて下された第一審判決は、「表現の自由」を侵されたとする原告の主張を退ける一方で、被告にも支援者の「鑑賞する権利」を侵害した責任を問う判断を下したが、金沢高裁での第二審ではこの判断が取り消され、最高裁でも上告が棄却、大浦側の敗訴が確定した。

                   ◇

今後沖縄紙は「表現の自由」を旗印に牧野館長や金武教育長の糾弾キャンペーンを張るだろうが、

これを拱手傍観しているとまたぞろ「11万人」集会のように沖縄中を「大文字言葉」が跋扈し、

新聞が捏造する幻の「民意」に美術館側が押しつぶされることも考えられる。

牧野浩隆館長と金武沖縄県教育長に声援のメールファックスを送りましょう。

 

沖縄県立博物館・美術館

◆沖縄県教育委員会⇒県立学校教育課  電話098-866-2715 / ファクス 098-866-2718

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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沖縄戦の女装の少年ー最終章

2009-04-14 06:38:03 | オカッパの少年

 

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■失明は「援護法」の適用除外?■

大城氏が日本兵に受けた障害と「援護法」に関する証言を以下に紹介する。  

<戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。沖縄戦から48年後の1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れた。その2年前に戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづく障害年金の適用を厚生省へ申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。
「日本兵の暴行による障害は援護法の対象にならない」
席上、援護課長は従来からの見解をくり返した。援護法の対象は基本的に軍人・軍属・準軍属などの「戦闘参加者」に限られ、原爆や空襲などの「一般戦災」は除外されている。 しかし全島戦場と化した、「壕の提供」や伊江島・座間味・渡嘉敷の「集団自決」者なども「戦闘参加者」として援護法が適用されたのだ。
「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」
こういって大城さんは怒る。
「提訴したいが日数がかかるのであきらめました。もっと若ければ…。戦後補償は沖縄だけの問題ではない。日本が侵略したアジアの被害者に、まず補償しなければ。これからも、そんな実情を訴えていきます」>(『『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

 ■「援護法」の概略■

「軍命の有無」が争われている沖縄の集団自決論争で、「軍令であった」としたのは、「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)による遺族年金の受給をするための方便だったと当時の琉球政府職員が証言し、その証言は裁判の証拠として法廷に提出されている。

そもそも「援護法」とは、軍人が負傷、または疾病した場合、恩給法の規定に基づき軍人に恩給を支給する法律であり、支給対象は軍人とその遺族に限られる。

だが沖縄戦の場合、悲惨な地上戦で住民が塗炭の苦しみを経験した事情に鑑み、政府は政令を発布することにより、その適用範囲を拡大して民間人も準軍属として支給対象にした。

軍が関与した民間人への適用範囲も漸次拡大し、軍の命令、関与が理解できるとは思えない6歳未満の幼児にも適用、更に再度の政令改正により遂には0歳児にも適用対象の範囲を広げた。
 
つまり、軍の関与で親兄弟や知人に殺害されたり、傷を負った住民は、0歳児に至るまで「援護法」の対象になったのである。

援護を受けるには、申立人(遺族)と死亡または負傷の証言をしてくれる住民の証言を記した現認証明書があればよい。

実際、日本兵に壕を追い出されたり、食料を強奪された場合でも、「壕提供」や「食料提供」という名目の現認証明書を知人らに書いてもらい、「援護法」の適用となったのである。

従って大城少年が日本兵に食料を強奪され壕を追われたことも、現認証明書さえあれば「援護法」の対象になるはずだ。

政府は「援護法」の沖縄住民への適用には比較的寛大で、沖縄では「戦前から目の悪かった者が戦後援護法の適用を受けている」といった話は良く聞く公然の秘密である。

壕での食料強奪の際の暴行による失明なら現認証明書さえあれば「援護法」に適用されて、なんら不思議でない。

ところが大城氏が「援護法」による障害年金の適用を厚生省に申請したのは戦後半世紀も経ってからあり、

厚生省はこれを却下している。

1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れているが、何故その時に膨大な数の署名に代わり、たった一枚の現認証明書を準備できなかったのか。
 
暴行を受けたとき近くにいた(と思われる)住民の証明があれば済むことだ。しかも援護課は現認証明書に関しては比較的大目に見ていたではないか。

大城氏は「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」と怒りを露わにしているが、「日本軍の命令」により命を絶たれた子供が補償されていることを考えれば、大城氏の受けた障害が補償されなかったのは他に理由があったのではないのか。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

「援護法」申請者に対して、厚生省は今から考えると随分大雑把な審査で、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けたという。

また東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美)

■戦後46年経ってから「援護法」を申請■

大城氏の「援護法」の適用に関し、ここで二つの疑問が生じてくる。
 
第一の疑問は、大城氏は1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知ったというが、その時は既に終戦後32年も経過しており大城氏のような重篤な障害者にしては知った時期があまりにも遅すぎる。

戦後大阪に在住した時期があり、そのため知るのが遅かったとも考えられるが、大阪とはいえ大城氏が住んでいた大正区は沖縄出身者が多く住み、沖縄人の情報ネットワークが濃密なことで知られた地域。 

大城氏は日本兵の暴行による右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず苦労したというのが事実なら、何故自ら障害の補償に関する情報を求めなかったのか。 

大城氏の場合は歩行障害と失明という他人が容易に識別出来る障害なので、仮に自ら情報を求めなくても、大阪の濃密な沖縄人コミュニティーの知人縁者や、沖縄の親戚から「援護法」の情報を知らされていてもおかしくはないはずだ。 

重い身体的ハンディを抱えながら、何故、戦後半世紀も経過するまで「援護法」適用の申請をしなかったのか。 百歩譲ったとしても申請のための情報を得る努力をしなかったのか。

もっと不可解なのは、大城氏が「援護法」の適用を申請したのは、「援護法」の存在を知った年(1977年)から遅れること更に14年も経過した1991年になってからという事実である。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)) 

したがって大城氏が実際に申請したのは、戦後というより沖縄が返還されてから既に19年も経過してからである。

このような仕事にも影響のある重大な障害を抱えながら、「援護法」の申請を長期にわたり放置していた理由は一体何であったのか。

■得られなかった現認証明書■

次の疑問は、大城氏は、「援護法」申請のために2815人の署名を持って厚生省を訪れているが、申請手続きには一枚の現認証明書があれば済むことであり、大人数の署名など必要ないはずだ。

「援護法」の申請手続きに必要なたった一枚の現認証明書が得られないので、本土各地で行った千回以上の講演会で得た署名で現認証明書に替えようとしたのではないか。
   
署名を持って大城氏は日本兵の暴行による失明を「援護法」にもとづく障害年金の適用を求めて申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。

■故郷沖縄で講演を避けたその訳は■

沖縄は「平和教育」の盛んな地域であり、講演会やその他の手段で日本軍の住民に対する残虐行為がことさら誇張されてきた。

その意味ではオカッパ頭で女装した少年が日本兵の暴行で失明し、手足に不自由をきたす障害を受けたのなら、こんな絶好の「平和教育」の題材はないはず。

だが、大城氏はまるで故郷沖縄での講演を避けるように、主に本土で講演会を行っている。

一方地元沖縄では一冊の出版物もなく、引退前の故郷での講演会も那覇市などの沖縄本島ではなく、石垣島だけの一回限りだということに疑念は更に深まる。

大城氏も地元新聞も一体何を恐れているのか。

まるで大城氏は何か写真の「少女」と現在の自分の関係で知られたくない秘密を持っており、そのため故郷での講演会や自伝等の出版物を避けているのではないのか。

■「悪逆非道の日本兵」ではなく「残酷な戦争」■

昨年の沖縄戦慰霊の日の6月23日、朝日新聞が大城氏の記事を一面トップで報じた。

見出しはこうだ。

63年目 沖縄慰霊の碑

「残酷なのは戦争」

75歳語り部 来年引退

そして記事には次のような記述がある。

<沖縄住民は「我々が皆さんを守る」という日本軍に住まいや食料を提供し、道路や陣地作りに動員され、最後は米軍の砲弾から逃げ惑った。日本兵は、壕から出るには住民を先に立てて“盾”にした。大城さんの実母もスパイと疑われて殺された。
でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」>

ここにある大城氏のコメントは果たして大城氏の本心なのだろうか。

「残酷なのは戦争」という見出しを見た瞬間、係争中の裁判で行われた論点のすり替えが脳裏を過ぎった。

「集団自決訴訟」で、当初は慶良間島の両戦隊長が「自決命令を下したかどうか」が争点だと思われたが、両隊長の「命令又は強制」の存在が証明されないと分かると、

被告側は一転して戦隊長個人の問題から日本軍全体の責任に論点を摩り替えた。

大城氏の受けた日本兵による暴行に対する憎悪は朝日記事では急にトーンダウンしているが、人間はそんなに寛大になれるものだろうか。

友軍のはずの日本兵に壕を追われ、食料を強奪され、更に失明と歩行障害を患うほどの暴行を受けているのだ。

それだけではない。 

大城氏の母親は身に覚えのないスパイ容疑で日本軍に斬殺されたという。

大城氏が日本軍から受けたこのような理不尽な仕打ちに対して、せめて戦後の日本政府が「援護法」等の適用で報いてでもおればともかく、それさえも非情に却下されているではないか。

大城氏は、日本軍に対して恨み骨髄に達したとしても不思議だとはいえまい。

朝日記事には「でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」との大城氏の言葉を伝えているが、

大城氏は長年の日本軍に対する恨み辛みを朝日新聞のインタビューで一瞬にして忘れ去ってしまったのか。

「集団自決訴訟」の例と同じように、大城氏の場合も「事実として証明できないもの」の存在で、

やむを得ず恨みのターゲットを「悪逆非道の日本兵」から「残酷な戦争」にすり替えたのではないのか。

いや、論理は「集団自決訴訟」の場合より更に大幅にすり替わっているではないか。

恨みの対象は「日本兵」から「日本軍」を飛び越えて「戦争」へと拡散している。

そしてそれに伴う論理のすり替えは、大城氏が被害を被った「沖縄戦」から、更にベトナム戦争、イラク戦争と「戦争一般」にすり替わっているではないか。

大城氏は寛容にも、自分を失明させ足を骨折させ実母を斬殺した日本兵の残酷さを許し、戦争そのものの残酷さを訴えているのだろうか。 

■「うつろな目の少女」の真相を■

果たして「うつろな目の少女」は、間違いなく大城盛俊氏その人なのか。

それにしては、あまりに当人の語った戦時中の証言に致命的とも言える矛盾が存在する。

これまでに全国で1230回を超える講演を行い、数十万の日本人に語りかけ、今年、その講演活動にピリオドを打つという大城氏には、「沖縄戦の語り部」として、「うつろな目の少女」にまつわる真相を語る責任がある。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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テレ朝系「琉球朝日」がわい曲報道

2009-04-13 07:29:36 | ★集団自決

 


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集団自決訴訟の最高裁判決を前にして、沖縄二紙は嵐の前の静けさのようだ。

この数ヶ月関連記事はほとんど見当たらない。

だが関連本の紹介という隠れた形で「悪逆非道の日本軍」を訴え、水面下の情報戦は激しく行われている。

琉球新報はこんな本を紹介しているが、推薦者が宮城晴美氏と知るだけで内容は推して知るべしだが、参考まで紹介しておく。

証言 沖縄戦の日本兵(2009.4.5)

 本書は、かつて沖縄に駐留した元日本軍兵士の視点から沖縄戦の実相をつづったドキュメントだ。「戦記」ではなく、対住民感情を軍の論理で赤裸々につづった元兵士による証言記録は、わずかの「個人手記(証言)」を除き先例がなかったように思う。とりわけ、沖縄転戦前の中国戦線における元兵士たちの体験証言は、住民を「集団自決」に追い込んだ日本軍の構造的な暴力性を露呈させ、日本軍駐屯と「集団自決」の不可分なつながりを裏付けたものとなった。
 「『チャンコロ(中国人の蔑称(べっしょう))は人間じゃない』と上官や先輩から叩き込まれ」、初年兵は中国人捕虜に「度胸試し」として“刺突訓練”を強要された。さらに「おなごを見たら、もう最後。強姦(ごうかん)してしまう。(強姦した回数は)二度や三度ではきかない」。高い慰安婦を買うより強姦はただ(無料)だから、とも言った。「人を殺すよりも先輩のいじめの方が怖かった」という証言があるように、上官から下級兵士へもたらされた暴力は、下級兵士から中国人へと連鎖し、その延長線上に沖縄転戦があった。
 「日本人は偉く、強く、美しい国民」。「沖縄の住民を戦闘に巻き込み死なせても、何とも思わなかった」「沖縄の人間はチャンコロ系統という差別意識」が沖縄人に「集団自決」を強い、スパイ嫌疑による住民虐殺や食料の強奪、壕(ごう)の追い出しへと連なった。著者が接触した元兵士のうち、約半数が「重い口」を開いたといい、登場する元日本兵21人の証言からは、沖縄人に対する「懺悔(ざんげ)」の念が伝わってくる。
 しかし要は、元兵士たちの“戦後の生き方”だろう。沖縄戦の惨劇と向き合いつつ、その実相を後世に語りつぐことを決意した元兵士がいる一方で「よその国でも住民は犠牲になった。戦争とはそういうもの。沖縄戦だけこれだけ騒がれるのは……」と、いぶかしがる元兵士がいることも事実だからだ。いずれにせよ、全国を回って元兵士たちを探し出し、“加害”という「負の記憶」を語らせるとともに、写真でその苦悩の表情をとらえて証言に重みを増した著者の労作に敬意を表したい。
(宮城晴美・沖縄女性史家)

