山田火砂子 前後編
92歳の映画監督・山田火砂子「社会福祉、女性の地位向上、戦争…全部自分が当事者だった。新作では知的障がいのある両親と娘の成長を描く」戦争もNO!差別もNO!<前編>
「とにかくお金集めが一番大事だから、上映会の会場でお客さんに〈製作協力券〉と名づけた次回作のチケットを1枚1000円で買ってもらい、そのお金で新しい作品を撮るんです」(撮影:洞澤佐智子)
〈発売中の『婦人公論』5月号、2024年〉
国内最高齢の女性監督、山田火砂子さんの新作映画『わたしのかあさん―天使の詩―』が公開された。夫の映画製作を支えたのちに自らも撮るようになったが、選ぶ題材は社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫している。そこには「私が当事者である」という強い意識があった(構成=篠藤ゆり 撮影=洞澤佐智子)
資金集めに全国を飛びまわる
映画監督のデビューは64歳だから、この30年弱で10作品を撮ったことになります。私はもともと女優だったし、監督をやろうなんて考えたこともなかったんだけどね。
さすがにこの歳になると、身体はしんどいですよ。ここ数年は週3回、人工透析に通っているし、足も悪いでしょ。それでも上映会があれば、どこでも会場に出向いて挨拶しています。
うちは「現代ぷろだくしょん」という映画製作会社。いわゆる独立系というやつで、製作も配給も自分たちでするの。とにかくお金集めが一番大事だから、上映会の会場でお客さんに「製作協力券」と名づけた次回作のチケットを1枚1000円で買ってもらい、そのお金で新しい作品を撮るんです。
私はこの通り口が悪いもので、政治批判だろうがなんだろうが言いたい放題。でもそれが面白いんだろうね。皆さん、私がしゃべると講演料と思って券を買ってくれるわけです。
だからプロデューサーをやっている次女が、「行かなきゃダメ」って厳しいのよ(笑)。前作『われ弱ければ―矢嶋楫子(やじまかじこ)伝』のときは全国204ヵ所の会場を回ったんだって。頑張るよねえ。
医者からは「聞くところによると北海道であれ、アメリカであれ飛んで行っちゃうらしいですけど、少しはご自分の年齢を考えてください」とよく注意されます。でも、言えないじゃない、「映画の資金稼ぎやってるんです」って。(笑)
3月から公開された新作『わたしのかあさん―天使の詩―』の構想は、前作の上映中から進んでいました。
知的障がいのある私の長女がお世話になった、東京教育大学附属大塚養護学校(現・筑波大学附属特別支援学校)の菊地澄子先生の書いた本が原作。障がいのある両親のもとに生まれた健常者の娘が、葛藤を乗り越えて成長する様子が描かれています。
両親の役は、寺島しのぶさんと渡辺いっけいさんが演じてくれました。知的障がいのある難しい役なのに、ふたりとも本当にうまいんだよね。
私、前作の上映会でお客さんに聞いたんだもん。「寺島さんが演じる知的障がい者のお母さん、見たい人」と聞いたら、どの会場でもぶわ~っと手があがるのよ。実際、やさしくて、きれいな心のお母さん役がぴったりでした。
常盤貴子さんも、私の作品に何度も出てくれるね。仲がいいんだ。原作にはない、成長して障害者施設の園長になった娘の役をやってもらいました。幼少期を演じた落井実結子ちゃんも、いい演技をしています。
ほかにも船越英一郎さんや高島礼子さんをはじめ、一流の人が大勢かけつけてくれて、すっかり豪華キャストになっちゃった。キャスト表を見ながら常盤さんと「福祉映画もここまできたねえ」って。船越さんはクランクアップ後、「こういう映画なら僕出ますから、また誘って」と言ってくれました。
嬉しいし、ありがたいことです。なにせ貧乏所帯だからロケにもお金をかけられない。事務所が入っているこの古いマンション、別の階に私は住んでるんだけど、たまたま空き部屋が出たんです。そこを一家が暮らす公団住宅という設定で借りました。
当初、「ドアが公団風じゃない」とプロデューサーの次女が言うので、「じゃあ、お金持ってきてよ」って言ってやりましたよ(笑)。皆さんの楽屋は、私の部屋。わいわい楽しく撮影しました。ぜひ観てください。
子どもを手放せ、という誘い
これまで映画で取り上げてきたテーマは、社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫していると思います。どれも私自身が当事者だからなんだよね。
戦争は、なにより嫌いです。私が生まれたのは1932年。五・一五事件が起こった年で、日本が軍国主義に突き進んでいた時代でした。
やがて第二次世界大戦が勃発。私は東京生まれで、下町が壊滅的な被害を受けた45年3月10日の東京大空襲は免れたものの、5月24、25日の山手大空襲でやられました。
東京大空襲では約300機のB29が焼夷弾を落としたけど、山手大空襲では各日450機以上が飛んでたの。空襲警報が鳴って夜の町を逃げながら空を見上げると、あんなにたくさんの飛行機同士がよくぶつからないなあと思うくらいだった。
