基調報告では紙面の関係上踏み込んでいなかったこと-それは、1969年に全寮制として成立した滋賀県立養護学校(後の八幡養護学校、今の野洲養護学校)が、障害の重い子どもたちを「入学不適格」として、「学校に行きたい」といっていた子どもたちを放置してきたことだった。このことは、いまも滋賀県教育委員会に引き継がれ、野洲養護学校とその寄宿舎にも暗い影をおとしているということである。
田中昌人『発達保障への道 ③発達をめぐる二つの道』より
吉田厚信くんは、1952年6月27日生まれでした。1960年代のまんなかにあたる1965年4月27日に、13歳で脳性小児まひと診断された彼は、滋賀県にあるびわこ学園に入園しました。児童福祉法の改正によりびわこ学園が重症心身障害児施設となった1967年に、わたしたちは重症心身障害児療育記録映画『夜明け前の子どもたち』の撮影のために約1年間びわこ学園でとりくみましたが、その12月に指導者集団は吉田厚信くんが第二びわこ学園で言語障害とたたかいながら、数時間かかって、次のように言っていることを聞き出したのです。
「ぼくは、学校へいきたいのだけれど、ここでは、その夢はかなえられそうにもありません。ぼくはずっとがまんしてきたけれど、これ以上もうがまんできません。このさい、ぼくの考えている最終手段は、兄さんと相談のうえ、ここをでていって、オムツをしてでも、兄さんの車で学校に送り迎えをしてもらうか、ここで一生くらすかどっちか一つの道を選ぶ結果になりました。だから兄さんと相談のうえ、オムツをしてでも、学校へ行くつもりです。たとえ学校で、息苦しくなっても、それは、ぼくが望んでいったのですからしかたがありません。」
しかし結局、びわこ学園にいても兄さんの所へ行っても、学校では「教育の対象ではない」といってうけとめてもらえなかったのです。吉田厚信くんの胸には生きぬく決意がさらに強固なものとなっていきました。良く1968年8月3日、彼にとって人生最後の夏には、つぎのように言っています。
「ぼくのかたうでだった今市くんが7月29日に亡くなった。ぼくとしては悲しいけれど、これからぼくたちみんなで頑張らなければ今市くんの”死”が無駄になる。今市くんの死を無駄にはしない。今市くんも最後の最後まで協力してくれたのだから、後に残ったぼくたちがこれからしっかり肩をくんでゆかなければだめだ。せっかくの今市くんの夢も自分ではできなくなった。だから今市くんにかわってぼくがやりとげることを約束する。やるぞ! 今市! 見ていてくれ。きっとやりとげてみせる。-今市くんは映画班の指揮を一回も実行せずに死んでしまった。病気が全快したら今市くんのかわりにぼくが映画班を指揮する。もしぼくが今市くんのようになったら、あとは熊浦くん、明光くん、生石くん頼む。これはましかのばあい。冗談じゃない。16、7で死んではたまらん。今市くんも同じことをいっていた。だけど死んでしまった。だがおれは生き抜くぞ。今市くんとの約束があるから、ちょっとしたことでは死ねん。それにぼくにも夢がある。大きくなったらお医者さんになりたい。-」
このあと4、5日たった9月18日-この日はびわこ学園の創設者の主要な一人であった糸賀一雄氏が前日「施設における人間関係」の講義中に倒れられ、心筋梗塞と脳血栓で亡くなられた日でもある-に吉田厚信くんは「意識不明」になりました。「意識不明」でも「おれは生きぬくぞ。今市くんとの約束がある」との一念が暗闇のたたかいを支えたのでしょうか。それは-じつに-123日間続きました。1969年1月8日に享年16歳で息をひきとるまで。
1960年代後半になった日本で、義務教育就学率99.9%の外に、こんなにも、死と闘いながら望んでも、義務教育から「教育の対象ではない」として拒否されていた子どもたちがいたのです。病気とたたかいつつ医者になろうと、そして友だちのやりのこした分まで生きぬこうとしていた子どもたちがおり、それをうけとめない制度が、「教育における差別の実態は実はないのであります」という裏に「実は」あったことを忘れてはなりません。