                ◇

こんな本も出版されたようで、沖縄の書店の沖縄戦コーナーは「軍命派」の出版物で花盛り。

これでは「鉄の暴風」の次は「紙の暴風」といわれても仕方がない。↓

沖縄戦「集団自決」を生きる 』(森住卓 高文研)

新聞が静かなときはテレビが騒ぎ出すようで、中山成彬議員により、わい曲番組を報道したとして3月3に告発を受けた沖縄のローカルテレビ「QAB琉球朝日放送」が懲りもせずに、またしても捏造番組を報道してくれた。

以下HPからの転載です。

2009年4月8日 18時28分

Qリポート 集団死の島で執筆者が見たものは

Qリポート 集団死の島で執筆者が見たものは

沖縄戦のさなかに起きた集団自決の記述を巡って、おととし県民の怒りの声が上がった教科書検定問題。この問題ではこれまでほとんど表に出ることがなかった教科書執筆者たちの存在も注目されました。執筆者たちの多くが文部科学省を相手に抗議の声を上げましたが、中でも先頭に立って訴えたのが現役の高校教師で執筆者の坂本昇さんです。今回は坂本さんにとって初めてとなった渡嘉敷、座間味の旅に同行しました。

沖縄戦の最中、渡嘉敷島で集団自決が発生してから64年目となった先月28日。島の慰霊碑を訪ねた男性がいました。坂本昇さん、教科書の執筆者です。

坂本昇さん「きょうは改まった気持ち。追悼の思いと体験者や周辺にいた方の発言を大事にしたいと思います」

Qリポート 集団死の島で執筆者が見たものは

坂本さんは都立高校の教師をしながら、15年以上教科書の執筆をしています。坂本さんが手がけた教科書、限られたスペースの中で沖縄戦の記述についても様々な工夫が見られます。なかでも特にこだわっているのが集団自決の記述。住民たちが日本軍から手榴弾を渡され、捕虜になりそうになったら自決するよう促されていたこと、そんな状況で母親と兄弟に手をかけてしまったという体験者の証言をそのまま載せています。

坂本さん「この資料が語る集団自決といわれるものの本質は、生徒の心に届かないはずはありません。毎年毎年、この資料をもう少し膨らませて授業に使っておりますが、授業中にすすり泣く声が聞こえます」

家族に手をかけなくてはならないほど追い込まれた人々の悲しみを汲みとってほしい、戦争の本質を知ってほしい。それが教師として、執筆者としての思いでした。しかし…

2006年度教科書検定「集団自決に日本軍の強制があった」という表現を削除

Qリポート 集団死の島で執筆者が見たものは

文科省からの指示は根拠もなく、今まで書いてきたことを否定するものでした。以来、坂本さんは教科書会社とともに文科省に記述を元通りにするよう求めてきました。しかし受け入れられず、今年1月には一緒に声を上げてきた教科書会社も文科省に対し、これ以上この件では交渉しないと決めたのです。その結果、今年度の教科書では「日本軍の強制」の記述が削除されたままとなりました。

坂本さん「(教科書)会社及び背後にいて出版社を左右していると思われる文科省に強い抗議の思いを持って」

そんな中で計画した今回の旅。踏み切ったのは自分の目で現場を見て、よりリアルに沖縄戦を伝えたいという思いからでした。集団自決が起きた防空壕では地元のガイドから自決を図った校長夫婦の最期の場面を聞き、熱いものがこみ上げたようでした。

「(最期のとき)校長先生は奥さんに『今までついてきてくれてありがとう』と感謝を言えば、奥さんも『お父さん本当にお疲れ様』ということで」

坂本さん「改めて、犠牲になった人の辛さに思いを馳せたら涙腺がゆるくなって。犠牲者や遺族の方たちの思いに少しでも近づきたい、辛い思いを歴史の教員として受け止めて、子どもたちに伝えていけるような自分になりたいと思いました」

一方、教科書検定問題が思いがけず光をもたらした面もあります。戦争体験者の声を記録として残そうという動きが活発になったのです。1フィート運動の会が主催した映像試写会。集団自決の体験者の証言を綴った最新作が上映されました。また、体験者の話を丹念に聞き取った証言集の出版も相次いでいます。

琉球大学で平和教育を研究している山口剛史准教授は次のように話します。

Qリポート 集団死の島で執筆者が見たものは

山口剛史准教授「初めて証言をし始めた方がたくさんいる。そういう人たちの声を記録に残していくという運動が積みあがってきている。戦争とは何なのか、沖縄戦をどう教えるかという大きな枠で、もう一回教育を見直すきっかけになっている」

2日間の旅を終えた坂本さん、感想をこう語っています。

坂本さん「内容の充実した濃い体験でした。平和のために生き残った人は何をしなければならないのか、どういう事実を伝えていかなければならないのか、改めて考えさせられました」

坂本さんは今、次の検定に向けて教科書の構想を練っています。なぜ沖縄戦を教えるのか、それは戦争によって奪われた命を美化するのではない、命の大切さ、2度と戦争をしてはいけないことを教えるため、それが執筆者の思いです。

Qリポート 集団死の島で執筆者が見たものは

高校の教科書の記述の訂正申請は毎年できるのですが、出版する教科書会社がそれに消極的な状況ではどんなに執筆者たちが声をあげようとも事態を動かすことは困難と言えます。高校歴史教科書の次の検定は再来年の2011年。沖縄戦に関する記述が今度はどんな風に取り上げられるか、注目しなければなりません。また、いま、それぞれの教科書会社がどのように沖縄戦のことを書いているのかチェックすることも大切です。

                                             ◇

沖縄紙には頻繁に登場する教科書執筆者の坂本氏は沖縄では既に有名人であり、

「この問題ではこれまでほとんど表に出ることがなかった教科書執筆者」という表現は似つかわしくないが、番組ではまるで執筆者としての良心を文科省に踏みにじられた悲劇の主人公のように扱われていた。

それにしてもこのお方が集団自決の現地を訪問するのが今回初めてというのも驚きだ。

>文科省からの指示は根拠もなく、今まで書いてきたことを否定するものでした。

少なくともその「根拠」を巡って論争が行われ、訴訟まで至っているのに「根拠もなく」とは公共の電波を使ってよくもこのように偏ったことが言えるものだ。

番組を通じて反対の立場の意見は一言も述べられず「識者」としコメントをした山口剛史琉球大学准教授が被告側応援団の事務局長をしている事実を隠して放映していることは視聴者を愚弄する卑劣なやり方である。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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続・沖縄戦の女装の少年ー援護法適用は却下

2009-04-12 07:55:33 | オカッパの少年

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 今朝の沖縄タイムスは「米軍流れ弾事件」が消えて、「米兵交通事故」の特集ルポ記事を掲載。

 

「交通事故」も重要だが「米軍流れ弾」の方が深刻だと思うのだが・・・。

                    * 

             

 

その後大城氏が視力を失い歩行困難になる経緯が『沖縄戦を生きた子どもたち』(大田昌秀著 (株)クリエイティブ21 2007年)では、次のように記されている。

<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが、視力は二度と戻りませんでした。養父が二世の通訳兵を通して米軍の医者に訊いたところ、もはや眼は完治できないとの返事だったようです。しばらくして後頭部の傷もいくらか良くなったけれども、不自由になった右足の傷は完治せずに足を引きずって歩く始末でした。>

この記述が正しいとするならば、大城氏が右目の視力を失い、歩行障害を自覚したのは、戦後になってからではなく日本兵の暴行を受けたほぼ一か月直後のことになる。

さて、戦後の大城氏の居住地はめまぐるしく変わる。
 
1951年、大城氏は大阪にいた実父に呼び寄せられ大阪での生活を始めるのだが、1970年に、米軍の爆撃で戦死と聞かされていた実母が、実はスパイ容疑で日本軍に斬殺されていたと聞かされる。

沖縄が返還された3年後の1975年、大城氏は沖縄に戻り与那原町でクリーニング業を始める。

更に1991年、大城氏は沖縄の家を引き払って大阪の大正区に移転する。 
ところが1995年の阪神大震災で自宅が全壊する災難に遭い、以後兵庫県伊丹市に転居する。

■戦後32年して「援護法」の存在を知る■

その間、沖縄に戻った二年後の1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知る。

だが大城氏は「援護法」の存在を知って直ちにその適用を申請したわけではない。 

大城氏はそれから14年も経った1991年になって初めて自分が受けた障害の「援護法」適用を申請することになる。

だが、その時は「右眼の失明が沖縄戦で被った障害であることを誰か証明する人がいなければ受け付けることは出来ない」と門前払いを受けている。

大城氏が沖縄戦の講演会を始めたのは「援護法」適用を却下されたことが動機だというが、これが事実だとしたらこの頃から講演を始めたことになる。

<それ(却下)以後、大城さんは年金受給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。(『沖縄戦を生きた子どもたち』)>

申請を却下された直後の1991年から講演を始めたとしても、2007年の琉球新報の取材を受けた時点では講演は16年間続けたことになり、新報記事の「(講演は)23年で1120回を数える」という記述と矛盾が生じる。 

さらに『沖縄戦を生きた子どもたち』の別の記述によると、1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とあり、講演は新報取材の時まで20年間続けたことになる。 

大城氏の証言はこのように取材メディアによってまちまちで、同じ本の記述でも齟齬が多い。


<こうして、「沖縄の語り部」として大城さんの新しい人生が始まることになります。それ以後、大城さんは年金支給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。(『沖縄戦を生きた子どもたち』)>

1984年、大城氏は腎臓病で那覇の病院に入院中に、偶然に『これが沖縄だ』の表紙に掲載されているオカッパ頭の自分の写真に遭遇する。 

『沖縄戦を生きた子どもたち』の記述によると、その4年後の1988年に大城氏の講演活動は沖縄でスタートしたことになる。
 
■疑惑の「少女」■

琉球新報の記事を見て幾つかの疑念が暗雲のように胸中に湧くのを抑えられず、素朴な疑問を当時のブログに書いた。

その時の疑問を整理すると次のようになる。

①日本軍の残虐性を象徴するような、「少女」に暴行を加え失明までさせるという沖縄紙にとってオイシイ事件を、地元紙は何ゆえこれまで報じてこなかったのか。

②琉球新報は、このような悲劇の主人公とインタビューをしておきながら、何故大城氏に一回も沖縄で講演をさせず返しているのか。
 
大城氏が講演経験のない人ならともかく、彼は沖縄以外の本土各県ではそれまで23年間に1120回の講演会をこなしており、鹿児島と北海道以外はすべての地域で講演したという。

単純計算をしても1週間に1、2回の割で講演会を続けたことになり、大城氏はまさに、講演のプロである。

日本軍の残虐性を訴えるのに「うつろな目の少女」の主人公の講演会ほど好適な企画はなかったはずだ。

ちなみに2007年8月25日付琉球新報の記事では「(取材時まで)23年間講演をしてきた」となっているが、大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』によると大城氏が講演を開始したのは1988年からであり、新報の取材時には20年間講演を続けてきたことになる。
大城氏は他にも多くのメディアの取材を受けているが、「オカッパ頭にした理由」など重要な部分の多くの証言に矛盾が見られる。

③このドラマチックな記事が、何故この種の報道では常に先頭をきって大騒ぎする沖縄タイムスにはスルーされ、琉球新報の特ダネのように報じられたのか。(沖縄タイムスは新報より4日も遅れた8月29日になって初めて報道している。)

■新たな疑惑が浮上■  

 「うつろなめの少女」の写真と講演をする現在の大城氏の写真を並べて見て、更に新たな疑惑が湧いてきた。

確かに講演をする現在の大城氏の右目は写真で見ても失明の様子が伺える。

だが、63年前の「少女」はカメラ目線で、焦点もしっかりしていて、とても右目に失明を伴う重症を受けているとは見て取れない。

果たして米軍のカメラに撮られた「うつろな目の少女」は大城盛俊その人なのか。 

沖縄は出版の盛な県であり、特に沖縄戦に関する本は、専門の作家やジャーナリストもおれば、歴史研究と作家の二足のわらじを履く人もいるくらいで、話題性のある逸話は必ずといっていいほど自著か、そうでなければ学者や作家の筆により出版されるのが普通である。

例えば沖縄戦の写真で、もう一人の有名な「白旗の少女」は、地元ジャーナリストと版画作家により絵本になり、さらにそれを基にしてアニメ映画が作られているほど。

そして絵本には、白旗の少女を盾にした醜い日本兵がついて来たという意味の一文が加えられて、日本兵に対する憎悪を煽って「平和教育」の目玉になっている。

前述したように、「うつろな目の少女」は、ベストセラー写真集の表紙を飾り、日本軍の暴行で失明したというストーリーなど、「白旗の少女」以上のインパクトを持つる写真である。

しかし、不思議なことに本人の自著は勿論、普通ならこの種の証言に飛びついてきた沖縄のメディアも、「沖縄戦研究家」たちも、この「少女」をテーマに出版したという形跡が見当たらなかった。

そんな中、上羽修著『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』(株式会社草の根出版社発行1999年)が、大城氏に触れていることを知った。
 
著者の上羽氏は1996年から翌年にかけて約半年間沖縄に滞在して沖縄戦を取材し、その中で、大城さんの体験談を取り上げている。

同書には大城少年に関して次のような記述がある。

<1944年夏ごろ、大城さんが玉城国民学校5年生(12歳)のとき、「これまで見たこともない大きな軍艦が横付けされ、その中からトラックや戦車が吐き出されるのを見て、みんなびっくりしました」それから村は急にあわただしくなった。4年生以上の児童は陣地構築に動員され、石や土を運ばされた。もう授業どころではなかった。女性も部隊の炊事や洗濯をさせられた。兵舎を前もって建てずにやってきた日本軍は、学校や大きな家に兵隊を分宿させた。大城少年は村会議員のおじさん夫婦と三人で暮らしていたが、家が大きいので兵隊に座敷を提供して、三人は炊事場で寝起きした。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>