次の瞬間、焼夷弾がバラバラと落ちてきて、あたり一面にぶわ~っと一斉に火がついて真っ赤になった。半分焦げた死体やら、火ぶくれだらけで歩いている人やらで、あの光景を描けと言われたら描けるくらい。忘れたくても、忘れられないですよ。今でも打ち上げ花火は、怖くて泣いちゃう。
終戦後、女学校に行くも女優になりたくて、エキストラや小さな役をやりながらチャンスを待ちました。ジャズにハマり、18歳のころに女性バンド「ウエスタン・ローズ」を組んで。進駐軍のクラブに出入りしてお金を稼ぎました。その後は軽演劇の舞台に出るようになり、女3人でコントをやったりして。人気あったんですよ。
29歳で結婚して、生まれた娘が2歳のころ、病院で知的障がいがあると診断されました。いまと違って情報もないし、最初はびっくりしてね。正直、私にも恥ずかしいという気持ちがありましたよ。こればかりは、育てたことがない人にはわからないと思う。知的障がいのある子どもを育てるのは、そりゃあ大変なものです。
次女が生まれたあと離婚したんですが、そのころは喫茶店もはじめていて、子育てをしながら店に立っていました。そうしたらNHKの人が「喫茶店のママで終わらせたくない」とスカウトにきてくれた。
得意の喜劇的な演技で「スターにしてあげる」なんて言うから、三の線の女優で復帰しようって私もすっかりその気になってね。
ところがその条件として、子どもを手放せ、と言われてしまった。当時は里子に出すなんてことが当たり前に行われていたからね。次女は健常者だし、いくらでももらい手があるって。じゃあ長女はどうするんだ。どっちも手放すなんてとんでもない、と断りました。
<後編につづく>
国内最高齢の女性監督・山田火砂子、映画を通して伝えたいこと「92歳、原動力は怒り。命を奪い、差別する社会は今も変わっていない」 戦争もNO!差別もNO!<後編>
「ありったけのフィルムを買い込んで、幼い娘たちのリュックに詰め込んでロケ地まで運んだこともありました」(撮影:洞澤佐智子)
〈発売中の『婦人公論』5月号から記事を先出し!〉
国内最高齢の女性監督、山田火砂子さんの新作映画『わたしのかあさん―天使の詩―』が公開された。夫の映画製作を支えたのちに自らも撮るようになったが、選ぶ題材は社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫している。そこには「私が当事者である」という強い意識があった(構成=篠藤ゆり 撮影=洞澤佐智子)
<前編よりつづく>
夫婦で映画をつくると理想に燃えて
映画監督の山田典吾(やまだてんご)と再婚したのは、43歳のとき。これがまた、いい加減な男でね(笑)。お金持ちの医者の息子でさ、助監督として東宝に入ったあと、芸能部の部長さんになったんです。
そのままいれば重役か社長になれたかもしれないのに、組合運動やったり共産党にかぶれたり。あの時代、インテリのぼんぼんは左翼にかぶれがちだったから。それで会社をやめて設立したのが、現代ぷろだくしょんだったわけ。
でも所詮は坊ちゃんだからお金のことがまったくわかっていない。俳優の山村聰さんが脚本・監督を務めた『蟹工船』(小林多喜二原作)を製作したときなんて、実際に工場を造ったらしいです。リアリズムが大事だとか言って。
今のお金で何億という額を使っちゃったんじゃないの? 知り合う前の話だけどね。そんなことをやっているから、出会ったときの典吾に財産という財産はなにもなかった。
最初、典吾が近づいてきたとき、思ったのよ。女優に復帰できるかもって。とんでもない見込み違いだった。それに典吾は東宝にいたといっても管理職だから、現場のことがあまりわかっていなくて、結局、私が裏方の仕事をすることになりました。まあ、「2人で障がい者映画をつくろう」なんて、私も理想に燃えちゃったんだけど。
子どもを家に置いておけないから現場に連れていくと、当時の映画界は完全な男社会だから、「子連れ狼と仕事しなきゃいけないなんて、冗談じゃない」となじられる。社長の妻という立場は一切関係ない。そんな甘い世界じゃないです。
借金取りも押しかけてきたし、典吾からは「プロデューサーはお金を出すのが仕事だ」と言われるし、ありったけのフィルムを買い込んで、幼い娘たちのリュックに詰め込んでロケ地まで運んだこともありました。
それでも私が裏方の仕事を続けたのは、お金の管理ができる人が誰もいなかったからでしょうね。たとえば雨を降らせるとするじゃない。撮影で大量の水が必要なときは特機車を借りるか、予算を抑えたいなら消防車を借りるんだけど、これがけっこうお金をとられるの。大事なのは金銭交渉(笑)。
『はだしのゲン』を撮ったときは、いかにわが国の未来にとって有意義な作品か、大風呂敷広げてでも説明して、金銭面で協力してもらえるよう交渉しました。お金の工面は苦労が尽きませんよ。企業に出資を頼むと、企業の言いなりの映画になってしまうしね。
気がついたらプロデューサーになっていたわけだけど、典吾は約束通り、障がい者をテーマにした映画を何本も撮ってくれました。