滋賀県野洲町の第二びわこ学園では、吉田厚信くんの亡くなった年1969年4月に、ハトAグループ(全国障害者問題研究会近畿ブロック編『みんなの願いを実現するために』1968年参照)が地元の野洲東小学校へ1日入学を実現させました。1日入学を終えて話し合いを重ねてきた子どもたちのなかには「勉強したい」「友だちが欲しい」「学校へ行きたい」の願いがたかまってきました。びわこ学園は野洲町や滋賀県教育委員会に通学を働きかけましたが「小学校には医者がいないから」と断られました。1972年3月には、近くにできた肢体不自由児のための滋賀県立近江八幡養護学校に入学願書を出しました。書きことばをもつまでになり、教科書も使え、当時の常識でも就学確実といわれた5人が「面接試験」を受けました。あらかじめ養護学校とも打ち合わせをし、この子たちなら大丈夫だといわれていた子たちばかりでした。ところが、予定日になっても入学通知が届きません。県教委に聞くと「保留中」との返事。その後「入学不適格」という一片の通知状が郵送されてきました。子どもたちは話し合いで「あんな1日だけで見てさ、なにかを決められるてことは、なんか頭にきちゃうよ。やりきれないわ」と発言しています。1973年には36名が入学を申請しましたが、養護学校から、全員「入学不適格と判定されました」との通知がきただけでした。県教委は、「体が学校教育に耐えられないだろう。国でも審議中でその結論が出ていない」というのでした。1974年には16名を3つのグループにわけ、それぞれどのような教育が必要かがわかるようにして、びわこ学園から介助をつけてもよいとまでいって申請しました。養護学校からは、「現体制ではひきうけられないが、貴園児を対象にして実験学校指定を受けたので、双方が運営協議会をつくって調査研究をはじめたい」といってきました。びわこ学園から申し入れをうけて5年たってこの状況でした。自民党支配下の地方自治体の教育行政では、放置しておいたのではこの子どもたちをうけとめる教育条件は決してつくられないのだということを痛切に知らされつづけたのでした。
吉田厚信くんたちの生き方は、決して一部の「安楽死」論者の言うような「価値のない生き方」ではありません。わたしたちの生き方の中に消し去ることのできない生き方を残しています。差別をしてくる側にはわからないのかもしれませんが、差別を許さぬたたかいをすすめていく側にとっては、生き抜くことは絶対に守らなければいけないのだということを教えてくれる生き方をしています。人々の生き方を共同の財産にできる生き方が支えあうところに、価値のある生き方が実現していくのです。
田中昌人『発達保障への道 ③発達をめぐる二つの道』より
吉田厚信くんは、1952年6月27日生まれでした。1960年代のまんなかにあたる1965年4月27日に、13歳で脳性小児まひと診断された彼は、滋賀県にあるびわこ学園に入園しました。児童福祉法の改正によりびわこ学園が重症心身障害児施設となった1967年に、わたしたちは重症心身障害児療育記録映画『夜明け前の子どもたち』の撮影のために約1年間びわこ学園でとりくみましたが、その12月に指導者集団は吉田厚信くんが第二びわこ学園で言語障害とたたかいながら、数時間かかって、次のように言っていることを聞き出したのです。
「ぼくは、学校へいきたいのだけれど、ここでは、その夢はかなえられそうにもありません。ぼくはずっとがまんしてきたけれど、これ以上もうがまんできません。このさい、ぼくの考えている最終手段は、兄さんと相談のうえ、ここをでていって、オムツをしてでも、兄さんの車で学校に送り迎えをしてもらうか、ここで一生くらすかどっちか一つの道を選ぶ結果になりました。だから兄さんと相談のうえ、オムツをしてでも、学校へ行くつもりです。たとえ学校で、息苦しくなっても、それは、ぼくが望んでいったのですからしかたがありません。」
しかし結局、びわこ学園にいても兄さんの所へ行っても、学校では「教育の対象ではない」といってうけとめてもらえなかったのです。吉田厚信くんの胸には生きぬく決意がさらに強固なものとなっていきました。良く1968年8月3日、彼にとって人生最後の夏には、つぎのように言っています。