「うつろな目の少女」が米兵に撮影される一年前の1944年には、大城少年は玉城国民学校5年生(12歳)で、4年生以上は陣地構築にかり出され、女性も炊事洗濯させられていたという事実がこの記述で分かる。つまり写真を撮られた時、大城少年は13歳になっており、男の子なら戦地に引っぱりだされ伝令や道案内をさせられても当時は不自然ではなかったのだ。これは神戸新聞の「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」という記事とも符合する。 
更に同書で「少女」が日本兵の暴行を受ける場面が出てくる。少し長くなるが引用する。

■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■

<アメリカ軍が沖縄本島中部へ上陸すると、玉城村にいた日本軍はいったん首里のほうへ移動した。
「まもなく首里が攻められると、兵隊たちは自分の命を守るため一生懸命逃げ帰ってきました。鉄砲も持たない兵隊は持っていても杖がわりにした兵隊が村にきて、壕を探しはじめたんです」 
とうとう大城さんの壕へも5人ほどの兵隊がきた。
「ここは軍の陣地にするから民間人は出ろ」こう命令し、村びとをみんな追い出した。おじさんは炊事道具と着替えを、おばさんは味噌や塩などを、大城少年は米の入ったリュックサックを背負い、玉城城跡の南側にあった小さな自然壕へ移った。
6月に入って、この壕へも兵隊が5、6人あらわれた。
「なんだ、お前は男の子か」
兵隊は大城少年の顔を見て不信の声を上げた。
オカッパ頭だったからだ。中国戦線で日本軍の暴行を見てきたおじさんが、大城少年にも暴行をふるわないように女の子の格好をさせていたのだ。
「食べ物があったら、よこせ」  
兵隊は壕の中を引っ掻きまわした。大城少年はリュックを見つけられてはたいへんと、サッと引き寄せるところを見つかってしまった。 兵隊が引ったくろうとするのを必死にしがみついた。
「この野郎、殺したろか、沖縄人め!」

大城少年が殴られるのを見て村びとが騒いだので、兵隊は大城少年をリュックごと壕の外へ連れ出し、さんざん殴り、大きな軍靴で踏みつけた。大城少年は意識を失った。気づいたときには頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。二世が大城少年のけがをみて「これはひどい」と知念村志喜屋収容所に連れていった。そこで撮られた写真が「うつろな目の少女」である。ていねいに、治療されたが、視力と歩行は元に戻らなかった。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>

 


 
あらためて『これは沖縄戦だ』に掲載の「少女」の写真と上記引用文の大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較して検証してみた。

写真には「傷つき血みどろになった少女」とのキャプションが付いている。オカッパ頭の少女は着衣が黒く汚れているが、「血みどろ」という説明がなければ「泥まみれ」とも見て取れる。

細紐で首に右手を掛けているので、右肩が脱臼しているようには見えるが、顔や手足の露出部分に怪我や傷の痕跡はない。

写真撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。少なくとも目の周辺に怪我らしい痕跡は見当たらない。

ここで写真の「少女」の目と大城氏が説明する目の怪我の状況に大きな矛盾が生じてくる。

怪我は日本兵の暴行により目が腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。

その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院での治療がどのようにていねいであったか知る術はないが、ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。 

もっと決定的な矛盾がある。

前述した大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21 2007年)には、こう書いてある。

<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが>と

これは、大田氏が大城氏を取材してまとめた記事である。

ところで、2003年8月16日付「神戸新聞」で、大城氏は記者の質問にこう答えている。

<―体験を語るきっかけになったのは、約二十年前に新聞に「うつろな目の少女」として掲載された大城さんの写真だった
 「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて。それで、ガマに避難しているときに、日本兵がやってきて、砂糖を奪おうとした。抵抗したら『貴様は女の子かと思ったら男か。生意気だ』と、意識を失うまで殴られ、けられて全身血だらけになった。その後、今度は米兵がきて『何もしないから出てきなさい』といった。恐る恐る外へ出て、生まれて初めてもらったチョコレートを銀紙ごと食べてしまい、吐き出した。それから軍の診療所に連れていかれ、治療を待つ間に撮られたのがあの写真だ」>

米軍診療所で治療を受ける前であったとすれば、眼帯をつけられる前の写真と言えるが、その眼帯を一カ月もつけるほどの大ケガをしている目とは到底見えない。

これらをまとめれば、大城氏が全くの虚偽を語っているのか、「うつろな少女」が大城氏ではない、という結論となる。

大城氏が右目を失明した原因が戦時中の日本兵から受けた傷のせいだという主張さえ、疑念が生じてくる。

 続く

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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  ■却下された「援護法」適用■

オカッパ頭の大城少年は捕虜収容所の診療所で傷の手当てを受けた後、米軍病院に一週間ほど入院させられ右肩の脱臼や眼の治療などを受け養父母との再会も果たすことになる。

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ウソつきは誰だ!疑惑の銃弾 メア総領事とコーヒー

2009-04-11 14:55:35 | 金武町流弾事件

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「11日発生」と関与否定 伊芸区流弾事件/最終報告書 米軍「訓練なかった」【04月11日】
 金武町伊芸区の流弾事件の発生日の特定が県警と海兵隊で異なっている件で、米海兵隊がまとめた最終報告書の詳細が10日、分かった。県警調査による事件発生日時の食い違いが新たに浮き彫りになったほか、米軍が銃弾について独自に調査した内容が明らかになった。

 1日、県警が米軍から受け取った最終報告書は書簡形式のA4判3枚、日本語訳3枚も添付されている。

 それによると米軍は、石川署が昨年12月19日に作成したとされる報告書を基に、発生日時を「昨年12月11日午後4時ごろ」と記述。キャンプ・ハンセンでの訓練を同11日から13日まで実施していなかったことから、「訓練場から発砲された証拠が見つからなかった」と結論づけた。

 目撃者については「被害者の女性以外にはいない」などと記述。ナンバープレートに銃弾が突き刺さっていた乗用車は(昨年12月)11日午前零時から13日午前7時30分まで駐車されており、被害者が大きな音を確認したのは11日午後4時ごろとしている。

 さらに報告書は、県警が銃弾の鑑定結果として断定した50口径弾は、米軍キャンプ・ハンセンのレンジ7とキャンプ・シュワブのレンジ10で使用。弾芯には通常、銅などの被帽(ジャケット)がついているが現場では確認されず、さらに弾には若干のゆがみはあるが変形していない―などと記載されていた。

 県警は被害者の情報などから捜査の初期段階で発生日時を(昨年12月)10日午後3時ごろと特定。事件発覚後、米軍に発生日を随時伝えていたという。

                     ◇

事件発生日は10日か、それとも11日か。

推理小説としては極めて大雑把なアリバイ崩しで県警と米軍が真っ向から対立した。

県警は、事件発覚後、米軍に発生日を随時伝えていたという。

沖縄紙の情報のみで沖縄を理解する人は、民間の情報入手には県警の方が優れており、基地の中しか知らない米軍には民間の情報入手は不得意ではないか、と考えるだろう。

だが、表の情報はともかく、裏情報の入手となると平和ボケした県警とCICという情報部隊を持ち民間にも網の目のようなエージェントを配備している米軍の得意技である。

この事件は県警と米軍の対立というより、民間の証言を鵜呑みにした県警と裏を取った米軍の情報収集力の戦いともいえる。

 >目撃者については「被害者の女性以外にはいない」などと記述。

結局米軍側は目撃者の信憑性を問題にしているが、このように明白なことで一日の誤差を主張するのにはよっぽど自信があるのだろうか。

この問題は県民の生命に関わる重大問題ゆえ、通常だったら激しい抗議の声明を発表すべき立場の仲井真県知事の奇妙な対応である。

 米軍事件見解示さず 知事「県警の判断待つ」【政治】

 仲井真弘多知事は10日の定例会見で、金武町伊芸区の流弾や那覇市で起きたYナンバー車のひき逃げなど、米軍基地に関連する事件について、「県警の判断を待ちたい」と述べ、引き続き捜査を見守る方針を示した。

 流弾事件の発生日の特定については、県警と最終報告をまとめた海兵隊の見方が異なっている。「県警の捜査がまだまだ続くようだ。それを踏まえて、われわれなりの考えをまとめたい」と述べるにとどめた。

                   ◇

>「県警の捜査がまだまだ続くようだ。それを踏まえて、われわれなりの考えをまとめたい」と述べるにとどめた。

コメントから読み取れるのは真実と「県民感情」の板ばさみになって煮え切らない態度をしているとしか思えない。

これでは、当初参加を拒否していながら、同じような板ばさみの結果参加して挨拶までした「11万人」集会と同じではないか。

                    ◆

【おまけ】

米艦から横断幕戻る 掃海艦艦長、八重山署に
2009年4月9日

 【石垣】米海軍掃海艦2隻の石垣港寄港に反対する市民が港湾区域境界の金網に掲示していた入港反対を訴える横断幕が盗まれた事件で、掃海艦の艦長が米海軍捜査機関を通じて横断幕を八重山署に渡していたことが8日、分かった。
 同署によると、掃海艦出港後の5日午後、米海軍捜査機関が八重山署に横断幕を届けた。同署は渡した艦長の所属船名や所持していた理由などの詳細は捜査中として明らかにしていない。
(略)
 メア総領事は出港直前の5日午前11時半ごろ、記者団のインタビューに応じ、「盗難事件があるかどうかは分からないし、だれか捨てられたごみを片付けたというふうに見える」と発言しており、大島さんは「新品の横断幕をごみ呼ばわりし、何も知らないとうそをついた。謝罪してほしい」と訴えた。
 沖縄平和運動センターの山城博治事務局長(56)は「コーヒーを掛けて胸ぐらを押した男を逮捕させておいて、自分たちがやった犯罪は『分からない』で済ますのか。これで米軍の犯罪だと明らかになったので、しっかりと犯人を引き渡してほしい」と憤った。(深沢友紀)

                    ◇

この記事は大浜石垣市長が左翼集団の先頭に立って同盟国の艦船寄港に反対運動をした際、抗議の横断幕を乗務員がお土産代わりに持ち帰った事件の顛末記事である。

いかにも石垣市民であるかのように装う左翼集団の掲げる赤旗に「北部農林支部」という文字があった。語るに落ちるとは正にこのことで、北部農林高校は本島にある。

彼等は本島からわざわざ石垣島に渡ってきた来た高教組の集団である。

>「コーヒーを掛けて胸ぐらを押した男を逮捕させておいて、自分たちがやった犯罪は『分からない』で済ますのか。

沖縄平和運動センターの山城博治事務局長が唐突に話すコーヒーのコメントを不審に思うだろうが、疑問はそのままにしてしばらく読み続けて欲しい。

 

犬が人間を咬んでもニュースにならないが、人間が犬を咬むとニュースになるという。

沖縄人が米国総領事にコーヒーをかけ、暴行を加えても沖縄ではたいしたニュースにはならない。

ということは沖縄のマスコミは沖縄人を犬としか思っていないのか。

この程度の小さなベタ記事の扱い。

メア総領事、コーヒーかけられる 無職の男を逮捕(2009.4.6)  

ローカル記事を全国紙に頼る詳細はこの通り。

 米総領事にコーヒーかけた男、沖縄のスタバで現行犯逮捕
沖縄県警は6日、ケビン・メア駐沖縄米総領事(54)に飲食店でコーヒーをかけるなどしたとして、那覇市首里石嶺町3、無職山本和生容疑者(43)を暴行容疑で現行犯逮捕した。

 発表によると、山本容疑者は同日午後4時頃、同県浦添市当山の「スターバックスコーヒー」で、いすに座っていたメア総領事に対し、「沖縄から出て行け」と言いながら、足にホットコーヒーをかけた上、両手で胸を押した疑い。メア総領事にけがはなかった。

 メア総領事は山本容疑者が逃げないように抱きつき、別の客が110番。隣接する同領事館前で警備にあたっていた県警機動隊員が駆けつけ、取り押さえた。メア総領事は、国務省日本部長に就任する予定。

(2009年4月7日  読売新聞)

                     ◇

被害者のメア総領事は、「沖縄県人すべてが犯人のような考えでないことはよく理解している」と寛大なコメントを出している。

だが、もし被害者と犯人が逆のケースだったら沖縄紙は人間が犬に噛み付いたような大騒ぎで報じるだろう。

つまり、米兵が那覇市長か県知事に熱いコーヒーをぶっ掛け、胸を押すという暴力をふるったとしよう。

沖縄紙は一面、社会面を大見出しで飾り、各市町村議会や県議会でで抗議決議、そして抗議の県民大会開催へと連日扇動記事を書くだろう。

 

まぁ、被害者のメア総領事がいうように、どの国にも不逞の輩はいるもので、コーヒーを総領事にかけたからといって驚くに当たらないという向きもある。

だが、沖縄の知識人として沖縄マスコミで頻繁にご高説を垂れる作家先生が、「よくやった!」「遠慮せず顔にかけておけばよかった」と自身のブログで戯れ歌を歌っているのにはあきれ果てた。