監督への道を歩き始める
典吾が亡くなったのは98年です。亡くなる少し前から、私は娘たちとの日々を描いたアニメ映画をつくりたくて、出資者を求めてあっちこっちに手紙を出していました。
出資してくれそうな人に会いに福岡まで行ったものの話がうまく運ばず、ついでに宮崎の高鍋まで足を延ばしたら、以前から映画の題材として話に上がっていた石井十次(いしいじゅうじ)の銅像が立っていました。改めてどんな人だろうと思ったら、日本にまだ福祉という概念がなかった明治時代に、岡山に日本初の孤児院を作った人だっていうじゃない。銅像はあるけど出身地の高鍋でも忘れられかけていると知り、なんとかしたい、と思いました。
高鍋の人たちと会うようになって、「映画を撮りたいそうだけど、いくらかかるの?」と聞かれたから「1億円」と答えると、椅子から転げ落ちてたよ。「そんな金、作れるわけないでしょう」って。
だから私、「映画ができたら観られる、という製作協力券を1枚1000円で買ってもらって、それを資金にするんです」と説明したの。そしたらその場にいた女性が「面白い! あなたを気に入った。やるだけのことをやろう」と言ってくれました。
結局、先ほど話したアニメ『エンジェルがとんだ日』と、石井十次を描いた『石井のおとうさんありがとう』を私が撮ることに。典吾が死んで会社を閉鎖するかどうかという話も出たけれど、ここから私の監督人生が始まったんだね。
『石井のおとうさん~』は宮崎の新聞社からも取材されました。出演は松平健さん、永作博美さん、辰巳琢郎さん、竹下景子さん……と超一流。でも監督の名前は聞いたことがないって書かれてさ。(笑)
そういえば、内田吐夢監督の息子がうちの事務所にいた時期があったの。そのとき「チャコさんは映画監督になれるよ。絵が浮かんできて、それが目の前で動いてるんだもんな。典吾は絵が止まったまんまなんだよ」と言ってくれた。あのとき典吾はそっぽ向いてたけど(笑)、私にとってその言葉が背中を押してくれた気がしています。
声を上げなければ社会は変わらない
3~4年に1本のペースで撮ってきたけれど、情勢に合わせてテーマを選ぶこともあります。安倍晋三元総理が憲法改正を声高に主張するようになったときは、『山本慈昭(じしょう) 望郷の鐘―満蒙開拓団の落日』を撮りました。
山本慈昭は中国残留孤児の帰国のために奔走した人物で、安倍さんの祖父の岸信介元総理は満蒙開拓団の生みの親の一人でもある。こうした国策の負の歴史を突きつけたい思いがありました。
この映画は途中で資金が尽きて、一時撮影が止まっちゃったの。でも山本慈昭の故郷、長野県下伊那郡の方が田畑を担保に入れてお金を借り、製作協力券を1万枚買ってくれました。
長野県は全国最多の開拓民を送り出したところでもあるんだけど、追加も必要になるほど券が売れて、損が出なかったと聞いたときは嬉しくて。忘れられませんね。県内の映画館で半年も上映されたので「ギネスもんだねえ」とみんな喜んでいましたよ。
2018年は医学部の不正入試が取り沙汰された年。東京医科大学などの入試で女子合格者を減らす得点操作が発覚したでしょう。こんなことがあっていいのか、と怒りに震えたね。女性に医師の認可を与える制度がない時代に、近代日本初の女性医師として生きた荻野吟子を題材に、『一粒の麦 荻野吟子の生涯』を撮りました。
女性の権利獲得や地位向上のために尽力した人物を何本か撮ったし、また知的障がい者をテーマにした映画を撮ろうと思ったのが、今回の新作です。
時代はよくなりましたよ。福祉も変わってきたと思う。長女が小さいころは、障がい者の子どもが生まれると経済的にも困窮したし、後ろ指を指されるし、変な勧誘も受けるし、将来への不安で一家心中する家族も少なくなかった。
そんなとき、美濃部亮吉都知事が「死なないでください」というメッセージとともに、障がい者の生活支援や施設づくりを進めていきました。欧米の福祉政策の影響もあっただろうけど、自治体や制度を動かし、日本の福祉を確かに前進させたのは、なにより当事者家族の声だったと思いますよ。
長女は今62歳。障がい者施設で暮らし、障害年金ももらっています。だからなんとか生活ができている。
今日も、庶民の生活を知らない人たちが政治をやっていますよ。子ども一人育てるのに、今は3000万~4000万円はかかるっていうんだから大変な金額じゃない。
若い人は生活が苦しくて子どもを産むのもためらっているのに、政治家はパーティー券で私腹を肥やしたり、めちゃくちゃでしょう。おかしいと思ったことは、声を上げないと。それを恥ずかしがったら世の中は変わりませんよ。
私がこの年齢まで映画をつくる原動力は、「怒り」です。世の中が多少よくなってきたからって、命を奪ったり、傷つけたり、差別したりする社会は変わっていないから。だからこの怒りが続く限り、映画をまた撮らなきゃいけないんでしょうね。(笑)
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