「ぼくのかたうでだった今市くんが7月29日に亡くなった。ぼくとしては悲しいけれど、これからぼくたちみんなで頑張らなければ今市くんの”死”が無駄になる。今市くんの死を無駄にはしない。今市くんも最後の最後まで協力してくれたのだから、後に残ったぼくたちがこれからしっかり肩をくんでゆかなければだめだ。せっかくの今市くんの夢も自分ではできなくなった。だから今市くんにかわってぼくがやりとげることを約束する。やるぞ! 今市! 見ていてくれ。きっとやりとげてみせる。-今市くんは映画班の指揮を一回も実行せずに死んでしまった。病気が全快したら今市くんのかわりにぼくが映画班を指揮する。もしぼくが今市くんのようになったら、あとは熊浦くん、明光くん、生石くん頼む。これはましかのばあい。冗談じゃない。16、7で死んではたまらん。今市くんも同じことをいっていた。だけど死んでしまった。だがおれは生き抜くぞ。今市くんとの約束があるから、ちょっとしたことでは死ねん。それにぼくにも夢がある。大きくなったらお医者さんになりたい。-」
このあと4、5日たった9月18日-この日はびわこ学園の創設者の主要な一人であった糸賀一雄氏が前日「施設における人間関係」の講義中に倒れられ、心筋梗塞と脳血栓で亡くなられた日でもある-に吉田厚信くんは「意識不明」になりました。「意識不明」でも「おれは生きぬくぞ。今市くんとの約束がある」との一念が暗闇のたたかいを支えたのでしょうか。それは-じつに-123日間続きました。1969年1月8日に享年16歳で息をひきとるまで。
1960年代後半になった日本で、義務教育就学率99.9%の外に、こんなにも、死と闘いながら望んでも、義務教育から「教育の対象ではない」として拒否されていた子どもたちがいたのです。病気とたたかいつつ医者になろうと、そして友だちのやりのこした分まで生きぬこうとしていた子どもたちがおり、それをうけとめない制度が、「教育における差別の実態は実はないのであります」という裏に「実は」あったことを忘れてはなりません。
滋賀県野洲町の第二びわこ学園では、吉田厚信くんの亡くなった年1969年4月に、ハトAグループ(全国障害者問題研究会近畿ブロック編『みんなの願いを実現するために』1968年参照)が地元の野洲東小学校へ1日入学を実現させました。1日入学を終えて話し合いを重ねてきた子どもたちのなかには「勉強したい」「友だちが欲しい」「学校へ行きたい」の願いがたかまってきました。びわこ学園は野洲町や滋賀県教育委員会に通学を働きかけましたが「小学校には医者がいないから」と断られました。1972年3月には、近くにできた肢体不自由児のための滋賀県立近江八幡養護学校に入学願書を出しました。書きことばをもつまでになり、教科書も使え、当時の常識でも就学確実といわれた5人が「面接試験」を受けました。あらかじめ養護学校とも打ち合わせをし、この子たちなら大丈夫だといわれていた子たちばかりでした。ところが、予定日になっても入学通知が届きません。県教委に聞くと「保留中」との返事。その後「入学不適格」という一片の通知状が郵送されてきました。子どもたちは話し合いで「あんな1日だけで見てさ、なにかを決められるてことは、なんか頭にきちゃうよ。やりきれないわ」と発言しています。1973年には36名が入学を申請しましたが、養護学校から、全員「入学不適格と判定されました」との通知がきただけでした。県教委は、「体が学校教育に耐えられないだろう。国でも審議中でその結論が出ていない」というのでした。1974年には16名を3つのグループにわけ、それぞれどのような教育が必要かがわかるようにして、びわこ学園から介助をつけてもよいとまでいって申請しました。養護学校からは、「現体制ではひきうけられないが、貴園児を対象にして実験学校指定を受けたので、双方が運営協議会をつくって調査研究をはじめたい」といってきました。びわこ学園から申し入れをうけて5年たってこの状況でした。自民党支配下の地方自治体の教育行政では、放置しておいたのではこの子どもたちをうけとめる教育条件は決してつくられないのだということを痛切に知らされつづけたのでした。
吉田厚信くんたちの生き方は、決して一部の「安楽死」論者の言うような「価値のない生き方」ではありません。わたしたちの生き方の中に消し去ることのできない生き方を残しています。差別をしてくる側にはわからないのかもしれませんが、差別を許さぬたたかいをすすめていく側にとっては、生き抜くことは絶対に守らなければいけないのだということを教えてくれる生き方をしています。人々の生き方を共同の財産にできる生き方が支えあうところに、価値のある生き方が実現していくのです。