この作家先生がどのような思想を持とうが日本に住む限り思想の自由は保障されるとしても、

暴力を肯定するような戯れ歌のご披露は、日頃の平和主義、暴力否定主義或いは「命どぅ宝」のお題目と矛盾するのではないか。

作家先生の迷作を下記に引用する。

なおタイトルは「お熱いのをご馳走させなさい」とでも言うのですかね。

あちこーこーから、うさがらせー

M:昔アメリカの悪い総領事さんが♪ 乞いを忘れた怒れる男に♪ 痺れるようなあちこーこーの♪ 琥珀色した飲み物をぶっかけられました♪ やがて心わじわじー♪ とっても不愉快このムード♪ たちまち男は悪いメアと喧嘩した♪ コンガマラカス楽しいサンシンのリズム♪ 南の国の情熱のアロマ♪ それは素敵な飲み物コーヒーモカマタリ♪ みんな陽気にかけて怒ろう♪ 愛のコーヒールンバ♪
S:ぬーえんばーが、うぬ歌や?
M:メア在沖米総領事んかいホットコーヒー掛(は)きてぃ、逮捕さってーぬ男(いきが)ぬ記事ぬ新聞かい載(ぬ)とぅてーとぅよ、うり見っち作(ちく)たんばーてー。
S:ああ、県外出身ぬ男ぬ人(ちゅー)や。新聞読(ゆ)でぃ、とーゆーしちゃん、やなメア小(ぐゎー)や、ゆーしったいえっさ。遠慮さんぐとぅ面(ちら)んかい掛きてぃとぅらせーしむてーむん、り思(うむ)てーぬ人ぬん満どぅんばーらんな。
M:あんすとぅよ。石垣港んかいアメリカ軍ぬ軍艦、強制入港しみてぃや、うぬばーぬメアぬ物言(むぬい)いようから行動(しーよう)から、でーじな挑発的えってーとぅよ。テレビじ見っちわじわじーしち、にじららぬ人ぬん居(をぅ)いてんばーえっさ。横断幕盗でーしん、ゴミせーきたんり言ちゃいやー。
S:くぬひゃーや歴代ぬ沖縄総領事ぬ中じん、最悪ぬ総領事りち間違(まちげー)ねーらん名前ぬ残(ぬく)るんやー。かーぎん悪(わ)っせーしが根性(くんじょー)ん爛(たー)りてぃ、ウチナンチューうしぇー物言いびかしちゃっくとぅよ、本当(ふんとー)やウチナンチューがそー入らさんねーならんてーばーえっしが。

 

スターバックスで歓談中、熱いコーヒーをぶっ掛ける狂犬のような行為は論外としても、少なくともメア総領事は同盟国の総領事。 

たとえ思想が異なるからといって総領事への暴力行為をけし掛けるような作家先生が知識人として大手を振る沖縄は少なくとも「守礼の邦」でないことは間違いない。 

 

メア総領事は熱いコーヒーだけでなく、火炎瓶もご馳走になっていたのですね。

米総領事館に火炎瓶か 黒スクーターが逃走
2008年7月14日

火炎瓶らしきものが投げ込まれた現場で、捜査する県警捜査員=14日午前5時54分、浦添市当山の米国総領事館敷地内

 14日午前1時15分ごろ、浦添市当山の米国総領事館敷地内の庭に火炎瓶らしきものが投げ込まれ、コンクリート製のステージに当たって発火し芝生30センチ四方を焦がした。・・・

 

【追記】4月14日

本文中の「北部農林高校」は筆者の勘違いで、実際は「八重山農林高校」でした。 訂正してお詫びいたします。


        

 

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「米軍vs県警」疑惑の銃弾大戦争勃発!発生日に食い違い 

2009-04-11 06:29:24 | 金武町流弾事件

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沖縄タイムス 2009年04月10日 社会 

発生日に食い違い 流弾事件/再三通報 県警10日→米軍11日【04月10日】

真実隠ぺい」伊芸区が反発


 金武町伊芸区で昨年12月、乗用車のナンバープレートに銃弾が突き刺さっていた事件の発生日が県警と在沖米海兵隊で異なることが9日、明らかになった。県警は事件発生日を12月10日として再三米軍に通報したというが、在沖米海兵隊提出の最終調査報告には12月11日と記載されていた。県警刑事部捜査一課の親川啓和課長は「米軍が事件発生日を(12月)11日としたのは理解できない。真相を突き止めるため捜査を続ける」としている。一方、事件現場となった金武町伊芸区では「米軍は真実を隠そうとしている」など反発が広がっている。

 県警は9日、事件発生日の認識の違いを指摘するとともに、伊芸区への流弾の確率が極めて低いとした解析結果の提供を求める書簡を在日米海兵隊基地司令官あてに送った。

 県警によると、被害者らの情報などから捜査の初期段階で発生日時を10日と特定。事件発覚後、米軍に発生日時を随時伝えていたというが最終調査報告では「事件発生は訓練終了以降の11日」との認識が示されていたという。

 米軍側が示した事件発生日について、被害者の玉城ミツさんは「被弾が11日というのはあり得ない。米軍は事実を曲げ、真実を隠そうとしている」と批判。11日には町内の幼稚園の行事に出席していたといい、証言すら否定されたことに強い怒りを示した。

 池原政文伊芸区長は「11日の可能性はみじんもない。米軍はあくまでしらを切り通すつもりなのか」と憤った。

 儀武剛金武町長は「県警と米軍の間で日付が違うということは、簡単には済まされない問題。(米軍の)科学的なデータを含め、納得できる説明を求めていきたい」と述べた。

 最終調査報告では、昨年12月9、10の両日に実施された部隊訓練で、M2重機関銃から8000発の50口径弾が発砲されたとしたが、乗用車が事件現場に駐車されたのは訓練終了以降として「訓練とは関連がない」と結論付けていた。

 弾道専門家の解析調査で、50口径弾がキャンプ・ハンセンから伊芸区の方向に流れ出ることは「統計学的にも確率が極めて低い」としていた。

                                                ◇

約一週間ぶりにタイムス紙面に「流れ弾事件」の記事が登場した。

記事によると県警と米軍は事件発生日という基本的与件で真っ向から対立している。

どちらかがウソをついているのは間違いないのだが。

それにしても肝心の事件発生日が一日も違うとは。

推理作家は、僅か数時間の、いや、場合によっては数分間のアリバイ作りに知恵を絞る。

だが、この「流れ弾事件」の被弾車両のアリバイ崩しには丸一日の誤差があるというから驚きだ。

沖縄の場合、事実は小説より粗雑ということか。

通常ならこの場合県警の発表の「10日説」を信じるのだが、沖縄県警の場合、マスコミが扇動する「県民感情」という魔物が絡むとその県警発表も疑わしくなる。

「11万人」集会の場合でも、「県民感情」に怖気付いて警察発表を控えるような県警だ。

にわかに県警発表も信じるわけには行かない。

事件捜査の経緯をみると、当初は石川署が捜査し、米軍の調査班、そして米本国より専門調査団が来島して数ヶ月調査した結果だ。

いくらなんでも事件発生日を一日ごまかすような粗雑なアリバイ崩すを専門調査団がするとも思えない。

仮に米軍側がごまかすなら県警が調査できないような技術的且専門的部分でごまかすだろう。

事件発生日を一日ごまかすような粗雑なアリバイ崩しでは三文推理小説のトリックでも使ってもらえないだろう。

事件は単純である。

事件発生日に関して、県警の10日と米軍側の11日のどちらかにウソがある。

それに米軍の訓練地から駐車場内の車両のナンバープレートまで、流れダマが途中何の障害物にも当たらずに到達するのが物理的に可能かどうか。

まさか塀をループ上に飛び越えたのではあるまいに。

さらに疑念は残る。

装甲車をぶち抜くといわれるM2重機関銃から発砲した50口径弾が民家の車両に到達してナンバープレートを破壊することなく「突き刺さった」状態であることが可能かどうか。

被弾した民家の被害者を玉城ミツさんと公表しているが琉球新報は「住民の話などから」とぼかしている。

米軍側の発表によると被弾は住宅街の中であるにもかかわらず、明確な証言者は玉城ミツさん一人しかいないというのも不可解である。

>儀武剛金武町長は「県警と米軍の間で日付が違うということは、簡単には済まされない問題。(米軍の)科学的なデータを含め、納得できる説明を求めていきたい」と述べた。

儀武町長が言うまでもなく、どちらにウソがあるにせよ、この事件はウヤムヤにすることなく納得できるまで究明すべき重大問題である。

同時に沖縄紙は、事件糾弾のキャンペーンを張って、「米軍流れ弾事件糾弾の県民大会」の開催まで、持ち込む義務があるのではないか。 

不良米兵と不良女子中学生のナンパトラブを抗議する県民大会を扇動したくらいだから。

保存資料として琉球新報記事も掲載する。

 米軍報告、発生日にずれ 伊芸被弾事件(2009.4.10)

 県警(黒木慶英本部長)は9日、2008年12月の金武町伊芸被弾事件で、在沖米海兵隊が「最近の訓練とは関係ないとの結論に至った」と報告したことについて、(1)県警が米軍側に伝えた発生日時は12月10日で、米軍が認識している12月11日とずれている(2)米側の専門家が調査した被弾事件の分析結果を説明してほしい-とした書簡を在日米軍沖縄地域調整官のリチャード・ジルマー中将あてに送った。
 米軍が訓練と関係ないと結論付けたのは、訓練時に車庫に被弾した車がなかったのが最大の理由。だが、県警が特定、米軍側に報告した事件発生日と丸1日ずれた日を事件発生日として調査報告書をまとめていたことが分かり、調査のずさんさが明らかになった。在沖米海兵隊は3月、12月9日と10日、恩納村内の米軍キャンプ・ハンセン内レンジ(射撃場)7で伊芸区で見つかったものと同じ50口径弾を車両の上に載せたM2重機関銃で8000発発射と発表。訓練日と事件発生日は同じ10日だが、米軍側は「石川署の報告書を参照し、銃弾が見つかった民間車両が車庫に駐車したのは、訓練が終わった後だ」と関連を否定していた。
 
県警捜査一課は住民の話などから事件発生日時を12月10日午後3時ごろと特定。米軍側にも発生日時を伝えていたが、米軍側の書簡には事件発生日時が12月11日となっていた。
 同課は「米軍側には確かに12月10日を事件発生日と伝えた。なぜ12月11日を発生日としたかは分からない」と困惑。「分析結果の詳しい内容を説明してもらわないと、捜査が進展しない」と強調した。

                   

 

国が認めた同盟国の艦船の寄港を自ら左翼集団の反対運動の先頭に立って実力行使する売国奴市長。

一握りの左翼集団(約30名)を扇動する大浜石垣市長の暴挙を、あたかも石垣市の民意、更には沖縄の民意であるかのように報道する沖縄マスコミの偏向報道振りを、

石垣在住の「身土不二さんが詳しくレポートしています。

新聞が報じる「プロ市民」活動が事実とかけ離れていることは、良識ある県民は先刻承知している。

沖縄紙が、こんなデタラメ報道を続ける限り読者の更なる新聞離れは進んでいくであろう。

        

 

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続・女装の少年の謎ー歴史資料館も知らないエピソード

2009-04-10 06:21:52 | オカッパの少年
     
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「うつろな目の少女」として夙に知られた写真の少女の正体が、

実は女装した大城盛俊氏だ、と報じた琉球新報の記事に衝撃を受けた。

だが沖縄出身で長年沖縄に在住する筆者が何よりも驚いたのは、この手のニュースには過敏に反応するはずの沖縄紙が戦後60数年間もこんなオイシイ話を見逃してきた事実である。

大城氏が自分の体験を語るのを好まず、そのときまで沈黙を守っていたのなら納得もできる。

だが、大城氏は全国を行脚して千数百回にも及ぶ講演会行っている講演会のプロではないか。

それに大城氏が写真の少女が自分であると知ったのは、二十年以上も前のことである。

更に、不謹慎ながら、新報記事を見てとんでもない誤読をしてしまったことが驚きに輪ををかけた。

戦時中に鬼畜米兵の毒牙を免れるため女性が断髪し男装したとは沖縄では良く聞く話。

だが、「少女が髪を切って少年に化ける」のなら腑に落ちるのだが、その逆の大城氏の場合は筆者の理解を超えた。

髪の伸びる時間や技術的にいっても、丸刈りよりオカッパ頭の方が調髪は難しいはずだ。

それにこのような例は数ある沖縄戦の証言の中でも、後にも先にも、大城氏の話が初めてであると思われた。

記事を誤読したというのは、次のくだりである。

<当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。(琉球新報 2007年8月25日)>

冷静に読めば「男の子は兵隊にやられる」とは「兵隊に遣(や)られる」だと理解できるのだが、

二年前のその当時は「11万人」集会を目前に控え新聞は連日「悪逆非道の日本軍」という合言葉を表面に押し立てた大キャンペーンを張っている最中である。

筆者は恥ずかしながら記事中の「兵隊」という単語に脊髄反応してしまい、「男の子は兵隊にヤルられる」、つまり犯されると誤読してしまったのだ。

ということは沖縄に派遣された日本兵は揃って男色性癖のある「ホモ軍団」ということになる。

いくらなんでも日本軍を貶めるのに「ホモ集団」はないだろうと怒りを通り超して苦笑した。

まもなく誤読と判明するのだが、実際は大城氏は兵役の手伝いをされるのを避けるため少女に扮装していたのだ。

現在の感覚で言えば兵役を逃れるため大城少年をオカッパ頭の少女に仕立てた義父の心境はよく理解できるが、兵役忌避は例え少年といえども当時は恥ずべき行為とみなされる時代であった。

大城氏が、自分の故郷である沖縄本島での講演をさけるようにもっぱら本土を中心に講演している理由も、女装により「兵役忌避」したと言う負い目があったのではないか。

この兵役忌避は筆者の勝手な推量ではなく、本人が2005年8月11日放送の朝日放送の戦争特集「語りつぐ戦争」に登場して、オカッパ頭にした理由を、次のように証言している。

<女の子に変装したのには、理由がありました。

「お父さんは私に向かって、『兵隊たちは年齢に関係なしに連れて行くから、髪を伸ばしなさい』と…」>(http://webnews.asahi.co.jp/you/special/sengo.html 

 

   

 教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

 <「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。>
                  ◇

■地元では知られていない「女装の少年」■

沖縄戦で米軍が撮影した膨大なフィルムが公開されてきたが、その中でも見る人の胸を打つ有名な二人の「少女」の写真がある。

「少女」の写真はそれぞれ大田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』の中に収録されているが、

その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚で、他の一枚が「うつろ目の少女」の写真である。

「うつろな目の少女」は同書の表紙に使用されているだけでなく、冒頭第1頁でも「傷つき血みどろになった少女」とキャプション付きで掲載。

一冊の本で二度も大きく紹介されているので、同書を手にした者の目に必ず飛び込んでくる構成になっている。

同書は40万部を売る大ベストセラーになったせいか、この「少女」の写真は沖縄では良く知られた写真である。

だがこの少女が実は男の子であったということを知る人は、地元沖縄でも少ない。

実際、筆者の知人友人ら二十数人に尋ねてみたが、「少女」の写真は見たことはあってもその正体が少年であると知る者は一人もいなかった。 

■沖縄戦史資料館も知らない「少女」の秘密■

試しに沖縄戦の資料展示で「反軍姿勢」で知られる二つの歴史資料館を調べてみた。

激戦地のあった本島南部にある「具志頭村立歴史民俗資料館」の沖縄戦の資料展示コーナーは、ご多分にもれずお決まりの日本軍の残忍さとアメリカ人の人間性溢れる行為を強調した展示構成になっている。 

同コーナーの「村内の仮収容所(米軍指定)に集められた人たち」と題した写真展示の中に「うつろな目の少女」の写真が展示されているが、説明文は「傷の手当てを待つ少女」とだけしか記されてない。

「反日本軍」を訴えるには絶好のはずの「少女」の正体も記されていなければ、「日本軍の暴行を避ける為のオカッパ頭の少年」とも記されていないのだ。   

 たまたま隣で見ていた地元出身の青年に「この少女は実は少年だよ」と話したが、信じてもらえなかった。 

「もしそうなら、何故事実を掲示してないのか」と反論され、返答に窮した。

「具志頭村立歴史民俗資料館」からそう遠くない場所にある「沖縄県立平和祈念資料館」といえば徹底した反日思想の展示で有名だ。

赤ん坊を抱く母親に銃剣を向ける人形まで展示して反軍思想を煽っているが、

不思議なことに、ここには「うつろな目の少女」の写真展示はない。 

見落としたかと思い、念のため受付の係員に尋ねたが、そもそも「うつろな目の少女」を知らなかった。

学芸員と称する専門家に聞いても、最初は「うつろな目の少女」が理解できず、大田元知事の著書の表紙に使われている写真だと説明してやっと理解してくれた。

だが、「少女」の正体が少年だったと話してもよく飲み込めない様子だった。

このように沖縄戦の資料を専門的に展示してある沖縄の代表的資料館でも「うつろな目の少女」の正体は少年だったという話は認識されていない。

筆者の友人知人が「少女」の写真は知ってはいるが、その正体をごく最近まで知らなくても無理はない話だ。

後に、大城氏は右目を日本兵の暴行により失明したとして「援護法」の適用申請したが却下されたという。

日本兵の暴行による失明は果たして事実なのか。

それよりも少女の正体が大城氏だという話そのものが事実なのだろうか。

「うつろの目の少女」のエピソードを追えば追うほど謎は深まってくる。

(続く) 

 

 

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国防に反対する売国奴政党ー共産党と民社党

2009-04-10 01:48:19 | 普天間移設

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北朝鮮:ミサイル発射 社民・福島党首、北朝鮮決議の民主賛成に抗議
社民党の福島瑞穂党首は8日の記者会見で、北朝鮮のミサイル発射に対する非難決議を巡り、民主党が与党案に賛成したことについて「抗議したい。非常に残念だ」と述べ、強い不快感を示した。

 民主、社民、国民新3党は7日の幹事長会談で、決議への対応を含めた共闘関係を確認。民主党は社民党も折り合える文案での調整に入ったが与党に受け入れられず、衆参ともに与党案に賛成した。社民党は「北朝鮮を挑発するだけでは解決せず、6カ国協議の枠組みで対処すべきだ」として棄権した。【白戸圭一】

毎日新聞 2009年4月9日 東京朝刊

                   ◇

北非難決議、不可解な社民の棄権・共産の反対…割れる野党
北朝鮮が「人工衛星」だと主張して弾道ミサイルを発射したことを非難する国会決議をめぐり、野党内で対応が割れた。

 7日の衆院本会議で、民主、国民新両党は賛成したが、社民党は採決を棄権、共産党は反対した。民主党の小沢代表は、国民新党と共に、社民党も次期衆院選で政権交代を実現した場合の連立政権のパートナーと位置づけているが、今回の国会決議への対応で食い違いが出たことで、民主党内からは社民党との連立を不安視する声が上がった。

 社民党は3月31日に北朝鮮へ自制を求める国会決議を衆参両院で採択した段階で、ミサイルが発射された場合の国会決議について、〈1〉「飛翔(ひしょう)体」がミサイルか人工衛星か断定できるか〈2〉明白な国連安保理決議違反と言えるかどうか〈3〉制裁強化が北朝鮮の核問題をめぐる6か国協議に影響を与えないか――などを考慮して対応を決めることを、全議員が出席する党国会対策委員会で確認していた。

 6日の衆院議院運営委員会理事会で与党案が提示されたのを受け、社民党は民主、国民新両党と、ミサイルを「飛翔体」と言い換えるなど与党案を弱める「3党案」をまとめた。

 社民党は7日朝の国対委員会で、与党が3党案に譲歩しない場合は、決議案の採決を棄権する方針を確認した。保坂展人副幹事長によると、反対としなかったのは「北朝鮮に何らかの抗議の意思を示す必要がある」と判断したためだ。

 しかし、結局、7日午前の調整で与党は譲歩せず、民主、国民新両党は賛成に回り、社民党は棄権した。

 こうした社民党の対応について、民主党からは「連立を組んでも大丈夫かという声がまた強くなる。早く手を切った方がいい」(保守系)との声が上がった。旧社会党議員から「いずれは合併した方がいいという考え方だったが、考え直さないといけない」との厳しい意見も出ている。

 一方、共産党は7日朝の党国会対策委員会で〈1〉発射されたものがミサイルだと断定すべきでない〈2〉ミサイルが発射されたとの断定を前提に、国連安全保障理事会の決議違反と断定すべきでない――などの考えをもとに、決議案への賛否を判断することを決めた。その結果、与党案は受け入れられないとして、反対した。

 衆院決議に賛成した国民新党は、参院では、自民、民主両党主導の文言調整に反発し、棄権する意向だ。

(2009年4月8日01時47分  読売新聞)

                  ◇

〈1〉「飛翔(ひしょう)体」がミサイルか人工衛星か断定できるか

>〈2〉明白な国連安保理決議違反と言えるかどうか

>〈3〉制裁強化が北朝鮮の核問題をめぐる6か国協議に影響を与えないか――

自国民が危害を加えられることには一顧もしないで、「ただひたすら加害国・北朝鮮のことしか考えない社民党や共産党は売国政党であることを露呈した。

 

何度でも繰り返すが野党が国内政策の相違で政府与党に反対することには議会制民主主義の国ではむしろ健全なことである。

一方、国民の生命や財産の安全を守る国防問題では野党といえども反国家言動をする国は日本の他に知らない。

一歩誤れば日本国民に重大な損害を与えかねない北朝鮮のミサイル発射に関して、野党と言えども北朝鮮の発表より、同盟国の発表を信頼するのが普通だ。

例えば、今回のミサイル発射が失敗か成功かについても、まともの日本人なら先ず米国発表を信じるだろう。

米軍「ミサイル発射は失敗」、北朝鮮は「成功」報道
2009/04/06(月) 10:14 
 
  5日付中国新聞社電によると、北朝鮮の中央通信社は5日、試験通信衛星「光明星(クァンミョンソン)2号」が同日午前11時20分、発射に成功したと伝えた。しかし米軍関係者は、発射されたのは「ミサイル」で、太平洋に落下したと伝え、北朝鮮の「成功」の発表を否定した。オバマ米大統領は「北朝鮮のミサイル発射は、国連安保理決議の第1718に違反する」と述べるなど、北朝鮮の核問題解決に全力で取り組む姿勢を示した。

  「ミサイル」は発射後、日本の東北地方上空を通過。自衛隊による迎撃、破壊措置は行われず、領域内での被害、落下物は確認されていない。

  米コロラド州の北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)と北方司令部はこのほど、「北朝鮮が発射したのは(衛星ではなく)長距離弾道ミサイル『テポドン2号』の改良版と見られる。『ミサイル』追尾の結果、3段式ロケットのうち1段目は日本海の秋田県沖に落下し、残りは太平洋に落下した」と発表、北朝鮮の「成功」の発表を否定した。

  一方、チェコの首都プラハを訪問中のオバマ米大統領は同日、「北朝鮮のミサイル発射は、国連安保理決議の第1718に違反する」と述べ、北朝鮮に踏み込んだ行動を取らないよう呼びかけるとともに、米軍は6カ国協議での北朝鮮の核問題解決に向け、全力を尽くすとの姿勢を示した。(編集担当:金田知子)

                    ◇

今回の国会決議では民主党と国民新党は何とかごまかしたが、国防問題は売国政党をあぶり出すリトマス試験紙である。

国民の税金で糧を得ながら国を売る社民党・共産党は消えろ!

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尖閣上陸決行!石垣市長が、まさかね

2009-04-09 06:16:34 | 未分類

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国の専管事項である安全保障問題に反対するプロ市民の先頭にたって抗議行動をする大浜石垣市長のことを売国奴と書いた。

ところが、同じ大浜市長が今度は尖閣諸島に視察のため上陸するという。

大浜市長は何時から左翼売国奴から愛国民族派に宗旨変えをしたのか。 

同地域が石垣市の行政管轄地域であるため固定資産税を徴収しており、そのための視察というから当然のことだが、

尖閣諸島は中国も領有を主張しており、中国に配慮した結果仲井真県知事も当初の視察予定を中止したいわく付きの場所である。

そこへ上陸宣言というのなら、売国奴呼ばわりは撤回して謝罪せねばならぬと思うのだが・・・。

果たして大浜市長は本気で上陸を決行するつもりなのか。

 

沖縄タイムス 2009年4月8日

尖閣上陸 国の許可前提 石垣市長、周辺国配慮も【04月08日】  【石垣】固定資産税を徴収する際の実地調査を目的に尖閣諸島に上陸する意向を国に伝えたことについて、大浜長照市長は7日午後、市役所で記者会見を開き、「市の行政区域であることは明らかで、一度きちんと国に要請する必要があると考えた」と説明した。

 尖閣諸島の民有地は総務省が借り上げているほか、中国や台湾が領有権を主張している。大浜市長は「総務省や外務省が許可しなければ、あえて世間を騒がせてまで上陸する気はない」と、国の許可が前提であることを強調した。中国や台湾を刺激する可能性について、関係悪化につながらないよう配慮する考えも示した。

 市によると、衆院外務委員会の河野太郎委員長が3月27日付で、市長に対し「尖閣上陸の意向」を文書で質問。3月31日付で「地方税法で規定する市町村長が行う固定資産税課税のための実地調査について、石垣市長として実施しなければならないと認識している」と河野委員長のほか、外相、総務相、官房長官に回答した。

                    ◇

>大浜市長は「総務省や外務省が許可しなければ、あえて世間を騒がせてまで上陸する気はない」と、国の許可が前提であることを強調した。中国や台湾を刺激する可能性について、関係悪化につながらないよう配慮する考えも示した。

おやおや、やはり上陸発言は単なるパフォーマンスに過ぎなかった。

相手が米軍艦船の場合は、国が許可した寄港であっても自らプロ市民の反対運動の先頭に立って実力行使を扇動しておきながら、

相手が中国様となると、「国が許可しなければ世間を騒がせてまで上陸する気はない」とは、随分と国への態度が違うではないか。

たとえ国が許可しなくとも、また世間を騒がしてでも、強行上陸の実力行使してこそ、信念に「体を張る」市長に相応しいのではないか。

米艦船の石垣寄港の際には、抗議団が「体を張る市長」と絶賛していたではないか。↓

体張る市長にエールhttp://www.y-mainichi.co.jp/news/13349/

 抗議団は「市長は国などの圧力を受けているが、命を張って反対している。我々も体を張って阻止しよう」と団結。ふ頭内に座り込みを続ける中、会見の模様が伝えられると「市長ガンバレ」のシュプレヒコール。

                                          ◇

今回の大浜石垣市長の尖閣上陸宣言は、かなり前から石垣市議会では懸案事項であったが、大浜市長は中国への配慮を優先し、上陸決議には遺憾の意を表明していた。

石垣市議会の尖閣上陸決議 背景に国防議員か 日中関係に波紋も(2005.6.18) 単眼複眼    

 石垣市議会(知念辰憲議長)は17日、尖閣諸島上陸視察決議案を賛成多数で可決した。背景には「行政区域の調査は当然」という調査権を前面に出した保守系議員らの結束がある一方、国防族国会議員の影響力を指摘する声もあり、一地方議会を超えたさまざまな思惑が絡んだ結果とみられる。
 保守系の議員ら10人が「行政区域の調査は当然。外交問題とは何の関係もない」と強調し結束を強めた。市議の1人は「国防族の大物議員らが、領土問題などを有利に運ぶため後押しした」と言及。地方議会を超えた思惑が議決に反映されたとの見方を示した。反対派の議員らは「中国との外交問題に発展するのは必至」と指摘。大浜長照石垣市長は「行政区の調査はすべきだ」としながらも「なぜ日中関係が悪化しているこの時期に決議をするのか。配慮に欠けており遺憾だ」とコメントした。
 首相の靖国問題などで悪化している日中関係にさらなる波紋を及ぼす可能性がある。
(石垣)

                   ◇

>なぜ日中関係が悪化しているこの時期に決議をするのか。配慮に欠けており遺憾だ

この記事は約6年前の小泉首相の頃のものだが、当時に比べて日中関係は格段に良好になっている。

だとしたら、仮に国が反対しても議員団の先頭に立って「体を張って」上陸を敢行して欲しい。

さもなくば、国の意見を無視して米艦船反対運動の先頭に立った市長の「体を張った」行動と矛盾してしまう。

結局大浜市長の尖閣上陸はパフォーマンスのみで、国の許可の有無に関わらず実行はされないだろう。

従って売国奴呼ばわりも撤回されることなく謝罪する必要もないだろう。

いや、必要はないと断言してよい。

慶賀すべきか悲憤すべきか。

 

【付記】

今朝の沖縄タイムスも一面、社会面トップで米兵の轢き逃げ容疑者の大見出し。

「疑惑の銃弾」は何処へ消えたのだろう。

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続・疑惑の弾痕ー誰が銃弾を撃ち込んだか

2009-04-08 07:38:22 | 金武町流弾事件

 

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                   ◇

今朝(8日)の沖縄タイムス朝刊社会面トップは外人車両によるひき逃げ事件がトップを飾り石川書が容疑者に事情聴取した報じている。

ひき逃げ事件は犯人が外人、日本人に関わらず悪質な事件であり、早急に解決して欲しいのは言うまでも無いが、米軍の民家への流れ弾被弾事件より、マスコミにとって重大な事件なのか。

「流れ弾事件」は本日の紙面からも消えたままである。

                   ◇

流れ弾事件は、当初県警が調査して米軍の銃弾と判明し、以後軍の調査班が調べ、更に米本国より専門の調査団が調査した結果、このような最終結果となった。

米軍「訓練と関連なし」 金武流弾で最終見解【04月01日】

そもそもM2重機関銃から発射された50口径弾は装甲車をぶち抜くという。 それが民間車両のナンバープレートを木っ端微塵にしたのならともかく、突き刺さっていたという事実はいかにも不自然だ。 

流鏑馬じゃあるまいし、突き刺さるはないだろう。

それに目撃証言にも矛盾があるという。

伊芸被弾事件「訓練と日時一致せず」 目撃者証言と矛盾も2009年4月2日 

  在沖米海兵隊は1日、2008年12月の金武町伊芸被弾事件で独自調査を終え、結果概要を発表した。「最近の訓練とは関係ないとの結論に至った。すべての実弾訓練は安全基準をすべて順守している。被害者が示した事件日時と実弾訓練実施日時とは一致しない」と発見銃弾と米軍訓練の関係をあらためて否定した。同日、県警に報告書を提出、県と沖縄防衛局、外務省沖縄事務所に概要を報告した。報告書自体は公表していない。
 発表では、12月9日と10日、恩納村内の米軍キャンプ・ハンセン内レンジ(射撃場)7で、伊芸区で見つかったものと同じ50口径弾を、車両の上に載せたM2重機関銃で8000発発射したことを明らかにした。
 石川署の報告書を参照し、銃弾が見つかった民間車両が車庫に駐車したのは、訓練が終わった後だとして、訓練との関連を否定。しかし、目撃者は10日に着弾らしき音を聞いたときには車両は既に駐車していたと証言しており、海兵隊報告と食い違っている。米側は詳細な訓練終了時間は明らかにしていない。
 発表では米本国からの専門家による解析の結果、訓練場から伊芸区方向に銃弾が流れ飛ぶ確率は、統計学的に極めて低いとしている。

                   ◇

ところが沖縄タイムスに限ってみても、関連報道は4月2日の朝刊一面と社会面で派手に報じて以来急に腰が引けてくる。

沖縄タイムス 2009年04月02日 社会 

訓練との関連否定 金武流弾事件/米軍最終報告「証拠みつからず」

金武町伊芸区で昨年12月13日、乗用車のナンバープレートに銃弾の金属片が突き刺さっていた事件で、在沖米海兵隊は1日、「訓練場から発砲された証拠が見つからなかった」として、最近の訓練との関連性をあらためて否定する最終報告をまとめ、調査を終了した。一方、県警は事件の解明に向け、引き続き捜査を行う考え。金武町議会は2日、米軍基地問題対策調査特別委員会を開き、今後の対応を協議する。

 これまでの県警の鑑定では、金属片は米軍が使用する50口径通常弾「M33BALL」の弾芯と同種であることが判明している。

 海兵隊によると、今年1月末に来沖した訓練教育司令部所属の弾道専門家の解析調査で、50口径弾がキャンプ・ハンセンから伊芸区の方向に流れ出ることは、「統計学的にも確率が極めて低い」とされたという。

 また、昨年12月9、10の両日に実施された部隊訓練で、7トントラックの砲塔に搭載したM2機関銃から8000発の50口径弾が発砲されたとしたが、乗用車が事件現場に駐車されたのは訓練終了以降となっていることから、「訓練とは関連がない」と結論付けた。

 儀武剛金武町長は「大変残念で強い憤りを感じる。このままうやむやにさせてはいけない。町としても出来る限り対応したい」と話した。池原政文伊芸区長は「予想通りの内容。訓練を継続したいがための言い訳にすぎない」と指摘。

 仲井真弘多知事は「米軍が現に使っている同種の弾なので、納得しにくい感がある」とコメントした。

                     ◇

そして4月3日のタイムス朝刊の記事は急に小さなベタ記事になる。

二面の小さなベタ記事の見出しはこれ。(ウェブ記事はない)

流弾事件対応で軍特委協議会継続 

金武町抗議の声も

そしてそれ以降紙面からは完全に消えてしまった。

これまでの沖縄紙の行動パターンなら、米軍との関連否定に対して更に怒りをエスカレートさせ、連日派手なキャンペー記事を掲載し、各市町村議会の決議、県議会決議そして抗議の県民大会開催と突っ走るのが通常だ。

それが今回のように報道が尻つぼみになるのは不可解だ。

理由は何なのか。

手元に断言できる資料は持ち合わせていないが、沖縄紙の行動パターンから推測すると、

「米軍犯人説」に地元紙自身が疑念を持ち始めたのではないか。

儀武剛金武町長は「大変残念で強い憤りを感じる。このままうやむやにさせてはいけない

儀武剛金武町長の意見に大賛成である。

ことは銃弾が民家を直撃するという県民の生命に関わる重大事件だ。

原因・犯人が不明のままウヤムヤにされては困る。

是非とも金武町会議の抗議決議に続いて、各市町村会議そして県議会決議、更には全県民に呼びかけて、「県民大会」でも開催して欲しい。

伊芸被弾 金武町議会が「無関係」報告に抗議決議へ

そして、「訓練以外なら何が原因か」、ここのところを是非究明して欲しい。

伊芸被弾事件 訓練以外なら何が原因か

そう、流れ弾が「訓練以外」なら、米軍がわざわざ米軍に嫌疑をかけるため、民間車両のナンバープレートに米軍使用の銃弾を「突き刺した」とは考え難い。

だとすると、米軍の訓練に反対する基地外勢力の仕業と考えるのが妥当だろう。

プロ市民側は米軍に「挙証責任」があるというが、通常「○○がやった」という証明はできても「○○がやっていない」と証明することは困難である。

いわゆる「悪魔の証明」だ。

むしろこれまでキャンペーン記事で県民を扇動してきた沖縄タイムスや琉球新報こそ挙証責任があるのではないか。

沖縄タイムスは4月3日以降、突然この事件の報道から手を引くが、琉球新報はこのように報じている。

伊芸被弾 金武町議会が「無関係」報告に抗議決議へ(2009.4.4)  

金武町議会決議だけで、このまま抗議の県民大会もせず、米軍の調査結果のままで尻つぼみになったら、

それこそ、朝日新聞の「珊瑚に落書き」の故事にならって沖縄タイムス記者の誰かが密かにナンバープレートに銃弾の細工をしたと疑われても仕方ないだろう。

そのような嫌疑をかけられたくないなら、流れ弾事件を捏造した「工作員」を突き止めて氏名を公表する義務がある。

あれほど米軍が犯人だと連続で県民を煽った罪滅ぼしに。

再度いうがこの事件をうやむやにしてはいけない。

 

事件解明を要求 金武町伊芸被弾、区民ら400人決起(2009.3.2) カメラ ビデオ

「訓練の弾」に疑義 メア氏、米軍発射を否定(2009.2.26)

県警「立件は困難」 伊芸被弾事件(2009.2.19) 
 

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疑惑の弾痕ー金武村流れ弾事件

2009-04-07 07:08:06 | 金武町流弾事件

やっぱり予想通りだ。

今朝(7日)の沖縄タイムス記事のことである。

米軍車両によるひき逃げ事件を三日連続で大きく報じている一方、金武村の流れ弾事件は完全に紙面から消えて一行の記述も無い。

疑惑の弾痕か・・・。

                      *                   

 2009年04月06日 コラム 

沖縄タイムス [大弦小弦]

・・・・▼「活字離れ」「新聞離れ」と言われて久しい。しかし、読者が新聞から距離を置く以上に新聞が読者から遠ざかっていないか。知的好奇心や欲求を満たす紙面、読みたい新聞を作っているか。紙面編集の作業のたび、自問自答する▼テレビやインターネットが流す膨大な情報に多くの人が頼る時代でも、新聞に期待する声はなお多い。ひと目でニュース価値が分かることや記録性などへの評価だ▼6日は「新聞をヨム日」。本紙の主な面に今年も「新聞と私」のコーナーを設けた。その中で、新沖縄文学賞受賞者の松原栄さんは「情報がたくさんある中で、落ち着いて読み、考えることは大事」と新聞のよさを述べている▼きょうから「春の新聞週間」が始まった。多くの読者の意見と向き合い、伝えるべき言葉を持ち続ける努力を惜しまず、読者の欲求に応えたい。(平良哲)

                    ◇

沖縄タイムスは、夕刊廃止という窮地に陥っても、読者の「新聞離れ」の本当の理由をまだ理解していないようだ。

理由はただ一つ。

ネットの普及により、新聞のウソ記事に読者が気がつき始めたことだ。

従って読者の「新聞離れ」を最小限に止めておこうと思えば、単純なことを実行すればよい。

ウソの記事を書かないことだ。

記者といえども人の子であるから、不注意などによる事実誤認のウソ記事なら読者はある程度は許容する。

だが、意図的なウソ記事には我慢が出来ない。

沖縄タイムスの最近のウソ記事の例に挙げると、号外を発行するような事件に確信犯的ウソ記事が多いのが特徴である。

2007年の「11万人」集会では「11万人」というウソ記事を全国にばら撒いた。

2008年の「米兵女子中学生暴行事件」では、不良米兵と不良女子中学生との「ナンパ・トラブル」を強姦事件と報じたし、米兵とフィリピン売春婦とのトラブルも「強姦事件」と報じた。

昨年12月に起きた「米軍流れ弾事件」も、当初の号外発表するほどの大々的報道に比べて、最近の沖縄タイムスの腰が引けた報道を見ると「疑惑の弾痕」ではないかという疑念が生じてくる。

 

                   

■沖縄紙の紙面から消えた「疑惑の弾痕」

米軍が起こした事件や事故の中でも、民家に演習中の流れ弾が撃ち込まれた事件は、基地反対のプロ市民でなくとも、重大且深刻な事件である。

昨年の12がつに米軍の実弾訓練地域に隣接する金武村伊芸区の民家に実弾が撃ち込まれた事件は、マスコミの扇動的なキャンペーン記事とプロ市民の執拗な抗議運動にもかかわらず四ヶ月にも渡る調査団の調査結果は、「銃弾は米軍使用のものだが、撃ち込んだのは米軍ではない」という結論で収束しようとしている。

つまり米軍は流れ弾は米軍使用の銃弾と認めていながら、その一方で撃ち込んだ下手人は「知らぬ存ぜぬ」としらばくれていることになる。

沖縄タイムスは、この事件に関し、紙面から完全に消えてしまった。

米軍の事故なら些細な交通事故でも針小棒大に報道するのがこれまでの沖縄紙の慣わしではなかったのか。

沖縄紙にとってこんなオイシイ事件なら、県議会や各市町村会議で講義決議するように扇動する大キャンペーンを張るのが常套ではなかったのか。

にもかかわらず4月2日以来の沖縄タイムスは、北朝鮮のミサイル発射記事はともかく、連日米艦船の寄港反対、外人ナンバー車のひき逃げ事故を連日大々的に報じて、流れ弾事件は一行の記載も無い。

轢き逃げ事件が重要でないわけではないが、連日起きている交通事故の中のひき逃げ事件は悪質ではあるとしても、民家を襲った流れ弾事件を差し置くほど重大事件なのか。  

 

Yナンバー 3人ひき逃げ 那覇松山【04月05日】

金武で類似車発見

 4日午前6時ごろ、那覇市の松山交差点で、国道58号を久茂地方面から進行してきたYナンバーの普通乗用車が横断歩道を歩いていた男性2人、女性1人の計3人をはねて逃走した。那覇市の女性(23)が左大腿骨と左腕を骨折する重傷。八重瀬町の男性(22)は左ほお骨折と全身打撲、浦添市の男性(23)が左股関節にひびが入った疑いと全身打撲などのけがを負った。

 那覇署によると、車両は黒っぽい普通乗用車で、泊方面に逃走。同日午後、金武町でフロントガラスが割れた類似車両が見つかった。目撃者によると、車は金武町の米軍演習場キャンプ・ハンセンに近い飲食街の一角に乗り捨てられていた。血痕や頭髪などが付着していたという。同署が鑑識作業を進めている。米軍基地関係者の可能性もあるとして米軍にも照会し、ひき逃げ事件として捜査している。(略)

蛇行後急発進し逃走 Yナンバーひき逃げ/目撃者「爆発のような音」【04月06日】

                   ◇

さて、「米軍流れ弾事件」に話を戻そう。

米軍の実弾訓練所の近くに位置する金武町伊芸区。

その伊芸区の民家の駐車場に停車中の自家用車のナンバープレイトに実弾が撃ち込まれた。 しかも調査の結果、その銃弾は米軍使用のものという。

これだけの状況証拠が揃えば誰だって犯人は米軍だと思う。

かくいう筆者も事件が起きた当時は、犯人は米軍だろうと考えたので、早めに責任者が被害社宅に赴いて謝罪と賠償をしておくべきと考えた。 さもなくば問題がこじれてしまうと考えたからだ。

昨年の12月事件が発生して以来およそ四ヶ月経過し、事態は思わぬ方向に進展していった。

民家に訓練中の米軍の銃弾が撃ち込まれるという衝撃的な事件に、地元紙は例によって大騒ぎで、ウェブ記事はネット号外を出したのだが・・・。

沖縄紙が電子号外を出すとき、事件は幻に終わることが多い。

例えば一昨年の「11万人」も幻だったし、昨年の「米兵女子中学生暴行事件」も結局は幻に終わったが、

さて、今回は・・・。

【電子号外】米軍流弾か 車直撃 民家駐車場、ナンバー破損 2008年12月14日

   PDF版速報(653KB)

 【金武】13日午後7時半ごろ、金武町伊芸区に住む建設会社従業員の玉城陽一さん(25)から、自宅の駐車場に止めていた乗用車のナンバープレートに銃弾のようなものがめり込んで壊されているとの通報が警察にあった。
石川署が調べたところ、銃弾のようなものは長さ約4・5センチ、直径約1センチで、字光式ナンバープレートの表部分を貫通、裏側のプレートで止まっていた。米軍キャンプ・ハンセンからの流弾の可能性があり県警が銃弾を鑑定するなど捜査している。同演習場から現場までの距離は、最短で約300メートル。
 玉城さんは13日午前7時ごろに、ナンバープレートに穴が開いているのを確認。何者かのいたずらかもしれないとみて、いったん仕事に向かい、帰宅後にナンバープレートを外して調べると、裏板の中に銃弾のようなものがめり込んでいた。
 一方、10日午後3時半ごろ、玉城さんの祖母・ミツさん(70)がこの駐車場で作業をしていた際、「バーン」という大きな音を聞いた。同時に車付近から白い煙が出ていたという。ミツさんは周囲を確認したが、ナンバープレートの破壊には気付かなかった。銃弾のようなものは、この時にめり込んだ可能性が高いとみられる。
 伊芸区(池原政文区長)では1988年に酒造所や沖縄自動車道サービスエリア、民家などでM16ライフル銃の弾頭9発が見つかるなど、復帰後も多くの流弾事故が発生。同区では14日午後、緊急行政委員会を開き、委員が現場を確認したほか、地域住民にほかにも流弾がないかどうか呼び掛ける。金武町の儀武剛町長は「強い憤りを感じる。けが人が出なかったのは奇跡的だ。事実確認が先決だが、区の反応を見ながら町民大会の開催を決めたい」と話した。

                   ◇

沖縄タイムス記事は消去されるので、琉球新報記事から「流れ弾被弾事件」をほんの一部を拾っただけでも以下の通りだ。

実弾訓練場撤去を 伊芸被弾事件(2009.3.4)

事件解明を要求 金武町伊芸被弾、区民ら400人決起(2009.3.2)

「訓練の弾」に疑義 メア氏、米軍発射を否定(2009.2.26)

                                              

伊芸被弾事件 良き隣人の誠意と挙証責任 2009年2月7日 

昨年末に金武町で見つかった「銃弾」は、米軍が使用している「M33普通弾」の弾芯と判明した。
 1カ月余をかけた県警の鑑定結果は、「やっぱり」である。
 金武町伊芸の民家駐車場で車両が被弾したのは、昨年12月10日午後3時ごろだ。
 銃弾は車のナンバープレートから発見された。同時刻に「バーン」という爆裂音。車付近から上がる白煙も目撃されている。駐車場入り口付近には跳弾の跡。そして、同日も含め、12月8日から14日の間、キャンプ・ハンセン内での実弾射撃訓練を実施。これが発見段階での「状況」証拠である。
 「米軍の可能性が極めて高い」にもかかわらず、県の仲井真弘多知事は米軍に抗議もせず、演習の中止要請もしなかった。
 理由は「原因がある程度推測できないとコメントはきつい。県警が調べているのでひと呼吸待ちたい」。
 これが138万県民の命を預かる知事のコメントだった。(略)
           ◇    

米軍がらみの事件でいえば、容疑者を県警が捜査できず、米軍の捜査でウヤムヤにされてしまうといった印象を受けるが事実ではない。

昨年の「米兵女子中学生暴行事件」も「比女性暴行事件」も当初は県警が捜査したが証拠不十分で不起訴処分になっている。

それで米軍の軍法会議で強姦罪以外の「買春罪」などで政治的に処罰している。 

今回の流れ弾事件も、同じような流れになりつつある。

つまりこうだ。

①沖縄紙が号外などを出して大々的キャンペーン記事で県民を扇動する。

②扇動に乗った県内各議会が抗議決議。

③県警の捜査の結果、マスコミの望む結果が出ず、不起訴となる。

④軍法会議に移送して別件で処罰。

 

今回の流れ弾事件は、県警の捜査の結果がマスコミの望まぬ結果になったので、米軍の調査の結果を待ったが、その最終結果もマスコミにとっては思わしくない。

それで米本国の専門調査弾に調査を依頼しその結果を待つことにしたのだが・・・。 

それに、どう考えても、轢き逃げ事件より民家への「実弾被弾事件」の方が記縄タイムスにとってはオイシイはずなのだが。

続く    

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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続・沖縄戦の女装の少年、地元紙も知らなかった女装の謎

2009-04-06 07:40:04 | オカッパの少年

 

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沖縄戦の女装の少年、地元紙も知らなかった女装の謎の続編です。

                 *

2005年の沖縄タイムスの大城氏へのインタビュー記事には、戦時中大城氏が日本兵に失明を伴う暴行を受けた恨み辛みが記されていた。

だが、暴行を受けたとき大城少年がオカッパ頭で女装していたことには触れていない。

その三年後の沖縄タイムスのインタビュー記事でやっと女の子に化けていたことに触れている。

沖縄タイムス 2008年8月29日

連載「教科書改ざん ただす」(6)

第1部 体験者
大城盛俊さん(75)“うつろな目の少女” (8月29日朝刊社会面)
傷癒えぬ県民 怒るべき

 「『集団自決』も日本軍による住民虐殺。自分自身や祖父母、親が受けた戦争体験が消されようとしている。県民はもっと怒るべきだ」

 日本兵から受けた暴行、食料の略奪、そして右目の失明—。旧玉城村出身で、米軍撮影の“うつろな目の少女”の写真で知られる兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)は六十二年前の体験を振り返り、怒りで声を震わせた。

 一九四五年五月末、当時十二歳の大城さんは、戦火を逃れ、玉城村のガマに家族や地域住民ら約三百人と隠れていた。そこに銃を持った六人の日本兵が現れ暴行された。リュックサックに残されたわずかな食料を奪おうとした日本兵に「これは渡せない」と拒んだためだった。

 ガマの外に引きずり出され、軍靴でけられ素手で殴られた。意識がもうろうとする中、さらに無理やり立たされて暴行を受けた。充血した右目は腫れ上がり、右肩は脱臼、瀕死の重傷だった。捕虜になり、米軍の治療を受けて傷は癒えたが、右目の視力は回復しなかった。戦後、別々に逃げていた母がスパイ容疑で射殺されたことも聞かされた。

 「軍は国を守っても住民は守らず、殺害した。当時は敵に見つかったら男は戦車でひき殺され、女は強姦されると言い聞かされてきた。『集団自決』の犠牲者も自らの意思で死んだわけではない。死に追い込んだのは日本兵だ」

 大城さんも敵に捕まることを恐れた。伯父から「女の子に成りすましたほうがいい」と言われ、おかっぱ頭になった。診療所で米軍に撮影された写真は後に沖縄戦の本で使われ、教科書でも掲載されるようになった。

 その教科書から史実が消されようとしている。

 「県民大会の後は飛行機や船を総動員して大勢の県民代表を送り、政府や国会に直接抗議行動をするべきだ。黙っていることは歴史のうそを受け入れることであり、子どもたちにうそを教えることになる」と大城さんは訴える。

 現在、大城さんは修学旅行で沖縄を訪れる前の子どもたちの事前学習などで語り続けている。喉頭がんで声帯を失ったが人工声帯を付け、全国を回り、八五年から続ける講演は千百八十回を数える。「私は自らの体験を訴えて全国の人に沖縄戦の真実を語り続ける。県民も頑張ってほしい」(社会部・平良吉弥)

                  

太田昌秀著『これが沖縄戦だ」の表紙に使用され有名になった「うつろな目の少女」の写真はこれ。

 
1945.6月
   

 どう見ても戦渦にほんろうされるいたいけない少女の写真だが、実は日本全国で沖縄戦の講演行脚をする大城盛俊氏の女装姿であった。

この衝撃的ニュースは、上記沖縄タイムス記事の一年前、琉球新報によって沖縄メディアとしては(筆者の知る限り)、初めて報じられた。

それがこれ。

教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

「沖縄がいつまでもバカにされたままでいいのか。沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴える大城盛俊さん=那覇市天久の琉球新報社

 「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。24日、琉球新報社を訪れた大城さんは、史実を歪める教科書検定の動きに「教科書が嘘(うそ)をついて、その嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」と懸念し、憤りで声を震わせた。
 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。
 大城さんは、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後に家族と玉城村のガマ(壕)に避難したときのことを鮮明に記憶している。そこには200―300人の住民がいた。5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。
 数日後、大城さんは米兵に助けられた。同写真は診療所の前で撮影された。(略)
 (深沢友紀)

                   ◇

この記事を見て驚いた素直な感想を、当時のブログに書いたのがこれ。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

同じような衝撃が全国を走ったようで、翌2008年2月には朝日新聞がこれを報じた。

それがこれ。↓

ニッポン人脈記/沖縄の「少女」 これは僕

朝日新聞 2008年02月01日

 1枚の写真が大田昌秀(82)の目をくぎ付けにした。

 おかっぱ頭の少女が血まみれで座りこみ、うつろな目をカメラに向けている。あの沖縄戦のなかを逃げまどったのだろう。

 大田は学生時代、鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員され、大勢の友を失った。戦後、琉球大学で教壇に立ち、米国の公文書館などで沖縄戦の資料を集める。

 そこでみつけた写真を「うつろな目の少女」と名づけ、本の表紙に使った。琉球新報に書いた連載をまとめ、77年に出した記録写真集『これが沖縄戦だ』である。

 与那原町でクリーニング店を営んでいた大城盛俊(75)は、この写真を84年に見る。内臓病で入院中、隣のベッドの患者が広げた地元紙にのっていた。

 その新聞をもらい、タクシーで新聞社に駆けつけ、大田の自宅を聞く。けげんな顔で玄関にあらわれた大田に紙面をつきつけた。

 「これは僕です」

 「でもあんた、男じゃないか」

   *

 大城は沖縄戦当時、12歳。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」と案じた父のいいつけで、女の子のように髪を伸ばしていた。

 だが、なりすましてもムダだった。島がまるごと戦場になった45年6月、家族の食料を奪おうとした日本兵にとりすがる。「生意気だ。反抗するのか」。ひそんでいた壕からひき出された。こっぴどく殴られ、けられ、気を失う。右腕は脱臼、右目は失明。右足にいまも障害が残る。

 大田がみつけた写真は、米軍につかまった大城が治療されている時に撮られたものだった。「あんた、生きていたのか……」。大田は泣きだした。大城も涙する。ふたりはかたく抱きあった。

 大城は、沖縄戦の悲惨を語りつぐ「語り部」になった。全国の学校や平和団体を訪ね、1200回を超す。喉頭がんの手術をして22年前から人工発声器をつかう。低く聞きとりにくい声。生徒たちは息をころして聴き入る。

 「日本軍は『お前ら、アメリカにつかまるとスパイになるんだろう』と住民に手投げ弾を渡した。壕から出るときも、子どもを先頭に立たせて盾にした。沖縄の住民の敵は日本軍だったんです。そういう戦争を知らない人が歴史の教科書を書いている。情けない」(略)

                   

戦争に翻弄される少女の写真と思ったのが、名乗り出た人物が75歳の老人だったという衝撃もさることながら、「残虐非道な日本軍」というオイシイ話を喧伝するには絶好の大城氏の証言を、沖縄マスコミが戦後60数年も放置していたのは何故か。
 
大城氏が太田氏を訪ねて名乗り出たのは20数年も前の1984年ではないか。
 
しかも大城氏は沖縄戦の語り部として千数百回にも及ぶ講演会で全国行脚をする講演会のプロである。
 
一昨年の琉球新報の特ダネと思われる記事の後も、沖縄紙は「うつろな目の少女」のエピソードには何故か及び腰であり、その後も沖縄本島での講演会は一度も行っていない。
 

2008年6月、大城氏は沖縄での最後の講演会を石垣市で行い、長年の講演会活動を、翌2009年の3月で終了するとした。

何ゆえ大城氏は長年の講演会活動を沖縄本島で行わなかったのか。

激戦地のある沖縄本島南部地域は大城氏の故郷ではなかったか。
 

日本兵が暴行、右目失明 表紙の「少女」大城さん、沖縄戦を語る 2008年6月22日

日本軍の暴行や虐殺を静かな怒りで語る大城盛俊さん=21日、石垣市民会館中ホール

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発射1分後に「第一報」!再度将軍様に感謝

2009-04-05 18:40:22 | 普天間移設




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 どんなに真剣に行っても、予行演習は予行演習、やはりその緊迫感では本番に劣るもの。

その点、昨日のミサイル発射の誤発表騒動は平和ボケ国家日本にとって、計らずも絶好の防空予行演習となった。

おかげで本日の本番は誤感知や誤発表もなく、防衛省はめでたく発射一分後に発表をすることが出来た。

一分後の発表が適時であるかどうかはさておいて、少なくとも昨日のドタバタ騒ぎに比べて格段の進歩があったことは間違いない。

迎撃を実行する機会はなかったが、我が国には何の危害も無かったことで、先ずはめでたしめでたしである。

改めて平和ボケ国家の一員として、絶好の防空演習の機会を与えてくれた北の将軍様に、謝意を表したい。

防衛省、発射1分後に「第一報」 (4月5日 13:41)
 北朝鮮情勢
 5日午前11時30分ごろ、北朝鮮が発射した弾道ミサイルについて、防衛省では約1分後、広報担当者が詰めかけた報道陣に対し、「発射場所は北朝鮮、発射方向は東、発射の数は1発」と第1報を伝えた。

 同省によると、弾道ミサイルの第1ブースターは同37分、秋田西方沖約280キロの日本海に落下したとされ、ミサイルは日本上空を通過し、列島の東約2100キロの上空でレーダーが追跡を終了した。第2ブースターの落下地点は判明していない。

 これを受け、海上保安庁は同32分、対策本部を設置。2分後には日本周辺を航行中の船舶に航行警報を発令し、発射情報を伝えるとともに、巡視船2隻を秋田県沖に向かわせた。航空各社には国交省が同34分、同様に航空情報を出した。

 警察庁も同32分、対策室を対策本部に格上げして、秋田、岩手両県警などに落下物の有無を確認するよう指示。同庁によると、正午の時点で、落下物に関する情報はないという。

 水産庁は、漁業無線局を通じて、日本沿岸で操業中の漁船に安全確認を行っている。

 一方、約30人の職員が詰めていた秋田県庁の危機管理対策本部では、佐々木誠・危機管理監が午前11時35分、政府の緊急情報ネットワーク(エムネット)について「情報が入りました。発射された模様です」とマイクで告げると、室内が騒然となった。その後も次々と入るエムネットの情報が読み上げられ、大画面で映し出されたテレビで日本列島を通過したとの情報が流れると、机を軽くたたいて安堵(あんど)の表情を見せる職員もいた。

 県によると、同45分現在、被害情報は入っていないという。

 ミサイルの軌道直下とみられた岩手県の情報連絡室では、7回にわたってエムネットの警報音が鳴り響いた。職員が「太平洋へ通過した」とするメッセージを読み上げると、室内からは「よし」という声が上がった。職員は全市町村に消防防災無線で一斉ファクスしたり、幹部職員に携帯電話で一斉メールを流したりするなど対応に追われた。

 地上迎撃型のパトリオット・ミサイル3(PAC3)が配備されている岩手県滝沢村の陸上自衛隊岩手山演習場では、ミサイル発射の情報が防災行政無線で流れ、警戒にあたる隊員が緊張した表情を浮かべていた。

 防災行政無線でミサイル発射情報を自宅で聞いた秋田県八峰町八森の主婦、石井彩花さん(22)は「昨日は誤報が続いたので、今度も本当かなと思った。何事もなく良かった」と胸をなで下ろしていた。

(2009年4月5日13時41分  読売新聞)

                  ◆

 

■工作員市長と工作員議員■

沖縄タイムス 2009年04月05日 政治 

安全懸念し自主“防衛” 米艦入港の民間港【04月05日】

本紙が調査/全国15港 事前照会や自粛要請


 米軍艦船の民間港への入港について、2002年以降に実績がある全国33港28管理者のうち、約4割の15港12管理者が、艦船への核兵器搭載の有無などを外務省に照会したり、入港の回避や自粛を求めたりしていたことが4日、沖縄タイムス社の調べで分かった。政府が「外交・防衛は国の専権事項」を根拠に、管理者(地方自治体)の入港拒否を問題視する中で、半数近くの管理者が米艦船の入港を懸念し、自主的に対応していることがうかがえる。

 核兵器の搭載など安全性を事前に確認したのは12港。北海道や青森県、小樽市などが管理者で、多くが「非核都市宣言」「平和都市宣言」「港湾の平和利用決議」を尊重―を理由に挙げた。

 函館市は、外務省への事前照会のほか、米艦船入港時に、市港湾空港部の部長が艦長に平和都市宣言文を手渡し、「入港を懸念していると市民の総意を伝えている」(同部)。

 長崎県は事前照会はないが、「被爆県として原爆を落とした米軍の艦船入港には県民感情も複雑」(県港湾課)として、毎回、「入港回避」を外務省や米国領事館に要請している。

 07年に与那国島祖内港に米艦船2隻が初入港した沖縄は、石垣市議会が自粛要請決議、管理者の県も自粛を要請。3日の掃海艦入港でも「県内には那覇軍港など米軍の専用施設があり、民間港を利用する理由がない」(基地対策課)などとして入港を認めていない。

 外国艦船の入港時に「非核証明書」を求める神戸港(管理者・神戸市)には、現在まで米軍艦船からの入港申請もなく、一隻も入港していない。

 一方、政府は「外交の責任を持つ国が是非を判断すべきだ」(中曽根弘文外相、3月衆院安全保障委員会)との立場で、権限を越えた港湾管理者(地方自治体)の入港拒否を問題視している。今回調べた港の過半数は「核持ち込みは事前協議の対象で、国に協議がなければ積んでいないと理解している」(福岡)として外務省への照会もなく、着岸できる余裕があるかどうか港湾法に基づいて入港を判断している。(特別報道チーム)

                    ◇

さて、北のミサイル発射で日本中が大騒ぎの最中、沖縄の石垣市では、週末の休養と友好のため寄港した米国艦船の乗務員を下船させないと工作員達が港に座り込んでいる。

全国の市長村長の中には、米艦船の入港に反対の声明を出す首長がいるのも事実だが、石垣市長のように自らプロ市民の先頭に立って反対行動を指揮する首長も珍しい。

同盟国の艦船が入港することには猛反対するくせに、行政管轄区域である尖閣諸島近海に中国艦船が領海侵犯しても何の抗議もしない大浜石垣市長は誤ったメッセージを中国に送っていることになる。

何かというと眉毛を逆立てる石垣市長のほかに、もう一人中国に誤ったメッセージを送り続けている迷惑な人物がいる。

沖縄に中国総領事館設置の為の調査に来県した中国要人と脳天気にも友好親善のバカ騒ぎをしている喜納昌吉民主党県連代表のことだ。

ブログ「沖縄の憂鬱」さんの喜納昌吉と李建国 の引用によるとこうなる。

<まず政権の中枢にいる中国要人が米軍基地があり、中国が領有権を主張している尖閣諸島のある沖縄を訪問することは異例中の異例だろう。李氏のほかにも、日中議員会議に参加予定の全人代代表団が来県してる。
 <WBR>

日中議員会議の前にわざわざ沖縄を訪問した理由はひとつ!

将来の「沖縄自治区」実現に向けてである。実は昨年、沖縄に中国総領事館を設置したい旨、打診してきたのだが、領事館へ武官が常駐した場合、安全保障上問題が多いとして断っている。今回の李氏の訪問は、それに懲りずに「将来的な環境整備」、つまり沖縄自治区実現に向けて、その足がかりとしたい中南海の思惑の表れであることは間違いない。>

それに、訪日中国人の個人観光ビザが解禁されたら、そのまま逃亡して石垣市あたりは中国人に選挙されるのでは・・・。

訪日中国人旅行者の個人観光ビザ解禁へ

ノービザだけではない。

中国の太平洋進出の野望をこの脳天気な人びとは知らないのか、それとも工作員故のパフォーマンスなのか。

中国、日本に対抗か 北海艦隊にキロ級潜水艦配備2009年4月4日

石垣市長と喜納民主党議員は売国奴であると思う方、

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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将軍様に感謝! 思わぬ防空演習だった「勘違い」伝達、誤発表に=速さ重視、確認追いつかず-防衛省

2009-04-05 08:01:35 | 普天間移設

 


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北の将軍様のおかげで、平和ボケ国家日本は絶好の防空演習をさせてもらった。

将軍様、ありがとう。

北朝鮮は、撃つぞ撃つぞ脅迫しながら結果的には撃たなかった。

防衛省は初めての経験で動揺したのか誤発表というお粗末な対処で、今朝の新聞には浜田防衛相が平身低頭している写真の大写し。

情報戦も戦争の一種と捉えるならば世界中の国は連日戦争の真っ只中にある。 戦後民主主義で去勢され平和ボケを謳歌する日本のみが、自国民の安全を守る国防を疎かにしてきた。

スパイ防止法も無い平和ボケのスパイ天国の日本だ。 

国民が平和ボケなら防衛省もそれに倣う。

昨日の誤発表のドタバタ騒ぎは、国民の平和ボケのツケが映し鏡となって防衛省の対応に映し出されたに過ぎない。

何しろ、海賊退治に出動するのに相手に襲われない限り手は出せないという奇妙な国だ。

友人を襲う強盗を見て見ぬ振りをして非難されるのならともかく、これを撃退したら「脱法行為」と非難される不思議な国だ。

ソマリア沖で外国船舶救助  護衛艦、“脱法行為”の疑いも

平和ボケは国民だけではない。

公党の党首もこのようなボケた発言をするバカがいる国だ。

社民党の福島瑞穂党首も取材に対し、「政府の大失態ではないか。間違ってミサイル防衛で迎撃していたら、先制攻撃にもなりかねなかった」と語り、原因究明と情報公開を要求した。野党、誤発表を一斉批判=「いいかげんな政府」「大失態」(4/4時事)

間違ってミサイル防衛で迎撃していたら、先制攻撃にもなりかねなかった

このお方は迎撃ミサイルの意味がよく理解できていないようだが、今回の誤発表は感知を発射と発表してしまったわけで、少なくとも発射したことに気がつかなかった間違いよりまだましだと考える。

金正日将軍様、おかげ様で貴重な予行演習をさせてもらいました。

でも、自国民を飢餓に陥れながら「人工衛星」を打ち上げ、更にこんなことまでしているとは・・・。

金総書記のヨット代金差し押さえ=…安保理決議違反で数百万ドル-欧州当局

もうヨットに乗る元気は無いでしょうに。

 

防衛省の弁解は下記の通りだが、失敗は成功の元、よく反省して本番には是非成功して欲しい。

「勘違い」伝達、誤発表に=速さ重視、確認追いつかず-防衛省 北朝鮮の弾道ミサイル発射をめぐる誤発表問題で、防衛省は4日夕、発射情報を伝達する過程で、担当者が米軍の早期警戒衛星も発射を探知したと勘違いしたことが原因だったと発表した。スピードを重視するあまり、確認が追いつかず、誤った情報を伝えることに。「大変申し訳ない」。危機管理の甘さを露呈し、幹部らは謝罪するのが精一杯だった。
 防衛省によると、千葉県旭市の同省技術研究本部飯岡支所にある空自のレーダー「FPS5」が日本海で何らかの航跡を探知。午後零時16分、防空指揮群(東京都府中市)に弾道ミサイル探知を意味する「スパーク・インフォメーション」と連絡し、同指揮群から、ほぼ同じ内容が航空総隊司令部(同)に伝わった。
 その際、総隊の隊員が米軍の早期警戒衛星も探知したと勘違い。別の隊員に「飯岡探知」に加え「SEW(早期警戒情報)入感」と伝え、その隊員が、防衛省地下の中央指揮所に連絡した。
 指揮所では運用企画局の職員が「発射」とマイクでアナウンス。官邸危機管理センターで、その音声をモニターしていた同省連絡官も「発射」とアナウンスし、政府が同じ時刻に「飛翔(ひしょう)体発射」と一斉通知した。
 一方、総隊では防空指揮群とのやりとりで誤りに気付き同17分、指揮所に連絡したが、発射通知の後だった。早期警戒情報は指揮群と指揮所のモニターでも確認できるが、情報伝達と確認作業は並行して行われ、確認が後手になったという。 
 隊員の勘違いの原因ついて、同省幹部は「通常はSEWの訓練をやっているため」とし、「早期警戒情報は飯岡には入らない。指揮所などで確認していればよかった」と釈明。指揮所の職員が「発射」とアナウンスしたのも、「誤解ないよう、そのままの情報を伝えるべきだった」とした。
 FPS5が探知した航跡は途中で消え、レーダー情報も結果的には誤りだった。別の幹部は「通常は外部に出す情報ではない。速さを重視したあまり、こんな結果を招いた。申し訳ない」と、うなだれた。(了)(2009/04/04-21:39)

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